第三話 目まぐるしい変化
緑竜の相談を受けてやってから十日経った。
あれから緑竜の悩みごとはどうなったのだろうかと気になってきたところで、時期をはかっていたかのように竜の羽音が空の彼方からやってくる。
あの緑竜がまたまたやってきたのだ。
緑竜は地に降り立って翼を収めると、捧げものの鹿を背より振るい落としてから、しけっぽい顔を向けてくる。その時点で、どんな話をしたいのかが知れた。
「例の娘の話だな?」
「はい」
出だしからすがりついてくるが、緑竜は気後れを見せるどころか悪びれもしない。これは普通のことだと言わんばかりの平然とした態度だ。
誰かに頼ることに抵抗は感じなくなったらしい。孤高の存在であるはずの竜がだ。
何度も相談したから慣れてしまったか、もはや恥も外聞もないと悟ったか、私をとことん利用してやろうとでも思ったか。
あるいは、人間の娘に感化されて何か心変わりでもしたか。
いずれにせよ、変に意地を張られたり畏まられたりするよりは、話をしやすいので良いことではあるが。
これからは、より気軽に相談しにやってくるのかもしれない。
「少しは人間のことを理解できるようになったか?」
「はい。以前よりは、人間はどのように考えて、どのように行動するのかが、わかってきたのではないかと感じています」
緑竜の表情に浮かんでいた憂鬱さがにわかに緩むと、暖かな雰囲気をまとい始める。
日々を生き抜くことに必死で余裕とは無縁な野獣のものだとは思えない、安らかさに満たされたその顔は、竜というよりは人間に近い。
「人間というものは……僕ら竜とは違って、繊細で、複雑で、感情が豊かなのですね。百と余年生きてきて、僕は初めて狩り以外に心躍るものを知ることができました」
感極まった語りからして、相当に感動しているようだ。
いくらなんでも順応が早すぎる気がしなくもない。これも人間の娘への執心が成せることなのだろうか。
「僕は、もっと人間を知りたい。あの娘のすべてを理解したい。そう思うと、あの娘と話すことに怖さを感じることはなくなりました。僕はこれからもやっていける気がします」
竜が人間などの異種族に惹かれるという例は、世界に目を向けるとまれにあったりする。
大抵は種族の違いという分厚い壁に阻まれることで現実を思い知って、早々に関係が冷めてしまうものだ。
だが今回は、そんな前例に当てはまることはなかったらしい。
この竜ならば、本当に人間との縁を成就させることができるかもしれない。
「最近は、あの娘が考えていることを察することができるようになってきました。おかげでだいぶ気が楽になりましたよ。あの娘と共に穏やかな時を過ごしていられる」
「それはなによりだ。ならば何も問題は無さそうなのだが、それでも私に相談したいことがあるというのか?」
尾を揺らしながら楽しそうに話をしていた様子が一変し、ここへ訪れてきたときに見せたしけっぽい顔に戻る。
その落差はまるで、遊びの時間が終わってしまったときの子どものようだ。いちいち笑える仕草をしてくれるやつである。
緑竜は黙り込むと暗い顔をしてうつむく。少しして、意を決したように面を上げると、本来の用件を語り始めた。
「実は……いや」
「実は、なんだ」
「その、それが……昨日のことなのですが、あの娘と話をしているときに、どうしてこの僕に会いに山へ来るのかと、初めてその理由を聞けたのです」
「ほほう?」
なぜ人間の娘は竜に会いに来るのか。それは私も気になっていたことだ。
「娘は言っていました。ここに居る間だけ、いろいろなことを忘れていられるからと。だから、これからも僕に会いに来ることを許してほしいと」
そこまで言って、緑竜は続きを話さない。
少しだけ待ってみるが、一向に話をしようとする気配が出てこない。今ので言いたいことを全部言いきったらしい。
「……それだけか?」
おもしろい話を期待していたのに、こんな当たり障りのない短い話をされるだけでは拍子抜けするというものだ。
緑竜は私の反応を見てか、やや慌てたふうに補足を入れ始める。
「あ、いえ、それがその、『いろいろなこと』は何かと尋ねてはみたのですが、私事だから気にしないでと言って謝るばかりで、教えてはくれなかったのです。
あの娘はときおり、ほの暗い陰を見せることがあります。なにか深い悩みを抱えているようなのですが、未だにそれを聞き出せていません。
まったく、なにが迷惑をかけたくないだ。なぜ素直に僕を頼らないのか……」
ひどく苦悩に満ちた語り口は、鉛のごとく重々しい。そのうち重みを支えきれずに潰れてしまうのではないか、そんな危惧を覚えるほどだ。
深刻にとらえ過ぎではないか。下手すると心を病んでしまいそうで、見ていて危なっかしくて仕方ない。
「あの娘が苦しむ姿を見るのは辛い。なんとかしてやりたいのですが、無理やり聞き出すわけもいかず……僕はどうするべきなのだろうか……」
胸の内の息をすべて吐き出すようにして言葉を出し切ると、視線を地面に落として口を閉ざした。
娘はこの緑竜に対して、まだ胸の内を明かしていないらしい。
その理由はなぜだろうかと考えてみるが……。
『娘は竜の同情を誘って、己の欲望のために利用しようと考えているのではないか』
『実は竜狩りを狙う人間が背後にいて、あの娘は釣り餌役を演じているのではないか』
『娘は無害であることを装っていて、心を許したところで不意討ちしようと企んでいるのではないか』
頭の中に嫌なものが続々とあふれ出してくるので、すかさず考えを遮った。
こういう話をしているときに、いちいち悪意を疑ってどうするのか。自分自身の心の器の小ささには辟易させられる。
気を取り直して、苦慮のあまりに泣き顔でしょぼくれている若い竜の姿を見下ろす。
このような顔をするようになったのは、つい最近のことだ。一年にすら満たない短い間で、本当に情緒豊かになったものだとしみじみ思う。
かつては感情を波立たせるどころか、表情を変えることすらもろくにしなかったのだ。野山に生きる獣にとって、情など不要なものだったから。
人の情を覚えてしまった竜は、これからも更なる変化を見せてくれるのだろうか。劇的な成長を見せてくれるのだろうか。
その行く末を見届けてみたいと思う。
だからこの竜と、この竜が心を砕いている人間を信じて、やるべきことをやる。
「そうだな、おまえが娘と出会ってから、どれくらい経ったかわかるか?」
「五十七と小半日です」
「……その間に何度顔を合わせた?」
「これまでに十二回会いました。あの娘は最短で二日、最長で六日の間隔で人里を出て、僕が棲む山へやってくるのです」
「お、おう、そうなのか」
問いかけてから即座に細かい数字を出してくるという謎の勢いに気圧されかけるが、なんとか平然とした顔を保ちきる。
「まだ付き合いは長くないではないか。気長に構えておけ。娘が必要だと思うようになれば、向こうから打ち明けてくるだろうよ」
「そんな悠長な! あんなか弱い生き物が危機にさらされて長生きできるわけがない! ああ、あの娘を救ってやるにはどうするべきなんだ。もたもたしていたら、知らぬ間に命を落としてしまうようなことがあるかも。そうなったら僕は……」
「このたわけが、気を急き過ぎだ」
居ても立っても居られないと慌てふためいている緑竜を見ていると、さすがに見ていられなくなる。
強い口調でたしなめると、緑竜は激しく身を震わせて怯えだす。しばし身を守るように伏せたあと、再び私を見上げてきた。
「し、失礼を。ですが、しかし、でも……」
「おまえ、娘が悩みを打ち明けないのはなぜか、一度でも考えてみたことはあったか? ないだろうな」
緑竜は答えない、というより、その考えはなかったといった感じで口をぽかんと開けている。
一度すらもなさそうだ。
「私の予想するところの娘の考えは、こうだな。『おまえは私的な悩みを預けることができるほど親しい存在ではない』……おい、しょげるんじゃない」
とたんに泣き出しそうな顔になる緑竜を素早くなだめておく。ここで心が折れてもらっては後が続かなくなる。
「誰かに悩みを打ち明けるということはな、勇気が要ることだ。よほど心を許した相手でもなければ、他者に心の内をさらすようなことなど、そうそうできないものなのだ」
「それだけのことに勇気が要るものなのですか?」
「そうだ。おまえだって、この私と相談しようと考えたときには、それなりに迷ったはずであろう?」
「そ、それはあなたが力ある竜だからであって……」
「おまえと娘はうまくやれてはいるようだが、まだまだ出会ってから日が浅い。頼ろうにも遠慮の気持ちの方が強くなるだろうな」
遠い昔の経験則をもとに持論を語ってみる。
考え方としては古いかもしれないが、人間の心の在り方というものは、いつの時代もそうそう大きく変わることはないはずだ。
こんな人間寄りの話をしたところで、竜の身では納得どころか理解できるかも怪しいが。
それでも、不安を晴らすための手がかりにでもなれば、と思う。
「気になるものは仕方ないだろうが、それでも今は深追いはせず見守るだけに留めておけ。引き続き娘との交流を深めることに専念せよ。
……案ずるな、竜のおまえに会いに人里と山を行き来するような活力のある娘だぞ? 知らぬ間にのたれ死ぬようなことなどそうそうないわ。それに、いよいよとなれば、そのときこそおまえを頼るだろうよ」
人間の娘に関しては伝え聞いたことしか知らないので、本当にそうである保証はなにもないが。そうであることを期待するしかない。
緑竜は地に鼻先をつけんばかりに深くうつむくと、ふるふると小動物のように身震いする。
今の話を聞いて、果たしてどう受け止めたのだろうか。静かに様子を見ていると、緑竜はぱっと顔を上げる。
情けなさのない、悪くない目だ。少しは勇気づいたように見える。
「僕は、焦り過ぎていたのでしょうか」
「くくくっ、それはもう無様だったぞ」
含み笑いをしながら正直な感想を述べてやると、竜はとても恥ずかしそうに目をそらす。
それから無言で翼を広げると、逃げるように爆速で飛び去っていった。
まったく、落ち着きのない奴である。
静けさが戻ってきた洞窟で独りたたずみながら、近い将来に起こるであろう出来事に思いをめぐらす。
あの緑竜は、きっとまたやってくるだろう。
それはいったい何日後になるのだろうかと考えると、久しぶりに愉快な気持ちになれた。