第九話 言葉に出ない思惑
棲み処の洞窟で瞑想をしていると、あの緑竜の羽ばたき音を久しぶりに聴き取った。
いや、この音を最後に聞いたのは二十日ほど前なので、久しぶりというほどではないのだけれど、なぜだか十倍以上の時が経ったかのように感じている。
少し前までは、一年や二年などは一瞬で過ぎ去っているものだったというのに。太古の昔に置き去りにしてきたはずの時間感覚がいまさら蘇ったのだろうか。
幼竜じゃあるまいしと皮肉な笑みが自然と出てくる。だいぶあのふたりの話が気になってしまっているらしい。
こうして時の流れをまともに感じたのはいつ以来だっただろうか。現役だった頃の自分自身を振り返りながら、緑竜が目前に現れるのを待つ。
緑竜は洞窟の入り口に降り立つと翼を収めて、こちらへ歩み寄ってきた。
が、なにやら驚き戸惑っている様子で、しきりに辺りを見回している。
「これは……ねぐらの様子がだいぶ変わっていますが、模様替えですか? 僕が初めてここに来てから、そんなことは一度もされたことはなかったというのに」
「おまえたちが家造りをしていると聞いたからな、触発されたのかもしれん」
数日前のことになるが、なんの気もなしに初めてこのねぐらの掃除をやってみた。
苔を取り払ったり細かい石を側に押しのけたりしただけで大したことはやっていないのだが、思いのほか広くなったので、なかなか印象が変わったと思っている。
どうしてそんなことをしようと思ったのかは正直わかっていない。
今しがた自分で言って見せた通り、この緑竜に影響されたからなのかもしれないが。
「ここまで機嫌の良さそうなあなたを見るのも初めてだ。なにかあったのですか?」
「さてな。同族にそんなことを訊かれるとは思わなかったぞ」
なんとなく癪だったので答えはぼかしておいたが、言われた通りに気分が良かったりする。
だが、私の機嫌はどうでもいい。
今回の緑竜はやや落ち込んでいるようなのだ。さっさとその理由を知りたいので、月並みの挨拶は終わらせて、私から話を始めることにした。
「さて、今日はどんな問題が起きたというのだ? この私に話してみよ」
「……ええと、そうですね」
困惑顔の緑竜はまごまごしていたが、しばらくして意を決したように真顔になると、このたびの事情を語り始めた。
「この頃、あの娘がどこかよそよそしいのです」
緑竜はひどく落ち込んだ様子で告げると、しゅんとしてうなだれる。
その姿は二回りくらい小さくなったように見えて、なんというか親に置いてけぼりにされてしまった子どもみたいだ。
「前までは困ったことがあったら、すぐこの僕を頼ったというのに……。今はなんでも自力で済ませようとするのです。僕を頼らないのです!」
「……それは、よそよそしいのか? 単に必要がないから、そうしているだけではないか?」
「そのようなことはありえません! この僕が居なければ、非力な人間の娘がこの山で生きていくことなど、できるわけないでしょう!」
率直な感想を言ってみると、緑竜は即座に熱っぽく異議を唱えてくるが、微妙に泣き顔が入っているので説得力はいまいちだ。
ばきりと湿った音を立てて、手元の岩が砕ける。
「こわっぱが、我が一族を侮辱するか……!」
「え?」
「いや、なんでもない」
一瞬だけ目の前の竜以上にかっとなってしまったが、すぐにごまかして無かったことにしておいた。
確かに人間は竜に比べると脆弱だが、こいつが言うほど弱くはないし、弱さを補う知恵があるのだ。
気をもみすぎだとは思うが、間近で接していなければわからない問題があるかもしれない。
何を心配しているのかは、詳しく聞き出しておいたほうがいいだろう
「それだけでは状況がよくわからんわ。なにをもってよそよそしいと思ったのかを詳しく話してみよ」
「はわわ、わ、わかりました」
緑竜は恐怖顔でたじろいでいたが、すぐに立ち直ると考える仕草を見せ始めた
若者が思い悩む姿をじっと見守る。少しして、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「そう、それは昨日の事でした」
そして出てくるのが、この陸に打ち上げられた魚のごとき喘ぎ声である。よほど大きな悩みなのか、声を聞いてるだけで息苦しくなってくる。
だが、何を話しだすのだろうかと思って、私の気分は苦しさ以上に盛り上がる。
そんな本音を口に出すことは決してしない。途中で口を挟むことはせず、努めて聞くことに徹する。
「あの娘は、ついぞ五日間も、五日間も! この僕に頼みごとをしなかったのです!」
緑竜は、この世の秘密を暴露するかのような迫真の語りを見せた。
続く言葉は出てこない。今ので言いたいことを言い終えたらしい。
正直『だからなんだ』としか言えない。それだけ言われても返答に困る。
それにもかかわらずこの竜は、世の終わりに直面しているかのような落胆を見せてくるのだ。
このどうしようもない温度差。微妙な空気が流れて、居心地がひどく悪い。
気分的にいたたまれないので、とっとと追い払いたくなってくるが、努めて我慢して私から切り込んでみることにした。
「……して、以前はどうしていたのだ?」
「以前、ですか。そうです、娘は森での暮らしを始めた頃は、頻繁に僕へ頼み事をしていました。そう、一日に二・三度は。
しかし、しばらく前から頼みごとをする頻度が減っていき、五日前になってついに僕を頼らなくなってしまったのです!
あの娘は、ついぞ五日間も、五日間も! この僕に頼みごとをしなかったのです!」
「それはもう聞いた」
やたらと早口なので聞き取り辛い上に、シメの言葉が今さっき言ったことと完全に同じだった。
どれだけ五日間を強調したいのだろうか。だいぶ頭の中がゆで上がっている様子だ。
「これはどういうことなのでしょう。ま、まさか、あの娘の機嫌をまた損ねてしまったのか? それとも、この僕を頼りないとでも思ったか? な、なんということだ……!」
本日も元気いっぱいに思考を暴走させ始めた緑竜は、頭を抱えて身もだえを始めた。
狩りと縄張り争い以外に頭を使う機会ができたようでなによりだ、と好意的に解釈しておく。
アホウがブツブツとなにかを言い続けているのは完全に無視して、とにかく私から語りかける。
話の主導権を握るのは、あくまで私だ。こいつの大混乱に巻き込まれる必要はない。
「娘は今もおまえと話をしているか? 頼みごと以外にだ」
「ハッ、は、はい、それは変わらず。先日は山菜集めをするために、雑談をしながらともに散歩をしていました」
「そうか。娘はおまえと話すことを嫌がったり、ためらったりしたことはあったか?」
「いいえ、ありません。だからこそ、なにが問題なのかわからなくて……」
「おまえから見て、娘が山での暮らしに困っている様子はあったか?」
「いえ、最近は無いですね。この山での暮らしにもだいぶ慣れてきたようです」
「……なにが問題だというのだ」
普通に山での暮らしが軌道に乗ってきたから、頻繁に頼みごとをすることがなくなっただけだとしか思えない。
だがしかし、緑竜はとんでもないと言って大げさに首を横に振るのだ。
「人間は弱いのです! 弱い人間は、僕のような力ある竜に頼るのが普通でしょうが! それをしないということは、またなにか悩みでも……」
「思い上がりにも程があるわ! この無知蒙昧な若造が!」
いい加減に焦れてきたので思い切って罵倒すると、緑竜は思い切り怯えた様子で数歩後ずさった。
今度は怒りを抑えることはしない。ここは叱ってやらなければならない場面なのだから。
「確かに人間は我ら竜族に比べて力は無いが、力の無さを補う知恵を持っている。おまえが恐れるほど儚き存在ではない。娘はおまえの宝なのだろう、なぜ信じてやれぬ」
「……え? 僕は娘を心配してるのであって……娘は僕の力を信じてないのかと……え?」
緑竜は呆気にとられた面で気が抜けたような声を漏らす。
今の言い方では理解が噛み合わなかったようだ。これでわからないのなら、どう言えば良いものかと、しばし思案を巡らせる。
緑竜が不安そうな顔をし始めたところで、ようやく次案が出てきたので、さっそく話してみる。
「例えばの話だがな、おまえが私に『弱者のおまえは独りで暮らすことなど不可能だ。一生私の庇護下で生きるがいい』と言われたら、おまえはどう思う?」
「あなたほどの力ある竜のお言葉ならば従いますが、愉快な気分にはなれませんね」
「そうか。これはな、おまえが娘について言っていたことと大差ないことだぞ」
「……あ? ……あ」
緑竜は間抜け面で大口を開くが、今度は何かに気づいたかのような顔をしている。
取っ掛かり方が想定とはズレていそうだが、流れは悪くない気がする。このまま畳みかけることにした。
「『弱い人間は、僕のような力ある竜に頼るのが普通』か。その言葉を娘が聞いたら、どう思うのだろうな? 人間も我らと同じように誇りを持っている、少なくとも良くは思わんだろうよ。人間を侮るなよ」
ちなみに今している話は、私がかつて愛した人間から説教されたときの話を改変したものだ。
私の子孫たちに語り聞かせてきたことであるが、まさかこれを同族に説くことになる日がやってくるとは思いもしなかった。
「娘がおまえを頼らないということは、その必要がないというだけだろう。必要が出てくれば、すぐにでもおまえのもとへ飛んでいくだろうよ。
そもそも娘が困っている様子はないのだろう? ならば余計な勘繰りなどせずに、娘を信じて見守ってやれ」
緑竜はとても重そうに首をもたげて顔を上げ直す。しかし目は全力で反らしてきている。
「……気になるものは気になるし……」
まだ納得できないのか、ふて腐れたように吐き捨ててきた。その顔も態度も、すねた子どもみたいである。
まったく強情なものだとは思うが、気持ちの問題であるところが大きそうだから、すぐに割り切るのは難しいのかもしれない。仕方ないやつである。
「おまえは最近、娘に困ったことはないかと尋ねたことはあったか?」
「いえ、困ってなさそうでしたし」
「ならば一度、おまえから尋ねてみたらどうだ。それでも力を貸す必要は無いと答えてくれば、それだけの話ということだ」
「……さっそく話をしに行ってみます!」
今の言葉がなにか刺さりでもしたか、緑竜は飛び起きるように立ち上がると、翼を広げて大急ぎで飛び去っていった。
今から行くつもりらしい。また気を急きすぎて変なことをしでかしたりしないか、少し心配だ。
「おい、くれぐれも詰問のようなことはしないように気をつけろよ!」
飛び去って行く緑竜に最後の一言をかけるが返事はなく、一心に彼の地へと向かっていく。
思い立ったら毎度あれだ、困ったものである。しかし熱意には溢れているので、見ていて小気味良くもあった。
あっという間に小さくなっていく緑竜の姿を見て、そういえば自分にもあんな時期があったということを思い出す。
あの竜以上のへまをやらかしたことが浮かんできてしまい、恥ずかしくなってきたので考えることを止めておいた。