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地獄の沙汰も金次第  作者:
第三話 綻びと情報の漏洩

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7/30

第三話 綻びと情報の漏洩①

 美咲を追い出してから数日。

 僕の部屋は、かつてないほどの静寂と、それ以上に重苦しい「不在」の感覚に支配されていた。


 一人で啜るカップ麺の湯気が、ひび割れた心に染みる。

 スマホの画面は、彼女からの着信やメッセージを拒絶したまま沈黙を保っているが、その闇が深ければ深いほど、僕の胸にある十億円の「重み」は増していくようだった。


 逃げ出したい。だが、どこへ?


 僕はまだ、この安アパートに住み、いつものスーツを着て、いつもの時間に電車に乗る以外の生き方を知らなかった。


---


 週明け、重い足取りで会社へと向かった。

 エレベーターを降り、オフィスの自動ドアが開いた瞬間。

 僕は、肌に刺さるような「違和感」に襲われた。


 いつもなら、キーボードを叩く乾いた音と、電話応対の騒がしい声が混ざり合うフロアだ。しかし、今日は違う。僕が一歩足を踏み入れた途端、波が引くように会話が止まったのだ。


 パーテーション越しに、無数の視線が僕に突き刺さる。

 それは、以前のような「無関心」でも「軽蔑」でもなかった。

 もっと粘りつくような、湿り気を帯びた、そしてギラギラとした熱を持つ「品定め」の視線だった。


 自分のデスクに向かう間、同僚たちがひそひそと何かを囁き合っているのが聞こえる。


「……マジらしいぜ」

「……十億だってさ。信じられるか?」

「……あの佐藤が? 何かの間違いじゃないの?」


 心臓がドクンと大きく脈打った。

 耳の奥が熱くなり、指先が冷たくなる。


(なぜ、知っている?)


 秘密にしたはずだった。銀行は守秘義務がある。僕が話したのは美咲だけだ。

 追い出された腹いせに、彼女がSNSに書き込んだのか。あるいは彼女の両親が周囲に言いふらしたのか。理由は分からない。だが、綻びはすでに、修復不可能なほど大きく広がっていた。


「おはよう、佐藤くん。今日はいい顔してるじゃないか」


 不意に背後から声をかけられ、僕は肩を跳ねさせた。

 振り返ると、そこには営業二課の田中が立っていた。普段、僕のことなど名前すらろくに呼ばず、通りすがりにお茶をこぼしても謝りもしないような男だ。

 その田中が、今は気味の悪いほど満面の笑みを浮かべ、僕の肩を親しげに叩いている。


「宝くじ、当たったんだって? 水臭いなあ。同期の僕には教えてくれてもよかったのに」

「えっ、いや、それは……」

「いいっていいって。あ、今日のランチ、奢らせてよ。聞きたいことが山ほどあるんだ」


 田中の瞳は笑っていなかった。

 その奥にあるのは、獲物を見つけたハイエナの冷徹な計算だ。僕という人間を見ているのではない。僕の背後に透けて見える、札束の山を凝視している。


 ふと視線を上げると、フロア中の人間が手を止め、こちらの様子を伺っていた。

 事務の女性たち、他部署の先輩、いつも僕を怒鳴りつけていた上司の課長までもが、自席から立ち上がり、値踏みするような笑みを浮かべてこちらを見ている。


 オフィス。

 かつては、僕を疎外する退屈な檻だった場所。

 それが今は、空腹の亡者たちが蠢く、逃げ場のない「巣窟」へと変貌していた。

 

 僕は震える手でマウスを握り、パソコンの画面を見つめた。

 だが、文字は全く頭に入ってこない。

 背後から、横から、斜め後ろから。

 目に見えない無数の手が、僕の服を、僕の資産を、僕の魂を剥ぎ取ろうと伸ばされているような気がして、吐き気がした。


 神崎の言葉が、呪いのように蘇る。


『今日この瞬間から、佐藤様の周囲には、驚くほど多くの不幸な人々が現れます』

 

 違う。ここにいるのは不幸な人々じゃない。

 僕を喰い散らかそうと手ぐすね引いて待っている、強欲な獣たちだ。


 僕はまだ辞表を出していなかったが、この瞬間、自分がもう二度とこの場所には戻れないことを悟った。

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