第七話 唯一の光①
タワーマンションの最上階、酸素さえも薄く感じるような「支配者の座」に座り続けることに、私はわずかな倦怠を覚えていた。
指先一つで誰かの尊厳を粉砕し、画面越しに響く悲鳴を肴に酒を飲む。
そんな日々は万能感に満ちていたが、同時に私の心から「手触り」のある感覚を奪い去っていった。外界はすべて、私という神が弄ぶためのデータの集積に過ぎなくなっていた。
その日の午後、私は気まぐれに外へ出た。高級ブランドのロゴを隠すように地味なコートを羽織り、誰にも気づかれないように城壁を降りる。
マンションの敷地を抜けた先にある、何の変哲もない小さな区立公園。都会の隙間に取り残されたようなその場所は、人工的な輝きに満ちた私の部屋とは対照的に、枯れ葉の匂いと湿った土の香りが漂っていた。
「……ふう。今日は冷えるなあ」
ベンチに座り、虚空を見つめていた私の耳に、掠れた声が届いた。
視線を向けると、そこには古びた作業着に身を包んだ老人がいた。腰を丸め、竹箒でゆっくりと歩道の落ち葉を掃き集めている。公園の清掃員だろう。
老人は、私の隣に置かれたゴミ箱の袋を器用に交換すると、ふと私の方を見て、深く刻まれた目尻の皺をさらに深くして笑った。
「兄さん、そんな薄着じゃ風邪引くよ。この時期の風は、見た目よりずっと意地が悪いからね」
私は一瞬、身構えた。
この男も、私の身なりを観察しているのか。私の懐にある「数字」を嗅ぎ取ろうとしているのか。
だが、老人の瞳には、これまで私に向けられてきたあの湿った欲望の光がなかった。
ただの、寒空の下で休んでいる若者を案じる、ひどく乾燥した、それでいて温かい眼差し。
「……別に、大丈夫です。すぐ戻りますから」
「そうかい。まあ、無理はしなさんな。体は正直だからね。心に穴が空いてると、そこから冷気が入り込んで、あっという間に芯まで凍えちまう」
老人はそう言うと、傍らに置いていた水筒を差し出してきた。
「ほうじ茶だけど、飲むかい?
売り物みたいに洒落た味はしないけど、温まることだけは保証するよ」
私は戸惑いながら、その古びた水筒を受け取った。
今の私なら、最高級の茶葉を買い占めることも、プロの茶師を雇うことも容易だ。だが、その老人が差し出した、プラスチックの蓋に注がれた茶の湯気は、なぜか私の喉よりも先に、凍てついた心の外壁をわずかに溶かした。
松崎、と名乗ったその老人は、私の素性を一切尋ねなかった。
私がどこの会社の人間か、年収がいくらか、どんな車に乗っているか。そんな、世界中の人々が血眼になって欲しがる「私を構成する数字」に、彼は一ミリの興味も示さなかった。
彼はただ、昨日の夕焼けが綺麗だったことや、公園の隅に咲き始めた名もなき花のことを、慈しむように語った。
それは、十億円という狂気に染まる前の私が、いつかどこかに置き忘れてきたはずの、形のない幸福の断片だった。
「兄さん、いい顔になった。さっきまでは、まるで幽霊みたいだったよ」
松崎さんの言葉に、私は不意に涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
世界にたった一人。私を「佐藤健一」として、ただの人間として見ている者が、このゴミ捨て場のような公園の片隅にいた。
金で買えるすべてのものを手に入れた私が、一番欲しかったのは、この「何の意味もない、ただの会話」だったのかもしれない。
城壁に戻る足取りは、少しだけ軽かった。
けれど、心の奥底で、冷酷な私が囁いている。
(こいつも、いつか私を裏切る。金を見せた瞬間に、その笑顔は醜く歪むんだ)
私はその声を振り払うように、松崎さんからもらったほうじ茶の、かすかな苦味を舌の上で反芻していた。




