始まり
その日はいつも通りの楽しい日で終わるはずだった。あの話を聞くまでは。
数時間前、少年は父親に呼び出され父の書斎にいた。
「急に呼び出してすまんな、学校の方はどうだ。」
父の第一声はこれだった。だが、本題は学校生活のことではないことを少年は分かっていた。
「いつも通りですよ。仲間と楽しくやっています。父上、本題はなんですか?」
父は息子の顔を見て暫くしたのち、胸元から一枚の写真を取り出した。
覗き込んでみると赤ん坊の写真である。
何を父は言いたいのだろう。もしかして父の隠し子なのだろうか。
少年は少し返答に困った。
父は申し訳そうな顔をして言った。
「・・、お前に見合いの話が来た。相手はこの赤ん坊だ。」
少年には父の声が遥か遠くに聞こえた。
「・・・・・、はあ!?」
それから数年後。時は明治時代、近頃は洋装をしている人も増え始めてきた。
「香織、明日のお茶会はどこでやるのかい?」
香織と呼ばれた少女は振り返って笑った。
「明日は同窓の麻里さんのお宅でやるのよ、お父様。昨日言ったじゃない。」
この少女こそこの物語の主人公である。名前は宮野香織。年は18歳。綺麗な黒髪を高く結い、女学生らしく海老茶色の袴をはいている。彼女の父親は華族であり、母親も華族出身であった。母は彼女が幼い頃に亡くなったのだが、父と兄、姉の4人暮らしだったので寂しいと思うことは少なかった。
今日は父と2人で観劇するために街に遊びに来ているのだ。香織の父である宮野太郎は、貿易の仕事で財を成しており、また人から慕われている存在であった。
「そうだったか、麻里さんのお宅で茶会なんて珍しいな。」
「・・・、お父様は知らないかもしれないのだけれど、麻里さんは今度結婚するの。」
香織は少し躊躇ってそう言った。
「それはめでたいな。お相手は誰なんだい?」
父は嬉しそうに聞いた。娘の仲の良い友人が結婚するということが嬉しいらしかった。
「・・・、それが自由恋愛して異国の方らしいの。」
香織は父の反応が怖くて恐る恐る言った。
案の定父はオロオロし始めた。
「麻里さんのご両親は知っているのかい? 異国に住むことになってしまうのかい?」
「詳しくは私も知らないの。それで今度のお茶会で色々教えてもらうのよ。」
それから父はめっきり口数が減ってしまった。
(まだ話さない方が良かったかしら)
香織は少し後悔をした。父は自由恋愛に反対しているわけではない。現に香織の姉の沙耶香もお見合いではなく、自由恋愛を経て老舗呉服屋の息子である、高松吉郎と結婚した。おそらく相手が異国の人ということにショックを受けているのだろう。
その後劇を見て、喫茶店に入りお茶をしたのだが父は静かであった。
夕方になりなんとなく気疲れをして、家に戻ってくると隣の洋館に灯りがついているのを見た。
「お父様、お隣に誰か引っ越してきたのかしら?」
隣の家は珍しい洋館であったが、買い手が中々現れず暫くの間誰も住んでいなかった。前に住んでいたのは、異国のお役人さんだったらしい。近所の人たちは大きな洋館に誰も住んでいないのをきみ悪がり、「幽霊屋敷」といって怖がっていた。
「本当だね。ようやく買い手がついたのだろうか。」
父も少し興味を持ったのか、不思議そうに洋館の灯りを眺めた。
家の中に入ると執事の及川が迎えにきた。
「旦那様、お嬢様、おかえりなさいませ。」
父は外套を脱ぎながら、及川に尋ねた。
「隣に誰か越してきたのか?」
「はい。先ほどご挨拶にこられて、また明日訪ねに来るとおっしゃっていましたよ。名前は黒川蓮様です。」
名前を聞いて父はみるみる青ざめた。
「お父様、どうかされたの?」
香織が心配そうに聞くと、父はハッとして
「何でもないよ。明日お会いできるのが楽しみだ。」
と言って笑った。
翌日はよく晴れた秋らしい良い天気だった。
今日は予定されていた麻里の家でのお茶会に行くため、香織は朝から支度に追われていた。
ふと隣の家を窓から見ると庭師がはいっていた。
(本当に引っ越してきたのだわ)
どんな人なのだろうか。同い年くらいのお嬢さんがいたらお友達になれるのに。そう香織は思った。
支度を終えると、人力車に乗り香織は麻里の家に向かった。
家に着くと麻里の両親が迎え出てくれた。
「こんにちは。おばさま、おじさま。ご機嫌いかがですか?」
2人は思ったよりも元気そうであった。
「香織さん、今日はきてくれてありがとうね。麻里も結婚に少し不安なところもあるらしくて、話を聞いてもらえるのは本当にありがたいわ。」
と麻里の母が言った。
どうやら結婚には反対していなさそうだ。
部屋に通されると、麻里ともう1人仲の良い友人である楓が座っていた。
「香織!たくさん話したいことあるのよ、座って座って。」
麻里は香織を見るなり、喜んでそういった。
しばらく話の主題は、麻里と麻里の旦那様になるエリックの出会いの話だった。どうやら出会いは、麻里の父親がうちに連れてきたことがきっかけだった。麻里の父親は広く建設業を営んでおり、エリックはそこで技術的なことを教えてくれていたらしい。
「それじゃあお父様も反対はされなかったのね?」
楓がそう聞くと麻里は笑って、
「もちろん反対はされたわよ。いくつもお見合いをさせられたし、夜な夜な色々な懸念事項についても聞かされたわ。」
と言った。でも最後はエリックの熱意に麻里の父親が負けたそうだ。
「式はいつするの? それに、麻里は異国に行ってしまうの?」
1番気になる質問を香織がすると
「式は冬あたりにやると思うわ。 異国には行かないの。まだエリックが日本でやることが残っているしね。でもそのうちっていうことはあるわ。」
と麻里は答えた。香織は寂しくなると思っていたので、日本に留まることを知って喜んだ。
「2人は結婚しないの?」
麻里にそう言われて楓と顔を見合わせた。
「私はもう相手が決められているから。」
と楓は答えた。どうやら相手の両親と楓の両親で縁組を決めたらしい。
「それも最近知ったのよ!まだ会ったこともないし。でもおかしいと思ったのよ。私が18になっても親は慌てるそぶりも見せなかったから。」
楓の話を聞いて香織は少し不安になった。自分も18に先月なったが、父が結婚を焦っている様子もない。姉が結婚したのは18だったし、兄が結婚をしたのも20だった。まだ先と考えているのかもしれない。
「香織は結婚の予定ないの?」
「私はないかな・・・、お父様が焦ってる様子もないし。」
「したいとは思わないの??」
と楓に聞かれて考えてしまった。自分が誰かと恋愛するなんて考えたこともないし、想像もつかない。今の父と2人で暮らしている生活は本当に楽しい。
「そうね。私が結婚したらお父様が1人になってしまうし、お兄様の官僚のお勤めが落ち着いて、お兄様家族がうちに戻ってきたら考えてもいいかしら。今はまだ想像がつかないの。」
これは事実だった。兄家族がいつ戻ってくるか分からないのに父を1人にさせる気持ちにはなれなかった。
「香織はいい娘ね。香織のお父様は幸せ者だわ。」
2人はそう言って笑った。
結婚が決まっている2人の友人を見て、寂しくはあったが自分の結婚に焦る気持ちにはなれなかった。
家に帰ると玄関に見慣れない靴があった。
(お客さんかしら?)
外套を脱いでいると側仕えの立花がやってきた。
「お嬢様、おかえりなさいませ。お隣の黒川様がいらしてますよ。」
なるほど、だから靴があったのか。香織は納得した。立花は香織と年が近く、仲が良い側仕えである。普段は下の名前で絢と呼んでいる。
「絢、どんな方なの?」
「・・綺麗な方ですよ。旦那様は元から知っているようでした。」
父は昨日知り合いとは一言も言っていなかったが、知り合いだったとは。人と付き合うのが好きな父にとって、知り合いが横に越してきたことは嬉しいだろう。
「お部屋にいかれる前に客間にいらっしゃるのでご挨拶されてはいかがですか?」
絢にそう言われて、香織は少し期待を胸に客間へと足を運んだ。