伝えたい想い。バレンタインデーはあと付けで
二月の冷たい空気を震わせ、校庭に響き渡る運動部特有の掛け声。部活動に励む生徒達の熱気がグラウンドの温度を上げているようだった。
野球部、サッカー部、女子テニス部、それに私達ソフトボール部……これだけの部活動が校庭を分け合い、所狭しと駆け回っている。
冬の練習時間は短い。授業後に急いでグラウンドに集まったとしても、ボールを使った本格的な練習は一時間できるかどうか。だからみんな早くボールを使いたくて準備運動を手短に済ませがちだ。
「はいはい! 時間ないけどしっかりアップしていこう! 気を抜くと怪我しちゃうからね! あと今日も野球部からの打球注意ね」
私は手を叩きながら、すかさず注意を促す。周りはみんな下級生の為、専ら私が掠れた声を張り上げて口うるさい小姑と化している。
身体も温まりほぐれてきたところで、今日のメイン練習だ。
「じゃあ実戦形式で打撃練習いくよ! 守備一人足りないから、左中間と右中間固めて! レフト奥の女子テニス部に迷惑かけないようにしよう!」
私が所属する女子ソフトボール部の部員は現在九人。
入学した当初は三学年合わせて二十人以上いて、県内有数の強豪校だったのだけど、強かった三年生が引退すると、一つ上の先輩達はこぞって辞めていってしまった。というのも、三年生が抜けてしまうと人数が七人しかおらず、試合にすら出られなくなってしまったのだ。
そして、私の学年は部員数が三人しかいなかった事もあり、活動自体が難しくなった。私以外の二人はそんな部活に時間を縛られるのを嫌い、学業に専念すると言って辞めてしまった。
一年生の秋の時点でソフトボール部は私一人となってしまった……。
ソフトボール特有の鈍い打撃音が響き、鋭い打球が一塁線を抜いていく。右中間を守っていた私が打球を追いかけると、打った打者が「先輩、すみません!」と謝った。
誰も守っていない方向に打ってしまったことを詫ているのだが、私は笑顔を向けて叫ぶ。
「オッケーオッケー! ナイスバッティン!!」
私はボール拾いが大好きだ。というより、ボール拾いも含めてこうしてソフトボールができることが嬉しくてしょうがない。
一年の秋、部室で一人きりになった時は諦めそうになった。できる事といえば壁とキャッチボールをすることだけだったあの頃、夢見た光景が今まさに目の前にある。それだけで幸せだった。
「ほいよ」一塁線奥にいた野球部員の一人がボールを拾い、投げ返してくれた。
「ありがとう!」
受け取った私は中継に来ていたセカンドに投げ返し、再び右中間の守備位置に戻る。
野球部と隣接、いや交錯する形でグラウンドを分け合って使っているから、今のようにボールが野球部の方へ行ってしまう事はよくある。
私達から見て一塁側奥に野球部のホームベースがあり、当然野球部側から見れば三塁側奥に私達ソフトボール部がいる。
その為外野手、主にライトとレフトは殆ど背中合わせ状態で守備につく。
だけどこの光景は特別珍しい事ではない。公立中学で専用のグラウンドがあるなんてそうそうないわけで、お互い場所が狭いと文句を言ったりはしないし、確執もない。
ただ唯一グラウンドが交錯する為に弊害となることがある。それは――。
キンッ! という甲高い音に次いで「危なーいッ!!」の声が野球部側から届いた直後、ライトを守る私の目の前に軟式野球ボールが勢い良く落下した。
「うわッ!」
軟式と名がついてはいるが、テニスボールと違って野球の軟式ボールは普通に硬い。当たれば言うまでもなくとっても痛い。
そう、唯一の弊害がこれだ。右打者の強烈に引っ張った打球がレフト方向、つまり私達ソフトボール部のライト側を襲うのだ。この打球が背中、運悪く頭に直撃しようものなら保健室直行間違いなし。
振り返り打者を確認すると、打った打者は直立して深々と頭を下げていた。頭をあげ大音声で「すみませーん!!」と謝罪する男の子を見て、ああ、やっぱりね。と納得する。
斎藤優雅。市内でも強豪と名高い当校野球部のキャプテンで四番でエース。市内選抜にも当然のように選ばれ、そこでも四番でエースという漫画の主人公みたいなやつ。超高校級ならぬ超中学生級と言われたり言われなかったり?
そんな優雅とは小学生時代は同じソフトボールクラブでプレーした幼馴染みだったりする。
「杏奈、ごめん。大丈夫か?」優雅は自分の番のバッティングが終わると、わざわざ謝りに来てくれた。当たったわけじゃないし、当たりそうだったのは私だからそんな気を遣わなくてもいいんだけど。
大丈夫だよ、の意味で後ろで手をひらひらさせ「ナイスバッティン」と声を掛ける。
「サンキュ、でも当たらなくて良かったとはいえ気を付けないとな。次からは流し打ちの練習に切替えるか」
「下手に打ち方変えるとバッティングフォーム崩れるよ。昔、優雅が私にそう言ったんじゃん。ま、下級生が守ってる時だけ少し気に掛けてあげて」
この優雅に私は頭があがらない。今の私があるのは、優雅のおかげなのだから。
◆
一年の秋、一人で過ごす部活に先が見えなくなった私は部室の私物を片付けていた。もうここに来ることもないと、名残惜しくも去ろうとした時。
部室の扉がノックされ、開けたそこには浅黒い肌に大柄な身体。ヒグマのような見た目の野球部顧問、金子先生が立っていた。
何か用ですか。と訪ねると、先生は「あー、佐々木ぃ、もしよかったら野球部に混じって練習してみないか?」と提案してくれたのだ。
正直その時は嬉しかったというより、何を言い出すんだ、と思ったのが本音だった。けれど私はその問いにイエスと答えていた。
初めて野球部の練習に参加した時、男子に一人混じる気恥ずかしさに私は尻込みしていた。キャッチボールのパートナーを決める際も、自分から誘いに行けずまごつく私に「杏奈」と声を掛け、ボールを投げてくれたのが優雅だった。
「やろうぜ」
「うん、オッケー」
久し振りに受けた優雅のボールは重くて速くて、矢のように向かってくるボールをグローブのポケットでキャッチすると、スパァァン! と気持ちの良い音が鳴った。そのあと手は真っ赤になっていたけど。
テンポよく投げ合い、最後にゆっくりと肩をならすように距離を詰めてキャッチボールが終わる。
目の前まで来たとき「来年さ、新しい一年生が入ってくるかもしれねえじゃん」と優雅は言った。
「でも、流石に八人も入らないよ」
「そんなのわかるかよ。それに再来年だって入るかもしれねえぞ? そしたら三年最後の公式戦だって出られる」
「それは、そうだけど」
野球部の練習に参加したものの、この時の私はソフトボールを辞める決意をしたばかりだった。煮え切らない態度の私に「また、杏奈がソフトボールに打ち込んでる姿が見てぇな」と優雅はぽつりと呟いた。
「え?」
「さぁ! 次の練習行こうぜ!」
優雅は一方的に会話を終わらせたけど、私にはその言葉が心に響いた。
私がソフトボールを続けることを誰も望んでいないと思っていた。たった一人のソフトボール部員の私が、続けようが辞めようが誰にも関係ないことだと。
そっか。少なくとも優雅は、私がソフトボール続けることを喜んでくれるんだ……。
暫くして。すっかり野球部のみんなとも打ち解けて楽しく練習する日々が続いた。
そして二年生へと進級して、新入生に部活動を紹介するイベントが体育館で開催される。
各部活動が練習内容の再現や、試合用ユニフォームを着用して臨場感を演出するなど、各々新入生を迎え入れる為のアピールを全力で行う。
とうとう私の番が来た。唯一のソフトボール部員の私が、全員の注目を浴びる。緊張の中、大きく息を吸い込み「集合!!」の掛け声に「おおぉぉーーー!!!!」というやや太めの声が呼応して、集まったのは野球部員達。
まさかの野球部の登場に館内は困惑と笑い声にざわめき立つ。そんな中、足並みを揃え整然とアップを行うと、決してこれが笑いを狙ったものではないと伝わったのか、館内の空気が変わった。
そして、優雅がキャッチャーミットとマスクを装着し、どっしりと構え、座る。マウンドと見立てた場所にはもちろん私。全力のウィンドミル投法から放ったボールは、優雅のキャッチャーミットに吸い込まれ、ズバアァァァン!! と体育館に木霊するほどの快音を響かせた。
私はマイクを受け取り。
「新入生の皆さん、入学おめでとうございます! えー、見ての通り! 現在ソフトボール部員は私一人しかいません! 入部したらもうレギュラー確定です! 一緒に楽しく白球を追いかけてみませんか? 皆さんが入部される事を心よりお待ちしています! 気をつけ! 礼!」
「ありがとうございましたー!!」
野球部の有志達は最後まで全力で盛り上げてくれた。
そして、まさかまさかの本当に新入生が八人も入ってきてくれたのだ。
ある日、金子先生が数学準備室に一人でいる所を見つけて、私はあの日の感謝を伝えに行った。先生が練習に誘ってくれなければ、ソフトボールへの情熱を取り戻すきっかけは得られなかったのだから。その時に返ってきた言葉。「あ〜、いや、最初に佐々木を練習に参加させるよう打診したのは斎藤なんだ」
「え?」
「だからお礼を言うなら俺じゃなく斎藤に言ってくれ。それにしても佐々木ぃ」先生が厳しい眼差しで私を見据え暫し沈黙する。ややあって表情を緩めると「よく頑張ったな」と感慨深げに頷いた。
胸にじんわりと広がるその言葉に「はい。ありがとうございます」私は深々と頭を下げたのだった。
◆
「んな……杏奈?」
「え!? あ、なに?」
「ぼーっとしてたら危ねえぞ。考え事か?」
「うん、まぁちょっとね」
結局、私は優雅に感謝を伝えられずにいる。野球部のみんなには沢山ありがとうを伝えたけれど、あの日、切っ掛けをくれた日のことを優雅からは一言もないのに、お礼を言うのはおかしい気がして、一年以上もそのままでいる。
少しは恩着せがましく言ってくれれば、ありがとうって言いやすいのに。俺はその件についてはノータッチです。みたいな姿勢貫かれたら、切り出せないじゃん。
「ところで杏奈、お前ポジションピッチャーだろ? なんでいつもライト守ってるんだ?」
「私以外みんな下級生なのに野球部の打球が当たったらかわいそうでしょ」
背中合わせでの会話。口は動かしつつ、お互いに意識は打者へと向けられている。
「やっぱりそうか。何だかんだで優しいんだよな、杏奈は」
「何だかんだって何よ」
「杏奈の事は俺が守るよ」
「ッ!!」
ドキッとした。『打球から』の一言をつけないだけでとんでも発言だ。身を切るように冷たいと感じていた風が頬に涼しい。
それとも、本当にちょっと深い意味だったりするのかな?
ちらりと振り返ると、打者に向かって「バッチこーい!」と声を張り上げている優雅。……この野球バカのこと、意味は単純な方と捉えてよさそう。
だけど、ドキドキが止まらない。頭でわかっていても、今の言葉が別の意味として反芻される。
もう今更かもしれない……けど、気付かないふりしてた自分の気持ちが頭をもたげる。
なんの気なくありがとう、と言うことは簡単にできたはずだ。でも、何かしらの言い訳をつけてそれができないのは、優雅に対して感謝とは別の感情が大きく働いているから。
『ありがとう』だけでは留まらない想いが伝わっちゃいそうな気がするから。
背中に感じる優雅の存在感。大きくて頼もしい、守ってくれる安心感が心地良かった。
言うなら、今かも。
「ねえ優雅」
「なあ杏奈」
二人同時にお互いを呼んだ。私の方はかなり焦った。平静を保つよう努めるのに必死だ。
「な、何?」
「いや、杏奈から先でいいよ」
「何よ。いいから、優雅から言いなよ」
「あ、ああ。…………今日さ、練習終わったら部室で少し待っててくれないか? 話がある」
「うん、わかった」
たっぷり数秒の間を置いてしまったが、何とか応答することができた。
改まって話って、急になんだろう。
その後の練習は正直言って上の空のまま過ぎていった。
部活が終わり、いつもなら下級生が全員帰ったのを確認した後、私も鍵を閉めて下校するのだけど。新入生歓迎用のポスターを描いて、気を紛らわせながら優雅のことを待った。
思い出すなぁ。去年の冬も、こうして新入生歓迎ポスターを描いていたとき、優雅が来て色を塗るの手伝ってくれたっけ。
キレのいい変化球を投げる器用な指先も、右へ左へ打ち分けるバッティング技術も何の役にも立たなくて。壊滅的な絵心の無さで、茶色をベッタリ塗っただけのバットは木の棒にしか見えなかったっけ。
駄目だ。気を紛らわせるつもりが、優雅との思い出が次々浮かんでくる。落ち着かないと。
「ごめん、お待たせ」
「あっ」
少し急いだ様子で、優雅は部室の扉を開けて入ってきた。私が手掛けているものに目を落とすと、目を見開き顔を綻ばせる。
「それ、懐かしいな。ちょうど一年前か。俺が手伝……いや、邪魔したやつ」
はにかみながら言う優雅はやや申し訳なさそうにしながら、私が座る隣の椅子を引っ張り出して腰掛けた。
「邪魔した自覚があるならよろしい」
「上手く塗れると思ったんだけどな」
「自分の画力過信しすぎでしょ。…………それで、話って、なに?」
間をもたせる自信がない。
優雅が来た時点で私の心臓は大きく躍動し、思わず直ぐに本題を促してしまう。
「ああ、話っていうか……その……。あれ? そういえばさっき杏奈も何か言いかけてたような?」
「いやいや! 私のはとりあえずいいから、優雅から言いなって!」
思わぬカウンターをもらいそうになって、私は慌てて押し返す。私の必死の剣幕にたじろいで「お、おう。まあ……今更なんだけどさ」と切り出す優雅。
「ち、ちょっと待って! 何系? 何系の話か教えて!」
「なんだよ何系って、なろう系だよ」
「ふざけないで。その、どうでもいい話とか、大事……な話とかあるでしょ」
「いや、どうでもいい話だったら、わざわざ呼んでまで話そうとしねぇよ」少しまごつきながら、優雅はぶっきらぼうに言った。
…………これってもう、そういう感じの話なのかな? 告白っぽい雰囲気? 告白されたことないからそんな雰囲気わかんないけど。
優雅が体をこっちに向けてるけど、私も向き合うべき? でも、正面向いたらどこを見ればいいの!?
「杏奈、実は、杏奈にずっと伝えたかった事があるんだ」
頭の中の私が右往左往してキャーキャー言っている間に、優雅はかしこまって話しだしていた。
「ありがとう、杏奈」
え? 唐突な一言に私は呆気にとられる。自然と、優雅と向き合えた。
優雅が私にありがとうって、何が?
優雅は自分の右肩に手を当て「小学五年の冬だったよな。俺が右肩壊して、野球を諦めようとしてたとき、杏奈がケツを叩いてくれたの。覚えてるか?」
「え、と、そうだったっけ?」
「なんだよ、忘れてんのか? 俺は、あの時杏奈が言った言葉ちゃんと覚えてるぞ『左で投げればいいじゃん! ほら! 凹んでる暇があったらキャッチボールやるよ! 優雅なら直ぐに今以上のボール投げられるようになるって!』って、無理やりゲーム消されて外に引っ張りだされた」
「ちょっと、やめてよ。恥ずかしいな」
そんなこと、言ったっけ。本当にあまり覚えていない。
ただ覚えているのは、優雅が野球を諦めてしまうのが嫌だったこと。だから、左で投げさせて投げられるようになれば、優雅は野球を続けてくれるんじゃないかって思ったこと。
「あの時は俺、杏奈にすげぇ悪態ついたけど、本当はめちゃくちゃ嬉しくて、帰ったあと一人で泣いたよ。俺が野球を続けることをこんなに望んでくれる人がいるんだって。本当は諦めたくなかった気持ちが、杏奈のおかげで絶対に諦めないに変わったんだ」
初めて聞く優雅の気持ち。私は優雅に感謝されたくてそうしたわけじゃなかったけど、私の行動が優雅のためになっていたんだとわかって、とても嬉しい。
「うん、そっか」自然に笑えた。
「杏奈のおかげで、俺今すっげぇ楽しいんだ。大好きな野球を最高の仲間達とできて、本当に幸せだ」優雅も弾けるような笑顔を見せてくれた。
「ずっと杏奈にこの気持ちを伝えたかったんだけど、杏奈はさ、私は何もしてません。みたいな態度だから言うに言えなくて。恩着せがましい事の一つでも言ってくれれば言いやすかったのに」
あれ? その気持ち、私も全く同じこと思ってた。
「俺さ、杏奈の力になれる事は何でもやりたいと思ってる。困ったことがあれば、俺に相談してくれよ」
「だから、私がひとりぼっちの時、野球部の練習に誘ってくれたの?」
「え? あ、ああ」
「新入生歓迎用のポスターを手伝ってくれたのも?」
「うっ、まぁ、結果的に邪魔しただけだったけど、そうだな」
「新入生歓迎会の時、ソフトボール部として盛り上げてくれたのも?」
「ああ、杏奈がまた楽しそうにソフトボールやってるのを見たかったから、一人でも多く興味を持って貰えたらって必死だった」
なんだか、とっても温かい気持ちだ。優雅も、本当に私のことを想ってくれてたんだ。見返りも何も求めない、ただ私の為だけにやってくれたことなんだね。ふふ、嬉しいな。
「杏奈、本当にありがとう」そう言って、優雅は握手を求めるように手を差し出した。
「え、ちょっとやだよ。私の手、マメだらけで汚いし」
「一生懸命努力する手が汚いわけあるかよ」
優雅は真剣な表情で、私の左手を両手で力強く握った。
内心では凄く嬉しかったし、ドキドキした。まるで喉のすぐ下で心臓が暴れてるみたいだ。
「優雅がそう思ってくれても、私がやだよ。デリカシーないとモテないよ」
「う、そうだよな。ごめん」
「ねえ、優雅……」
「ん?」
「杏奈は俺が守るよって、打球からだけ?」
私、変なこと聞いてる。でも、これだけ言われたら勘違いしてもおかしくないよね? 少しは好いてくれてるって思っちゃうよね?
笑われるかもしれない。緊張しつつ、優雅の顔を上目遣いに見た。
優雅も、緊張した表情を浮かべて口を真一文字に結んでいた。声変わりをしてだいぶ経つ喉仏が嚥下する。
優雅が口を開きかけたその時。
「おーい、まだ残ってるのかぁ? 早く帰れよーって、斎藤?」
「あ、か、監督」
巨大なヒグマが入ってきたのかと思った。
金子先生は優雅がいる事を訝しんだみたいだったけど、特にそこには触れず「先生も今日は予定あるんだからあと五分で帰れよー。愛する妻と娘とバレンタインディナーするんだからなぁ」と言ってさっさと出て行く。
バレンタイン……! そうだ、今日は二月十四日だ。中学生女子ともあろうものが失念していた。
え、でも待って。もしかして優雅は今日がバレンタインデーだとわかってて、この大事な話をしたの? それってつまり。
なんて思ったのも束の間、優雅の表情が今の先生の話を聞いて、あっ! と驚いてた。
何それ! でも、まぁ野球バカだもんね。
改めて優雅が口を開く。
「えっと、俺、杏奈のこと、好きだよ。ライナーからだってゴロからだって、もちろんフライからだって守りたい」
「全部打球じゃん」軽く叩いてやった。ボケまで野球の野球バカっぷり。
「杏奈は? 杏奈こそ、何か話あったんじゃないのか?」
あ、今日がバレンタインと知って勘付いたな? 切っ掛けを得たりと思ってるな? 実際は私も忘れてたから優雅のこと言えないけど。
「私も優雅のことが好きだよ。私も今、大好きなソフトボールを続けられてるのは優雅のおかげって思ってる。ありがと」
優雅の顔に、ぱあッと笑顔が弾けた。
「じゃあ、俺達、付き合」
「付き合わない」
「は?」
笑顔で真逆を言う私に呆ける優雅。私は軽やかに続けてやった。
「だって今って凄く大事な時期じゃない? 春季大会も近いし、その後には最後の大会が控えてる。一日だって無駄にできないもの」
「た、確かに」
後出ししておいてズルいなぁ、と思いつつ「だから付き合うなら、その後かなぁ? その時に両想いのままだったら付き合ってもいいよ」上から物を言ってやった。
「ちぇっ。しっかりしてるよな、杏奈は。じゃあ、チョコレートもなし?」どこか晴れやかな顔つきだ。
「もちろんなし。学校に持ってきちゃ駄目だしね」
そもそも用意してないのに偉そうに言う。全部あと付け。
でもいいんだ。今日はバレンタインデーだったんだもの。この体たらくはバレンタインデーに甘えちゃおう。
ずっと伝えたかったありがとうを伝えられて良かった。
今の優雅があるのは私のおかげって言ってもらえて凄く嬉しかった。
好きって言ってくれて、まだドキドキしてる。
「じゃあ来年のバレンタインデーを楽しみにしてる」
「来年まで好きでいてくれるの?」
「当たり前だろ! むしろ、杏奈こそどうなんだよ」
「女心は変わりやすいからねー」
「あっ! 不安を煽るな!」
「おーい、もう十分経つぞー。早く帰れー」どこか遠慮気味に聞こえる金子先生の催促。
「ヤバ! 杏奈、帰ろうぜ」
「そうだね、先生に謝らなくちゃ」
帰り道、手も繋がないでただ並んで歩いただけだけど、心は繋がってたような、そんな気がした。
最後までお読みくださりありがとうございます。