第八話 試される絆②
松崎の指先が、三億円の詰まったボストンバッグの縁を掴んだ。
その瞬間、公園の冷たい空気さえもが凍りついたような静寂が訪れる。
私は心のどこかで、彼がバッグを突き返し、「金なんていらん、わしはあんたと話がしたかっただけだ」と言ってくれる奇跡を、まだ、ほんの少しだけ期待していたのかもしれない。
しかし、現実は私の淡い希望を無慈悲に粉砕した。
松崎の丸まっていた背筋が、すっと伸びる。私を案じていたはずのあの柔和な瞳から、温かな光が急速に引き潮のように消えていった。代わりに宿ったのは、暗い穴のような、底知れない貪欲の色だった。
「……三億。これっぽっちか」
掠れた声が、私の耳を打つ。先ほどまでの「清掃員の老人」の面影はどこにもなかった。彼はバッグの中の新札の束を、愛おしむというよりは獲物を値踏みするような手つきで、乱暴に撫で回した。
「松崎......」
私の呼びかけに、彼は初めて見るような醜悪な笑みを浮かべて顔を上げた。顔に深く刻まれた皺が、獲物を捕らえた蜘蛛の巣のように、奇怪に歪んでいる。
「兄さん、いや、佐藤さん。あんた、ずいぶん溜め込んでるらしいじゃないか。ネットじゃ有名人なんだろ? 数万人に金をバラ撒く神様なんだろ?
そんな御仁が、命の恩人に対してたったの三億とは……少しばかり、ケチが過ぎるんじゃないかね」
命の恩人。その言葉が、私の心臓を冷たいナイフで貫いた。私が彼に救われたと感じていたあの穏やかな時間さえ、彼はあらかじめ「貸し」として計算していたのだ。
「孫の手術には三億あれば足りるはずだ。それを渡したんだから、もういいだろう」
震える声を抑えて私が言うと、松崎は「ハッ」と短く、馬鹿にしたような笑い声を上げた。
「足りる? 渡航費、入院費、その後の生活費……金なんていくらあっても足りんよ。あんたにとっては端金だろうが、わしにとっては、あんたを逃さないための首輪なんだよ」
彼はバッグを足元に引き寄せると、一歩、私ににじり寄ってきた。
漂ってくるのは、ほうじ茶の香りではない。老いと、執着と、腐敗した欲望が混じり合った、吐き気を催すような亡者の臭いだ。
「もっとあるんだろ? 隠したって無駄だ。あんたがどこの部屋に住んで、どれだけ通帳に数字を持ってるか、わしは全部知ってるんだ。もしこれ以上出さないってんなら……SNSでバラ撒いた罪のない連中が、あんたの本当の居場所を知ったらどうなるかね?
このタワマンに、数万人の亡者が押し寄せる光景を想像したことはあるかい?」
脅迫。
それが、私が最後に信じようとした「光」の正体だった。
慈愛に満ちた聖者の仮面の下には、誰よりも肥大化した、醜い怪物が潜んでいた。
私の視界が真っ赤に染まる。
悲しみは、一瞬で殺意に近い憎悪へと変わった。
ああ、やっぱり。やっぱりそうだったんだ。この世界に、金より重いものなんて存在しない。愛も、友情も、老人の慈悲も、すべては金を搾り取るための「演出」に過ぎない。
私は、目の前で下卑た笑いを浮かべる老人を見つめながら、心の中で完全にスイッチを切り替えた。
「佐藤健一」は、今、ここで、本当の意味で死んだのだ。
「……わかりました、松崎さん」
私は極めて冷静な、温度を失った声で告げた。
その冷徹な響きに、老人が一瞬、眉をひそめる。
「足りないというのなら、相応の処置をしましょう」
私は立ち上がり、泥まみれのベンチを振り返ることもなく、城壁へと歩き出した。
背後で松崎が「待て、話は終わっとらんぞ!」と叫ぶ声が聞こえたが、私にはもう、それが地獄の底で喚く虫の羽音にしか聞こえなかった。




