第八話 試される絆①
冬の朝の空気は、剃刀の刃のように冷たく鋭い。私は重いボストンバッグを抱え、いつもの公園へと向かっていた。
バッグの中には、銀行から引き出してきたばかりの三億円が詰まっている。新札の束が放つ、独特のインクと紙の匂いが、バッグの隙間から這い出して私の鼻腔を突いた。
ベンチには、いつものように松崎が座っていた。竹箒を傍らに立てかけ、かじかんだ手に息を吹きかけている。その姿は、どこからどう見ても、孫の治療費に苦しむ哀れで無垢な老人にしか見えない。
だが、今の私にはわかる。その丸まった背中も、白髪の混じった柔和な表情も、すべては私という「獲物」を油断させるための、完璧に計算された舞台衣装なのだ。
「やあ、兄さん。今日は大きな荷物だね。どこか旅にでも行くのかい?」
松崎は、昨日と変わらぬ温かい声で微笑みかけてきた。その瞳の中に、私の正体を知っているという狡猾な光を探そうとしたが、彼は見事にそれを隠し通している。私は無言のまま彼の隣に座り、足元にバッグを置いた。
「松崎さん。……いや、松崎様。もう芝居はやめにしましょう」
私の言葉に、老人の動きが止まった。風に揺れる枯れ葉の音だけが、不気味に響く。
「三億円。あなたの孫娘さんが、海外で手術を受けるために必要な金額だ。……違いますか?」
松崎はゆっくりと顔を上げ、私をじっと見つめた。その表情から笑みが消え、代わりに深い沈黙が降りる。
否定もしない。だが、肯定もしない。その空白の時間が、私の確信をさらに強固なものにした。
「このバッグの中に、その三億円が入っています。これを持っていけば、あなたの孫娘は助かる。あなたは『清掃員の老人』を引退し、平穏な余生を送れるはずだ」
私はバッグのジッパーを少しだけ開けた。朝の光が、整然と並んだ一万円札の束を照らし出す。松崎の喉が、ごくりと鳴った。その小さな音が、私の耳には獣の咆哮のように聞こえた。
「ただし、条件があります」
私は努めて冷静に、突き放すような声で続けた。
「これを受け取ったら、今この瞬間から、二度と私の前に現れないでください。会話もしない。視線も合わせない。
あなたが私を『佐藤健一』と知っていようが、SNSの『執行人』と知っていようが構わない。だが、受け取ったなら、あなたは私にとって死んだも同然の存在になってもらう」
これは救済ではない。私に残された、最後の人間性を賭けた「踏み絵」だ。
もし彼がこの金を拒み、「そんなものより、君との会話の方が大切だ」と笑ってくれたなら。……いや、そんな幻想はもう捨てたはずだ。
「さあ、選んでください。孫の命を救うための三億か、あるいは、私との『何の意味もない会話』か」
私は心の中で、自分自身の最期を看取るような心地でいた。
松崎の震える手が、ゆっくりとバッグの持ち手へと伸びていく。その指先が、私の三億円という現実を掴もうとしている。
私の視界が、冬の寒さとは別の理由で、急速に白く濁っていった。




