第4話 夕食
そこには0が幾つも並んでおり、恐ろしい桁数が表示されていたのだ。
冷静になって桁数を確認すると、預金残高は一億円。
「これは私の預金口座なのか?」
「元の姿に戻せない慰謝料だと思って受け取れ」
「いやいや、『普通に、はいそうですか』って受け取れる金額じゃないぞ」
こんな大金を簡単に差し上げますと言われて、額面通り信じる人間はどうかしている。
営業で培った経験上、営業を装って言葉巧みに人を騙す詐欺師もいる。
運命の女神を自称する怪しい女だとは思っていたが、このキャスティルもそんな連中と変わらないのではないか。
最悪の場合、私や香苗ちゃんに犯罪の片棒を担がせるつもりかもしれない。
「私達を騙して、何か犯罪に手を染めさせようとしているんじゃないのか」
「はぁ、疑り深い奴だな。別に嫌なら使わなくてもいいが、どうするかはお前さんの自由だ」
呆れた口調でキャスティルは車を停車させると、そこは自宅のマンションだった。
「さあ、着いたぞ」
キャスティルは車から降りると、私達を降ろして空室だった隣の部屋の前に立って鍵を開けようとする。
「あんた、わざわざそこの部屋を借りたのか?」
「買ったんだよ。一応、お前達の保護者も兼ねて、しばらくここで暮らすことにする」
マンションの一室を買ったのかと私の驚きを無視して、キャスティルはそのまま部屋の中に入って消えていった。
一つだけ判明したのは、出処の怪しい金持ちで運命の女神を自称する怪しい女ってことだ。
(どうしたもんか……)
警察に連絡しようにも、今の私や香苗ちゃんの素性について説明するのは難しい。
当面の目標は元の姿に戻って、いつもの生活を取り戻すことだ。
(いつものか……)
目標を達成したら上司から怒声を浴びせられて、安月給だったあの日に戻ることを意味する。
私だけなら我慢もできるが、香苗ちゃんにまた苦労をかけることはさせたくない。
それなら、スマホで確認した預金を香苗ちゃんのために使ってあげれば――。
「圭吾君、外は寒いし私達も入ろうか」
「ああ……そうだね」
深く考えても仕方ないので、遠慮がちな香苗ちゃんと共に自分達の部屋に入る。
照明をつけてみると、部屋はとくに何も変化はない。
私達の姿を変えられて、部屋も荒らされているのではと警戒はしたが、盗られている物とかもなさそうだ。
「お腹空いちゃったね。何か簡単な物を作るから、圭吾君はソファーでくつろいでいてね」
香苗ちゃんは制服の上からエプロンを付けると、台所で夕食の支度を始める。
「私も何か手伝うよ。香苗ちゃんもこんなことになって色々と疲れているだろ」
「あ……ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えて食器棚から大皿をテーブルに並べてくれるかな?」
「ああ、お安い御用さ」
こんなやり取りは何年ぶりだろうか。
結婚前は料理を一緒に作ったり、食卓を囲んで楽しい時間を過ごしたものだ。
それが結婚後になると朝は起きたらそのまま会社へ行き帰りも遅く、たまの休日は死んだように眠っていたので食事を一緒に囲む機会は殆どなかった。
我ながら、こんな私に愛想を尽かすに今まで支えてくれたのは感謝しかない。
お隣の女神様にも夕食のお裾分けということで、タッパーを用意して彼女にも届けた。
大皿には野菜炒めが盛られ、茶碗には白いご飯とみそ汁がテーブルに並べられると、二人は向かい合って夕食に舌鼓を打つ。
「味はどうかな? 圭吾君の好みな味付けにしてみたんだけど」
「うん。とっても美味しいし、塩加減も私好みだよ」
「ふふっ、圭吾君にそう言ってもらえると嬉しいな」
香苗ちゃんは料理を褒められると、はにかむような笑顔を向けてくれた。
まるで新婚生活に戻ったみたいだ。
こんな時間がずっと続けばと思いが募り、私は意を決して香苗ちゃんに提案を持ち掛ける。
「香苗ちゃん、どこか行きたいところとかあるかな? ほら、ここ数年はどこにも旅行とか行ってなかっただろ」
どうせ、元の姿に戻れば働き詰めの毎日に追われるのだ。
この機に乗じて、どこか旅行へ出かけて二人だけの時間を作るのもいいかもしれないと思ったのだ。
「私は……圭吾君が行きたいところならどこでもいいよ」
私に遠慮しているのか、香苗ちゃんは私に同調するような姿勢を示す。
それでは意味がない。
香苗ちゃんが望むようなところへ連れて行って、彼女を満足させてあげたい。
傲慢かもしれないが、私なりの贖罪の気持ちをどうか理解してほしい。
私の真剣な眼差しに、香苗ちゃんは少々考え込んで答えてくれた。
「私と圭吾君が初めて出会ったあの公園に行きたいな」
それは大学時代に私と香苗ちゃんを結び付けた思い出の場所。
当時の懐かしい記憶が蘇ると、若かりし頃の私と香苗ちゃんが目に浮かんでくる。
旅行先としてメジャーな場所は幾つもあるが、敢えてそこを選んだ香苗ちゃんの意見を尊重して行き先は決まった。
「わかった、今度の週末に行ってみようか」
「わぁ、楽しみが一つ増えて嬉しいな」
勇気を振り絞って提案してよかった。
楽しい旅行になることを祈りつつ、しばらく他愛ない談笑を続けた。