第六話 地獄の沙汰の執行人①
タワーマンションの最上階。
下界の喧騒が一切届かないこの静寂の中で、僕は手の中のスマートフォンを眺めていた。
この数週間、僕は「逃げる側」だった。しかし、逃げ回る生活にはもう飽きた。こちらを数字としてしか見ない世界なら、僕も世界を数字で操ればいい。
そう決意した瞬間、僕の指は淀みなく動いていた。
匿名のアカウントを作成し、プロフィール欄には「気まぐれな資産家」とだけ記す。
そして、一行の投稿を打ち込んだ。
『本日より、私の気分で100万円をプレゼントします。条件はフォローとリポスト、そして私に選ばれる理由を伝えること。お金が必要な亡者諸君、私を楽しませてくれ』
投稿ボタンを押した瞬間、暗い部屋の中でスマートフォンの画面が激しく明滅し始めた。
通知の嵐。1分間に数百、数千という単位で数字が跳ね上がっていく。見ず知らずの人間たちが、僕という実体のない記号に向かって、一斉に、そして盲目的に跪き始めたのだ。
僕は窓際に椅子を寄せ、グラスに注いだ高価なワインを口に含んだ。
画面には、溢れんばかりの「欲望」がテキストとなって流れ込んでくる。
「借金で首が回りません、助けてください」
「子供の病気の手術代が足りないんです」
「神様、仏様、工藤様。どうか私を選んでください」
工藤。会員制バーで名乗った偽名が、ネットの海で「神」の呼称へと変わる。
面白い。あまりに滑稽だ。
さっきまで僕の時計を値踏みしていたタクシー運転手も、僕を投資話に誘った友人も、みんなこの画面の向こうにいる連中と同じ顔をしているに違いない。
彼らは僕の「心」など求めていない。僕の「100万」という数字の断片を欲しているだけだ。
そして、その数字をちらつかせるだけで、彼らは自尊心をかなぐり捨て、無様に地を這い、僕を「様」付けで呼ぶ。
地上二百メートル。窓の外を見下ろせば、星屑のような夜景が広がっている。
あの光の粒の一つひとつに、金に飢えた人間が住み、もがいている。
以前は恐怖でしかなかったその光景が、今は愛おしくさえ感じられた。なぜなら、僕は今、彼らの生殺与奪の権を握る「神」の視点に立っているからだ。
僕は、必死に不幸を切り売りする投稿の一つをタップし、「おめでとう、君に決めた」と短く返信した。
直後に届いた、嗚咽が聞こえてきそうな感謝のメッセージ。
「ありがとうございます! ありがとうございます! 生きる希望が持てました!」
希望? 違う。僕が与えたのは、僕という支配者に従属するための鎖だ。
闇の中で、僕は声を殺して笑った。
かつて美咲にATM扱いされ、上司に搾取され、友人に狙われた屈辱が、この全能感によって心地よく塗りつぶされていく。
地獄の沙汰も金次第。
ならば、この地獄をいかに面白く演出するか。
"私"は次の投稿のために、指を動かした。もっと残酷に、もっと卑屈に、彼らのプライドを解体するための「実験」を始めるために。




