シュリーマン
「修さんって、めちゃめちゃ仕事入れてないですか?」
「うん、めいっぱい入れてる。」
私の前の席に座った二人は、両方とも作業着姿で、近所に建築中のビルがあったから、おそらくそこで働いているのだろう。一人は若く、修さんと呼ばれたほうは多少年取ってるようだが、中年とまではいかない感じだ。若いほうが正面に、修さんは背中を向けて座っている。
ここは、いわゆる大衆食堂というようなところだ。昼にうまい定食を食べさせる。チェーン店ではなく、出てくるものは冷凍食品やセントラルキッチンであらかじめ仕込まれたものではない。簡単なメニューだが、店で作っている。もうこんな店は少なくなった。
「外車でも買うんすか?」と若いほうが尋ねる。おそらく彼自身の願いなのかもしれない。
「いや、車は今ので十分。」と修さんと呼ばれた男が答えて、顎をしゃくる。その先の窓の外、かなり古い軽自動車が停まっている。古いが手入れはきちんとされている。無趣味で実用一点張りの車。この修さんという男、着ているものや靴なんかも使い込んでいて、そのどれもが年季の入ったものだが、不潔な感じはない。ちゃんと洗濯されているもののようだ。清潔だが、しかしながら干すときにまで気を使うタイプではないらしい。
シャツの肩にピンチの跡がついている。
店員が注文を取りに来て二人は定食を注文する。若いほうは焼肉定食、修さんは納豆定食だ。
「修さんいつもそれですね。納豆は俺ダメだなあ。」
「うん。これが一番安いだろ。栄養満点だし。」
それを聞いて若いほうが納得したように言う。
「やっぱりなあ。なんでそんなにお金貯めてるんですか?仕事終わりに誘っても呑みにいかないし、パチンコとかもやらないし、独身だし、現場ではめいっぱい仕事して、残業もするけど、終わったら即、帰っちゃうし。いい人がいて、その結婚資金とか?」
「そんな人はいないよ。」と修さんは笑い飛ばす。
「まあ、あんだけ働いたら、疲れますよね。帰ってゆっくりしたいですよね。ところで昨日のドラマ見ましたか?今流行りの。面白いっすよ。」
「いやテレビは見ないんだ。テレビは家にないから。」
「えーっ。テレビないんすか?」若いほうが驚いて大きな声を上げる。彼にとってテレビのない生活は考えられないらしい。
「テレビないと、することないっしょ?何してんすか?」
「うん、英語をね。ちょっとやってんだ。」
何気なく聞いていた二人の会話だったが、ちょっと集中して聞くことにした。
修さんの前に座っている若い男、彼に劣らず、この修さんという男に私もかなり興味がわいてきたからだ。
「英語ですか?ひょっとして海外に移住したいとか?」
私もまずはそう考えた。修さんは海外で何か事業でも始めたいのではないか?
それとも貿易関係か?
「移住まではいかないかな。でも海外に行きたいのは確かだよ。長期滞在っていう感じかな。でもどこの国に行くのか、まだわからない。英語なら大概どこでも通じそうだし。と言っても国内にいるかもしれない。」
「旅行でもないんですよね。山でも登るとか?」
「うーん。山に登ることはあるかもね。場所と目的によってはね。」
「目的?宝探しですか?」
どうせ当たらないと思ってか、若い男は何でも言ってみる気になったようだ。まさかなあ。
「そうだなあ。その言い方が近いかな。」
おっと。
修さんは金鉱でも見つけようというのだろうか?先日大きなタンザナイトの原石が見つかったそうだが、見つけた本人は一生遊べるほどの大金を手に入れた。ただ、この話には後日談があって、彼は全額寄付したそうだ。貧しい子供が学校に行けるようにとのことらしい。
そうしたものを狙っているのか。
それとも、一獲千金を狙った山師ということなのだろうか。ちなみにタンザナイトを見つけた人は偶然だった。それが欲しくて、狙って見つけたわけじゃあない。彼の本職は牛飼いで、見つけたのは鉱石に関するイベントに出ての事だった。狙って見つけるのが山師ならば、狙って見つけられる宝など、そうそうあるものではなくなっている気がする。したがって山師と呼ばれる人もそうそういるものではないと思う。
だいたい、山師という言葉は聞いたことがあるが、山師そのものには会ったことがない。
そもそも山師自体、今でもどこかに存在しているのだろか?
それにこの修さんという人物、山師という柄じゃあないように見える。もっとも、山師に会ったこともないのだから、私の山師像は物語に出てくるような、かなりそれっぽくデフォルメされた人物造形のものである。私の山師のイメージに一番近いのは、あの石油時代の幕開けに米国で油田を探して歩いた人々だ。と言っても、それすら、映画の中で見ただけに過ぎない。ゼア・ウィル・ビー・ブラッドのダニエル・ディ・ルイスが元ネタだ。あのダニエルのいつもながらの怪演が私のイメージを作り上げているのだから何とも怪しい。それでも、遠くはないのだろうという妙な確信はある。何せあのダニエルなのだ。その意味ではすっかり彼の演技に魅了されているともいえる。しかしながら、現実はさらに上を行っていて、インテリヤクザではないが、ダニエルの演じた山師とは正反対の、真摯な山師というカテゴリーも案外ありうるかもしれない。
「まあ、山師かな。」
うーん。現実は上を行くものだ。
いよいよ私はこの話の帰結がどこに行くのか、気になって仕方がない。
その間、注文の定食が届いて、会話は途切れる。
若い男と同様、会話の再開を私もまた待ちわびている。
「シュリーマンって知ってるか?」修さんはしばらく考えているようだったが、おもむろにそう尋ねた。山師の説明をしてくれるのだろうか?
それとも話を変えたかっただけなのか?
「誰ですか?それ?」若い男ははぐらかし始められたと思ったようだ。知るわけないといった口調があからさまだ。確かに場末の大衆食堂でシュリーマンの話題を聞くことは少なかろう。
また、若い人がシュリーマンを知らなくても無理はない気がする。
それが私の考える、ハインリッヒ・シュリーマンだとして。そういうことならばこの後の展開も読めるというものだ。ハインリッヒは山師。つながるではないか。
ただ、もしかしたら、ハインリッヒではなくどこかの別のシュリーマンかもしれないが。
こういう勘違いはよくあることだ。先日も私は‘’あつもり‘’が好きという女性に、えらく渋いものが好きなんだなと言ったら怪訝な顔をされた。
人間50年の敦盛だろう?というとさらに怪訝な顔をされる。
どうやらそのようなゲームがあるらしい。私はゲームをしない。私の家にもテレビがない。
だからこういうことはよくある。
「じゃあトロイは?ブラッド・ピットの出てた映画、観たことある?」
「あ、知ってます。観ました。決闘で、大男にブラピがカッコ良く勝つやつですよね。」
「そう。あの映画の舞台になった街があったろう?木馬をプレゼントされた街。」
「ああ、なんとなく思い出しました。トロイの木馬って言葉もありますよね。意味は分からないけれど。」
「あの町は、伝説と考えられていたんだ。長い間。で、あの町が実際に存在したことを証明したのがシュリーマンだ。彼はトロイの失われた遺跡を発見したんだ。」
「インディ・ジョーンズみたいなもんすか?」
「その通りだよ。」
「なんだ、初めからインディ・ジョーンズと言ってくれればよかったのに。なるほど、だから宝探しなのかあ。確かに外国にもいかないといけないだろうし。英語はできたほうがいいっすよね。費用も掛かりそうだし。そのために貯金してるんですね。インディ・ジョーンズになりたいとはなあ。わかるような気がしますよ。楽しそうだし、儲かりそうだ。」
若い男は、話が全く自分の知らないところから、何とか知っている話になってきたことで、少しほっとしたようだった。言葉数が増えて、一気にそこまで言ってしまうと、口いっぱいに焼肉をほおばる。しばらくは話せないだろうが、これで話も終わりのように見えた。納得はしたものの突拍子もないといったところなのだろう。若い男の関心はすでに修さんにはないかのように見える。関心ごとの主は焼肉定食にシフトだ。
だが、私はちょっと引っかかっていた、確かに今のことだけを説明するならば、インディ・ジョーンズで十分なのだ。わざわざシュリーマンを出すことはない。インディ・ジョーンズのほうが、この世界ではハインリッヒ・シュリーマンよりもはるかに有名だからだ。
その功績とは関係なく。
修さんもここで話を終わらしてもいいようだった。どうせ、この若い男とは短い付き合いなのだ。現場が終われば、もう会うことはないだろう。勘違いされたままでも構わない。彼に話を分からせたところで、何の得もない。
でも、修さんは真摯な山師なのだった。
「シュリーマンを例に出したのは彼の生き方に励まされるからだよ。」
再び修さんは語り始めた。
一方で若い男の関心はもう戻らない。そうすか、何て言いながらもぐもぐやっている。
それでも修さんは語り始める。
「シュリーマンは貧しい家の出だ。昼間は肉体労働をやりながら、それでも、何とか自分の夢を実現させたいと思った。で、彼は家に帰ってから、まずは勉強することにした。」
「へぇ。俺だったら、本を開いたとたん寝ちまうなあ。」絶妙の合いの手だ。
修さんもそう感じたのだろう。声に笑いが含まれている。
「そう。だからシュリーマンは自分が寝ないように見張りを雇った。貧乏だったから、先生を雇う金はなかった。でも見張りだったら雇う事が出来たんだ。」
「かなり本気を感じますね。で、何の勉強をしたんすか?」
「言葉だよ。もともと才能があったのかもしれないけど、九か国語が話せるようになった。そのうちの一つ、ロシア語が話せたおかげで、ロシアとの貿易で稼ぐことができた。その貿易が大当たりして、大金持ちになり、好きなことが好きなようにできるようになった。で、トロイを見つけたんだ。」
「へぇ。すごいな。」
「だろう。それにこの話のいいところは、思い出すと俺も頑張ろうという気になれるということなんだ。だからインディ・ジョーンズじゃあないんだよ。眠い目をこすりながら、なけなしの金をはたいて人を雇い、あてもなく、とりあえず本を読む。九か国語出来るようになったのだって、直接役に立ったのはロシア語だけだから、他の八か国語は無駄に見える。でも、そういう一見無駄に見える積み重ねが運を引き寄せてくれるという話に思えるんだよ。もし彼がほかの一か国語だけで満足して居たら、トロイの発見はなかったかもしれない。」
「外国語一つだけでもすごいと思いますけどね。大きな事やる人はやっぱ突き抜けてるなあ。ところで、この人はいつの時代の人なんすか?」
「江戸時代の終わりくらいだよ。ドイツの人だが、そのころ日本にも来てる。」
「え?そうなんすか?」
「うん。その当時の旅行記が残ってる。彼によると、日本人はわいろを取らなくて潔癖。街中や家の中も同様にシンプルで清潔。ただし、皮膚病が蔓延して、皆肌に病気の跡が残ってる。そのためかどうかはわからないが、皆全身に入れ墨を入れていて、裸で歩いている人がほとんどだけど、皆服を着ているように見えるようだと書いているよ。」
「へぇ。なんか時代劇からは想像つかないな。外国の話みたいだ。」
「面白かったのは、大衆浴場は混浴で、皆裸を恥ずかしがらない。シュリーマンが風呂屋の前を通ると、珍しさのあまり皆裸のままで、見に出てくるとある。」
「混浴?大丈夫なんですか?」
「それはシュリーマンも心配だったらしい。犯罪は起きないのかと、心配のあまり案内の役人に聞いている。役人は何も起こらないと返事している。昔からずっと混浴なのだと。まあ、それでもなにか事件はあったんだろうな。誰かの将軍の時に法で規制したが、誰も言うことを聞かなかったそうだ。まあ、風呂屋側の都合かもしれないけどね。改装しなくて済むからな。でも、男女が互いの裸に慣れきっていたのは事実だろう。」
浴場で欲情しないという言葉が私の頭をかすめて、我ながら、ニヤリとしながら続きを聞く。
おやじギャグは言葉にしない限り罪はない。誰かが言っていたが、おやじになると、言っていいことと悪いことの区別がつかなくなり、とりあえず思いついたことを口にしてしまうらしい。その結果としてのおやじギャグだ。まあ、子供と似ている。人は赤んぼに始まって、赤んぼで終わる動物らしい。その段で言えば、おやじ期は大人を過ぎて、子供期なのだろう。
「浴場で欲情しなかったんですね。」どうやら彼は、子供期のようだ。まだ、というべきか。
「面白いだろう?日本人の残した資料からではわからない。あまりに当たり前の事すぎて、わざわざ書かなかったのかもしれないけど。シュリーマンが日本に来なかったら、埋もれてしまった事柄だったかもしれない。」
「シュリーマン、さすがですね。」
「そう。やはり見る目がちょっと違うというか、きちんと物事を見ているというか、そんな気がするな。当時、日本は貧しくて、でも清潔だったから、今でいうミニマリストみたいな感じだったんだよ。物はないが、貧乏くさくない。シンプルな生活。それも書かれていて、ドイツはこういった事柄から学ばなければならないと言っている。」
「なんか、うれしいっすね。」
「だろう。そのこともあって、余計に意識するのかもしれない。同時期に中国にも行ってるが、こちらはぼろくそ書かれている。アジアに偏見があったわけじゃあない。見たまんまをそのまま素直に書いてるんだよ。」
「で、そのシュリーマンに見習って、何を探すんすか?」
そう、それそれ。そこが大事だ。アトランティスあたりなのかな。
「今の第一候補は、ネッシー。正確にはネッシーと呼ばれている、未確認の生物だよ。」
なんと。
「恐竜・・・ですよね。プレシオなんとか。」
「恐竜じゃあないかな。今は大きなウナギだといわれているよ。」
「うなぎですか。なんだか・・・」
「夢がないか?普通の人にとってはそうかもしれないな。首長竜の生き残りだという説からすると、物足りないよな。でも、2004年には50メートルある巨大な何かが水面下にいるのが、アップルの衛星システムを使って写真に撮られているんだよ。これなんかは見た感じジンベイザメに似ているけどね。」
「50メートル!ですか。そうなってくると、探しがいありますね。」
「まあ、正直50メートルはどうかと思うけどね。水深こそ琵琶湖の倍ほど有るけれど、面積は十二分の一しかないからなあ。餌のことを考えると、ちょっと無理かなあと思うね。でもね5メートルだっていいんだよ。新種の生物が見つかればそれでいい。」
「新種の生物ですか。」
「そう。未知生物学っていってね。この分野のファンは多いんだよ。実際には年間で二万種類ほどの新種の生物が見つかってる。だいたいがカエルとかハチとかアリとか小さなものが多いけどね。巣を守るために自爆して毒をまき散らすアリなんてのも発見されている。でもオランウータンの新種なんてのもあって、これは2017年の事なんだよ。最も人に近い類人猿と呼ばれているよ。これなんかは、イエティやビッグフットのマニアには受けたね。」
「雪男っすね。」
「そう。まあ、新種の生物もロマンがあるけど、もっとそそられるのは、絶滅したと考えられている生物の生き残りを発見することかなあ。雪男なんてのは、ネアンデルタール人かもしれないし、ネッシーはステラーカイギュウかもしれないし、モケーレ・ムベンベはメガテリウムかもしれない。」
「ふーん。」どうやら一気に並べられて、若い男は、もう、すべての説明を聞く気はないらしく。一言でコメントを済ませた。
ネアンデルタール人が生きていて、未知生物になって語られているというのはSF好みの設定である。サピエンス以外のホモ属の最も新しい生き残りは、ホビットと呼ばれる小さな種族がいるが、これは当初の数字であった一万年前まで生息していた、からどんどん年代が古くなっていっている。ステラーカイギュウは大きなジュゴンみたいな生物で、遭難したベーリング探検隊の生き残りが発見して、同時に、狩りつくして絶滅させてしまった。北の海に棲んでいて、ゆったり泳いで、大人しく海草なんかを食べていたらしい。ステラーというのはその時の乗組員の名前だ。これは北海道や千葉県でも化石が出てるし、スコットランドに居ても不思議はないだろう。ネス湖は淡水湖だが、陸と陸の間の隙間のような湖でプレートテクトニクス的にヴェーゲナーの目でここを見ると、もともと切れていた陸地同士が引っ付いたようにも見える。海洋生物が陸封された可能性はあるかもしれない。私もこういったことが大好きなのだ。トルコのヴァン湖でジャノと呼ばれる生物がビデオに撮られた時には興奮したものだ。私はこれが、ステラーカイギュウかもしれないと思ったものだったが(ヴァン湖は塩湖なのだ)、ビデオを撮影した大学の助手が別の捏造事件で行方不明となって、残念な結果に終わってしまった。
メガテリウムというのは大きなナマケモノである。草食で、鍵爪があり、象くらいの大きさだから、コンゴのジャングルの湿地帯に棲んでいて、‘’川をせき止めるもの‘’という意味のモケーレ・ムベンベの目撃談(草食、鍵爪、大型)に合う気がする。ナマケモノと湿地帯は合わないようにも思えるが、カバのように水生の大ナマケモノもいたそうだ。化石は南アメリカで発見されるのだが、そっくり同じような別種がアフリカにいても不思議はない。
ちなみにメカジキとマカジキはそっくり同じ形だが、別種の生き物だ。こうしたことが自然界では時々起きる。
「でも、どうしてそんなことに興味をもったんすか?」と若い男が言う。専門的な話は彼にとっては退屈なのだろうが、こういったことならまだ聞くことが出来るのだろう。私も大いにそこには興味があった。なかなかいい質問だ。いいぞ。
「うん。昔の話だけどね。大学生が集まって、コンゴまで、モケーレ・ムベンベを探しに行ったことがあってね。」
その話なら知っている。私はリアルタイムだった。ちょうど彼らは同年代で、新聞の隅にその記事が載った時に、見た記憶がある。何の根拠もないが、先を越されたと感じたものだ。
「もちろん大学生だから、資金にも限りがある。それを大手の企業とタイアップを結んで、協力を取り付けた。そこの会社の携帯食料を持っていくことにしそうだ。まあ、宣伝だね。国内ではそうしてなんとか目途をつけて、現地に飛んだわけだが、そこでもいきなり障害があった。まず、コンゴは治安が悪い。外国の大学生がそういった治安の悪い地域に入っていくこと自体が危険とみなされて、なかなかその場所へ行くことすら大変だったそうだ。その場所と言ってもこの段階ではまだ入り口に過ぎない。発見地自体はジャングルの最奥部だ。ちなみに発見者と自ら名乗る人物はとても胡散臭かったそうだ。それでも入り口の困難を乗り越えて、ジャングルに踏み込んだ。何日もジャングルを歩き続け、病気になり、高熱を出しながらも進み続け、意見の違いからけんかになりと散々な目にあったが、ついに現地にたどり着いた。そこはテレ湖という湖だった。そこでも彼らはある壁にぶつかった。テレ湖の水深は二メートルほどしかなかったんだ。彼らの考えの中には少なくともネス湖の様に水深がとても深いという期待はあったと思う。水深が二メートルしかない湖なら大きな生物は常に見えていることになるからね。それでも、目撃談の中には周辺の水路というものもあるし、周りはネス湖と違ってジャングルだから、隠れるところはたくさんある。そこで彼らはその場所に40日間滞在したんだ。だが、何も見つけられなかった。」修さんはそこまで一気に話すと、ゆっくりと、お茶を飲みほした。
「詳しいですね。まるで修さんそこに行ったみたいに聞こえましたよ。」
確かに。
「うん。まあね。その探検に行ったメンバーの一人がその経験を本にしてくれていてね。この本は何度も何度も読んだんだ。それに・・・」ここでまたお茶を飲む、ゆっくりと。
「この時の探検隊のメンバーの一人に僕はちょっとゆかりがあるんだよ。その人の遺志を継ぎたいというのでもないけどね。同じような経験をしたいんだ。だから、ネス湖の前でずっとキャンプをしながら、何も見つからなくても、それはそれでいいんだよ。シュリーマンの本は、その人の部屋にあった。そういうことなんだよ。」
この修さんという男。確かに私の息子くらいの年と言えないこともない。あの時の探検隊の誰かの息子なのだろうか?まさかな。
二人はそこで立ち上がった。そして会計をして、出て行ってしまった。
外にある古い車に乗って、現場に帰るのだろう。
誰もいなくなった食堂で、私は自分の少年時代の事を思い出していた。
中学の通学路に面して、人気のない公園があった。
公園の奥には池があって、その地区の水路を束ねる役目をしていた。ちょうどその水系の中心地のようなものだ。普段は釣りの時にだけそこに訪れる。通学の途中でわざわざ公園の奥の池にまで行ったりはしない。しかし、その日だけは何となく予感がして、学校から家に帰る途中で、池の端まで行ったのだった。そんなこと、後にも先にもあの一日だけだった。
そして、池の浅瀬であいつに会ったのだった。
大きな魚だった。明らかに異質な魚体を悠然と水中で静止させていた。ひれだけを波打たせて、私が近寄っても平気だった。体色はきれいな黄金色で、虫の這った跡のような黒い筋が全身にあった。静かにこちらを見ていた。こいつに呼ばれた、と何の疑いもなく、そう思った。時が停まるとはこのことだと思った。音も聞こえなくなった。長い時間だったのか、一瞬だったのか、それも覚えていない。しばらくすると、そいつはこっちを見たままゆっくりと深みに消えていった。魔法にかかったようだった。
音が戻ってきて、それは自分の鼓動だった。何事もなかったかのように通学路に戻り、普通に家に帰った。それから、図鑑で調べたが、絶対に載っていない自信があった。やはり載っていなかった。
何年かして、そいつの仲間を、熱帯魚店で見つけた。大型水槽に入っていて、もう魔法は効かなかったが、どういうわけか一緒に行った友人がそいつを怖がった。向こうは水槽の中に入っているのに。いや、同じ水中にいたとしても怖がる必要はない。
シクラソマ・マナグエンセ。それがこの美しい生き物に人類が与えた名前だった。
なんでもない話だ。きっと、飼いきれなくなった個体を池に放流したのだろう。
南米の熱帯魚だから、冬を越せたとは思わない。そのまま死んでしまったのだろうと思う。
しかしあの魔法の瞬間。異質な生物と自然の中で出会う瞬間のあの興奮。
生物の持つあの不思議な力。
滅んで行く運命に逆らいながら、自らの語り手に我が身をさらす。
修さんはその興奮を味わうことが出来るだろうか。私も含めて、彼だって学者ではないのだから、捕獲までは考えていないだろう。見るだけでも十分なはずだが、修さんは‘’同じような経験‘’が出来ればそれでいいと言った。控えめな言い方だ。
私はまたここで修さんの話を聞くことが出来るだろうか?
その時は是非控えめでない彼の話を聞きたいものだ。
だってシュリーマンは全然控えめじゃないから。