2 姉と弟
「よし、完璧」
薄いカーテンの外はまだ暗い。寝台と物書き机、そして小さなクローゼットが置かれただけの簡素な部屋に澄んだ声が落ちた。
壁にかけられた古い鏡の前でジルは自信たっぷりに笑んだ。直後、しまったとばかりに上げた口角を一文字に結ぶ。弟のエディは感情をあまり顔に出さない。いつもは片側に流した前髪を下ろし、肩まで伸びた後ろ髪を一つに結べば、鏡のなかには小姓姿の弟が立っていた。
冴えた月光のような銀の髪に、釣り目がちな紫の瞳。十歳のジルは三歳年下の弟とよく似ていた。背丈は勿論のこと、声もそっくりだと寄宿舎で暮らす同僚に言われていた。
「おはよう、エディ。でもまだ起きなくて大丈夫だよ」
「おはよう。でも……」
衝立をはさんだ向こう側で人の動く気配がした。魔石ランプの光量は絞ったつもりだった。けれど、同室で眠っていた弟を起こしてしまったようだ。返ってきた挨拶の声がかすれているのは、寝起きのせいばかりではない。
「まだ具合が良くないんでしょう? 今日の午前中は座学だから、もう少し眠れるよ」
隣の寝台に近づき、起き上がろうとする弟をそっと押しとどめる。額、首筋と順に手の平をそえれば発熱がうかがえた。それでも昨夜に比べれば熱はずいぶんと引いたようだ。ジルの手が冷たくて気持ちがいいのか、エディの呼吸はやわらいでいる。
「いつも、ごめんなさい」
「何を言ってるの、私の方こそ助かってるのに。ずっと座りっぱなしなんて退屈だよ。それじゃあ行ってくるね」
エディはかすかに眉尻を下げ、目だけでジルを見上げている。その視線へジルは笑顔を返し、部屋を後にした。勉強よりも体を動かすほうが好きなのは嘘ではない。しかし何よりもジルは、唯一の肉親である弟の世話を焼けることが嬉しかった。
今日はローナンシェ領へ魔物討伐に行っていた神殿騎士団が帰ってくる予定だ。まだ夜は明けきっていないけれど、滞りなく迎えられるよう持ち場に就いていなくてはいけない。食堂によって朝食兼昼食用のパンを包み水筒を鞄に押し込むと、ジルは足早に寄宿舎を出て行った。
◇
ジルとエディの姉弟は二年前までローナンシェ領、通称土の領地に住んでいた。
生界の北部に位置し、領土の三分の一は永久凍土に覆われている。とはいえ土地は広大で、南部へ向かうほど暖かく生界一の穀倉地帯を有していた。
ジルが生まれた村は中央より北にあった。そこでは寒さに強い麦や芋を育てており、貧しくともなんとか食べることができていた。五歳の弟は体が弱いこともあって満足には働けず、一番の働き手である父は三年前から帰ってこない。そして母は、家にいない日が多かった。だから八歳のジルは近くの農場主を頼り、毎日の食事を稼いでいた。
魔物が襲来したのは麦の収穫をひかえた秋、弓ノ月に入ったばかりの頃だった。その日の風は肌を刺した。氷の壁に囲まれているような底冷えする夜だった。
いつものように母は家にいなかった。弟と二人、くたびれた布団にくるまって暖をとる。本当は薪を燃やしたかったけれど、いま使ってしまうと冬の分が足りなくなってしまうから我慢した。
少しでもあたたかくしようと弟の手に息をかけている時、氷の鞭を振り下ろしたような風音がした。気が付けば正面にあった粗末な土壁は無くなっていた。直後に土くれや木片が飛んできたけれど、家のすみで丸くなっていた二人は運よく生きていた。
ジルはこれまで誰それが魔物に襲われたという話は聞いても、自分の目で見たことはなかった。だから初めは、嵐がきたのだと思った。
弟を抱える手足は震え、思うように動かせない。思考も凍りつき、歯の根が合わず硬い音を立てた。ただ目だけは大きく開いており、何が起きたのか知ろうとしていた。けれどその視界の半分は、ぬるりとした温かな液体で塞がれてしまった。
ガタつく手で反射的に拭ったそれは、赤い色をしていた。そこから先の記憶はあいまいで、痛みに滲んだ瞳はガラスのような鱗に覆われた何かと、掌に浮かんだ淡い光を映して暗転した。
目覚めたジルは教会にいた。姉弟を保護し、ここまで運んで来たのは魔物討伐に赴いていた神殿騎士であること、村の生き残りはジル達二人だけであったことを聞かされた。
孤児となった者はそのまま教区の孤児院に預けられるのが通例だ。しかしジルには稀少な聖の魔力が宿っていたらしく、身柄は祭政を司るソルトゥリス教会の総本山に移された。
魔法が使えないエディは孤児院に入る予定だったけれど、弟は体が弱いから自分がいなければダメだとジルは言い募った。姉弟ともにひと時も離れたがらなかったため、根負けした騎士は二人一緒に教会領へ連れて行ってくれた。