8 仮病と重傷
魔力には土、水、火、風、聖、闇の六属性があり、魔法を使える人間は人口の二割程度だといわれている。その中でも聖の魔力を宿す者は一割にも満たない。回復魔法の使い手は、とても希少なのだ。
神官となるのに魔法の能否は関係ないけれど、高位職に就くためには魔法技能が不可欠だ。儀式で必要とするほか、権威付けの意味合いもある。そのため、みだりに魔法を使うことは禁じられていた。それは聖魔法も同じであり、願うものすべてに治療が施されるわけではなかった。
魔力の保有量は個人で決まっている。魔法の使用回数には限度があり、無理をして使い続けると最悪死に至る。魔力量を増やす方法は見つかっているけれど、進んで試す者はいないのが現状だ。
ソルトゥリス教会が擁する神殿騎士団は、魔法が使えずとも入団できる。しかし各領地に出現した上級ランクの魔物討伐を主としているため、身体強化魔法が使えない者は相当の努力と才能が必要とされた。
――ウォーガン様は土の魔力で、防御力の上がる身体強化が得意なんだよね。
魔力の講義を受けているジルは、聖にも身体強化魔法があるのだろうかと考える。戦場において癒し手は最後方で護られ、前線で戦うなどもっての外だ。聞いたことがなかった。今日これからのことを思えば、少しでも防衛手段を増やしておきたかった。けれど、一朝一夕では使いものにならないだろう。
そろそろかな、とジルは壁の時計を一瞥する。片手で胸元を押さえ、おもむろにもう片方の手を上げた。
「すみません。気分が悪いので……救護室に行っても、いいでしょうか」
「構いませんよ。久し振りですね。一人で行けますか?」
「……はい。ありがとうございます」
眉間に皺をよせ、弱々しく立ち上がる。ジルは胸元を抑えたまま、後方の扉から講義室を出た。講師は、エディと頻繁に入れ替わっていた昔のことを覚えていたのだろう。疑われることはなかった。
――真面目に受けてくれていたエディのお陰だ。終わったら何かお礼をしよう。
一般開放されている礼拝堂は許可がなくとも出入りできる。けれど聖女との謁見には、聖堂棟三階の深部にある祭壇が使用される。側付きがいるのはそこの扉前に違いない。ジルはリシネロ大聖堂の西棟二階にある講義室から、咎められないぎりぎりの速度で足を急がせた。
◇
衛兵が二名、閉ざされた扉を護っている。そこから少し離れた東側で、ユウリと侍女が主の退出に控えていた。
白い大理石の床が眩しい。長い長い廊下に、明りとりの窓から陽が折り目正しく差し込んでいる。参拝に訪れる教徒達の喧騒は聞こえない。まるで生物の一切を拒絶するような静謐が、そこに横たわっていた。
今、この場で動いているのはジルだけだ。ブーツの踵が、静止した空気を破る。
衛兵は彫像のごとく動かなかったけれど、向けられた威圧感に警戒されているのを肌で感じた。次の一歩を踏み出すのが怖い。それでもジルは、上職の用命に従っているのだという装いで努めて平静に、ゆっくりと廊下を進んだ。
扉の先に興味は無いとばかりに視線を下げ、衛兵の前を通り過ぎる。そして初めて、そこに人が居たのだと気が付いたようにジルは顔を上げた。
目を丸くしたユウリと瞳が交わる。神官見習いに、こんなところで遇うとは思っていなかったのだろう。何か言おうと開きかけた口は、しかし直ぐに閉じられた。祭壇へと続く、磨き上げられた扉が開いたのだ。
身廊を通り、両開きの扉から黒髪の男性が出てくる。眩い空間に差し込まれた暗色は人心地がつくようで、瞳にやさしかった。ジルは間に合った、同志を助けられるという安堵から目を細める。突如現れたジルに驚いたのだろう、ナリトは息を呑み目を丸くしていた。
――二人とも同じ顔してる。本当に兄弟みたい。
その時、これまで控えていた侍女がユウリの脇を駆け抜けた。ナリトの隙を見逃さなかったのだ。突き出されたナイフが陽光を反射する。ジルは硬い廊下を蹴り侍女の前に身を躍らせた。動きに迷いは無かった。戦う術はまだ持っていない、自己回復しかできない。今のジルが採れる方法は、これしかなかった。
腹部に刺さった刃は、異物であると主張するようにひやりと冷たい。次いでジルは、ひりついた痛みと声にならない眩暈に襲われた。