邂逅:???の席と亥の席
真っ白な何も無い空間の中、誰かが座っていた。
床につくほど長い白髪が俺の足元にまで伸びていて、その髪の上を光の粒が星屑のように煌めいている。その女の子は、細くて白い手で顔を覆い、声をしゃくり上げて泣いていた。
「あの」
〝どうして、泣いてるんですか〟
乾いた声が、零れ落ちる。
話しかけないと駄目だと思った。今すぐ話しかけないと、この子にはもう二度と会えないような気がして─なんて、初めて会う人にこんなことを思うのも不思議だけど。音がただ舌の上を滑るような、下手くそな声な出し方で訊いた俺の言葉に、その人は白い両手を退けると。そっと、その小さな顔を上げた。
「また、来てくれたんだね」
〝ごめんね〟
目が醒める程に透き通った紫苑の瞳に、息を呑む。
羊のように捻れたその両角と、何処か寂しげな優しい瞳。俺は知っている。
生まれる前から、この人のことを。
この人の、名前は
〝ピピピ、ピピピ─〟
「…夢、か」
夢にしては、やけにリアルな夢だった。そう思いながら、手を伸ばして鳴り続けるアラームを止める。
まあ、この数日だけで色々とあったからな。
「ナイトメア討伐部隊」という名目の元置かれた、政府公認特別精鋭組織─その名も、十二使。
突然政府からその十二使への推薦状が俺宛に届けられて、数日かけて遥か遠くのこの地まで来たら〝そんな事実はない〟と門前払い。拍子抜けした先で遭遇したナイトメアから守った女の子がそれはそれは可愛くて、一目惚れしたその子は実は十二使の現役隊員で。なんとまあそこまでを含めて全部入隊試験だったわけで、まんまとそれに嵌った俺は見事そのまま十二使に入隊。かと思えば急にナイトメアと戦うことになったり、昨日だけで四人ぐらい新しい人と知り合ったり。結局あの後改良の為にと武器をリザルガさんに預けることになり、代わりに渡された双剣は、未だ俺の部屋の壁に立てかけてある。
着替えた後、ズボンの上からベルトを装着して、貰った双剣を腰元に差し込んだ。急に変わって扱えるのかと不安にはなったが、この双剣は軽いし、何より、不思議なほど俺の手に馴染む。流石は十二使専属使用人唯一の武器開発班。そんな事を思いながら、部屋の扉を開けた。
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「ふぁあ…」
欠伸をしながら、長い階段を下っていく。前に居たような屋敷には慣れているが、こうした洋式めいた内装には未だに慣れない。廊下に並べられた絵画や花瓶にまで、つい視線が行ってしまう。昨日案内をしてもらった通りに移動をすれば、突き当たりに大きな扉が見えてきた。扉を開ければ、鼻腔をくすぐるスープの匂いと、長い金髪をひとつに結んだ女性の姿が見えた。
「ん?嗚呼、君が狛か」
「あ、は、はい!」
「丁度良かった。君の分もよそうから、配膳は任せてもいいか?」
「勿論です。え、えっと…」
「私はイノ。十二使の亥の席のイノだ」
「い、イノさん」
イノ、その名は屋敷に居た時にも聞いたことがある。今年十九歳という若さで入隊した、十二使の新星。獣人族の村里育ちであるその実力はシグラにも引けを取らず、魔道具を交えたその戦闘力は十二使の中でもトップクラスだと言われている。
〝すまない、申し遅れた〟
目尻に差し色として入れられた朱色の紅がよく映える、髪と同じ金色の睫毛とその瞳。クールな口調とは裏腹に、やんわりとその目が細められ、その顔の綺麗さが更に際立つ。
〝よ、よろしくお願いします〟
そう言って、渡された食器を受け取った。
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「う、美味…」
「はは、それは良かった」
「料理って、いつもイノさんが作られているんですか?」
「使用人が作る時もあるが、まあ特に決まってはいないな」
へえ、使用人。と、狛は心の中で呟いた。自分が知っているのはリザルガしか居ないが、きっと他にも居るのだろう。聞いた話に拠れば、十二使だけでは補えない箇所を補佐する外部提携の協力者、という位置づけらしいが。メンバーを知らないままでは、一隊員として情けない。まあ焦らず、ゆっくりと馴染んでいこう。そう思いながら、スプーンに掬ったポトフをまた一口食べた。
「私の故郷は人が少ない村里でな。昔から自分で作ることが多かったんだ」
そうイノが言った途端、狛は目を丸くした。会った時からずっと感じていた違和感、それはきっと。
〝あの〟と口を開いた狛に、イノは顔を上げた。
「イノさんって、シグラさんと同じ獣人なんですか」
そう言い終わる前に、狛はその言葉を後悔した。イノの金色の瞳が、まるで真夜中に浮かぶ月のように不気味に光る。その殺気に、ごくりと唾を飲んだ。
「私の前で、寅野郎の名は出さないでくれないか」
「す、すみません…!」
と、寅野郎というのは、シグラさんの事だろうか。先程までとは打って変わり、氷のように張り詰めたその空気に狛は反射的に頭を下げた。どうする、どうするこの空気。そう思っていたその時、食堂の扉がガチャッと開かれた。
「おっはようございまーす!」
「ね、音子さん!お、おはようございます!」
「おはようございます、音子さん」
「狛くんもイノちゃんも早いですね、偉い!…って、わー!今日もしかしてイノちゃんのポトフですか!?美味しそう!」
音子はそう明るい声で言うと、イノと狛の間に入り込んだ。音子が入ってきた途端、張り詰めていた氷が溶けたように和らいでいくその場の空気に、狛は音子に心から感謝した。音子さん、まじで救世主。まじでありがとうございます。音子の声を聞いたイノは、どこか柔らかな表情で、嬉しそうにこう口を開いた。
「音子さんがこの間美味しいと言ってくださった味付けにしてみました。ですが…すみません、そろそろ時間が」
「あ、そっか!イノちゃん確かこの後任務ですもんね」
「そうなんです。メインディッシュは保温してあるので、音子さんのお好きなタイミングで。では、私はこれで」
そう言ってイノは椅子に掛けていた外套を手に取ると、扉のある方向へと歩きだし、狛の背後を通りかかった。
〝失礼なことをしたな、すまなかった〟
通り過ぎるその時、微かな声量でそう告げられたその言葉に、えっと声が溢れた。パタンと閉じられたその扉を見つめていれば、隣に座る音子から不意に声をかけられた。
「狛く〜ん、もしかしてイノちゃんの前でシグラさんの名前出しちゃいました?」
「あ、…は、はい。お二人って、あの、仲悪いんですか?」
「あれは逆ですね〜、喧嘩するほど何とやらってやつだと思います。まあ、人それぞれ深入りして欲しくない所もありますので」
「…ですね、以後気をつけます」
「あはは、音子はなんでも大丈夫ですので。何か聞きたいことがあったらいつでも聞いてくださいね」
そう返してくれる音子の明るい笑顔に、曇りかけていた心が照らされるような気がした。〝ご馳走様でした〟と手を合わせて言った音子の声につられて、狛もその手を合わせた。
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「お、もう出かける準備は出来てるみたいですね」
「準備をしてから集合と言われていたので、一応」
「わー、本当に偉い…感心しちゃいますね〜偉い偉い」
「ちょ、あの、撫でないでください!」
「ふふ、すみませんつい。…今日これから向かうのは、隣国のエルブダムール王国です」
「え、エルブダムール…!?」
聞こえたその名前に、思わず階段から転げ落ちそうになった。エルブダムール王国なんて、世界で唯一現存する王朝国家だ。つまり、この世で唯一の〝王族〟が残る国。…噂によれば、その王族に生まれた女帝は、代々予知能力を持つ巫女としての才を持つとも云われている。
…率直に思っている事を言えば、めちゃめちゃにかっこいい。
「かっちょい〜って思ってそうな顔してますねえ」
「ウッ」
〝ふふ、いいんですよ。素直な反応なんてうちの人たち誰もしませんから、可愛くて音子は好きですよ〟
そう言ってニコニコ笑う音子の姿を見て、さらに顔に熱が集まる。子供みたいと思われただろうか。とにかく、恥ずかしすぎる。
「…あれ、でも最初に挨拶するなら、政府じゃなくていいんですか」
「十二使として就任したら、エルブダムール王国へのご挨拶は必須なんです。─本来なら政府の方が先と考えると思いますが、上のお偉いさんも忙しそうで」
〝さて、この階段の下にまた影を展開してもらっています。そこを通って、王国に行きましょう〟
そっと目を伏せて答えた音子を見て、狛は何かを感じ取った。政府の話をした途端に、ほんの少し影がかかった音子の纏う空気を、普通なら何も気が付かないであろうその微量な変化を、狛の第六感は見逃さない。彼がまだ見ぬ政府の裏には、きっと何かが渦巻いている。そんな予感を感じながら、〝わかりました〟と狛は呟いた。