【短編小説】ただの意見
『じゃあなに。私の服装がこの場には相応しくないと、そう言いたいの?』
『そんなことは言ってないよ。もっとシンプルなスカートの方が君には似合っていると思うと。これは僕のただの意見さ』
『そう思っていたなら、出る前に伝えるべきじゃない?どうして今更そんなこと言うの?』
『いや、だからさ。今履いてるスカートも素敵だと思うよ。でも君は背が高くて、脚も長く細い。スタイルがいいから、タイトスカートも似合うんじゃないって、ただそう言っただけだよ』
優雅なピアノの音をかき分けて、男女の言い争う声が聞こえてきた。レストランの隅の方からである。ナイフを動かす手を止め、私はそっと耳を立てた。
声は私の右斜め後ろ、壁一面ガラス張りのもっとも眺めのよい席からである。あそこを確保するのは容易ではなかっただろう。オーナーと付き合いのある私ですら、あの席に座れるのは半年先になるというのだから。あの場所はそれほど特別なのだ。
それにも関わらず、同席した女性は喜ぶどころか、彼の意見を聞いて泣き出したうえに、もう帰るとナプキンをテーブルに置いてしまった。誰がこのような結末を予測できたであろうか。
『なぁ、機嫌を戻してくれよ。ただ僕の意見を言っただけじゃないか』
ただの意見。そう。彼の言う通り、全てただの意見なのである。女性の腕を掴み呼び止める彼に、私はひどく同情した。表面上の慰めではなく心の底から。
どちらも引き下がれないまま口論は続き、女性の声は次第に鼻にかかった声へと変化した。それからすぐ、説得も虚しく彼女はコートを抱え外へ飛び出して行った。残された男は椅子に崩れ落ち頭を抱えた。
不思議なものである。
なぜ、相手の言葉にそれほど敏感になるのか。
まるで鋭利な刃物でも突きつけられたかのように。
なぜ、それがあなたの意見なのねと仕切りを作れないのか。まるで敵を見つけたかのように、一気に相手を攻撃する。もしくは、その瞬間に友人から他人へと降格する。
その仕組みが不思議でならない。
しかしながら、私の心がここまで広くなった背景には、生活の豊かさが関係しているのかもしれない。
小さな町の医者として安月給で駆け回り、寝る間も惜しんで限界を迎えていたあの頃。穴の空いたボロ雑巾同様だった私に、誰かの意見を受け入れる余裕があっただろうか。もしあったならば、離婚した妻は今も私の横で微笑んでいただろう。
今では、戻りたくも思い出したくもない過去になってしまったが、あの日々が私を大きくしてくれたのも事実である。
『ご挨拶が遅れて申し訳ございません。本日は来客が多くてですね』
物思いにふける私に、ひとつの影が近づいてきて声を放った。この店のオーナーである。
『本日のコースはいかがでしたか』
「実に素晴らしい料理でした。特にメインのソースが私好みでした。フルーティーな甘さがお肉とよく合って、ワインを1本空けてしまいましたよ」
『それはそれは、気に入っていただけたようでなによりです』
それからオーナーは、さらに1歩近づき、声をひそめた。
『ところで、ご相談いただいた例の席の件ですが、たまたまキャンセルが出ましてね。最短で3ヶ月後に予約が取れそうなのですが、いかがいたしましょう』
「おお、それはよかった。ぜひその日に予約させてください。早いに越したことはない」
『かしこまりました』
そう言って手帳の日付を確認すると、『それでは』と頭を下げ、奥のテーブルへ向かった。
3ヶ月後の夜。
今夜は、恋人とレストランでコースを楽しむ予定である。席はもちろん、夜景の広がる特別席。
彼女とは交際してもうすぐ2年になる。どんな時も穏やかで、大きく静かな湖のような存在だ。そんな彼女に今夜、私はプロポーズをする。
彼女との何気ない日々の会話は、まさに私の理想そのものであった。
私が質問すれば、彼女自身の意見を述べてくれる。私はそれを受け入れ、自分の意見を伝える。会話とは本来こうあるべきである。それを実現できた初めての相手が、彼女だったのだ。
『いらっしゃいませ。こちらへどうぞ』
『わぁ、とっても広いのね。何席あるのかしら。あのシャンデリアも素敵ね』
ウェイターが椅子をひき、腰掛ける彼女の黒い髪が揺れた。
「ずっと、君と来たいと思っていたんだ」
『ふふ。嬉しいわ。いつもは私がお店を決めちゃうから、こんな高級なところじゃないものね』
「私は、君のその素朴なところに惹かれたんだ」
『またぁ』
とろけるような空気に会話は弾み、ふたりの酒のペースも次第に上がっていった。
『この白ワインとっても美味しい』
「あまり飲みすぎないように。君はそんなに強くないだろ」
『お魚にかかってるクリームが濃厚でワインがすすんじゃうのよ』
「ところで気になっていたんだが、君が今使っているのは、これからくるメイン用のフォークだね。外側から使っていくのがコース料理のマナーだよ」
『あら。自由に使ったっていいと思うけど。誰にも迷惑かけてないわ』
「こういった店では礼法を守るべきだと私は思うがね」
その時、ひとりのウェイターがそっと近づきいてきて、彼女の皿に手をかけた。
『ちょっと!まだ食べてるところよ』
「君がフォークとナイフを横にして皿にのせているからだよ。その置き方は食べ終わったことを意味する。だから彼女は悪くない」
『この女性の肩を持つの?』
「そうじゃないよ。ただそう思ったから言ったまでだ。深い意味はない。もう言い争いはやめよう。せっかくの料理と夜景が台無しだ」
『‥‥あなたはいつもそうね。いつもただの意見だと言って、ろくに私の話を聞こうとしない』
「聞いてるさ」
『そうだね、そういう解釈もできるねと、上辺で聞くだけで、本当はちゃんと聞いてないのよ。感情がないの。ぴしゃんと襖を閉められた気分になるのよ。交換できているようで、できていないの。なんだか、私、疲れちゃった』
鼻にかかったような声に、私はハッとし、彼女の手に自分の手を重ねた。
「少し落ち着こう。きっと酒を飲みすぎたせいだ。今日はもう家に帰ろう」
彼女は下を向いたまま、頷くことはなかった。
『‥‥私、ひとりで帰るわ』
「待ってくれ、それじゃあ会計を済ませてくるから。ここで待っていてくれ」
白く細い手首を掴んだ私の手は大きく振り払われた。彼女はカバンを抱え、外へと飛び出してしまった。
私は少しの間立ち尽くし、力が抜けると、すとんと椅子に腰掛けた。そこへひとりの若いウェイターが、水を片手に近づいてきた。
『水をお淹れいたします』
それから続けた。
『たまたま聞こえてきたのですが、"彼女は悪くない"というのは、余計な一言だったかもしれませんね。女性は繊細ですから』
私はその失礼なウェイターを睨みつけた。
「お前のような若造に説教される覚えはない」
『あ、いえいえ。説教だなんて。ただの私の意見ですよ』