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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編集『成長』

アイアンメイデン、私

作者: 佐伯 修二郎

 短編小説第三弾です。初の女性主人公の物語を書きました。少し重い内容になっているかもしれませんが、この物語が、誰かの心に少しでも響いてくれたら嬉しいです。

 




 ――第1話『依存』――




 アイアンメイデン――それは中世ヨーロッパで用いられたとされる拷問器具。鉄で作られた棺のような外見をしているが、内側には無数の鋭い針が仕込まれており、一度その中に閉じ込められた者は、微動だにすることができない。身じろぎすれば針が食い込み、出血し、少しずつ命を削られていく――



 私は、まさにこの拷問器具の中にいるような状態だった。もがく程に傷つき、苦しみ、けれども抜け出す術を持たない。


 私の名前は"木下きのした爽香さやか"25歳。都内で事務職をしている、どこにでもいる普通のOLだ。上司からの評価はそこそこ良く、同僚との関係も悪くない。服装やメイクにも気を遣い、それなりに身だしなみを整えている。それなのに、私はいつも人間関係において、重大な欠陥を抱えていた。


 ――私は、人に依存してしまう。


 特に、恋愛においてその傾向が顕著だった。自分から別れを切り出すことができず、ダメ男と分かっていながらズルズルと関係を続け、気づけば貢ぎ体質になっている。そして最終的には、飽きられ、捨てられる。そんなことを何度も繰り返してきた。


 けれど、私は一度も男性と肉体関係を持ったことがない。過去に一度、初めての行為に及ぼうとしたことがあった。しかし、そのとき私は激しい痛みと恐怖に襲われ、身体が強張って拒絶してしまった。それ以来、私はそういう行為に対して強い嫌悪感を抱くようになった。


 ――それでも、愛されたかった。


 だから、私は別の方法で相手に尽くした。相手の言うことは聞いて、金銭的にも尽くし、それで愛を繋ぎ止めようとした。そして、そんな私を受け入れてくれる男は意外にも少なくなかった。ただし、彼らが求めていたのは私の心ではなく、私の金だった。


 ――それを知りながらも、私は彼らに尽くしてしまう。


 精神的に相手に依存する私と、金銭的に私に依存する男。お互いに依存し合う関係。それが心地よいと思ってしまう時点で、私はすでに壊れていたのかもしれない。


 今、私が付き合っている男――"山根やまね清貴きよたか"も、例に漏れずそういう男だった。


 清貴はちゃんと仕事をしている。だが、それらは彼のギャンブル、酒、タバコ代に消えていった。

 生活はほぼ私の金で成り立っていた。清貴は私のマンションに上がり込み、同棲を始めるも、家賃、水道光熱費、食費……ほとんど私が払っていた。それでもパチ屋に入り浸り、負ければ私に「金を貸してくれ」と泣きついてくる。


 時々、申し訳なさそうに「今度返すから」と言うけれど、その「今度」は一度も来たことがない。


 それでも、私は彼を捨てられなかった。


 たまに見せる優しさが、私の心を縛りつける。私が風邪を引いたとき、コンビニでポカリスエットを買ってきてくれたこと。仕事で嫌なことがあったとき「無理すんなよ」と頭を撫でてくれたこと。たったそれだけのことで、私は「彼も本当は優しい人なんだ」と思い込もうとした。


 ――だけど、それは幻想だった



 ***



 ある日、私は仕事帰りに、ふと普段とは違う道を歩いた。特に理由はなかった。ただ、何かに引き寄せられるように、いつもは通らない道を選んだ。


 そして、パチンコ屋の前に差し掛かったときだった。


 清貴が、知らない女と一緒に店に入っていくのを目撃した。


 私の足が、ピタリと止まる。


 清貴は、その女と親しげに話していた。軽く肩を叩いたり、笑い合ったり――まるで、恋人同士のように。


 ――あの女は誰?


 考えたくないのに、頭の中で最悪の想像が渦を巻く。私は過去の記憶を思い出した。以前付き合っていた男が、私以外の女と浮気していたときのこと。私が問い詰めると、彼は逆ギレし、私を罵倒して去っていった。


 ――また、同じことが繰り返されるのか?


 胸がギュッと締め付けられ、息がうまく吸えない。


 私は……どうすればいい?


 その場で駆け寄り、彼に問いただすべきなのか? それとも、このまま見なかったことにするべきなのか?


 答えを出せぬまま、私は何事もなかったかのように踵を返し、帰路についた。


 三時間後、清貴が帰宅した。


 私は、何も言わなかった。清貴の顔をまっすぐに見ることもせず、普段通りの態度を装った。でも、心の中は嵐のようだった。


 ――ただの友達かもしれない


 そう思おうとした。そう思わなければ、私は壊れてしまうから。


 けれど、頭の中では嫌でも想像してしまう。


 ――清貴は、あの女とどこまでの関係なのか?

 ――彼女と身体を重ねたのか?

 ――私の知らないところで、私のお金で贅沢をしていたのか?


 吐き気が込み上げる。喉がひりつき、胸の奥が焼けつくように苦しい。


 清貴の顔がぼやけて見えた。


 ――私は、どうすればよかったのだろう?




 ――第2話『拷問』――




 あの日から、私は毎日の帰り道を変えた。意識的に、あのパチンコ屋の前を通るようになった。


 清貴に浮気を問い詰めることはできなかった。でも、このまま何も知らないふりをして過ごすのも耐えられなかった。だから、偶然を装って彼に出くわすことで、清貴の反応を見たかった。彼が私をどう扱うのか、その態度にすべてを委ねようと思ったのだ。


 ……けれど、そんなことを考えながらも、私は心のどこかで出くわさないことを願っていた。


 ――もし、本当に清貴が浮気をしていたら?

 ――もし、私の目の前で、清貴が他の女と幸せそうにしていたら?


 その現実を突きつけられたとき、私は耐えられるのだろうか。


 そうして何度もパチンコ屋の前を通りながら、私はただ淡々と日々を過ごした。そして二ヶ月が経った。


 ――その日、ついに、その瞬間が訪れた。


 いつものように、私は帰り道を歩いていた。パチンコ屋の明るいネオンが、夕暮れの街を鮮やかに染めている。そこへ、見たくなかった光景が目に飛び込んできた。


 清貴が、知らない女の肩に手を回して歩いていた。


 ――一瞬、息が止まる


 耳鳴りがした。世界が歪んだように感じた。


 彼は、別の誰かの隣で笑っていた。


 心臓を誰かの手で締め上げられたような感覚に陥る。痛い。苦しい。でも、声が出せない。


 そのとき、清貴が私に気づいた。


 彼は一瞬、驚いた表情を浮かべると、慌てて女の肩から手を離し、ぎこちない笑顔を作った。


「こっ、こいつは高校のときの後輩で――」


 しどろもどろに言い訳をしようとする清貴。その横で、女が怪訝な顔をして彼を見た。そして、次の瞬間、女は苛立ったように言い放った。


「はぁ? ふざけんな、誰だよこの女」


 その言葉が、私の心臓に突き刺さる。


 ――誰だよ、この女


 彼女の口から飛び出した言葉が、何よりも現実を突きつける。私は清貴の彼女ではなく、ただの”邪魔者”だったのかもしれない。


 私の唇が小さく震える。涙が目の中に溜まり、喉が詰まって声が出せない。何か言いたいのに、何も言葉が出てこない。ただ、そこに立ち尽くすことしかできなかった。


 そして私は、足を一歩、後ろに引いた。


 次の瞬間、反射的にその場から逃げるように歩き出していた。


 清貴が何か言いかけた気がした。でも、その声は私の耳には届かなかった。


 私はただ、背を向けて、歩いた。


 自分の居場所なんて、最初からなかったかのように。


 私は、家のソファに座っていた。


 何も考えられなかった。


 何も感じたくなかった。


 ただ、放心したまま時間が過ぎるのを待っていた。


 そして、ドアが開く音がした。


 30分程して、清貴が帰ってきた。


 私は、何も言わなかった。


 彼を見ようともしなかった。


 まるで何もなかったかのように、普段通りの態度を取った。だけど、頭の中ではさっきの光景がフラッシュバックし続けていた。


 ――清貴が女の肩に手を回していたこと。

 ――女が「誰だよ、この女」と言ったこと。

 ――清貴の言い訳が、嘘だったこと。


 吐き気がする。喉の奥がヒリヒリする。


 ――それでも私は、清貴と離れられない。


 裏切られても、傷つけられても、見捨てられることの方が怖かった。

 振られるくらいなら、私はこのまま傷ついていたほうがいい。

 そう思ってしまう自分が、心の底から嫌いだった。


 そのとき、清貴が私に近づいてきた。


 そして突然、強く抱きしめられた。


「魔が差したんだ……。あれは本当に、ただの遊びだったんだ……」


 彼の声が震えている。


「俺にはお前しかいない。お願いだから、捨てないでくれ」


 ――捨てないでくれ。


 その言葉に、私は何も答えられなかった。


 嘘だと分かっていた。清貴はただ、都合のいい女を手放したくないだけだ。あの女とも同じことを言っているかもしれない。今までだって、私は何人もの男に騙されてきた。


 それなのに。


 それなのに、彼の腕の中は、心地よかった。


「……っ」


 息を詰めた私の髪に、清貴の唇が触れる。


「……大丈夫。お前だけだよ」


 優しく、囁くように言われた。


 その瞬間、私はその言葉にすがりつくように、彼の背中に手を回してしまった。


「……うん」


 まるでアイアンメイデンの扉を、自分で閉じてしまうかのように。


 そしてまた、私はこの中に戻ってきてしまった。




 ――第3話『決断』――




 あれから半年が経ったが、清貴との生活は何も変わらなかった。


 清貴は相変わらずだった。仕事、パチンコ、そして私の作った夕飯。何も変わらない。私が風呂に入り、洗った服を着る。……まるで、私が彼を生かすために存在しているみたいに。


 ただ、一つだけ変わったことがある。

 私はもう、彼の浮気を知っても何も言わなくなった。


 知っている。でも、知らないふりをする。それが、私の精神を安定させる唯一の方法だった。


 そしてあの日も、そんな”いつも通り”の生活が続いていた。


 清貴は、何の前触れもなく言った。


「実家に五日ほど帰るわ」

「実家?」


 私は反射的に聞き返した。


「急にどうしたの?」

「ちょっと親の様子見に行こうと思ってな」


 彼は曖昧に笑いながら、適当な理由を並べた。


 ……嘘だ。


 彼が実家に帰るなんて、今まで一度もなかった。少なくとも、私と一緒にいるこの数年間では。


「それでさ、新幹線代と実家にお土産買っていきたいから……十万、貸してくんね?」


 ――十万。


 私はすぐには答えられなかった。


 もう、彼に貸したお金は二百万円を超えていた。だけど、それは「貸した」のではなく、「あげた」も同然だった。清貴が返す気のないことなんて、とっくに分かっていたから。


 それでも私は、財布から十万円を取り出した。


 理由は、彼のスマホの画面に映った一通のメッセージだった。


 ――「旅行楽しみだね」


 送信者の名前は、見たことのない女の名前だった。


 ……知っていた。


 最初から、分かっていた。


 清貴の「実家」は嘘。彼は、浮気相手と旅行に行くのだ。


 それでも、私は何も言わなかった。

 何も知らないふりをして、十万円を差し出した。


「……ありがとう」


 清貴は軽く笑って、私から金を受け取った。


 私はただ、彼にバレないように、静かに泣くのを我慢した。


 ――これでいい。何も言わないことで、私は自分を守れる。


 そう、自分に言い聞かせながら。



 ***



 その翌日、会社の同僚"真中まなか美穂みほ"から、グループ会社との合同飲み会に誘われた。


「たまには息抜きしようよ」


 そう言われて、私は少し迷った。でも、その日は清貴が「実家」に行く日だった。どうせ一人で家にいたら、また考えてしまう。


 ――だったら、少しでも気を紛らわせたほうがいい


 私は、その誘いを受けることにした。


 そして、その日が訪れた。


 仕事を終え、待ち合わせの場所へ向かう。飲み会の会場に入ると、和やかな雰囲気が広がっていた。


 私はそこまで社交的なタイプではなかったけれど、美穂たち同僚が気を使ってくれたおかげで、なんとかその場に馴染むことができた。


 そんな中で、グループ会社の男性――"吉永よしなが竜也たつや"さんが、私に声をかけてきた。


「木下さんですよね? 初めまして」


 彼は私より二つ年上で、若くして部長を務めるやり手だった。落ち着いた話し方で、仕事の話はあまりせず、私が話しやすい話題を自然な流れで振ってくれた。その気遣いが、今の私には心地よかった。


「普段、お酒はよく飲まれるんですか?」


 吉永さんの問いに、私は小さく笑って答えた。


「いえ……あまり。強くないので」

「そうなんですね。じゃあ、無理しないようにしましょう」


 そう言って、吉永さんは店員に「この人には飲みやすいカクテルを」と注文してくれた。


 些細な気遣い。それだけのことなのに、私はどこか胸が温かくなるのを感じた。


 私は次第に緊張がほぐれていき、吉永さんとの会話を楽しんでいる自分に気づいた。


 ――でも


 そんな心の軽さを、すぐに打ち消す思考が浮かぶ。


 こんな素敵な人が、私に興味なんて持たないだろうし、もし持ったとしたら、私という人間ではなく、私の持っているものが目当てなのではないか。これまでの男達がそうだったように――


 そう考え始めると、会話の内容が耳に入らなくなった。胸の奥に冷たいものが広がり、手が震えそうになる。


 ――ダメだ、まただ


 何もかもが溢れ出しそうになり、私は堪えきれずに目頭を押さえた。


 そして――涙が零れた


 吉永さんは驚き、すぐに私の前に身を乗り出した。


「木下さん、大丈夫ですか? もし、仕事のことで何かあるのなら、話してもらいたいんだけど」


 私は慌てて首を振る。でも、涙は止まらなかった。


 こんな場所で、泣きたくなかった。


「……ごめんなさい、ちょっと……外に出てもいいですか」


「じゃあ、少し外の空気を吸いに行きましょう」


 吉永さんはそう言い、私が立ち上がると、周囲の視線を気にするようにさりげなく私の後ろを歩いてくれた。


 店の外に出ると、夜の風が頬を撫でる。少し歩いた先に、小さな公園があった。


 私は静かにブランコに腰を下ろし、深呼吸する。


「落ち着きました?」


「……はい。すみません、急に」


 吉永さんは、ブランコの隣の柵に寄りかかりながら、優しく微笑んだ。


「話してくれますか?」


 私は一瞬、迷った。でも、話したいという気持ちのほうが強かった。


 清貴には決して言えなかったこと、誰にも言えなかったこと。


 ――私は、ここ最近の出来事をすべて話した


 話していると、自分がどれほど酷い環境にいたのか、改めて実感した。


 清貴の浮気、金銭的な依存、離れられない自分……。


 全て話し終えると、吉永さんは少し考えてから、静かに言った。


「それは、大変だったね」


「……でも、僕の意見を言うことはしないよ」


 その言葉に、私は戸惑った。


「どうして……ですか?」


「だって、それは木下さん自身が決めることだから」


 吉永さんは、真剣な目で私を見つめた。


「ただね、君がどう決断しても、僕は君を応援するし、君の人生が良い方向に進むことを願ってるよ」


 ――その言葉は、私の心の深い部分に届いた。


 “あなたの人生は、あなたが決めるべきものだ”


 "誰かに決めてもらうのではなく、自分自身で考えて、選ばなければならない"


 そう言われているようだった。


 今までの私は、いつも相手に決断を委ねていた。自分で考えることを放棄して、流されるままだった。


 ――でも、それでは何も変わらない


 このままでは、ずっと私は同じ場所で立ち尽くすだけだ。


 吉永さんの言葉が、私の胸の奥で確かな”気づき”となった。


 ――変わらなくてはいけない


 このままでは、私は一生、自分を失ったままだ。


 私は、小さく息を吸って、微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 吉永さんは、ただ静かに頷いた。




 ――最終話『審判』――




 あれから数日が過ぎ、清貴の帰宅の日がやってきた。

 だが、もう私は彼を迎えるつもりはなかった。


 ―― 私は、すべてを終わらせる。


 あの飲み会の翌日、私はすぐに不動産屋に足を運び、部屋の解約手続きを済ませた。新しい住居を見つけ、引越し業者の手配も終わらせていた。清貴の荷物はすべてまとめ、ゴミ袋に詰めて玄関の前に出した。彼の名前を書いた紙を添えて。


 ―― もう、あの生活には戻らない


 自ら閉じ籠ったアイアンメイデン。棘が刺さるのは分かっていたのに、そこから出ることもできず、ただ傷つき続けた日々。


 その扉をこじ開け、変わらなくてはいけない。

 自らの人生を、取り戻す為に――


 そんな決意を胸に、私は静かに待っていた。

 以前のような不安や焦燥感は消えていた。代わりにあったのは、冷静さと確信。


 これでいい。


 これで、終わりだ。


 それでも、私の手足は震えていた


 恐怖ではない。長年の鎖を断ち切るための最後の一歩に、緊張しているだけだ。


 それでも、もう逃げるわけにはいかない。

 私は彼に最後の言葉を伝えるつもりだった。それが、私にとっての一番大事な決断だったから。


 しばらくして、清貴がマンションに帰ってきた。


 私はマンションの近くで、静かに息をひそめていた。

 数分後、彼から電話がかかってきた。表示された名前を見ても、もう心は揺れなかった。

 それでも震える手を、なんとか抑えながら私は電話に出た。


「どういうことだよ!」


 清貴の怒鳴り声が、夜の空気を裂くように響いた。


 私は、ゆっくりと深呼吸をした。

 声が震えないように、慎重に言葉を選ぶ。


「……浮気していたこと、知ってるよ」


 その言葉を聞いた瞬間、彼の声が止まった。

 だが、私は構わず続ける。


「実家じゃなくて、浮気相手と旅行に行ってたんでしょ?」


 電話の向こうで、清貴が何かを言おうとした気配がした。

 焦ったような、慌てた声。


「ちっ、違うんだ、説明させてくれ……!」


 その必死さが、かえって滑稽だった。もう、私は何も聞くつもりはない。


「もう遅いよ」


 静かに、でもはっきりと私は言った。


「あなたが何を言おうと、私はあなたとの関係を終わらせる」


 沈黙が流れた。


 清貴は、しばらく息を呑むような音を立てた後、震える声で言った。


「……どこにいる?」


 最後のチャンスだと思っているのだろう。


 私は、一度だけ目を閉じ、深呼吸した。

 そして、落ち着いた声で答えた。


「マンションの近くにいる」


 私がそう言うと、彼はすぐにマンションから飛び出してきた。


 私はマンションの影から静かに彼を見つめた。

 走ってくる彼の姿が、まるで哀れな子どものように見えた。


「待ってくれ、頼む、お願いだ……!」


 清貴は、私の目の前で足を止め、息を切らしながら叫んだ。

 そして突然、地面に膝をついた。


 土下座だった。


「何もかも俺が悪かった……! でも、お前がいないとダメなんだ……!」


 清貴の肩が、小刻みに震えていた。


「もう一度だけ、チャンスをくれ……」


 懇願するような声。

 だが、それを聞いた瞬間、私の中で何かが完全に壊れた。


 今まで感じていた罪悪感、不安、彼への依存――


 全部、なくなっていた。


 清貴の言葉が、もはや私には届かないことを実感した。

 気がつくと、体の震えはすでに止まっていた。


 ――もし、以前の私だったら?


 きっと、許していたのかもしれない。

 彼を受け入れて、また同じことを繰り返していたのかもしれない。


 でも、もう違う。

 私は、変わったのだから。


 これ以上、何もかもを犠牲にして生きるわけにはいかない。

 これからの人生は、自ら選択した道を進む。


 私は、目の前の男を一瞥し、冷たく言い放った。



「判決、死刑」



 清貴が、驚いたように顔を上げる。


 その表情が歪んでいくのを見ながら、私は静かに踵を返した。


 もう振り返るつもりはない。


 ――これが、私の審判だ。


 そして、私の新しい人生の始まりだった。




 ――エピローグ『自由』――




 その後、私は新しい生活を始め、少しずつ自分を取り戻していった。

 仕事も順調に進み、心も体も軽くなったように感じる。


 自由とは、こんなにも心地よいものだったのか。


 新しい住居には、もうあの男の痕跡は何一つない。それだけで、驚くほど部屋が広く感じた。

 今まであんなに狭苦しく息苦しく感じていた空間が、まるで別世界のようだった。


 一人でいることが、こんなにも安らぐものだとは思わなかった。

 以前の私は、「寂しさ」を恐れていたのかもしれない。

 でも今は違う。自分の時間を、自分のために使えることが、何よりの幸せだった。


 ――きっとあの部屋は、私にとってのアイアンメイデンだったのだろう。


 そして、あれから数週間が過ぎたある日。


 仕事を終え、いつものように部屋でくつろいでいるときだった。スマホが軽く振動し、メッセージの通知が表示された。



 ――吉永竜也



 一瞬、動きが止まる。

 画面を開くと、短いメッセージがそこにあった。


 ――


 差出人:吉永竜也

 件名:お久しぶりです


 お久しぶりです。吉永です。

 真中さんから『木下さんが最近とても元気』だと聞きました。

 心配してたので、良い方向に進めたのならよかったです。

 それだけ伝えたくて。失礼しました。


 ――


 その文字を目で追いながら、私は思わず微笑んでしまった。


 たったそれだけのメッセージ。

 だけど、なぜか胸がじんわりと温かくなった。


 私は変わった。


 もう、あの頃の私ではない。

 誰かに依存することも、怯えることもない。

 それでも、こうして私を気にかけてくれる人がいることが、少しだけ嬉しかった。


 スマホを握りしめながら、私はそっと返信を打ち始めた。


 ――


 差出人:木下爽香

 件名:Re:お久しぶりです


 お久しぶりです。ご心配ありがとうございます。

 おかげさまで、最近はとても元気に過ごしています。

 吉永さんもお忙しいと思いますが、どうかご自愛くださいね」


 ――


 送信ボタンを押し、ふっと息をつく。


 スマホを置き、窓の外を見上げた。夜空には、月が静かに輝いていた。



 ――人生はこれからだ。



 私は、そっと微笑んだ。


 おわり。





お読みいただきありがとうございました。 もし楽しんでいただけましたら、ブックマークや感想、レビューをいただけると励みになります。

連載中の『30歳無職だった俺、いきなり女性VTuberになる。』も読んでいただけたら嬉しいです。

よろしくお願いいたします。

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