最終話 地獄の沙汰も金次第③
リビングの床は見えない。
そこにあるのは、重厚な大理石でも、毛足の長い絨毯でもなかった。数ヶ月かけて、銀行の全口座から、そしてあらゆる資産を現金化して引き出した「紙の海」だ。一万円札が層を成し、部屋の隅々までを埋め尽くしている。
私はその海の上に横たわり、背中に伝わる紙の硬質な感触を楽しんでいた。
十億。かつて私の人生を救う光だと思った数字は、今や私をこの世から切り離すための「防壁」となった。
美咲が遺したあのお守りは、今、私の左胸のポケットにある。だが、それを開けて中身を見ることはしない。希望も、悔恨も、今の私には過分な贅沢だ。
不意に、部屋の隅に置かれた鏡に自分の姿が映った。
無精髭に覆われ、眼窩が深く落ち窪んだ男。だが、その瞳にはかつてないほどの輝きが宿っている。それは、人間としての理性を捨て、金という概念そのものと化した怪物が見せる、濁った光だった。
私は枕元に置いてあった「道具」に手を伸ばした。
闇ルートで手に入れた、冷たくて重い、黒鉄の拳銃だ。
これを手に入れるのにも、随分な額を払った。だが、その価値はあった。これは、私の城に土足で踏み込もうとする亡者たちを、公平に、迅速に、虚無へと送り返すための「鍵」なのだ。
ピンポーン――。
その時、静寂を切り裂いてチャイムが鳴った。
一瞬、心臓が跳ねたが、すぐにそれは歓喜の震えへと変わった。
防犯モニターを見る必要さえない。誰が来たのかは分かっている。
借金の催促に来た親族か? 私を「執行人」と呼んで崇める狂信者か? あるいは、死んだはずの美咲や松崎が、私の魂を奪いに来たのか?
誰でもいい。
誰が来ようと、今の私には関係ない。
この扉を開ければ、そこには新しい「地獄」が待っている。そしてその地獄を支配するのは、他でもない、この私なのだ。
「ああ……やっと来たか」
私はゆっくりと立ち上がった。足元の札束がカサカサと小気味よい音を立てる。
右手には拳銃。左手には、美咲の安っぽいお守り。
私は鏡の中の自分に向かって、今日までで一番深く、一番醜く、そして一番美しい「最高の笑顔」を作った。
チャイムが二度、三度と鳴り響く。
それは幕開けを告げる鐘の音だ。
私は札束の海を踏みしめ、重厚な玄関ドアへと向かう。
「さあ、入ってこいよ。地獄の沙汰を、金で決めてやろうじゃないか」
私は迷わずドアノブを回し、勢いよく扉を押し開けた。
眩いばかりの外界の光が、私の暗闇を白く塗りつぶしていく。
その光の中に、私は銃口を向けながら、最高の哄笑とともに踏み出した。




