14 神官と宿屋
その神官はずいぶんと若くみえた。ふわふわと柔らかく肩まで伸びた飴色の髪に、若葉が萌える緑の瞳。ジルとそう変わらない幼い顔立ちをしているけれど、身には神官を表す浅縹色の法衣をまとっていた。
若い神官はジルと目が合うなり動揺して歩みを止めた。しかし伸ばされた商人の手が視界を掠めたのだろう、やや逡巡したあと、意を決した様子で足を踏み出した。
「何か粗相がおありでしょうか。お話でしたら僕が伺いましょう」
大聖堂へどうぞと続け、神官はジルの左腕を一瞥する。それが意味するところは無期限の入領禁止だ。商人はすぐに手を離した。若くても神官には違いない。分が悪いとみた商人は清掃の礼をしていたのだと苦しい言い訳をして、部屋の扉を閉めた。
これまでにも声をかけられたことはあったけれど、腕を掴まれたのは初めてだった。左腕の圧迫感はなくなったものの、感触はまだ残っている。赤くなっているかもしれない。ジルは知らずに詰めていた息を吐きだした。
「腕の他には……?」
「ありません。ありがとうございました、神官様」
若い神官は眉尻を下げて、気遣わし気な視線をジルに向けている。商人にみせた毅然とした態度とはずいぶんと異なっていた。ジルはお辞儀をして感謝を伝える。しかし神官の顔はなおも晴れない。
「僕が聖魔法を使えたら良かったんですけど……。左腕、ちゃんと手当してくださいね」
「は、はい。ありがとうございます」
まさか腕を掴まれただけで魔法が出てくるとは思わず、返答に間があいてしまった。もしや聖魔法が使えたら、この神官は実行したのだろうか。魔法はみだりに使用してはいけないと教えられている。安売りし過ぎでは、そう思うのと同時に、とても優しい人なのだろうとジルは思った。
それからジルは清掃の続きがあるからと辞去し、次の部屋へ向かった。六部屋目は未使用だった。そのことに思いのほか安堵した自分に驚いた。先ほどの動揺が残っていたのだろう。心を落ち着けるため、六部屋目はゆっくりと掃除した。
七部屋目、ここで客室の清掃は最後だ。お昼までには終わりそうだとジルは胸を撫で下ろした。扉を叩いて入室の許可を求めると、すぐに了承の返答があった。扉は締め切らず半開きにしておく。ジルは草礼し、宿泊客に挨拶をした。
「貴女は先ほどの」
穏かな声に顔を上げたジルは、先刻に続いて若葉色の瞳と出会った。宿泊客だと思っていなかったジルは言葉が出ない。神官も驚いていたけれど、表情は微笑みに変わっていた。
「ここも担当だったんですね。お疲れ様です。でも、あまり汚れていませんから清掃は結構ですよ」
左腕を気遣ってくれているのだろうか。そう思い室内に視線を走らせると、本当に綺麗だった。寝台も乱れておらず清掃したばかりのようだ。掃除が不要なら神官の言葉に甘えてしまおうか。そう過ったけれど、この堕落的な考えが先ほどの商人を招いたのだ。当然そこに因果関係はない。でもそうと信じるジルは改めて清掃を申し出た。
「お心遣い、ありがとうございます。しかし神官見習いの務めですからお掃除させていただきます」
ジルの真摯な姿勢に若い神官は眉尻を下げて笑い、場所を譲ってくれた。
――どうしよう、本当に掃除するところが無い。
備品は動いた様子がなく、浴室には水滴ひとつ残っていなかった。しかしそれらは使用しない客もいるため不思議ではない。疑問は使用した形跡がみられない寝台だった。使っていないなら、昨夜この神官はどこで眠ったのだろうか。まさか床で、とジルが寝台の前で困惑していると控えめな答えが聞こえた。
「それは、僕が直したんです」
「神官様がご自分で、ですか?」
「ええ、皺なく整えられたら気持ちがいいでしょう」
その声には恥じらいが交ざっていた。清掃は神官見習いや奉仕者が行うため、神官みずから行う必要はない。見習い気分が抜けていないと思われるのが恥ずかしかったのだろうか。しかし続けられた言葉でジルは考えを改めた。
「僕の家は宿屋を営んでいて、小さいころ手伝っていたんです」
「そのお手伝いが好きだったんですね」
うなづく神官の柔和な眼差しに、かげりが覗いた。何故だろうと思いを巡らせても、会って間もないジルに分かるはずがない。掃除の続きをしようと上掛けめくり、シーツを取り換える手が止まった。皺のない完璧な寝台に震える。
「……同じようにシーツを敷く自信、ないです」
「宜しければお教えしましょうか?」
「本当ですか?! 是非お願いします!」
神官の提案にジルは食いついた。シーツの取り換えは苦手で、一番時間が掛かっていたのだ。古いシーツをはぎ取り、神官の指示に従って新しいシーツを広げた。ここでしっかりと皺を伸ばしておくのがコツらしい。腕に力を入れてピンと張る。
「――っ」
魔力制御の訓練も兼ねて自己回復を抑えていたため、商人に掴まれた腕に痛みが走った。ジルが表に出した反応は僅かだったにも関わらず、神官は見逃さなかった。
「やはり傷むんですね。ここは僕がしましょ、うわっ……!」