02
見物人がいなくなった後、近くの木箱に座っていたディランはようやく立ち上がった。
帰路を急ぐ彼らの波に、逆らってまで帰る力は残っていない。落ち着くのを待つ他はなかった。
閑散とした広場には、今も氷塊が宙をただよっている。凍る前も不思議だったが、どうして浮いたまま落ちないのだろうか。
風魔法の使い手が、頑張っているのかもしれない。ディランには分からなかった。
「マルベリー・ハジェット……」
頭脳明晰、容姿端麗。
有名な貴族の令嬢で、聖なる乙女。
何故、彼女は、聖女を殺害したのだろう。
「そのガントレット……お前、ディランか?」
寄る足音と聞いたことのある声に、ディランは我に返った。
「……レック」
「何故そんな平民のような服を……お前、酒臭いな」
ぼんやりと見上げた先に、2人の男がいる。1人は知り合い、もう1人は知らない顔だ。
しかし、その瞳にディランは飛びはねる。
「……失礼しました。いらっしゃるとは存じ上げませんでした。ご無礼を」
ガントレットを地面に置き、最敬礼する。慌てて頭を下げるディランを、男は片手で制した。
「継承権は放棄している。姓は母方の物だ」
「……ディラン・ベルメリオと申します」
「アーヴィン・キュアノスだ」
「あなたが、……」
最敬礼のまま、ディランは男を見る。男--アーヴィン・キュアノスは、藍銀の目を瞬かせた。
「ベルメリオの者か。平民の格好をしているのは?」
「お恥ずかしながら、昨夜は飲み過ぎて記憶をなくしました」
「お前なぁ……」
レックが呆れて笑う。
「記憶をなくす程、飲みたかったんだ。昨日は」
「何故」
「……今日が、処刑の日だったからです」
「……ディラン……」
しまった、というようにレックの顔が歪んだ。申し訳ないが、それに答える元気は今のディランにはない。
「……ハジェットの知り合いか」
「間接的には」
「では、縁者が?」
「はい」
ごめんとレックが、唇を動かしている。それに首を振って答え、ディランは立ち上がった。
「氷魔法以外にも、少しだけ覚えがある。……看るか?」
アーヴィンからの提案に、心が震える。
「ご配慮、ありがたく思いますが、お気持ちだけいただきます。…………死にました」
言葉にした途端、ぶわりと涙があふれ出た。世界がぐらぐらと揺れ、耳鳴りがする。
たまらず、ディランは咆哮した。
「昨日、死にました! 俺の、おれの、腕の中で……婚約者でした。……死にました……ッ!」
「……嘘、だろ……?」
「嘘じゃない。もう、いないんだ……死んだんだ……」
下半身から、力が抜ける。どしゃりと崩れ落ち、地面に手をついた。
「……リルベリー……」
春が来れば、結婚する予定であった。
不器用で口下手。小さい頃から共にいる女性でさえ満足にエスコート出来ないディランを、笑いながら包み込むように慈しんでくれた幼なじみ。
リルベリー・ハジェット。
学園の教師で、悪役令嬢マルベリーの姉。
あの日、生徒を守って瀕死の傷を負い、一月意識の戻らぬまま逝った。
幸せにするつもりだった。向けられる笑顔を、ずっとずっと大切に守るつもりだった。
「私、あなたの事が、好きよ」
まだ、その言葉に、答えは返せていない。
「……恨んでいるか」
静かに問う声が、泣きじゃくるディランの耳に届いた。頬を滑る雫はそのままに、ディランはアーヴィンを見上げる。
「……分かりません」
ディランは正直に答えた。
「復讐を考える程、恨むには……俺は、彼女を……マルベリーのことを、知りすぎています。生まれてすぐ教会に連れていかれたとはいえ、幼なじみの、妹ですから……」
「……では、私を恨むか?」
「いいえ。我々人間の力では、水牢をどうにかすることは、困難なのでしょう。ならば、彼女を、よろしくお願いします」
辺境のクリュスタで、マルベリーは永遠に封じられる。アーヴィンの意思で氷魔法を解くか、氷魔法において最強と言わしめる彼を越えるほどの者が現れるか。
例えアーヴィンが死んだとしても、その死後も彼の魔法は解けずに続くだろう。それ程、彼の氷魔法は異質であった。
「マルベリーは妖精王の加護を受けることも、生まれ変わることもできないでしょう。……あなたと、聖女の妖精殿がお許しになるまで、どうかお守りください」
「おまえは、それで良いのか?」
「はい。俺は……たった一人の好きな女さえ、守れなかった弱い男ですから」
悪役令嬢の断罪の日から、季節が一つ変わった。
静謐な雰囲気が漂う朝の薄い光の中、ディランは洞窟へと急ぐ。吐く息は白く、木々の隙間から抜ける風は冷たいを通り越して凶器のように肌を刺した。
「ディラン・ベルメリオ。クリュスタに来ないか」
あの日、全てを出しきるように泣ききったディランを、クリュスタの城に住むアーヴィンは誘った。
有無を言わせぬ強い藍銀の光に、呆然と頷いたことは覚えている。正直、失うものを無くしたディランにとっては、道を示してくれることがありがたかった。
今、ディランはマルベリーが眠るクリュスタの穴を守る、騎士をしている。アーヴィンから命じられた、唯一の騎士だ。
毎朝クリュスタの城から洞窟へ通い、穴からマルベリーの様子を見る。異変がないことを確認し、魔石装具でアーヴィンに報告をすれば完了だ。
後は気の済むまで洞窟にいても良いし、城に戻り好きに過ごす。
仕事そのものに、不平不満はない。王都の喧騒から離れ、自然の多いクリュスタにもなれてきた。
馴染みの酒場やレック達に会い辛くなったのは残念だが、魔石装具での通信等交流は続いている。王都や国内のニュースや流行りも、手に入れることはできた。
眼下の、氷の塊を見つめる。今日も変わらず、その中心には少女が眠り続けていた。
氷の下の水牢は、水面こそ揺蕩うが中の時は止まっているという。魔法とは似て非なる妖精の力に、誰もが感心した。水魔法の最たる使い手であるキュアノス本家でも、解くことは不可能だと匙を投げたのは記憶に新しい。
ゆらゆらと漂う少女の髪は、燃えるように赤い。
「……リルベリー…………リル」
ディランの婚約者であった幼なじみも、同じ色彩をしていた。
「……愛しているよ」
ぽつりと、愛おしそうに。ディランは、今日も同じ言葉を唇にのせた。