第六話 地獄の沙汰の執行人③
深夜の静寂に包まれたリビングで、私はスマートフォンの画面を指先一つで弾いた。
画面が切り替わるたび、誰かの「人生」が数値化され、私の承認を待っている。
昨日、羞恥に耐えて自らの尊厳を切り売りした男の銀行口座には、すでに私の気まぐれな指先によって「1,000,000」という数字が刻まれている。
彼にとってそれは救済の光であり、私にとっては、使い古した玩具を買い取った代金に過ぎない。
不意に、部屋の隅に飾られたルネ・ラリックのクリスタルが、月の光を浴びて冷たく輝いた。
その透明な美しさに、ふと、かつて私が信じていた「道徳」というものの正体を考える。
人を敬い、誠実に生き、愛を育む。
そんな青臭い教条が、いかに脆弱な地盤の上に築かれた砂の城であったか。十億円という凶器を手にした今、私にはその真実が残酷なまでに鮮明に見えていた。
「結局、これだったんだ」
私はグラスを傾け、喉を焼くヴィンテージワインの熱を感じながら独りごちた。
人の心なんて、複雑で神秘的なものじゃない。特定の金額という「引数」を入力すれば、望み通りの結果を出力する単なる関数に過ぎなかったのだ。
親孝行な息子を「裏切り者」に変えるのも、貞淑な妻を「亡者」に変えるのも、正義感に溢れる教師を「乞食」に変えるのも、すべては桁数の問題だ。
十万で揺らがなくても百万で傾く。百万で耐えても一千万なら跪く。一億なら、人は自分の魂さえ喜んで差し出す。
私の中で、ガラガラと何かが崩れ落ちる音がした。
それは、三十年間私を縛り付けていた、社会という名の檻が解体される音だった。善悪という物差しが折れ、金という唯一の絶対的な正義が、私の世界の中心に居座った。
もう、顔色を窺って生きていた頃の自分には戻れない。
この支配の方程式があれば、私は神にも等しい全能を得られる。
金で買えない心があるなんて、それは金を持っていない者の敗北宣言だ。あるいは、支払う額が足りなかっただけの言い訳に過ぎない。
私は窓の外を見下ろした。
煌々と輝く東京の夜景。あの光の海に漂う何百万という亡者たちは、まだ気づいていない。
彼らの愛も、怒りも、悲しみも、すべては私のポケットの中にある紙切れ一枚でコントロールできる程度の代物であることを。
冷たい笑いが、胸の奥から込み上げてくるのを止められなかった。
かつての「佐藤健一」という人間は、もう塵も残っていない。
ここにいるのは、金の力で世界を解剖し、他人の心を弄ぶことを愉悦とする「怪物」だ。
私はもう一度、スマートフォンの画面を点灯させた。さあ、次は誰のプライドを買い叩こうか。誰の人生を、この方程式に当てはめて壊してやろうか。
暗闇の中、私の瞳には青白い光だけが宿っていた。




