第七話 唯一の光②
それからの数日間、私は取り憑かれたようにあの公園へ足を運んだ。
タワーマンションの自室にある、一脚数十万円もするラウンジチェアに座っているよりも、ペンキの剥げかけた公園の硬いベンチに座っている方が、不思議と呼吸が深くなるのを感じていた。
「おや、兄さん。また来たのかい。物好きだねぇ」
松崎さんは、いつもと変わらぬ穏やかな声で私を迎えてくれた。
彼との会話には、戦略も、裏切りへの警戒も必要なかった。話題といえば、近所の野良猫が子を産んだとか、明日は雨が降るらしいといった、一円の得にもならないことばかりだ。しかし、その「生産性のなさ」こそが、今の私にとっては救いだった。
私は、自分が何者であるかを隠し通した。
十億円の通帳も、冷酷な「執行人」としての顔も、すべて城壁の向こう側に置いてきた。ここでは私はただの、少しばかり人生に疲れた若者でいられた。松崎さんが差し出してくれる安っぽい飴玉の甘さが、高級レストランのフルコースよりもずっと鮮やかに舌に響く。
(ああ、まだ間に合うのかもしれない……)
金を持たず、数字に支配されず、ただ「今日」という日を慈しむ。そんな、かつて馬鹿にしていたはずの「弱者の幸福」が、実は何よりも贅沢なものに思えてきた。
もし、このまま松崎さんのような生き方ができれば、私はあの醜悪な怪物にならずに済むのではないか。そんな、淡い光のような希望を抱き始めていた。
しかし、そんな安らぎは長くは続かなかった。
ある日、松崎さんと話している最中、彼の古い作業着のポケットからスマートフォンのバイブ音が漏れた。それは、彼が大切にしているらしい、幼い女の子――孫娘の写真が待ち受けになった古い機種だった。
松崎さんは申し訳なさそうに席を立ち、少し離れた場所で電話に出た。
「ああ、先生……はい、わかっております。……ええ、工面します。必ず……」
風に乗って聞こえてきた、低く、切羽詰まった声。
その瞬間、私の脳内に、これまで何度も見てきた「地獄」の景色がフラッシュバックした。
工面? 金の話か?
心の中に、どす黒い猜疑心が鎌首をもたげる。
彼は本当に、私の正体を知らないのだろうか。たまたま私がこの近くの高級タワマンから出てくるのを、見ていたのではないか。清掃員という立場を利用して、孤独な金持ちである私に狙いを定め、わざと「無欲な老人」を演じて近づいてきたのではないか。
戻ってきた松崎さんの顔を、私は凝視した。
先ほどまで聖者のように見えていたその皺だらけの笑顔が、急に、獲物を罠にかけるのを待つ老獪な「亡者」の仮面に見え始めた。
「……松崎さん、何か困り事ですか」
「ん? いやいや、ちょっとした家庭の事情だよ。心配しなくていい」
彼は誤魔化すように笑った。
だが、その「遠慮」すらも、私からより大きな金額を引き出すための高度な駆け引きのように感じられてしまう。
一度芽生えた疑念は、猛毒のツタのように私の心を締め上げた。
世界にたった一つだけ残っていた「光」が、金という濁ったフィルターを通した瞬間に、どす黒く変色していく。
私は、自分が再びあの冷たい城壁の中へと、引きずり戻されていくのを感じていた。




