買い物
最近は寒くなってきたので香織は布団から出たくはなかったのだが、今日は楽しい買い物があるので気分良く目覚めることができた。
朝食を食べた後、支度をして玄関に行くと父と出会った。
「お父様、おはようございます。」
「香織、おはよう。今日は買い物に行くんだったね。」
「ええ、黒川さまに連れていっていただきますわ。」
父はそんなに黒川くんと仲良くなったのかと驚いた。
「仲良くなったといえばそうなのかしら。黒川さまは意地悪なところもありますけれど、良い方です。」
「それは本当にそうだね。買い物のお金はつけておいてくれ。仕事の帰りに私が払っておくから。」
香織は父の寛大さに感謝をした。
「じゃあ気をつけていっておいで。」
父に見送られ、香織は黒川の家へと向かった。
黒川のうちに行くと執事の菊川さんが出迎えてくれた。
「香織お嬢さま、おはようございます。中でお待ちになっててください。」
家に入るのは約一ヶ月ぶりだが、何度見ても素敵な家だと思った。
しばらく調度品を見て待っていると黒川が現れた。若干眠そうである。
「黒川さま、おはようございます。今日はよろしくお願いします。」
香織が挨拶をすると、
「今となっては快諾したことを少し後悔しています。」
と言って笑った。
「旦那さま、そんなことおっしゃってはいけませんよ。」
菊川さんに嗜められ黒川は項垂れた。どうやら朝は弱い方なようだ。
街に着くと人が多くいた。今日は珍しい業者がたくさん来るのでみんな集まってきたようだ。
「はぐれないでくださいね。」
「はぐれませんよ、もう子供ではありませんから。」
「どうだか。」
2人で軽口を言いながら目的の軽井沢彫りの店にたどり着いた。値段が張るからかあまり人だかりはできていない。
「いらっしゃい。」
店主は60代くらいのお爺さんだ。
「手鏡みたいな小さいものがあるか見たいのですが、、」
香織がそういうと、店主は黒川の顔を見て驚いたように言った。
「あれ、蓮くんじゃないか。」
「槇原さん、ご無沙汰しています。」
どうやら面識が2人にはあるようだ。聞くと黒川が小さい頃によく槇原さんのお店に来ていたらしい。
「夏になって、蓮くんのご家族が軽井沢に来るとよくお店に遊びに来てくれたね。」
「母と姉が槇原さんの作品をすごく気に入っていたので。」
「薫子ちゃんはいまだに毎年軽井沢に来るけど、蓮くんに会いたがっていたよ。」
薫子ちゃん・・?誰だろう。話についていけなくなっていると
「薫子は僕の幼馴染なんだ。親同士が仲良くて、よく夏に遊んだんだよ。」
と黒川が教えてくれた。槇原も話を弾ませてしまったのを悪く思ったようだ。
「それでこちらの可愛いお嬢さんは?」
と聞いてきた。
「宮野香織と申します。」
「香織さんか、話を流してしまって悪かったね。手鏡を見たかったのだよね。」
槇原はそういうと裏に行き、いくつかの手鏡を持ってきてくれた。どれも本当に素敵だが、香織は桜の花が掘られているものに惹かれた。
「これ、本当に素敵ですね。」
「この彫りは桜花というんだよ。桜花が好みなら首飾りもあるよ。」
首飾りもとても可愛らしかった。
「どちらがお好みかな?」
「悩みますね、どちらも素敵です。ただ、父に買ってもらうので一つに絞らなくては。」
香織は悩んだ。手鏡と思ってきたが首飾りを見させられるとこちらも欲しくなる。
着物の時にしても似合わないかしら。でも最近は洋服も着るしなあ。
結局かなり悩んだ末に香織は手鏡を選んだ。父が仕事帰りによってお金を払っていくということを伝え、商品をとっておいてもらうことになった。
「軽井沢彫りをこんなに気に入ってくれるなんて嬉しいことです。夏にでも軽井沢にいらっしゃい。彫り方を教えてあげよう。」
槇原は嬉しそうに言った。香織にとってこれほど魅力的な提案はなかった。
「嬉しいご提案ですわ。ぜひ夏に伺わせていただきます。」
槇原から名刺を受け取り、香織は槇原と黒川が話をしている間に店内の他の商品も見て回った。タンスや姿見など様々なものがある。
(黒川さまのうちの調度品にもこんなのあったわ、素敵ね)
今日買い物に来れたことに香織は非常に満足をした。
しばらくして2人の話も終わったようだ。槇原にお礼を言って、香織は黒川と店を後にした。
「昼は食べていきますか?」
「あらもうそんな時間?」
時間が経ったのもわからないほど真剣に悩んでいたようである。気づけば昼になっていた。
2人は近くの喫茶店に入り食事をとった。
「黒川さま、今日は連れ回して申し訳ありませんでした。」
香織は食後にこう切り出した。彼は全く疲れた表情を見せなかったが、朝が弱そうなのにここまで付き合ってくれたのだ。
「これは貸しですよ。」
そう言って彼は笑った。でも気にするほど疲れてはいない、旧友に会えたからと黒川は付け足した。
香織は彼の寛大さに大いに感謝した。2人はその後軽井沢彫りの話をして楽しんだ。
夕方前に2人は家まで帰ってきた。黒川はやることがあるといい、香織がお茶を勧めたのに香織のうちに来ることはしなかった。
別れ際に黒川は何かを思い出したように上着のポケットを探った。
「どうかしました?」
香織が聞くと、彼は無言で香織に小さな紙袋を渡した。中身を見てみると先ほど香織が悩んでいた軽井沢彫りの首飾りが入っていた。
「これは・・!」
「どうしても欲しそうな顔をしてたので、つい買ってあげたくなりました。」
「高いですよね。どうしましょう。」
焦る香織を見て黒川は笑った。
「大したことはありませんよ。槇原さんもまけてくれましたし。これは僕の勝手ですから、ありがたく受け取ってください。」
香織はどうして良いのかわからなかった。家族以外に贈り物をもらうことなどないし、今日は自分の方が何かしなくてはならないではないか。
黒川は香織が返そうとしても受け取ってはくれず
「せっかく買ったのですから、たまにつけて出かけてください。」
と言って微笑んだ。彼は言いたいことだけ言うと帰って行ってしまった。
香織はその日初めて、黒川の背中を見て寂しく思った。
(見送って寂しいなんて思うの初めてだわ)
それだけ今日のお出かけが楽しかったということだろう。香織は自分の中に今まで感じたことがない感情が生まれたのを感じ取った。それが何かはうまく言えないが、嫌なものではなかった。
夜に父が帰ってきて手鏡を渡してくれた。父に首飾りをもらったと話すと、父は驚きつつもそれはありがたく貰っておきなさいと言った。
その日はあまり寝付けなかった。香織はぐるぐるする頭を振り払うように布団をかぶって寝た。