第九話 崩壊へのカウントダウン③
カチッ、という微かな音が、静寂を切り裂く爆音のように脳内に響く。
"私"は跳ね起き、暗闇の中で息を殺した。冷たい汗が背中を伝い、最高級のシルクパジャマが肌にじっとりと張り付く。音の正体を探そうと目を凝らすが、遮光カーテンに閉ざされた部屋は、光の一筋さえ通さない完璧な棺桶だった。
ただの建材の軋みか、それとも空調の音か。……いや、違う。
誰かが、この「要塞」の扉をこじ開けようとしている。
"私"は震える手でスマートフォンのモニターを起動した。数箇所の防犯カメラ映像が青白く浮かび上がる。指紋認証、複層の暗証番号、コンシェルジュの監視。
この部屋を包む何重もの障壁は、物理的には鉄壁のはずだった。だが、"俺"の脳裏には、金という悪臭を嗅ぎつけた無数の亡者たちが、目に見えない隙間から霧のように浸入してくる光景がこびりついて離れない。
「誰だ……誰が来ている」
松崎か? 奪い取られた三億円の恨みを晴らしに来たのか。それとも、あの診断書を偽造した美咲か。いや、SNSで"俺"が踏みつけにしてきた、名もなき何万という群衆かもしれない。
彼らは今や、"私"の頭の中で一つの巨大な「殺意の塊」となり、タワーマンションの壁を食い破ろうとしている。
ピッ、ピッ、ピッ。
不意に、リビングの方でセキュリティシステムのアラームが短く鳴った。
"僕"は心臓が止まるかと思った。喉の奥が引き攣り、声にならない悲鳴が漏れる。実際には異常などないのかもしれない。システムの誤作動か、"私"の幻聴か。
しかし、今の"俺"にとって、それは「執行」の合図だった。
"私"は這うようにしてベッドを降り、床に散乱したブランド品や、かつて美咲に投げつけた札束を蹴散らしながら、影の中に身を潜めた。
もう、外の世界とは完全に断絶している。スマートフォンのSIMカードは折り捨て、インターネットの回線も引き抜いた。食事はドアの前に置かせるだけで、誰の顔も見ない。それでも、恐怖は消えない。
金がある。それだけで、"私"は全世界の敵なのだ。
窓の外の夜景が、"俺"を嘲笑う亡者たちの目に見える。
「健一さん、地獄へようこそ」
暗闇の中から、美咲の声が聞こえた気がした。いや、それは"僕"自身の内側の声だ。
"俺"は膝を抱え、暗い部屋の隅で丸くなった。一〇億円という数字が、巨大な重石となって"私"を押し潰していく。
この完璧な孤独。誰にも触れられず、誰の体温も感じない、絶対的な安全圏。それこそが、"僕"が大金を投じて建設した、"私"自身の墓場だった。
カチッ……。
また、音がした。
今度は、もっと近くで。




