第四話 山へ迎え入れる
あの緑竜が三度目の訪問を終えてから、これまでに比べると長い間が空いた。
音が無いということは、きっとうまくいっているのだ。今頃は順調に逢瀬を重ねて、絆を育てているのだろう。
どうなったのかを急いで知ろうとは思わない。これまで永い時を生きてきたのだ、いくらでも待つことはできる。
もし、うまくいかなかったので来る必要がなくなったのだとしても、今まで通りに忘れれば良いだけだ。
こう考えること自体、気になってしょうがないということなのかもしれないが。自分自身のことながら、よくわからないものだ。
「古き竜よ」
独り物思いにふけっていると、不意に声をかけられて意識を現実に引き戻される。
声をかけてきたのが何者なのかは確認を取るまでもない。
「またなにか相談したいことができたか?」
緑竜は沈黙したまま目だけで肯定する。
その表情はやはり堅い。さて、今回はなにを言い出すのやら。
「あれから娘と様々な話をしてきました。この間になってついに、あの娘が抱えている悩みというものが何であるのかを聞くことができたのです」
「ほほう?」
前に相談しに来たときは、娘は個人的な事情を語ることを拒んでいたと聞いた。それが、ついに思いを明かしたというのか。
娘は緑竜に対して徐々に心を開いていっている、ということなのだろう。事は良い方向に動いている、これは喜ばしいことと言えよう。
目前の緑竜には喜ぶ余裕などまったく無さそうで、気が気でないといった不安顔だが。
いったい娘からどのような話を聞かされたというのか。
「順を追って説明しましょう。あの娘は、この山の近くにある人里に住んでいます。そこで翼竜の世話をする仕事をしながら暮らしているのだそうです」
「ほう、翼竜飼いか。娘はなかなかの大役を務めているのだな」
翼竜とは、竜騎兵用の騎竜としてよく人間に使われている下位種の竜だ。
下位種といえども、その力と飛翔能力は人の身からすれば強大であるため、人間たちの間では切り札的な戦力として重用されている。
もちろん、そんな翼竜を育てる役を担う人間もまた、大きな責を負うことになるため尊重されるものだ。
「大役、だったのですか?」
「ああ、翼竜を馴らすことのできる者はそうそういないものでな。昔の話ではあるが、今も事情はそう変わらんだろうよ」
今の話を聞いて、緑竜は『おお』と感嘆の声を小さくあげる。
なにを考えているのやら。
「話を戻します。娘は周りの人間たちから『化け物の子』呼ばわりされて迫害を受けてきたそうです。翼竜の世話をするための能力が飛びぬけて秀でていたために、辛うじて追放などの憂き目に遭わずに済んでいるとのことですが、まともに人間扱いされない日々を送っていると、そう辛そうに言っていました……」
緑竜はとても忌々しそうに伝聞を語る。
双眸にどす黒い憎悪の炎をちろちろと浮かべているところを見るに、娘を苦しめている者どもに強い憤りを感じているのだろう。情熱的である。
「ふむ、そうなのか」
しかし、私としては何も感じることはない。
誰かを敵に見立てて迫害をする、そんなことなど人間にはよくある話である。とりたてて騒ぐような話ではないだろう。
緑竜が私を見てわずかに戸惑ったような様子を見せるが、すぐ気を取り直したようで続きを語りだす。
「家族はとうに亡くして頼れる者はいない、親しい者もいない。人里では辛くて苦しいことばかりだけど、他に行くあてもない。だから気を紛らわせるために、山歩きをよくしていたそうです」
「そしておまえと出会って、多くの時間を共にするようになったわけだな」
「そ、そういうことです」
からかいの言葉を一つ挟んでみると、緑竜は恥じらうような半笑いをして目をそらす。それは同時に、満更でもないといった感じの顔でもある。
「僕と話をしているときが、唯一楽しいと思える時間なのだと、何度も言っていますよ。何度も言ってるんですよ……?」
照れ顔が穏やかなはにかみになったかと思うと、次の瞬間には得意げな顔をして私の反応をうかがってくる。
竜だというのに、よくコロコロと表情が変わるものである。人間のようなその仕草はほほえましくあり、小生意気でもあった。
「そう、あの娘は、人里を嫌っている。だ、だから、あんなことを言い出してしまった。言い出してしまったんだ」
と、そこでなにやら様子が不穏なものに変わる。
緑竜の表情が再びガチガチに硬いものになると、急速に落ち着きを失っていく。
息遣いは乱れ、視点は合わず、全身を堅く強張らせる。
いつもの緑竜がついにこの場へ姿を現した。
どうやらここからが本題のようだ。気を引き締め直しておく。
「なにをうろたえておる。それで、なにがあったというのだ?」
「そ、それが、あの娘は、もう我慢しないと、もう人里を出て、この山に住むことに決めたと言い出したのです」
緑竜は両前足をわなわなと震わせながら、信じられないと言いたそうな迫真の顔でことを告げた。
「正気か? それは本気で言っているのか?」
「何度か問いただしてみましたが、明日明後日のうちに手荷物をまとめて人里を出て、山に入るとばかり……」
その発想はなかった。町から逃げるのならまだわかるが、竜が棲んでいるこの山に住むと言い出すなど誰が思うのか。
いや、この竜がいるからこその判断なのかもしれないが。
まっこと思い切ったことをやってみせる娘である。これまでに聞いた話の印象から、なかなか活発そうだとは思ってはいたが、想像以上のようだった。
「ああ、なんということだ。僕は一体どうすればいいのだ」
緑竜は人間がやるように頭を抱えだすと、その場にうずくまってぶつぶつと独り言を垂れ始める。
もはや今生に望みは無いとでも言わんばかりの苦悶ぶりで、今すぐにでも首をくくってしまいそうである。
確かに驚くべき話ではあるのだが、そこまで悶絶するほどなのだろうか。彼我の温度差が大きすぎて、こちらは逆に冷めてしまうというもの。
地に伏す緑竜を脇目にとらえながら、今の話を振り返って、どうしたものかと思案してみる。
娘が人里を見限って山に移り住む。そのように思い至った経緯はよくわかった。
では、この竜は娘の決断についてどう考えているのだろうか。確認するべきはそこだろう。
「いちいち取り乱すな。そうだな、おまえの意見を聞こうか。おまえは娘の話に賛成しているのか? 反対しているのか? どうなのだ」
「に、人間にとって、山は危険です。肉食の獣がうろついているようなところなのですよ? あのように華奢な娘がひとりで暮らしていけるか? いや、できるはずがない!」
「質問に答えんか」
「あの娘が傷つき倒れるようなことになったら、僕は、僕は……」
質問を投げかけてみても、まともな返事が来ることはない。
この竜はどうしてこう、ひとたび慌てだすと盲目になってしまうのか。まったく、よくこれで成竜になれたものだと呆れてしまう。
光を失って闇のなかで立ち往生しているのなら、私から手を引いてやって道を示してやるしかないか。
「そこまで心配なら、おまえが守ってやれば良いではないか。おまえも力ある竜だ、人間一人の面倒をみることくらいできるはずだろう?」
この竜はまだ若くはあるが、この山では私に次ぐ力を持つ実力者である。
実際、ここら一帯を縄張りとして支配して、ここ五十年は他の竜の侵入を一度も許さずに守ってこれている。それは、ここが古き竜たる私の縄張りでもあるからこそできたことではあるが。
この竜が娘の側に立っていれば、そこらの獣はもちろん、野良翼竜すらも恐れて近づくことはないだろう。むしろ町に住み続ける以上の安全を保障できるはずだ。
そんな思いで提言してみると、緑竜は突然に勢いよく顔を上げてくるので、予想外の動きに驚かされる。
うじうじと悩んで泣き顔をしていたのが、一転して満面の笑みに化けた。今の言葉を待ってましたと言わんばかりである。
「そうですよね! 僕の力なら娘を守ってやれる! そうですよね!」
「……おう、守ってやれ」
とりあえず無難な返事をすることしかできなかった。さっきまでの沈みようはなんだったのだと愚痴りたくなる気分だ。
立ち直った様子なのは良いとして、確認しておかなければならないことが残っている。
そもそもこの竜は、娘が人里を出て山に入ることを良しとしているのかどうかだ。
まあ、この様子だと訊くまでもない気もするが、念のためである。
「もう一度確認するぞ。おまえは娘がこの山の一員になることを受け入れるのか? 受け入れないのか?」
「僕は嬉しいです!」
答えになっていない答えを返されて閉口する。
苦悩と歓喜が合わさることで、頭の中のなにかが一つ二つはじけ飛んでしまったのかもしれない。
これ以上はもはや何を言っても会話が通じそうになかった。
「さあ、娘が不自由なく暮らせるように、すぐに準備を始めなければ! ……古き竜よ、ありがとうございました! 失礼します!」
緑竜は早口で自己完結してくると、足を滑らせて転びそうになるほどの大急ぎで飛び出していった。
怒涛の一方的展開にしばらく唖然としてしまったが、しばらくすると乾いた笑いが出てきた。
これまでのやり取りを振り返ってみると、『娘を守ってやれ』と言ったところで、一気呵成に話が転がっていった気がする。
これはあれか。結論はすでに決まっていたけど、行動を起こすきっかけを求めてここにやってきたとかなのか。ただ最後の一押しが欲しかっただけなのか。
確証はないが、そんな予感は強くある。
まったく、妙に迂遠なことをしてくれるやつである。やることがいちいち小賢しいと言うか、繊細と言うか。変に振り回されてしまう。
まあ、別に良いのだが。少々無礼ではあったが、興味深い話を持ってきてくれているのだし、とがめようとは思わない。
竜の心を掴んだらしい人間の娘が、これから竜が支配する山に乗り込んでくる。
山での暮らしはなにもかもが順風満帆、といくことは絶対にないだろう。この山は本来、人がいるべき地ではないのだ。ふたりの前途には、数多の苦難が待ち受けている。
近いうちに、またあの竜が相談しにやってくるに違いない。
次はどういった奇妙な相談事を持ってくるのか、内容がいまいち想像できないだけに、未知への期待もひとしおだ。
これから少し、山が賑やかになりそうであった。