新年
時間というのはあっという間に経つものである。
気づけば今日は新年であった。
麻里の結婚式からは2週間ほど経ち、新年の今日は姉家族の家に遊びに行く予定なのである。
「香織、そろそろ行くけれど行けるかい?」
父に声をかけられて香織は行けますと答えた。
昨日から準備しておいたお節料理をもち、香織は父が乗り込んでいた人力車に自分も乗った。
ふと隣人の家をみると明かりがついていた。
(家にいらっしゃるのだわ)
お正月は自分の親戚が来ると言って、父が勧めても黒川が宮野家に出入りすることは年末にかけてなかった。
「久しぶりに沙耶香のうちに遊びに行けるのは楽しみだね。」
「ええ。姉さまも楽しみにしてらっしゃいましたわ。」
「弘樹も来れればよかったのだが。」
「兄様は義姉さまの家族にご挨拶があるとか。」
兄家族も揃えばよかったのだが、兄は香織と年が離れているせいかすぐにからかってくるので、兄がいないと知ってホッとしたのも事実である。
姉のうちに着くと和葉と吉郎が待っていた。
「いらっしゃい。」
「今日はお招きありがとうございます。」
「沙耶香は?」
父は姉の姿が見えないことに心配したようだ。
「今日はつわりが酷いらしくて、少し休んでいます。」
「そうか。それは心配だ。」
しばらく姉が姿を現すまで、香織が家のことを手伝っていた。和葉と羽子板をしたり、料理の準備をしたりしていると時間が経つのはあっという間である。
結局姉が姿を現したのは、夕飯の時であった。
「姉さま、体調は大丈夫なのですか?」
「ええ、波があるのよ。」
姉はそう言って笑ったが、顔は白く元気という感じではなかった。
「こんばんは。」
後ろから声をかけられて振り返ると秋がいた。
「おお、秋よくきたな。」
吉郎が嬉しそうに声を上げた。
「ご飯が食べられると聞けばいつだってきますよ。」
どうやら家族というよりかご飯目当てらしい。
彼は香織に気づくと軽く手を上げた。
「香織が今日は料理当番か。」
「はい。でも後からご飯目当てに現れた方に差し上げるものはありません。」
「それはちょっと意地悪なんじゃないか。」
香織は秋の困った顔を見てふふっと笑った。
食後に香織が台所でお茶の支度をしていると秋がやってきた。
「香織、ちょっと聞きたいんだが女学校の卒業後はどうするつもりなんだ?」
唐突に聞かれて戸惑った。卒業した後のことなど考えもしていなかった。友人はほとんどのものが嫁入りするため、卒業後について話題に上ることはほとんど皆無であった。
「そういえば、考えていなかったわ。」
香織はぽつりと呟いた。
「卒業後はほとんどの者が結婚するのです。でも私にはその気はないですから。」
「太郎さんと一緒に家で過ごすつもりか。」
父にずっと世話になるというのもなんだか申し訳ない気がしてきた。香織は仕事があればと思ったが、女性で働いている人はあまり多くはない。
香織が黙ったのを見て秋は一息ついてこういった。
「なんとも損をしているようにしか思えないな。香織は器量もいいし、家柄も良いのだから。」
彼はちょっとしてこう続けた。
「実は俺が経営している新聞社で求人をしているんだ。香織に働く気さえあれば、うちは性別を問わないから来てもいいぞ。」
「それは本当ですか?」
香織は驚いて言った。それはすごく魅力的な提案だった。しかし、いますぐに決断はできなかった。そんな香織の様子を見て
「決断は急がなくて良いが、女学校卒業の春までには返事をくれ。」
と秋は言った。それにと彼は付け加えて
「麻里の結婚式でも言ったが、いざとなったら俺が責任取って香織を引き取るということ冗談ではないからな。」
と言った。
香織は返事に困ってしまった。秋のことは良い人だと思っているし大好きだったが、そういった感情を抱いたことはなかった。
「ありがとうございます。仕事の件、前向きに考えてみます。・・・秋さんは優しいです。でも私は、秋さんにそういった感情を抱いたことはまだなくて、そのわからないのです。」
香織はこう返事をした。
「何も香織を困らせたいわけじゃなかったんだ。一つの提案というだけだよ。仕事の良い返事、期待しているよ。」
彼は笑いながら香織の頭をぽんぽんと叩き、部屋を後にした。彼は優しい。今だって香織のことを考えて言ってくれた。
仕事はしたいが、秋の優しさを利用していることにはならないのだろうか。
また、驚くことに秋から提案されたときに黒川の顔が香織の頭に浮かんだのだ。
(私は黒川さまのことが、、)
そこまで思って香織は思考をとめた。これ以上考えるのは無理だと感じたのだ。
新年は思わぬ気付きを香織に残し、過ぎ去っていった。