また、めぐりあう
「ライアさん。人は、記憶が無くても生きていけるんですね」
星がよく見える夏の夜。ベッドの上、掛布団にくるまって、彼に話しかけた。
暗い宿の部屋の中。窓を開け、椅子に腰かけた彼は、何も言わなかった。
彼に向けていた体を仰向けに治し、口を閉じる。先程までぽつぽつと続いていた会話が一瞬にして無言になってしまった。
風の音と、窓が揺れる音。涼し気な風が入って来て髪を撫でる。
ふぅ、と息を吐いて、目を閉じる。これ以上は会話を進める自身がない。
「おやすみなさい、ライアさん」
「…おやすみなさい」
挨拶には返事が返って来て、少しほっとした。
私は、ライアさんと共に旅をしている。
魔法使いと人間が共存するこの世界。現在は、両種族、和解して平和に暮らせているが、昔は互いに争い、憎み合っていた歴史もある。
今でも相手の種族を憎んでいる人々は少なからずいるそうだ。旅の道中で、喧嘩をしているところを見かけたこともある。
ライアさんは魔法使いだ。彼は人間との交流を理解してくれている。現に人間の私を助けてくれて、危ない魔物や危険な物から守ってくれる。
頼りになって、とても優しい人。初めて会った日もそうだった。
あの日を忘れることはないだろう、ずっと。
目が覚めた時、私は古びたレンガ造りの建物の中でベッドに一人、横になっていた。
ここは、どこ?
上半身を起こし、辺りを見渡す。
外は雪。建物の中は暖炉に火が灯って温かいが、明かりはそれしかなく薄暗い。その他には薪や木製の小さい椅子が数個ある程度。私の他には誰もいない。
何をしていたんだっけ? どうしてここにいるんだっけ?…あれ?
思い出せない。自分が誰なのか、どこから来たのかも、何も分からない…。
「目が覚めましたかっ⁉」
ビクッと身体が跳ね、一瞬、心臓が止まったかと思った。
大声が建物全体に響き、緑のコートを着た男性がこちらに駆けてくる。
「大丈夫ですか? どこか痛いところは?」
「…誰?」
興奮気味で私に詰め寄る彼だが、私はこの人を知らない。一体誰なのだろう、そして何故ここにいるのだろう。
「…あぁ失礼、わたしはライア。旅の者です。あなた、森の中で倒れていたんですよ」
話を聞けば、森の中、雪の上で行き倒れになっていた私を、ライアさんが見つけて建物に運び、看病してくれていたのだそう。
まさかそんなことが起こっていたなんて。
「あの、助けていただき、ありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず。…ちょっと頭を診てもいいてすか?」
「頭?」
今まで気が付かなかったが、頭に包帯が巻かれていた。
ライアさんが私を見つけた時、頭部に怪我をしていたという。木製の椅子に座って頭を診てくれた。
「わたしの魔法で治療はしましたが、どうですか? 痛みますか?」
ライアさんが私の顔を覗き込む。彼の青い瞳が優しい光を放っている。大丈夫だと伝えると、自分の事の様に安堵してくれる彼。
「ところで、あなたはどうして森に? 何故倒れていたのですか?」
「…実は、覚えていなくて」
自分の名前も出身も、何故ここにいるのかも何も分からない。全てが黒く塗りつぶされているように。
一体これからどうすればいいのだろう。
「何か、手がかりになるような物はありませんか?」
そう言われて、身の回りを探ってみる。すると、ポケットの中に何かが入っているのを見つけた。取り出すと、一枚のハンカチだった。
そこには、かなり不格好に「メアリー」と刺繡がはいっている。
「ありました! これ、きっと私の名前ですっ!」
見つけた自分の名前に思わず歓喜の声を上げた。喜びと安心感がどっと押し寄せてくる。しばらくずっとそのハンカチを見つめていた。
それにしてもこの刺繍、所々ずれたり、ほつれたりしていている。記憶を失う前の私は、刺繍があまり得意では無かったのかもしれない。
「…メアリーさん、わたしと旅にでませんか?」
「え?」
「おそらく、頭を打った拍子に記憶喪失になってしまったんでしょう。記憶が戻るまでの間、わたしと一緒に世界を周ってみませんか?」
ライアさんからの突然の誘いに、困惑した。初対面の人だし、助けて頂いたうえに、そんな迷惑をかける訳には。
けれど、記憶が無い今の状況で、一人で何かをするのは不安が大きい。どうすればいいのか…。
「大丈夫です、わたしが力になります!」
そう笑う彼に、何故か心から安心感を抱いた。どこか懐かしいような、温かい気持ち。
それに、ライアさんとなら、心強い。
「じゃあ、お願いしても、いいですか?」
「ええ、最高の旅にしましょう」
あの日から、私達の旅は始まった。ライアさんと見る世界は、綺麗なもの、美味しいもの。キラキラしたもので溢れている。
前の私は、一体どんな生活を送っていたのだろう。今も思い出すことは出来ないでいる。
けれどそれ以上に、今がとても楽しい。ライアさんの言っていた最高の旅だと思う。
それに、ライアさんは優しくて、いつも私を助けてくれる。そんな彼に、心惹かれている自分がいる。 彼ともっと一緒にいたい。ずっと旅をしていたい。
でももし、記憶が戻れば、この旅は終わってしまうかもしれない。
「人は、記憶が無くても生きていける」それなら、いっそのこと戻らなければいいのに。
掛布団を頭から被って目を閉じた。
ベッドで寝息を立てる彼女の頬をそっと撫でた。幼い寝顔があの時と一切変わっていない。愛らしい姿に思わず笑みが零れる。この笑顔をわたしが守らなければ。
わたしは、あなたの夫なのですから。
わたしは、北の果ての街で生まれ育った。
家には父が趣味で集めた世界中の資料や本が、すらりと並んでおり、毎日、父と一緒に本を読むことが楽しみだった。見たことのない建造物に、触れたことのない文化。
いつか、本物をこの目で見たい。それが、幼い頃からの夢だった。
十八歳で家をでて、旅に出た。気ままに、どこまでも行こう。そう決意して。
旅に出て数年、わたしはある小さな町を見つけた。森の奥深く、隠れるようにあったその町に少し滞在する事にした。
レンガ造りの建物の通りを歩けば、様々な店が立ち並び、活気に満ち溢れている。町の中央にある広場へ行けば、皆が楽しそうに談笑し、子供達が駆けまわっている。微笑ましい光景だが、一つ気になることがあった。
町の住民が皆魔法使いだったことだ。
現在は、魔法使いと人間の共存が認められており、魔法使いだけの町は珍しい。もしや、ここの住民は人間を嫌う人たちなのか。
そのような人々は、戦争の種になるかもしれない。もし本当なら関わりたくはない。
今すぐにでも、町を離れるべきだろうか。
「あら、旅の人? ゆっくりしていってくださいね」
考えを巡らせているわたしに声をかけた一人の女性。
「はじめまして、わたしはライアと申します」
「ライアさん、私はメアリーです。はじめまして」
「あの、一つお聞きしてもいいですか? この町には魔法使いしか住んでいませんよね? どうしてですか?」
わたしの問いにメアリーさんは何かを察したようにクスリと笑った。
「この町は、周りを深い森が囲んでいて、町の外に出ようとする人も、町にたどり着ける人も少ないんです。だから安心してください。そのような集いではありません」
なるほど、この森が関係しているのか。ふと上を見上げると、背の高い木々がこちらを見下ろして、さわさわと音をたてている。
「ライアさんはラッキーですね。迷わず町に来られるなんて」
わたしに向ける満面の笑み。最初はどんな町か不安だったが、なんだか気持ちが和らいだ。
「よかったら、宿にご案内しますよ」
「じゃあ、お願いします」
メアリーさんに宿まで案内されている道中、なんだか視線を感じた。村中の人がわたしを見ている。もしかして、部外者だと怪しまれているのだろうか。
「メアリー」
メアリーさんの前に数人の子供達が寄って来た。一番先頭にいた五歳程の女の子が彼女に話かける。
「その人だあれ?」
「この人はね、ライアさんだよ。旅をしてる人なんだって」
その言葉に子供達の表情が一変、キラキラした目を向けて詰め寄って来た。
「すごい! すごい!」
「旅って、どこにいったの?」
一気に子供に囲まれて困惑してしまう。
どうやら、外から来た人が珍しく、緊張していただけで、忌み嫌われていた訳ではないようだ。
わたしが子供達の相手に苦戦している横でメアリーさんは他の子と喋っている。
「みんながね、ライアさんのこと気になってたよ。どんな人かなって」
「あとね、「メアリーとお似合いね」って言ってた。ねぇ、「お似合い」ってなあに?」
純粋な眼で尋ねる子供達。横を見るとメアリーさんが林檎のような真っ赤な顔をしている。
「す、すみません、ライアさん! ほら皆、宿にご案内してくるから、また後でね」
それだけ言うと、わたしの袖を掴んでその場から離れたメアリーさん。
それから宿に着く間も、奥様方やおじさんの視線やヒソヒソ話を浴び続けた。
宿に荷物を置き、町を共に見て回った。彼女は、町のことを沢山話してくれる。
野菜は町から少し離れた畑で皆で育て、魔法で狩りや、近くに流れる川で魚を取って生活をしているそう。
もっと町のことを知りたい、そう思っていた私はあるものを目にした。
男性達が魔法を使い、切った木材を運搬し、何かを建てている
「メアリーさん、あれは何をしているんですか?」
「あれはお祭りの準備です。毎年、この時期になると、豊作を願ってお祭りをするんです。あの屋台を建てて、採れた野菜を調理して食べるんです」
なるほど、祭りか。わたしのふるさとでも、よく祭りをやっていたな。
しかし、人手が足りないのか、苦戦しているようだ。
「メアリーさん、手伝いをしてもかまいませんか?」
「え? 嬉しいですが、長旅で疲れているんじゃないですか?」
「平気です。それに、体力には自信がありますから」
コートを脱いでワイシャツを腕まで捲る。村の皆さんともっと触れ合っていきたい。
「手伝います」
「おお! あんた旅の人じゃないか!」
町の方々に聞いて、少しずつ作業を進める。慣れないことだらけだったが、丁寧な指導のおかげで、素人のわたしも手伝うことが出来た。
「いやぁ、思っていたより早く終わったよ。あんたのおかげだ」
「いえいえ」
準備が完了するころにはすっかり打ち解けあっていた。役に立てたようで良かった。
その夜、広場で祭りが開かれた。皆が新鮮な野菜を食べ、賑やかな雰囲気に包まれている。
わたしの隣では、先程一緒に作業した男性がもっと食えと、野菜を差し出してくれる。けれどもうお腹がいっぱいだな。
ところで、メアリーさんの姿が見当たらない。一体どこに行ったのか。
「皆、祭りを楽しんでくれているかい?」
現れた髭を生やした男性。話声がピタリと止み、全員が男性の話に耳を傾けている。
「あの方は?」
「この町の町長だよ。町長の挨拶の後は、町の皆で歌を歌うのさ。町長の娘を中心にな」
町長の挨拶が終わり、広場の真ん中に女性が現れた。
「メアリーさん?」
純白のワンピースに身を包んだメアリーさんが深呼吸をし、アカペラで歌い始めた。遠くまで届く、澄んだ美しい歌声。
それに続けて町の人達が歌いだす。満天の星空の下。大勢の歌声が響き、風に乗って流れていく。
町全体が一体になっている、見ていて心が温まる。その中心で皆と笑い合っている彼女。
わたしの視線はずっと彼女に向いていた。
「町長の娘さんだったんですね」
祭りが終わった後、広場のベンチてメアリーさんと話をした。
「歌、とても素敵でした」
「この町の歌なんです。お祭りとか、お祝い事の時によく歌うんです」
楽しそうに話す彼女の間を、肌寒い風が通り過ぎる。身を縮める彼女にコートを羽織らせれば、ありがとうございますとお礼を言った。
「…ライアさん、どのくらい町にいますか?」
どのくらい、か。いつもなら、一泊か数日でまた別の場所へ行くけれど。
「しばらくはこの町にいようかと思います。わたしも、この町が好きになりました」
確かにそれも理由の一つ。けれど、一番の理由を、わたしはこの時明かせなかった。
気が付けば、半年の月日をこの町で過ごしていた。町の人とも、もうすっかり打ち解け合っている。
「こんにちは」
「おや、こんにちは。ライアさん」
「ライアさん、こんにちは」
豊かな自然、温かい人、賑やかな町。素敵な物ばかり。
けれど、わたしがこの町に留まった最大の理由は、メアリーさんだ。
「メアリーさん、今日は天気がいいですね」
「そうですね、お洗濯日和です」
ふふっと微笑む彼女が可愛らしい。
わたしはメアリーさんに恋心を抱いている。
初めて会った日から、彼女から目が離せない。日を重ねるほど、彼女への思いは大きくなっていた。
無邪気な笑顔、優しいところ、明るいところ、おっちょこちょいなところ。全てが愛らしい。
そして今日、わたしは…。
「メアリーさん、わたしは、わたしはあなたが好きです!」
花束を持ち、思い切ってメアリーさんに告白をした。彼女が好きなピンク色の花を持って。
断られるかもしれない。けれどこの気持ちを伝えたい。
「私も、ライアさんが好きです…」
真っ赤な顔を必死に隠しながら、メアリーさんは答えてくれた。
嬉しさのあまり実感が湧かずふわふわとした状態のまま、わたしはメアリーさんを抱き済めた。彼女の温もりが夢ではないと教えてくれる。ありがとう、メアリーさん。
それから一年後、わたし達は結婚をした。
式は広場の真ん中で行われ、町中の人々から祝福の声が上がり、祭りで聞いたあの歌を歌った。
不思議だ。以前のわたしなら、旅をすることに夢中で、どこか一つの場所にとどまろうなんて考えもしなかったのに。
今は、自分の居場所があって、大切な人が隣にいる。
絶対に幸せにしよう、そう胸に誓った。
無事に結婚式が終わり、義理の父である町長から、町長の座を譲られた。いい人が見つかって良かったと、涙をながして言ってくれたことが嬉しかった。町の人も反対するひとはおらず、結婚式の次は任命の式が行われ、しばらくの間はお祭り騒ぎだった。
今までの拠点から、メアリーと二人、戸建ての家に住むことにした。腕利きの職人たちが手掛けてくれたのだ。これからここで新しい生活が始まる。
それからは、町長の業務、時間が空けば、農作業や、町の人達の手伝いをして過ごした。初めは失敗続きだったが、メアリーのサポートのおかげで少しずつ習得していった。
わたしの隣にいてくれる大切な人。何よりもメアリーとの時間を一番大切にした。
そして今日は、結婚してから初めてのメアリーの誕生日だ。
「お誕生日おめでとう、メアリー」
「ありがとう、ライアさん」
町一番のお菓子屋のケーキでお祝いをした。
プレゼントには、彼女が好きなピンク色の花束。それと。
「メアリー、開けてみて」
ラッピングされた手のひらサイズの包みを彼女に渡す。包みを開けた彼女の顔がわぁっと喜びと驚きに満ち溢れた。
中に入れていたのはハンカチ。メアリーが気に入りそうな物を選び、わたしが彼女の名前の刺繍をいれた。魔法は一切使わず、一針
に思いを込めた。本当なら、もっと綺麗に仕上がるはずが、かなり不格好だ。
「ごめんなさい、下手くそで」
わたしが謝ると、メアリーはハンカチを抱きしめながら、首を横に振った。
「下手なんてことはありません。私のために刺繡してくれたんでしょう? 世界に一つしかない、私の宝物です。ずっと大切にします。ありがとうございます」
こんなに喜んでくれるとは思わなかったな。
それからしばらく、ハンカチを眺めてはわたしがいれた刺繍を見て幸せそうに笑う彼女の姿が嬉しくもあり、照れくさくもあった。
「ねぇ。そろそろ、ハンカチをしまってくれませんか?」
「いやですよ。私の宝物なんですから」
いじわるに笑う彼女がハンカチをぎゅっと抱きしめる。
「さぁ、しまって。なんだか恥ずかしくなってきましたから」
「えー。あ、そうだ。じゃあ、ここに入れておきます」
そう言ってお気に入りのワンピースのポケットに入れた。これならいつでも一緒だと嬉しそうに話す彼女に、わたしは負けてしまった。
お祝いに誕生日の歌と、町の歌を共に歌った。
こんな穏やかな日々が、ずっと続くと思っていた。
そう思っていた矢先、事件は起きた。
また今年も町に冬が来た。雪が辺り一面を真っ白に染めている。吐いた息も白く、儚く消えて行った。
そんな平和な空気を破り、爆発音が鳴った。そして大きな火災が起こった。
町が襲撃された。人間達だ。火薬や爆弾を持って町を攻撃してくる。
突然の事に町中が混乱に陥っている。人々が逃げ惑い、中には魔法で反撃しようとする者もいる。しかし、ここで攻撃を始めれば、戦争は避けられない。
「皆さん、こっちへ! 全員避難してください!」
戦争になれば、死者や負傷者がでる。そんなことはさせない。被害を最小にするためにも。速やかに住民への避難を促した。
町から少し離れた所にある、万一に備えて逃げられるように建てられた避難所へ。
「皆、急いで!」
メアリーも住民の避難、救助に力を注いでくれた。
だがその時、ゴッと鈍い音がした。慌てたメアリーが転んだ拍子に、雪の中にあった岩に頭をぶつけたのだ。頭から血が出ている。
メアリーを横抱きにして、わたしも建物に向かった。
暖炉に火を付け、暖をとる。幸い、逃げ遅れた人はいなかった。
しかし、避難所には泣き声や恐怖の声が渦巻き、何人か怪我人もいる。
「ライアさん、メアリー大丈夫?」
子供達がコートの裾を引っ張って尋ねてくる。皆が不安な表情を浮かべていた。
「大丈夫、すぐによくなるよ」
子供達の手前そう言ったが、かなり危険な状態だ。ベッドに寝かせ、治癒魔法もかけたが、意識が戻らない。
最悪の状況を想像して、それを振り払おうとする。大丈夫だ、きっと。
一方で、大人達が言い争いを始めていた。
立ち向かうべきか、このまま身をひそめるべきか。大切な場所を壊された怒りと、大切な人を守らなければという思いが、ぶつかり合っている。
「どうしましょう、町長…」
町の人々がわたしに目線を向ける。町長の意見を求めている。
「…それぞれ、別の拠点で暮らしましょう。ここに戻って来てはダメです…」
一斉に騒然とした。今まで培ってきたものを手放せというのだから無理はない。だが何よりも人命が第一。
そのためには身を隠す必要がある。しかし、いつまでここにいられるか分からない。すぐに居場所が見つかってしまうかもしれない。
別の土地で、それぞれ、新しい生活を始めた方が良い。そう考えた。
もちろん反対の声も上がった。だが、戦う準備など何一つ出来ていないこの状態で、負け戦になるのは目に見えている。
町の人達を説得し、行き先を決めるなどの準備を始めた。
「町長は、どうするおつもりですか?」
「わたしはメアリーの意識が戻るまで、ここに残ります」
メアリーの看病のため、残ることを決めた。もし何かあったらすぐに逃げられるよう備えをして。
「お気を付けて」
「どうかご無事で」
町の人達が少しずつ去っていく。集団で行動して見つかることを防ぐために、なるべく少人数で移動する。
そしてとうとう、避難所にはメアリーとわたしだけが残った。その間も、メアリーは目を覚まさなかった。
あの日から、一月程経った。奇跡的に避難所が見つかる事は無く、今もここでメアリーの看病を続けている。
夜になってもメアリーの傍を離れなかった。いつ起きてもいいように、心細くないように。
早く、目を覚まして。わたしを一人にしないでください。そう、彼女の手を強く握る。
少し喉が渇いて、水を飲みに行き、戻ると、メアリーが目覚め、身体を起こしていた。
あぁ、良かった。彼女が無事だった。
「目が覚めましたか⁉ 大乗ですか? どこか痛いところは?」
かなり早口で一気に言った。歓喜と心配が混ざって自分でもよく分からない。ただ、本当に良かったと心から思った。けれど。
「…誰?」
その一言が、わたしを打ち砕いだ。
おそらく、頭を打った拍子に記憶を失ってしまったのだろう。今のわたしは彼女の夫でもなんでもない、ただの初対面の男。
暗い感情が、わたしの胸の中に広がっていく。今までのメアリーとの時間が、全て無かったものになるなんて。
しかし、何も覚えていないということは、町でのことも忘れているということ。なら、このまま何も思い出さなければ、彼女が苦しむことはないのだろう。
「失礼、わたしはライア。旅のものです…」
…わたしは、大噓つきだ。
窓から夏の風が入って来る。宿のベッドで眠る彼女が愛らしい。
あれからわたし達は旅に出た。もともと旅人だったから、とくに困る事は無かった。
けれど、メアリーが横で笑う度、その笑顔が夫としてのわたしに向けたものではないと感じる度、胸が苦しくなる。あの町でのこと全て、メアリーの中には残っていない。
もちろん、事件のことも。
何も知らず、何も思い出さないほうが、メアリーのためだろう。傷つくことも、苦しいことを思い出すこともないのだから。
その反面、わたしを思い出して欲しいとも思う。あなたの夫として、またあなたと日々を過ごしたい。あの楽しかった時間を、共有したい。
「~♪ ~♪♪」
町のあの歌を小さく鼻歌で歌う。また一緒にこの歌を歌いたい。
「メアリー…」
どうか思い出して、あの日々を。
「メアリー…」
思い出さないで、あなたの悲しむ顔は見たくないから。
「……はぁ」
葛藤する自分の感情を、もうどうすることも出来ない。彼女のベッドに突っ伏して、消えるような声で言った。
「メアリー、思い出して…」
「……ライアさん?」