無性に殴られたい日(人力版)
「そこ行くアンタ、オレの頭を、この金槌で殴ってくれないか。ぜったいに横から、そして耳よりも高い位置でな。頼むよ。」
待ち伏せでもしていたのか、私の姿を認めるなり側まで近づき、早口にそう話しだしたのは知らないおっさんだった。そのみすぼらしい作業服にはオイルの飛び散った跡が散見された。私は彼の口から漂ってくる酷い臭いに数歩身を引いてしまうが、対しておっさんは視線をつねに合わせたまま、私のせっかく離した距離をいとも容易く詰め返してきたのだ。おっさんの話は続いた。
「いやいや、安心だよ。別にだまして訴えようとか保険料が欲しいとかじゃないんだ。金とは切り離されているんだよ。オレだけはそう。金とかじゃない。ただ殴るだけ、殴られたいんだよ。」
「いや、すみません、急いでいるので。」
断ってはみたものの、おっさんは殴られたい殴ってくれと、中々引き下がらなかった。
「ああ、そうか、そうだよな。人の頭殴るなんて緊張するし申し訳ないよな。分かるよ。でも大丈夫、オレの頭は頑丈だから。」
「いえ本当に嫌です。」
「それに金槌じゃなくてもいいんだ。他に用意もあるから。バット、電球、ガラス瓶、扇風機。なんなら初めは丸めた新聞紙でもいいさ。新聞紙から段階を踏んでいけば、いつかは金槌でも躊躇はなくなるさ。さあ、この新聞紙を握りなさい。大人気必死、天皇様即位の記事が載ってる昨日号だよ。」
私はおっさんに新聞紙を握らされ、ついでに私の腕はおっさんに掴まれてしまった。おっさんの力は非常に強く、簡単には振りほどけそうにない。この逃げるに逃げられない状況に、私はある思い付きを起こし、ここはひとつ、おっさんの頼みを引き受けるフリをしてみることとした。さっそく私は降参の表情をつくった。
「わかりました。私、新聞紙であなたの頭を殴ります。ですからその前に私の腕を放してくれませんか。さっきから痛いし、殴りにくいです。」
「へへ、それはできないね。悪いがこのまま殴ってくれよ。さあ早く。」
まずい、こちらの考えを勘付かれてしまったのだろうか。しかしそれも当たり前のことで、そもそもこのシチュエーションはおっさんの方から仕掛けてきたものだから、恐らく、おっさんは場慣れしているのである。私の思い付きだけで突破できるほど甘くは無いのだ。そう悟ると、私はとうとう本当に降参の意を示し、目の前にいるおっさんを殴ってあげることに決めた。まずは素振りとして、おっさんの言っていた箇所、頭の横側の耳よりも高い位置に、つまりこめかみに狙いを定める。
「このあたりですか。行きますよ。」
「ん、あんた左利きか。右利きにしか頼んだことなかったから、頭のこっち側は初めてだ。まったく楽しみだよ。」
最後まで気持ち悪い。私はその不快な気分も力として加え、思い切り新聞紙を振った。
見ないふりを決め込んで、私たちの現場前を通り過ぎようとしたスーツの好青年が、唐突に酒気を帯び始め、そのままこらえきれずゲロを吐きだした。青年の吐くゲロは酸性が強く、それは私が鼻を近づけずともその刺激臭が伝わってくるほどで、さらには着地した地点を溶かしてみるみるうちに沈んでいる。そして歩道上に水たまりほどのくぼみが出来上がると、同時に青年は気を失ってしまい、倒れるまま顔がぴったしゲロの池へとおさまった。音は三つだけ鳴って、青年はずっと静かだった。
「え、大丈夫ですか。……ちょっと、人が倒れたんだから放してくださいよ。」
蹴とばしてでもおっさんから離れようと試みるが、私の腕はまるで抜けず、壁に埋まったかのように頑丈だった。そしておっさんは殴られてから微動だにしなくなったかと思えば、急に声を張って意味不明の独り言を口にし始めたのだ。
「自意識過剰は恥ずかしい! そう見られないよう必死に努める姿勢こそがまさに自意識過剰である。制服の少女は暮らすうち赤面を折り重ね、いずれ面の皮の厚い女へと成り果てるだろう。自意識とおさらば、恥ともおさらば、制服なんて着れたもんじゃないね。」
「変なこと言わないで、あの人を助けなくちゃ。」
「助けようって、もう遅いだろう。見りゃ息のないことくらい判断つく。ちなみにあの青年が倒れたのはお前のせいだから。そこんとこよく理解して、二発目よろしく。」
「なんで私……そんなこと冗談でも言わないでください。はあもうマジ最悪。」
私は怒った。だが私の怒りなどは取るに足らないものらしく、おっさんの興味はもっぱら殴られることに向いているようだった。今だって、新聞紙の次は何で殴られようか、自分の用意してきた道具たちを並べ、夢中になって吟味している。この間にも、私は逃げ出すため、精一杯の力を振り絞り、おっさんの体をクライミングするみたいな姿勢になって自分の腕を引っ張っていたが、相変わらず状況は変わらない。それどころか、おっさんの道具を選ぶ作業すら邪魔できていないようだった。
「よし、次はこれだ。これで頼む。」
おっさんが道具の中から選び取ったのは酒瓶だった。瓶に張り付けられたラベルには、黄色を基調とした田舎の風景に、麦畑と酒樽がともに描かれていた。
「ちょうど今朝に空っぽになったやつさ。こう、逆さにして、先の細く伸びた部分を手に握るんだ。おお、似合うね。」
私はすでに、半分くらいどうでもよくなってきていた。
「チャンスは一回だけだから、丁寧な一発を乱暴に決め込んでくれよ。アンタ殴るのうまいから、オレ幸せだわ。」
だが、この殴られる前の、おっさんの減らず口と期待を寄せてしわくちゃになった顔を見てしまえば、またすぐに嫌悪感が湧き上がってくる。そのせいで私の左手には、新聞紙で殴ったときよりも増して力がこもった。力の乗った酒瓶は加速をしながらおっさんの頭目掛けて振られ、その瞬間音とともに砕け散った。
私は信じない。注意を掲げるカーブミラーが却って危険を誘っている。カーブミラーには車に乗り合う四人家族が、みんな揃って目を細くし、その上に手をかざす様子が映っている。運転手のパパは、どうやらハンドル操作もままならないようだ。そのカーブミラーの立つT字路へと一台の車が突き進んでいる。走りながらも車内からは痛々しいほどの光が放たれ、その後、カーブミラーには改めて死角が映し出された。
「インディーロックと電波ソングのファン層被りはおよそ一割。百人の箱の内、九十九人の脳みそは図画工作みたいにぶち壊れてるが、あとの一人の脳みそは、半分だけが壊され、もう半分はドロドロに溶かされたチーズみたいに原型を留めないんだ。下手すれば三分割、四分割と、切り取り線が細部にまで及んでおり、みじん切りになった脳みそのある一片は気だるいレゲエに渇いてる、あるいはあえて流行りのj-popを気取っているかもしれない。そういう奴が社会に紛れて暮らし、一体何を引き起こすか知ってるか。何も起こせないんだよ。」
「……。」もう何も言うまい。
「黙ってないで、次だ次。そろそろいいんじゃないか。アンタもそろそろ、金槌で殴る準備ができたんじゃないか。こっちはもうずいぶん待たされたからね。ほら持ち替えなさい。」
そう言っておっさんは、私の左手の割れ瓶を捨てさせ、金槌を強引に握らせた。私が素直に力を入れないのと、おっさんの手が汗でびっしょり濡れていたせいで、金槌は何度か地面に落ちかけ、おっさんは少しイライラしているようだった。間違っても、今までに殴られた分のダメージで弱っていたせいではない。イラつき方を見るに、どうしても早く金槌で殴られたいのだ。
「やっとだ。やっと。ついにだ。」
おっさんは息を荒くし、その臭いはずっときつかった。私は最悪の気分を覚え、金槌を振った。
いつの間にか日もすっかり暮れていた。夜空には月と雲と、波のようにうねる木目とが浮かんで交差している。幻覚ではない。いま木目が雲の輪郭をなぞった。木目は雲に沿ってうごめき、その雲を空から削り取って落下させてしまった。雲はレンガブロックのように重いらしい。そのせいで真下にあった一軒の家が粉塵と化したのだ。
「いつの間にか日もすっかり暮れていた。夜空には月と雲と、波のようにうねる木目とが浮かんで交差している。幻覚ではない。いま木目が雲の輪郭をなぞった。木目は雲に沿ってうごめき、その雲を空から削り取って落下させてしまった。雲はレンガブロックのように重いらしい。そのせいで真下にあった一軒の家が粉塵と化したのだ。」
「へへ、早く本気で殴ってくれよ。もう気づいているだろう、本気で殴ってくれなければ被害は広がるばかり、本気で殴って、人間のいない地球の外まで飛ばせなけりゃ何人だって足りなくなるんだ。」
「そうだ、いっそオレを殺すんだ。ウザいしキモイし、もう殺してしまうんだ。そうすりゃもう誰も傷つかない、何よりアンタは晴れて自由の身。いい話だろう。ほら、オレの頭、さっきから何発も殴ってる箇所に羨望の眼差しを注いで、殴れ!殺せよ!殺せよ!殺せ!」
空気がめっきり冷え込んできた。それに従って空気中の水分や地表の水分は凍り始め、できあがったのは真っ白な結晶、冬にときどき観測される雪だった。あの雪が街のあらゆる場所で、急に発生しだしたのである。水分が雪になるのはあまりにも一瞬のことだったので、道路や街頭、何軒も連なる屋根はあっという間に白く染められた。雪のペンキ屋さんの技術革新である。キーボードの伴奏が、一定のリズムを保っている。そのリズムに従って、雪たちが気体の頃の記憶を取り戻し始める。まだ融解すら経験していない雪たちはその記憶を懐かしみ、その記憶だけを頼りになんとか気化しようと試みだす。その結果、雪たちは、結晶の破壊にまでは至らなかったが、なんとか空中を昇っていくことに成功した。雪たちはそのままどんどん空へ昇っていき、一面雪景色だった街は元通りに、はるか上空は無数の雪玉に占領されていた。街に残された人々も、これには指を咥えているしかない。絶対に追いつけない領域というものを目の当たりにすると、人々はふと喉の渇きを覚えた。この日、自販機とコンビニでは過去に例をみない儲けが出たという。
「ああ……。今までで一番だ、最高だ。あとはそうだな。そうだ、あれだ、あれにしよう。アンタ、もう一発頼む。」
聞き分けのいいアンタのおかげで、オレたちの立つこの地面が動き出した。何の捻りもないさ。単なる地震さ。ただ普通より少し大きく、地球において最大規模になるよう頭の中で考えていたよ。さっき雪が昇っていったおかげで地面は乾ききってしまっている。地面が泥であれば崩れやすくて危険だが、カラカラの大地ならどういう危険があるだろう。それを証明するように、ご覧、稲妻みたいなヒビがこっちに走って来るよ。ヒビのしっぽの方では建物が倒壊していくのが見えるね。どうやらアスファルトもコンクリも木材も石材もレンガもステンレスもお構いなしに食っちまうらしい。月並みだけれど、これはオレの夢だった。オレはずっと地球に飲み込まれたかったのだ。それも地球を背負ったまま飲み込まれて、背後から中心部まで落ちていきたかった。だから横にならせてもらうよ、失礼。ああ、ついに叶うみたいだ。アンタに頼んで正解だったよ。今までに何人も頼んだが、みんな途中で何もしてくれなくなるか、運悪くオレの反動を受け取ってしまう人ばかりだったからね。でも君は違った。半ば投げやりにでも付き合ってくれたし、どうやら今日の運勢も悪くなかったらしい。左利きなのもよかった。もしかしてアンタにはそういう相手がいて、普段から殴り慣れていたのかな。アンタの殴打を独り占めにできるなんて、その人は幸せ者だ、羨ましい。
「ああ、できるならば、最後にもう一発だけ……。」
「自分勝手過ぎ。マジ無理。」