第七話 唯一の光③
その日の夜、私は城壁の自室で、暗闇に沈む市街地を凝視していた。
昼間、公園で耳にした松崎さんの電話の声が、鼓膜の裏側にこびりついて離れない。「必ず工面する」というあの震えるような一節。それは、私がこれまで何度もSNSのDMで読み捨ててきた、飢えた亡者たちの悲鳴と同じ周波数を持っていた。
「……まさか、そんなはずはない」
自分に言い聞かせるように呟くが、一度こじ開けられた疑念の扉は、冷たい隙間風を容赦なく吹き込ませてくる。私は震える手でスマートフォンを操作し、裏のルートで雇っている調査員にメッセージを送った。
ターゲットは、あの公園の清掃員、松崎。
一時間も経たないうちに、無機質なPDFファイルが送られてきた。
画面をスクロールするたび、私の心は急速に凍結していった。
松崎。七十二歳。
息子夫婦を数年前の事故で亡くし、残された唯一の肉親である八歳の孫娘と二人暮らし。
そして――。
孫娘は先天性の心疾患を患い、現在は海外での渡航移植を目指して莫大な寄付を募っている。その目標額は、三億円。
「三億……」
乾いた笑いが出た。
三億円。私にとっては、あの当選金のわずか三割に過ぎない。けれど、清掃員の老人にとっては、一生かかっても、逆立ちしても、決して手に入らない「神の奇跡」のような金額だ。
さらにページをめくると、私の心臓が大きく跳ねた。
調査員が撮影した写真の一枚に、公園のベンチで松崎さんが私の背中を見送る姿が映っていた。その隣には、彼が愛用している古いスマートフォンが置かれている。
画面を極限まで拡大する。
そこに映っていたのは、空や花の待ち受け画面などではなかった。
それは、私のSNSアカウントだった。
『本日より、100万円をプレゼントします』という、あの「執行人」の投稿画面。
「……知っていたのか」
指先が氷のように冷たくなった。
彼は、私が誰であるかを知っていたのだ。
都内最高級のタワーマンションから、不自然なほど地味な服を纏って出てくる哀れな成金を、彼は清掃員という特等席からずっと観察していたのだ。
「心に穴が空いている」なんて言葉は、私を籠絡するための、老獪に計算された撒き餌だったのだ。
ほうじ茶の温かさも、飴玉の甘さも、すべては三億円という「獲物」を釣り上げるための、あまりに手の込んだ演技だったのだ。
裏切り。搾取。演技。
結局、この世界にはそれしかない。
一筋の光だと思っていた松崎さんの笑顔は、暗闇の底で私を待ち構えていた、底なし沼の深淵だった。
私は、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
泣いているのか、笑っているのか、自分でもわからなかった。
世界にたった一人の「味方」はいなかった。そこにいたのは、最高級の「役者」だけだったのだ。
「いいだろう、松崎」
私は闇の中で、ナイフのような鋭い笑みを浮かべた。
あなたが三億円を欲しがっているというのなら、与えてやろう。
ただし、それは「救い」ではない。
あなたが守ろうとした孫娘の命と、あなたが今まで演じ続けてきたその汚らわしい「善人の皮」を引き換えにする、究極の呪いだ。
私は、幕を上げるべく、重い足取りで金庫へと向かった。




