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慄える日常

無言電話

作者: 鬼平主水

 尾高医院は小さな町の診療所でありながら、町内では評判の高い病院として知られている。院長の尾高雄一は、話ぶりこそクールで淡白ではあるものの、病気の処置自体は完璧で信用の置けるものであった。そうしたこともあり、待合室にいる患者――特に年寄りの患者たちにとっては、ここが一種のコミュニティとなっていた。

 尾高自身も患者たちに真摯な対応で接しているつもりではいるが、患者の中には彼の気にくわない者も何人かいた。その中の一人、心臓の疾患で定期的に通院している三宅という老人とは特に反りが会わなかった。三宅は診察が終わっても呑気に話を続ける。そのせいで次の患者がなかなか呼べないのだ。他の看護師やスタッフは意に介していないようだが、尾高にしてみれば立派な営業妨害であった。

 一度だけ、尾高は三宅に苦情を入れたことがあった。申し訳ないが、他の患者もいるから早く待合室に戻ってくれないか、と。

「先生、あんたは分かっとらんのですか! 病院は私らが居てこその病院じゃないかね。それを邪険に扱うとは、どういう了見ですか!」

 三宅が激昂してから、二人はかなりの言い合いになった。尾高はこの出来事をきっかけとして、正式に自身の『ブラックリスト』に三宅の名前を加えたのだった。


 今日も三宅は尾高の診察を受けていた。特に異常はなかったため、尾高は今日こそすぐに帰らせるつもりでいた。

「特に変わったところはありませんから、このまま投薬治療を続けて問題ありません。受付でいつものお薬お渡ししますから」

「先生、昨日から胃の調子が悪いみたいなんですがね、ついでに診てもらえんですかね」

 三宅はいつもこのような理由をつけて病室に居座ろうとするのである。

「昨日生物(なまもの)でも食べました?」

「刺身は食べましたが……」

「なら、それにあたったんでしょう。あれなら、胃薬も出しときましょうか?」

「変な病気じゃないでしょうね? どうも刺身だけではこうならんと思うんだが」

「うちより大きい病院、紹介できますけど」

「ここじゃ無理かね?」

「そんなに大層な検査機器はないです」

「だったら診てもらわんでいい」

 その時、尾高はふと三宅にあえてこちらから質問してみる気持ちになった。

「ところで例の電話どうなりました?」

 三宅はこの質問をきっかけに、みるみる顔を蒼くしていった。尾高は彼の様子を、余裕のある、それでいてどこか挑戦的な目で見つめていた。

「その感じだと、まだ続いてるみたいですね?」

「はい、昨日もかかってきました」

「夜中なんですから今日ですね」

「そんなこと言ってる場合じゃないんですよ、先生!」

 三宅の声は真剣だった。尾高は特に動じる様子はなかった。

「失礼しました、別に茶化すつもりはなかったんですよ。それで、何か変わったことは?」

「特に何も……。いつもみたく何も話しかけてこないし、こっちから話しかけても一切喋りません」

「警察には言ったんでしょう?」

「相手にしてくれません、事件性がないって」

「事件が起きなきゃ管轄外ってことでしょう。どうです、良かったら睡眠導入剤もお付けしますよ」

「いや、いつもの薬だけで構わん」

 三宅が診察室を出ると、尾高は椅子に座ったまま腕を目一杯挙げて伸びをした。

「三宅さんとお話ししてあげるなんて珍しいですね」

 看護師の一人が別の患者のカルテを持って部屋に入ってきた。カルテを受け取って尾高は答えた。

「たまには患者さんの身の上話を聴いてあげたら、って言ってるのは君達でしょう」

「そうですけど、一番先生が嫌がってる三宅さんと話し込んでたでしょ?」

「悪いですか?」

「悪いもんですか。町医者は患者さんとコミュニケーションを取ることが大事なんですから、他の方の話も聴いてあげてくださいね」

 この看護師は、尾高がこの町で開業する以前から別の町病院で勤めていたベテランということもあり、地域住民との関わり方をよく心得ていた。尾高は、自分とはそう変わらない四十歳の彼女のこの能力に感心することはあれども、羨ましく思うことはなかった。彼はこれからも『電話の件』以外で三宅と話すつもりもなかったのである。


 病院は夜七時に閉まる。看護師やスタッフたちがその日の仕事の整理を終えるのを加味すれば、全ての業務を八時までには終えることとなる。しかし、尾高はスタッフたちが帰った後も、小一時間は病院に残っていた。

 尾高は必ず一杯のブラックコーヒーを飲むことにしていた。診察室の端にあるコーヒーメーカーからカップに注がれたコーヒーを、彼は一気に飲み干した。口内に広がる苦味とカフェインのおかげで、眠気はすぐに吹き飛んだ。

 そして、彼はデスクの引出しに入れている一冊のノートを取り出した。中には自身の患者の名前が各ページの左上に大きく書かれている。名前の下には住所と電話番号、それから日付とメモ書き――。

 ある患者に関するメモ

「○月○日 薬を貰いに来院。今日も薬の効き目が無いと言い出す。うるさいババアだ。本当に効果が無かったら今頃救急車か霊柩車だ。これで記念すべき10回目。いつもよりも徹底的にやる」

 また別の患者について

「○月✕日 初来院。腸にポリープがあるかもしれないからと大きい病院を勧めるも、ここで治せの一点張り。訊けば、どこかの大企業の重役らしく、入院によって自身の生活が縛られるのが嫌らしい。そんなこと知るか。初来院にしていきなりリスト入り」

 ノートには三宅の名前もあった。三宅は頻繁に通院しているためか、彼のこれまでの()()を一ページにまとめきることができず、『三宅(1)』『三宅(2)』という風に別のページに跳んで書かれていた。三宅程ではないが、他の患者でも別のページに渡っている者もいた。しかし尾高にはその日その患者が何をしたか分かればよかったから、別のページであろうが関係なかった。

 尾高はノートに記されている患者の中で、今日来院した人物について新たなメモを書き足し、そのページに付箋を貼った。新規で『リスト入り』した者はいなかった。

 尾高はノートを持って病院を出た。


 日付も変わった午前零時、一度帰宅した尾高は晩飯と入浴を済ませ、再び外出した。独身の彼は誰への気兼ねもなく深夜に外に出られた。

 今、尾高は自宅から歩いて数分の所にある電話ボックスにいた。昼ですら使われることのないこの公衆電話を、深夜の真っ只中に使うような人間はほぼいない。時間帯の面でもアクセスの面でも、そして相手側に履歴が残らないという状況も、全てが好都合だった。

 尾高はノートを取り出すと、一番最初の付箋の貼られたページを開いた。そしてノートに書かれた番号に電話した。

 プルルルル、プルルルル――コール音を聞くだけで、彼のストレス値は下がっていく。尾高にとってコール音は、小川のせせらぎや潮騒のさざめきと同じだった。

「もしもし」

 電話から女の声が聞こえてきた。しかし尾高は何も話さない。

「もしもし、どなたですか?」

 ………………………………。

「もしもし? もしもし?」すると電話の声は何かを察したらしい。「もしかして、またあなた? あなたなの?」

 ………………………………。

 尾高は何も答えない。何かに気づいたらしい女性の声を聴いて、ずっとにやにやしているだけである。

「何か答えたらどうなの? 聞いてるの? ねえ、答えなさいよ!」

 女の声が強さを増していく。それに反比例して尾高のストレス値もさらに下がっていく。

「いい加減にして! 二度とかけてこないでよ!」

 とうとう女は電話を切った。ツー、ツー、という余韻が、尾高にはたまらない。この音を聞くために、今日一日の仕事を乗り切ったと言ってもいい。

 尾高は同じ番号にはかけずに、次の付箋のページの番号にかけた。

 尾高は毎日、こうしてストレスを解消していた。ある者は恐怖に(おのの)き、ある者は涙に(むせ)び、不定期に突然かかってくる無言電話に対峙していた。その声を聴くと、尾高が日中に傷つけられた自尊心が、容器から零れるほどに満たされていった。この電話をかけているときの尾高の脳内では、睡眠状態と同じ快楽物質が溢れていた。

 満たしに満たされた尾高は、いよいよメインディッシュへと取り掛かることにした。もちろん三宅のことである。他の患者とは違い、毎日のように病院へ来る三宅は、深夜のこの無言電話もほぼ連日かけられていた。尾高からしても、三宅にかける必要のない日はむしろ物足りないくらいだった。この瞬間だけは、尾高も三宅が毎日通院してくれることを感謝した。

 尾高は三宅の番号に繋いだ。何度もかけているため、ノートを見なくても番号を押すことができる。

 コール音が長く続く。この時間帯にかかってくるのは無言電話であることも、三宅も分かっているのだろう。留守番電話にすれば、この心配も無くせるのに、機械に疎いのか、それを教えてくれるような知り合いもいないのか――彼は妻も亡くし、身寄りもいなかった――全くその機能を使う様子もない。仮に使ったとしても、尾高は何十何百と留守番電話を残すつもりだったが。

「はい、もしもし」ようやく三宅が出た。尾高はもちろん喋らない。「やっぱりあんたか。なあ、お前は一体何が目的なんだ? ええ? 何か答えたらどうなんだ……何も言わないのか、そうか……なあ、せめて笑い声くらいは出してもいいんじゃないか? 面白がってるんだろう? なら笑ってるはずだろう? おい、何か言ったらどうなんだ、おい!」

 三宅の声には疲労があった。怒りとも呆れとも恐怖ともつかない感情が渦巻いているのが尾高にも伝わる。その伝播は、ますます尾高を調子づかせる――調子づいても、やることはただひたすら喋らないことだが。

 その時、電話口から伝わる空気感が少し変わった。尾高はより耳を凝らした。

「おい、お前は誰だ。まさかお前が電話の奴か! そうなのか! おい、何とか言え!」

 言葉の相手は尾高ではないらしい。三宅の家に誰かが侵入したのだろうか?

「や、やめろ、何をする……おい、首、が……グワッ、グ……」

 尾高は思わず目を見開いた。三宅は何者かに首を絞められているらしい。

「うっ」という小さな嬌声の後、向こうの受話器が床に落ちた音がした。慌てて尾高は電話を切った。もし受話器を拾われて、こちらの様子に気づかれるとまずいと思ったからである。しかし判断が遅かったかもしれない。尾高はしばらく思案に暮れた。

 電話ボックスから出ると、尾高は走って自宅へと帰った。いつもならベッドに入れば気持ち良く眠りを貪ることができるのだが、今日に限って、彼に目を閉じさせることすら許さなかった。


 気づけば朝になっていた。一応眠れたらしいが、いつもよりも昨日の疲労は取り切れていない。尾高は仕事の前に、三宅の自宅へ回ってみることにした。

 三宅の自宅前には人だかりができていた。警察も出動しており、規制線が張られていた。深夜の出来事は夢ではなかったようだ。尾高は遠くから見ていたが、殺害現場を耳で間近で聞いていたこともあって空恐ろしくなり、野次馬の中に入ることができなかった。

 病院に着くと、看護師やスタッフたちも三宅の話題を出していた。

「先生、おはようございます」スタッフの一人が尾高に話題を振ってきた。「先生も三宅さんの事ご存じですか?」

「何かあったんですか?」

 尾高は知らない振りをした。その実、昨晩のことを思い出して手汗が止まらなくなっていた。

「三宅さん、亡くなられたらしいんですよ」別のスタッフが答えた。

「いつですか?」

「昨日の夜ですって。しかも殺されたらしいですよ」

 分かっていても、いざ聞かされると驚きを隠せなかった。

「強盗か何かかしら? 三宅さん戸締りちゃんとしてなかったのかな?」

「そういうの気にしなさそうだもんね、三宅さん」

 スタッフ同士の会話を聞き流しながら、尾高は診察室に入っていった。例のノートをいつもの引き出しに片づけ、三宅のカルテを取り出した。治療中の患者が死亡した場合のためのファイルに保管しておくためである。大抵の患者は、完治しているか、そうでない場合にはここよりも大きい病院での治療を勧めていたため、滅多にこのファイルは使わなかった。まさか、このような形で使われることになるとは、と尾高は感じていた。

 それにしても、あの冷静な尾高がここまで今回の件を気にしているのは、一体どういうことだろう。一度院内で大喀血(だいかっけつ)をした患者がいたのだが、そんな時でも尾高は――周囲の他の患者はおろか、看護師やスタッフすらも慌てふためいていたのに――一切の動揺も見せず、治療と後始末に取りかかった。しかし今回はどうだ。血も死体も見ていないし、そもそも現場も見ていない。ただ電話口から死の声を聴かされただけである。にもかかわらず、カルテを持つ手は震えている。止めようにも止められない。何が尾高を怖がらせているのか――尾高自身にはある程度察しがついていた。電話の向こうの犯人が、こちらの正体を突き止めようと躍起になっているのではないかと考えているからだ。あんな真夜中に、身寄りのない独居老人に電話をかけるような変人の正体を!


 事件の担当刑事が尾高医院にやって来たのは昼の休診時間の時である。午後の三時に再開するまでの間を見計らってくれたものらしい。

「三宅さんの財布の中に、こちらの病院の診察券があったものですから、お伺いしました」

 刑事は三宅の情報を探っていると言う。身寄りもなく、近所付き合いも疎かだった三宅の情報を得るのはかなり困難だろう、と尾高は思った。

「しかし私もそこまで深い付き合いじゃないですからねえ。あくまで医師と患者、診る側と診られる側ってだけです」

「やはりそんなところでしょうな」

「ただ、お話しして良いのであれば……」

 尾高は診察中の三宅の態度について事細かに話した。しかしながら、彼のこの話はかなり主観的で穿った内容になっていたということを、そしてあの『リスト』の話には一切触れなかったことを、ここに書いておかねばならない。

「そうでしたか。ご近所の皆さんの多くは、気難しい爺さんの印象しかない、とおっしゃってたもんで」

「私しか話相手がなかったんでしょうかね」

 尾高は心中(しんちゅう)ほくそえんでいた。周りからも嫌われているような人間にこの手で静かに復讐していたことが、まるで暗黙のうちに依頼を受けた殺し屋のようで得意になっていたのである。自分のためだけではなく、周囲のためにもなっている――誰も尾高の行為を知らないのに、彼はおめでたくも、勝手に闇のヒーロー気取りになっていた。

 尾高は刑事に、捜査の助けになれば、という理由で三宅のカルテを渡した。


「さっきから何なんだお前は! 何度も何度もかけてきやがって、いい加減にしろ!」

 今日も尾高は公衆電話にいた。今電話している相手は、今日が初来院だった男性患者の家である。電話をしても――無言なのだから当然ではあるが――すぐに切られてしまうため、その度にかけ直していた。尾高もこの状況には慣れ切っており、今では切られた番号にはすぐさまかけ直すことすら快感の一つとなっていた。今回は四、五回はかけ直している。相手も根負けしたのか、激昂した後には乞うような言い方になっていた。

「なあ、お願いだ、頼むよ、今何時だと思ってるんだよ。頼むから寝かせてくれ、もう電話をかけないでくれよ、頼むよ」

 それでも尾高は電話を切らない。向こうから聴こえる哀願の声によって、尾高の脳内の快楽が高波のように押し寄せた。

 哀願すら聴こえなくなって、尾高はようやく電話を切った。今日のターゲットには全て電話したため、彼はノートを片付けようとした。その時、尾高はふと思いついた。三宅の家に電話してみよう。

 なぜ突然思いついたのかは尾高にも分からなかった。単なる好奇心なのか、それとも日頃の習慣がそうさせたのか、彼は三宅の電話番号へかけた。

 コール音が鳴った。まだ電話は接続されているらしい。誰も出るはずのない電話の音が、虚しく鳴り続ける。我ながら馬鹿なことをしている、と思った尾高は電話を切ることにした。

 ガチャ――尾高は驚愕した。繋がるはずのない電話が繋がったのである。相手からの「もしもし」の挨拶もない。尾高は勢いよく電話を切った。そして意味もなく電話ボックスの外を振り向いた。もちろん誰もいない。外に出た尾高は足早に帰っていった。今日も彼は昨日のように、いや、昨日以上に寝付けなかった。


 電話の相手は犯人だったのか否か――翌日になっても尾高はそのことばかり考えていた。昨晩からの寝不足もたたって、診察に集中できなくなっていた。

 そこにまた新しい問診票が持ち込まれた。

「初診の患者さんです」

 初診は決して珍しいことではない。普段の尾高なら、初診であろうとなかろうと、名前と症状の部分だけ見て後はほとんど目を通すことはないのだが、今日は少しでもゆっくりと動いて疲労を蓄積させないようにするため、そして初めてでもスムーズに診察が進むようにするために、問診票の詳細を読み込むことにした。尾高は看護師から問診票を受け取ると、早速目を通した。

 ところがこの問診票には大事な箇所が書かれていなかった。名前がないのである。普段でも確認する箇所がないのは、前提条件として許容ができない。尾高は受付に向かった。

「これもう一度確認してもらえます? 名前が抜けて……」こう言いながら改めて確認した尾高は、昨晩の衝撃以上の衝撃を受けた。問診票に書かれた連絡先には、尾高が散々見慣れた数字――あの『リスト』を見直さなくても知っている数字が書かれていた。三宅の自宅の電話番号だった。

「すみません、ちゃんと確認したはずなんですけど」

 受付のスタッフが平謝りするのも待たずに、尾高は尋ねた。

「これを書いた人は? どんな人でした?」

「えっと確か……誰か憶えてます?」

 スタッフが他のスタッフに訊いたが、誰も答えが曖昧だった。強いて出てきた情報は「黒っぽい服を着てたような」くらいのものだった。尾高は待合室を見渡した。黒い服を着た患者は一人もいない。

 尾高は急いで外に出た。院外にそれらしい人物は見つからない。問診票だけ書いてどこかへ行ってしまったのか?

「先生、どうしたんですか?」

 スタッフの一人が尾高を追いかけてきた。

「え? ああ、いや、何でもありません。あの問診票は捨てといてください」

「はい、分かりました」

 尾高は再び診察室へ戻ってきた。先日からの不安はほぼ確実になった。三宅を殺した犯人は、()()()()()()()に気づいて口封じを目論んでいる! しかもこの犯人はかなり挑戦的である。見つけられるものなら見つけてみろ、と言わんばかりに。尾高の精神はさらにすり減らされていった。


 昨日と同じ時間帯に、三宅の事件を担当しているあの刑事が現れた。

「昨日はありがとうございました。カルテをすべてコピーさせていただきましたので、お返しに」

「ご丁寧にどうも」尾高は刑事に話していない電話のことを話してみる気になった。「あの、一つ思い出したことがあるんですけどね」

「お伺いしましょう」

 尾高は三宅の連日の無言電話について話した。さすがに自分が犯人であることは伝えなかったが。

 話を聞き終わった刑事は、腕組みをして考える素振りになった。

「つまり先生の予想では、その電話の主が犯人かもしれない、と。そういうわけですか」

「あくまで可能性ですけどね」

「そういえば」刑事は何かを思い出したようだ。少し考えてから刑事は続けた。「もし本当に事件に関係があってはいけませんから、くれぐれもご内密にしていただきたいんですがね。うちの署には生活安全課、つまり住民の方の安全を守るための部署があるんですが、そこに深夜に無言電話がかかって来るっていう相談が何度かあったんですよ」

 尾高は顔色こそ変えなかったが、心拍数が格段に上がったことには気づいた。よくよく考えれば当たり前のことなのだが、警察にある意味自身の情報がタレこまれていたのである。

「その捜査はされたんですか?」

何分(なにぶん)実害がないと警察も動けないんです。それによく聞けば、どの人も連日どころか長いと一ヶ月ほど空いてまたかかってくるというペースということで、被害届を出す程ではないと判断されたようです」

 尾高の気分が落ち着いた。実際連日無言電話の相手にしていたのは三宅だけだった。あくまで()()()()()()()()()()だけにしていたのは、想定外だったとはいえ、正しかったようだ。

「三宅さんは実害もありましたし、連日でしたから……」

「三宅さんが相談してくれていたら、この事件も起きなかったかもしれませんな。もちろん、犯人が同一人物だとすれば、の話ですが」刑事は時計を確認すると立ち上がった。「お時間をお取りしてすみませんでした。とりあえず無言電話の犯人についても併せて調べてみましょう」

「何かご協力できることがあればまたおっしゃってください」

「ありがとうございます」

 その時尾高は一つの可能性を思いついた。その可能性を確信的なものにするために、刑事に尋ねた。

「あの、一つ確認したいんですが」

「何でしょう?」

「三宅さんの家って今誰か見張りつけてますか?」

「いえ、今は規制線しか張ってませんが……それがどうかしました?」

 ――これで電話に出たのが犯人以外にいないことが確定した。

「……素人の意見で申し訳ないんですが、もしつけてらっしゃらないなら見張りを置いた方が良いかと思いまして」

「アドバイスありがとうございます。電話の主と犯人が同じだと確定すれば、おそらく見張りを置くことになるかとは思います」


 夜八時。閉院後、いつものように尾高は院内に残っていた。しかし今日はコーヒーこそ飲んでいるが、ノートを取り出してはいない。犯人が自分を狙っていると分かった今、そして無言電話の犯人が捜索されている今、下手な行動をすると自分に危険が及ぶのは必至だった。だが彼の脳内は快楽を求めて暴れている。もはや無言電話は尾高にとっての麻薬だった。普段はしない貧乏ゆすりが止まらない。むしろ段々と激しくなってきている。禁断症状が出ているのが尾高にも感じられた。せめてコーヒーのルーティンだけは外さないようにと考え、診察室でコーヒーを飲んでいたのだが、それも意味をなしていない。尾高はいつもより早く帰宅することを決め、カップに残ったコーヒーを一息に飲み干した。

 プルルルル、プルルルル――デスクの上の電話が突然鳴り響いた。この時間に電話がかかることなど滅多にない。尾高は電話をじっと見詰めた。出ようか出まいか――プルルルル、プルルルル――なぜかコール音は留守番電話に移行しない。尾高が出るまで鳴り続けるのだろうか?

 ついに尾高は折れた。電話に出ずに病院を出る選択肢もあったが、彼は犯人(だと尾高は思っている)からの挑戦に受けて立つことにした。

「もしもし?」

 ………………………………。

「もしもし?」

 ………………………………。

「もしもし? 聞こえてますか? もしもし?」

 ………………………………。

 一切の返事がない。電話の相手も、尾高のように無言を決め込むつもりのようだ。

「この時間に一体何の用ですか? お答えいただけないなら電話を切らせてもらいますよ」

 そう言いながら尾高は親機の通知画面に目を遣った。なぜ尾高は電話に出る前に番号を確認しておかなかったのだろうか。通知画面に表示された番号は、三宅の自宅のものだったのだ。

 犯人は三宅の家に潜伏しているのでは? そう思った尾高は犯人に問いかけた。

「君が三宅さんを殺したのか?」

 何も返事がない。尾高は次第に怒りを募らせた。

「何か言ったらどうなんだ? 何も言わない方が君の不利になるんだぞ。私が警察に今すぐ電話したらどうなるか分かってるね?」

 それでも答えがない。尾高はさらにイライラした。貧乏ゆすりも激しくなる。

「答えないつもりか? どういう了見なんだ君は、ええ?」

 ………………………………。

 声どころか息のする音すら聞こえない。おだかのストレスはついに最高潮に達した。

「大概にしろ! 一体お前は誰なんだ!」

 ブチッ、ツー、ツー、ツー――ついに一切の返答もなく電話が切られてしまった。尾高はそのままの勢いで警察署に電話した。三宅の事件の担当刑事に繋いでもらうと、彼は嬉しそうな声で電話口に出た。

「いやあ、先生でしたか。実はちょうど私からもお伝えしたいことがありましてなあ」

「刑事さん、犯人が病院に電話をかけてきました。今三宅さんの家にいるんです」

 これを聞いた刑事は不審げな声を出した。

「先生、それはあり得ませんよ。犯人ならもう捕まりましたからね」

 尾高は耳を疑った。犯人は今自分と電話で話していたではないか。

「そんなはずはありませんよ! さっきまで電話で話を……」

「失礼な言い方かもしれませんが、先生、何か夢でもご覧になっていたんではないですか? 確かに犯人は捕まっています。私がそちらの病院から帰っている最中に連絡が入りましてね、犯人が別の場所に空き巣に入ろうとしたところを他の刑事が見つけたんです。奴も三宅さんの事件のことは概ね認めています。夜中の犯行が上手くいったんで、調子に乗って今度は昼の空き家を狙ったんだそうです」

「では殺したのも?」

「本人は首を絞めて気絶させただけだと言ってますがね、まあ無理があるでしょう。殺害の証明が出るのも時間の問題でしょうな。それから、無言電話についても否定しています。これに関しては信じていいでしょう。昼間に入られた家のご主人に確認したら、夜中に電話が来たことはないということでしたから」

 尾高は放心して電話を切った。では今まで自分と話していた人物は一体誰だったのだ? 一体どんな目的で尾高に近づいてきたのか?

 プルルルル、プルルルル――再び甲高いコール音が鳴り響いた。通知画面には三宅の電話番号が表示されている。

 尾高は電話に出なかった。鳴りっ放しにしたままで、尾高は病院を出た。彼が向かったのは三宅の家だった。

 三宅の家には規制線が張られたままになっていた。刑事は見張りをつけると言っていたが、犯人が捕まったからか、見張り役の警察は一人もいなかった。尾高は規制線を跨いで家の中へ入った。今の尾高に恐怖心はない。とにかく犯人の正体を――挑戦状を叩きつけ、自分を馬鹿にするような態度を取った犯人の正体を知ること――それだけが尾高の目的になっていた。

 しかし家中を探しても犯人と思われる人物は見つからない。尾高は手掛かりになりそうな物を探すことにした。思い当たるのは電話だった。電話は三宅が居間にしていたと思われる部屋に置かれていた。機会に疎かった三宅らしく、今時珍しい黒電話のデザインになっている。

 尾高はこの電話を確かめることにした。受話器を耳に当てる。ところが全く発信音がしない。試しに自分の病院へかけようとしたが、反応もしない。尾高は電源を確かめてみた。

 尾高は息を飲んだ。電話線が切られていた。

 ジリリリリ、ジリリリリ――突然鳴り響いた音に、尾高は驚いた。そして音の正体に気づくと、彼はさらに衝撃を与えられた。電話線が切られたはずの黒電話から、その音が鳴り響いていたのだ。

 電話に出るという考えも失くして――と言うよりは、電話の正体が何者か察せられたため――尾高は三宅の家を走り出た。どこに犯人はいるのか? もしかすると自分の後をつけているのか? 尾高は夜と言うことも忘れて叫んだ。

「どこにいるんだ! 出てこい!」

 すると今度は尾高の服の中から振動が伝わった。マナーモードにしていたスマートフォンである。すぐに彼は画面を確認した。スマートフォン内の電話帳には入っていない番号――しかし電話帳の番号以上にしっかりと尾高の頭に記憶された番号がそこには表示されていた。ついに犯人は尾高のプライベートにまで踏み込んできたのである。

 尾高はもう一度三宅の家に入った。今なら犯人がいるかもしれないと思ったからだ。しかしその期待も虚しく、犯人は電話の前にはすでにいなかった。スマートフォンの着信も止まっていた。先程のように家の中をくまなく捜す。だが何も進展がない。尾高の思考力が段々と弱っていく。自分は今何をしているんだ?

 三宅の家を出た尾高はフラフラだった。もうすぐ日付が変わる。いつもの尾高はこの時間から無言電話で患者たちを振り回し始めている。だが今の尾高は、無言電話で振り回される立場になっていた。

 再びスマートフォンが震えた。画面を確認する。そこに表示されていたのは三宅の自宅の番号ではなかった。『公衆電話』とだけである。尾高が思いつく公衆電話は一つしかない。彼は無我夢中であの公衆電話へ向かった。

 公衆電話に着くとスマートフォンの着信が切れた。そこには誰もいない。尾高はゆっくりと公衆電話に近づいていった。すると、プルルルル、プルルルル――公衆電話からコール音が鳴り響いた。絶対に聞こえることのない公衆電話のコール音――そんな疑問も今の尾高にはない。彼は公衆電話に辿り着くと、受話器を耳に当てた。

 ………………………………。

 もちろん返事はない。尾高も何も喋らない。沈黙が続いた。

 ………………………………。

 とうとう尾高が根負けした。その場に跪くと、泣きながら電話の相手に詰問した。今の彼には自尊心など微塵もない。

「なあ、教えてくれ。お前は、お前は一体誰なんだよ。教えてくれ!」

 ………………………………。

 何度も何度も、同じことを問い詰めた。しかし尾高の哀願の叫びも、ただ夜の冷たい空気に溶け込むだけであった。これ以降も、一切相手の声が聞こえることはなかった。


 最近の尾高は看護師やスタッフたちに、どのような用事があっても電話をかけてこないように注意した。この理由を知る者は誰一人いない。

 尾高はスタッフが帰るとすぐに病院を出る。深夜に無言電話をかけることもしなくなった。その代わり、必ず家に帰ると固定電話のコードを抜き、スマートフォンの電源も切った。少しでも自身の不安を取り除くためである。

 しかしそれも無意味だった。深夜になると必ず――


 ――プルルルル、プルルルル――

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