第八話 試される絆③
タワーマンションの自室へ戻るエレベーターの中で、私は鏡に映る自分の顔を眺めていた。
ひどく無機質で、温度を感じさせない眼差し。それはかつて鏡の中に見つけた、卑屈で、他人の顔色を窺っていた男の面影を完全に削ぎ落としていた。
「結局、お前もか」
その言葉は、松崎さんへの失望というよりは、この滑稽な世界に対する最後の「答え合わせ」だった。
三億円という数字。それは一人の少女の命を救うための「光」ではなく、一人の善良そうな老人を、醜悪な脅迫者へと作り替えるための「毒」でしかなかった。
ならばいい。金がすべてを壊すというのなら、その破壊の権能を、私は最大限に振る使おう。
私はリビングのソファーに深く沈み込み、スマートフォンの連絡先から、かつて会員制バーで知り合った「影」の仕事を引き受ける男に電話をかけた。
「……ああ、私だ。一掃してほしいゴミができた。徹底的に、だ」
金は魔法だ。私が直接手を汚す必要さえない。
数千万という追加の報酬を提示すれば、プロの亡者たちが音もなく動き出す。
松崎という男が過去に犯した些細な不祥事、清掃員としての規約違反、そして今まさに私に行おうとしている「恐喝」の証拠。それらを精査し、膨らませ、あるいは「捏造」して、彼の逃げ場を塞いでいく。
翌朝、私は再び公園が見下ろせる窓際に立った。
視界の端で、数人の男たちが松崎を取り囲んでいるのが見えた。私が雇った、法の外側に住む「権力」の代行者たちだ。
三億円の入ったバッグは、無慈悲に回収される。それだけではない。彼がこれまで細々と積み上げてきた清掃員としての立場も、孫娘のための寄付金口座も、すべては「不適切な資金洗浄の疑い」という名目で凍結され、社会的な抹殺が完了する。
松崎が地面に這いつくばり、天を仰いで絶叫しているのが、ここからでも分かった。
彼は気づいただろうか。私を脅そうとしたその瞬間に、彼は自らが最も恐れていた「孫を救えない未来」を自らの手で引き寄せたのだということに。
私の心は、驚くほど静かだった。
悲しみも、怒りも、もう湧いてこない。
ただ、胸の奥に冷たく重い鉄の塊が鎮座しているような感覚。
信じるべき人間は、これでこの世界から一人もいなくなった。
愛も、善意も、すべては金という絶対神の前にひれ伏すための、安い演技の小道具に過ぎない。
"俺"はグラスに注いだ水を一気に飲み干した。
鏡の中の怪物が、満足げに微笑んでいる。
"僕"はもう、傷つくことはない。誰かを信じるという「弱さ」を、金によって完全に切り捨てたのだから。
佐藤健一という人間は、今日、真の意味で完成した。
地獄の執行人として。唯一の、孤独な王として。




