13 奉仕と婚姻
生界には五つの領地がある。
教会領はその中心に位置しており、ソルトゥリス教会の総本山、リシロネ大聖堂は五角形の塀に囲まれていた。
北側にはローナンシェ領の魔物討伐を担当する第一、第二神殿騎士団が。東側にはタルブデレク領担当の第三、第四、西側にはリング―シー領担当の第七、第八、南西側にはガットア領担当の第五、第六があり、南東側にはリシロネ大聖堂を警護する近衛騎士が詰めている。
生界に王はいない。正確には女神ソルトゥリスを君主に戴いている。各領地は自治権を有しており、それぞれが国の様相を呈していた。
本日、ジルが奉仕を行う宿泊棟は大聖堂東棟の裏手に建っている。礼拝に訪れる者が宿泊する施設だ。宿泊棟の維持費として教会は勧進を募っており、利用するにはそれなりの額が必要であるため、利用できる者は限られていた。
つまりは地位や資産のある者しか宿泊棟にはいないのだ。それが、この奉仕が人気たる所以だった。
神官見習いは各領地の教会にもいる。けれど教会領にいる神官見習いは、聖の魔力を宿した者か、魔力の高い者しかいない。その中でも聖魔法が使える者は、本人の意思に関係なく教会預かりとなり、ここリシネロ大聖堂で神官教育が施される。八年間学び試験に合格すると神官として認められるのだけれど、強制だったのだ。皆が希望して教会に仕えたいわけではなかった。
では、そのような娘はどうするのか。
◇
ジルは今、迷っていた。
「……いえ……、けれど…………」
「君……だ。……から…………、…………?」
階段の前を通らなければ、替えのシーツを取りに行くことができない。宿泊客は午後に訪れ、翌朝出て行く者が多い。だから部屋の清掃は、午前中に終わらせなければならないのだ。
永い時が滲んだ象牙色の壁に、青い小花が咲き乱れた美術品ともいえる絨毯。そこに、密やかな男女の声が吸い込まれている。身なりの良い男性は宿泊客だろう、女性の姿は階段で遮られて見え辛いけれど恐らく神官見習いだ。
――邪魔しちゃダメだよね。
女性の声に嫌悪感があれば、ジルは堂々と二人に近づき声をかけた。しかし諍いはおろか、満更でもない雰囲気なのだ。
教会関係者であっても婚姻は認められている。むしろ、魔力は血によって受け継がれるところが大きいと考えられており、推奨されていた。
聖魔法が使える者は、教会の要請があれば応えなければならない。
それでも嫁げばその身は教会ではなく、家に帰属する。なんとも俗物的ではあるけれど、自分の一生を決めるのだ。教会に仕えることをよしとしない者は必死にもなろう。他家に嫁げば、エディと離れ離れになってしまうと考えているジルには、興味のない話だった。けれど、その想いを否定するつもりはない。
不意に男女の声が止んだ。ジルが悩んでいる間に話し終わったようだ。壁によって視線を下げ、廊下をゆずる。通り過ぎた貴族風の男性は、心なしか弾んでいるように感じられた。遅れて現れた女性は、やはり神官見習いだった。ここで追及するのは野暮というものだろう。ジルは顔見知りの同僚に笑顔で挨拶し、目的地へと足を運んだ。
宿泊棟の一階は受付や食堂、備品室といった施設があり、二階、三階に客室がある。一フロアに十四部屋あり、ジルは半分の七部屋を担当していた。
一、二部屋目に宿泊客はおらず、滞りなく清掃が完了した。三部屋目は泥酔客がいて驚いた。部屋には空になった相当数の酒瓶があった。男性はまったく起きる気配がないため黙々と掃除を進められたけれど、寝台の清掃ができない。無理に起こすのも憚られたため、ジルは仕方なく交換用のシーツをソファに置いて部屋を出た。四部屋目は未使用であったため、水差しの交換など最低限の清掃ですんだ。
今日は楽だ、なんて考えがよぎったのがいけなかったのだろうか。五部屋目でずいぶんと気力を失った。
宿泊客は受付時に午前中に清掃が入る旨を告げられている。大部分の者はリシネロ大聖堂に用があるため部屋にはいない。が、主目的が異なる者もいるのだ。
――回復魔法なんて使えないのに。
聖魔法の使い手は希少価値があり、社交界でも一目置かれる存在だ。それだけでなく教会との繋がりもできるため、家に迎えたい者は少なくなかった。
五部屋目の男性は裕福そうな商人だった。商人はジルが部屋に入るなり、品定めをするように視線を上下へ動かした。ジルは居心地の悪さを感じつつも奉仕に従事した。清掃も終わりに近づいた頃、それまで黙ってソファに座っていた商人が口を開いた。
「お嬢さんの魔力は何かね?」
これまでの経験から面倒なことになると知っていたジルは、答えたくなかった。しかし黙っている訳にもいかない。愛想の欠片もない無表情を意識して作る。
「聖の魔力でございます」
「お歳は?」
「十三です」
「十三か。少々若いが……」
商人は丸い腹の上で手を組み押し黙った。長居しても良いことはない。清掃はくずかごの中身を回収したら終わりだ。ジルは一言ことわって掃除を再開し、半開きにしていた客室の出入口へ向かった。退出しようと扉前で振り向いた時、商人に左腕を掴まれた。
「っ、離してください」
「少しお時間を頂けないかね。私には二人の息子がいるのだが」
「まだ清掃が残っているので」
「私は午後からでも構わないよ」
握られた手の強さから、逃がすまいとする商人の意思が伝わってくる。聖職者に手を上げるなど言語道断だ。場合によっては異端者と見做される行為である。しかし相手が見習いであること、そして今は清掃の時間で人がいないことを見越しているのだろう。鍛えているとはいえ、ジルはまだ大人の力には勝てない。
どうしようかと廊下へ視線を巡らせれば、一人の神官が目に入った。