雪解け
帰りの人力車の中では沈黙が続いていた。
香織は気まずすぎて、黒川とろくに目も合わせられなかったのだ。
(薫子さんが婚約者だったなんて)
自分の気持ちにようやく気づけたのに、恋は始まりもせずに終わってしまったのである。
黒川に会えて嬉しかった気持ちも今はなく、ただただ家に帰りたかった。
「・・・さっきは怒って悪かったです。」
沈黙を破ったのは黒川である。香織は手短に「いいえ、私こそ申し訳ありませんでした。」と答えた。
またしばらく沈黙が続いた。
香織はぼんやりと考えた。
彼が結婚をしたら、もう2人で前のように出かけたり、彼が家に遊びに来てくれることはなくなってしまうのだろうか。
「黒川さま、ご結婚なされるそうですね。」
香織は彼の顔も見ずに言った。
「薫子さまがご婚約者さまなのでしょう?」
黒川が戸惑ったように香織を見ていった。
「いいえ。私は薫子と結婚するつもりはありませんし、結婚の予定もありません。」
香織は驚いた。楓が言っていたのはただの噂だったのだ。
安堵とともに香織の肩から力が抜けた。
「それより、香織さんはご結婚なさるとか。」
黒川が衝撃的な発言をした。香織はひどく驚いた。まさか、父は勝手に縁談を進めているのだろうか。
「いいえ。私は知りません。」
「秋さんとご結婚なさると聞きました。」
黒川が香織の目を見ていった。香織は彼の綺麗に澄んだ目に自分が映り込んでいるのを見た。
途端に彼に自分の気持ちを打ち明けてしまったら楽になるのではと思った。
「たしかに秋さんからそのような提案はありました。しかし私は、、」
黒川は目を見張って固まった。彼の顔は青ざめていた。
「・・では噂は本当だったのですね。」
彼は香織が話を続けようとしたのに言葉を被せた。彼にしては珍しく焦っているように見えた。
「しかし、私はその、、、」
香織は早く自分の想いを言ってしまいたいと思い話を続けようとした。そこで少し踏みとどまった。もし彼に振られたら、今の関係性も壊れてしまう。それでも想いを伝えたいのかと。
黒川は相変わらず青ざめている。具合でも悪いのだろうか。香織はどうしようかと悩んだ。
「私は香織さんを困らせたくありませんが、事が終わった後に伝えるより今言ってしまった方が良いと思います。」
黒川が突然口を開いた。香織は彼が何を言おうとしているのかわからなかった。
「何でしょうか?」
香織は彼の方を向いて尋ねた。黒川は躊躇っていたが、意を決したように下唇を噛んで口を開いた。
「・・私は香織さんが好きです。」
黒川はいつもの態度からは想像つかないほど自信のなさそうな声で言った。
「私は香織さんよりも14も歳が上です。だから、香織さんが私を何とも思っていないことはわかっています。」
「黒川さま」
香織はそう言って彼の手をそっととった。
「香織さんにこの気持ちは言わない方がいいとも思いましたが、言わずに後悔するのはもっと嫌なのです。」
彼は香織を不安そうな目で見た。香織の心には彼に対して愛おしく思う気持ちが溢れた。
「黒川さま、私は黒川さまのことが好きです。大好きです。」
香織はそういった。
「・・それは気を遣っていますか?」
「いいえ、私は自分の気持ちに正直に言っています。それに黒川さまに気を遣う理由がありませんわ。」
香織は微笑んで言った。
しばらく2人の間に沈黙の時間が続いた。
「・・・これも運命だったのかもしれませんね。」
黒川は香織を見ていった。
「・・・運命?」
「話すと長くなるので香織さんを家に送ったらお話ししましょう。」
黒川はそれ以上教えてくれなかったが、幸せそうに微笑んで香織の手を握って言った。
「両思いとはこんなにも嬉しいものなのですね。」
目が合うと香織は気恥しくてすぐに逸らしてしまったのだが、繋がれた手を離そうとはしなかった。
彼女の心臓は壊れるのかと思うほどドキドキして痛かった。