第二章 空讀聖真(そらよみせいま)の独奏(ソロ) 後編
「目的地に着いたよ」
神父はそう言った。
「ここは・・・・・・」
「私たちのアジトだ」
神父は俺の疑問に答えてくれた。
俺は目覚めた場所とは異なる、白い空間にいたのだ。
全体的に白いと、どうにも空間の仕切りの繋ぎ目が分からないために広すぎる印象を受けるものなのだろう。
俺はこの空間が永遠に続いているように感じていた。
けれども、白い面の他に幾つかのものがあることで、この空間の形が目覚めた場所のような正方形ではなく、ドーム状になっていることが分かる。
まず、何よりも驚いたのは、その空間の中心に、巨大な金色の樹が立っていたことだ。
周囲の景色が吹き飛ぶ速さが凄まじすぎたために、白い光へと変化すると、それが消え去って視界が開けた瞬間、目に飛び込んで来たのは、金色だった。
神父が隣にいなければ大きな声を上げて飛び退いていたに違いないだろう。
そして、神父からは見慣れた光景を目撃しているというような平然とした様子が見て取れた。
俺は移動元と同じ紋様の魔法陣が描かれた足場を確認する。
それは、足で何度かダンダンと踏み鳴らしても反響音がほとんど聞こえないほどにしっかりとした作りになっているので、円形のタイルではなく、柱の上に立っていると感じた。
巨大な白い円柱の中心を貫くような形で金色の樹が生えているために、俺の目測では一〇メートル以上もありそうな太い幹はちょうど目線の高さにあると考えていいのだろう。
そして、俺がいる足場から外の方に目を向けると、まっすぐに伸びている長い通路があって、壁と同じ色の扉へと続いていた。
俯瞰で捉えて考えると、その足場から扉までの道順は横に倒されたフラスコの形のように見えるかもしれない。
そのフラスコの周囲は赤い液体で満たされていることになるだろう。
俺は、赤い液体の中に落ちないようにするためなのか、その上には床の高さと同じになるようにガラス板が張られている、ということも確認した。
巨大な樹の幹の間にもガラス板がある。
その向こう側は角度的に少しだけしか見えないが人影が映っていた。
まるで十字架に掛けられているかのように左腕が水平に伸びていてその手はだらんと垂れ下がっている。
樹の枝が絡み付いていた。
この正体は人なのか、それとも人の形に似せて作られた物なのか。
それは分からない。
けれども安易に触れていいものではないと感じていた。
俺はただただ圧倒されているだけの素振りを見せることに努めたのである。
実際にそれも嘘であるとは言えなかった。
「な、なんというか、凄い、とだけしか言えないです・・・・・・」
「ははははっ!素直でよろしいね!」
神父は俺の挙動に不自然さを感じていないようだった。
その直後、先程見掛けた扉がウィーンと自動的に開かれる音が鳴り響く。
扉の隙間から人影が現れる。
それは幼い子どもたちのものだった。
「あっ・・・・・・!ごめんなさい・・・・・・!」
それはおとなしそうな女の子の小さな声だった。
「大丈夫。君たちのことをちょうど彼に紹介しようと思っていたからね」
神父は穏やかな表情でそう言った。
すると、先程の女の子の後ろに隠れていたであろう元気な男の子の声が聞こえた。
「神父さまー。その人、だーれー?」
「今から教えます。ですから君たちはこちらに来なさい」
神父は苦笑した。
「「「「「「「「「「はーい!」」」」」」」」」」
子どもたちの声が幾つも重なっていた。
俺は駆けて来た子どもたちが笑いながら神父の胸へと向かって飛び込んでいく様を見ていたのである。
「こ、こら!危ないでしょうが!」
神父は子どもたちを叱っていた。
だが、そんなことは日常茶飯事なのだろう。
子どもたちは楽しそうにキャーキャーと叫びながら辺りを駆けずり回っていた。
もはや諦めの境地に立っているものと考えられる神父は、小さな溜め息を吐いている。
俺はその神父を見ながら申し訳ないと思いながらも苦笑していた。
ふと。
誰かにズボンの裾をキュッと控えめに掴まれたことに気付く。
その誰かは扉から最初に現れた女の子だと分かった。
「お兄さんはいい人間なの?それとも悪い怪物なの?」
彼女は不安そうにそんなことを訊いていた。
どこからどこまでがいい人間なのか、あるいは悪い怪物なのか。
それは分からない。
でも、俺はその質問に答えた。
「お兄さんはいい人間だよ」
俺は嘘を吐いたような気がしてならないと感じた。
「えへへ。良かったぁ」
彼女はそう言って笑顔を見せてくれた。
「聖真くん」
神父はそう言って俺の名前を呼ぶと手招きしていた。
「は、はい」
俺は神父に手招きされた方へと向かった。
「アイリスくんをここに寝かせてくれるかな?」
「分かりました」
俺は神父が指し示した床の上に、アイリスの身体をそっと降ろした。
「ありがとう。では、早速治療を始めるね?」
「は、はい。よろしくお願いします」
神父はアイリスの隣に跪いて、その頭に向けて掌を翳すと何かを呟いた。
そして、神父の掌から、白い綿毛のような丸い光が、ぽわっと飛び出す。
アイリスに向かってふよふよと飛んでいたそれが彼女にぶつかると思われた、
次の瞬間である。
彼女の瞼が開き始めた。
長いまつ毛の奥から先へと、光の雫が流れて行く。
まるで奇蹟の瞬間を目の当たりにしているようだった。
完全に目を開いた彼女の瞳に光が映し出される。
そこから先は速かった。
彼女は、かっ!と目を見開くと、丸い光が頭に触れるのを全力で避けたのだ。
身体を転がして立ち上がると後方へと飛び退いたのである。
彼女が神父に向けている視線は、俺に見せてくれた柔らかいものとは違い、敵を射抜くような、鋭いものだと感じた。
子どもたちはポカーンとした顔で静かに黙り込んだまま、その彼女の様子を見ている。
「ありゃりゃ。驚かせちゃったかな。君に危害を加える気なんてないよ。ただ、治療をしてあげようとしただけさ」
神父は飄々とした様子で彼女に話し掛ける。
「ワイズマン。あなたが言うところの治療とは洗脳ですよ」
アイリスは鋭い視線を向けたままでそう言った。
「い、一体、どうしたんだ・・・・・?神父は君を助けようとしてくれていたんじゃないのか・・・・・・?」
俺は困惑していた。
「聖真・・・・・・。あの方は、敵です・・・・・・」
その言葉の意味がよく分からなかった。
「て、敵・・・・・・?それは、悪いやつのことだよね・・・・・・?子どもたちがあんなに懐いているのに・・・・・・?彼は悪いやつなのか・・・・・・?」
「はい。彼は子どもたちを洗脳しているんです」
「せ、洗脳?」
「・・・・・・そうですね。分かりやすく言うと間違っていることを正しいと思うようにしているってところでしょうか。敵は人間じゃない。人間の姿をした怪物だと、そう教えているんです」
俺は先程の少女の質問の意図を理解して納得した。
アイリスの説明が終わると、どこか人をバカにしているような、くっくっ、という笑い声が聞こえて来る。
その声の主は、先程とは打って変わって、ギラギラと目を光らせている、獰猛な獣じみた危険な雰囲気を携えている神父であると分かった。
「この世の正しさは、無力だ。それを教えることの方が間違っているのだよ」
神父はそう断言した。
「無力なんかじゃ、ないです。人を、救えます」
アイリスは対抗した。
「ほう。それはまるで正しさが君を救ったかのように聞こえる。聖真くんが作った地獄の中で絶望を味わいながら間違ったことをしなければ生きて来れなかったのだろう?そんな君が同じように苦しんでいる子どもたちから、その術を奪うのかね?」
俺が作った、地獄・・・・・?
それは、何だ・・・・・・?
俺はアイリスに酷いことをしていたのか・・・・・・?
そんな俺を、どうしてアイリスは守ろうだなんて考えているんだ・・・・・・?
「・・・・・・聖真は、私が生を受けるために避けては通れなかった運命を、物語の中で文章として表したという、それだけのことです・・・・・・。そして、聖真は、本来なら選ぶことさえできなかったはずの、希望に溢れた運命の道も提示してくれました。私がこれまでやって来たことは、殺される前に、殺すというやり方は、間違っています。それをしなければ生きて来れなかったというのも認めざるを得ません。ですが、この世界ではそんな間違ったことをしなくても生きていくことができるのだと分かりました。そのことを、あなたに理解してもらおうとそう考えているんです」
アイリスはそう言った。
そして俺を見ると微笑んでくれていた。
「君の方こそ、聖真くんに洗脳されているんじゃないのかね?」
「そんなことはないです。むしろ、戦闘マシンのように、誰彼構わず傷付けても自分さえ無事でいればそれでいいだなんて狂った暗示を、洗脳を解いてくださったんです」
「・・・・・・そうか・・・・・・。君は人間がどれほど邪悪で欲望に忠実な生き物であるかということを生温い環境の中で忘れてしまったんだね」
「私は人間の弱さを知っています。そして、人間はどんな環境の中でも勇気と優しさを持っていれば強くなれるということを学びました」
「・・・・・・君たちのように強い人間とは分かり合えないようだな・・・・・・」
俺は神父が静かに殺気を放っていると感じた。
「・・・・・・それでも、俺は・・・・・・あなたと、あなたの子どもたちと、仲良くしたいって、そう思います・・・・・・」
過去の記憶がない俺は、自分の気持ちを伝えることしかできなかった。
「・・・・・・聖真さん・・・・・・」
アイリスは複雑な心境を表すように寂しそうな表情をしながらも、その声音は柔らかなものだと感じていた。
「・・・・・・子どもたちよ・・・・・・。・・・・・・悪い怪物を、退治してくれ・・・・・・」
神父は辛そうに顔を顰めながらも子どもたちに向けてそう言い放っていた。
その直後に、子どもたちの瞳から、ふっ、と光が失われる。
まるで心がないロボットのように見えた。
表情が消えた彼らは視線をこちらに向けている。
その異様な姿を見てぞっとした。
俺は彼らが一斉に同じタイミングで、右手を天高く掲げた瞬間に何が起きるのかを理解する。
子どもたちは機械のように平坦な声で呟いた。
「「「「「「「「「「この輝石こそ、奇蹟なり」」」」」」」」」」
俺は子どもたちが『奇蹟石』を召喚する姿を見ていた。
『奇蹟石』を使って子どもたちが描いていた光の軌道は、彼らの背丈と同じくらいのサイズの大鎌へと変わった。
死神の鎌という言葉が頭の中に浮かび上がっていた。
それがどういうものなのかは分からない。
けれども、恐ろしいものなのだと感じていた。
それは柄も刃も真っ黒になっている。
実に禍々しい雰囲気を放っていた。
俺は純粋であるがゆえに騙されやすい彼らを傷付けたくはない。
けれども、アイリスが彼らに傷付けられる姿を見ることも嫌だった。
俺は覚悟を決めなければいけないと感じていたのである。
「死ね!」
俺は、先程の子どもたちの口からは出て来るはずのない言葉に驚いた。
そして自分が、正気を失っている子どもたちの、特に深い意味などないはずの言葉を受け流すことが上手くできずに心が傷付いたということを自覚した瞬間、何故か無意識のうちに、あるフレーズが脳裏に浮かび上がる。
忘れろ。
俺は自分の心の中でそのフレーズを読み上げると、感情から苦痛といったものが薄れていると分かった。
これは、何なのだろう。
俺が持っている超能力みたいなものだと考えていいのだろうか。
それは、分からない。
だが、子どもたちを傷付けることに対する躊躇が薄れていることは分かっていたので、それは怖いことでありながらも、戦えるようになったことで、アイリスを守れるようになったということだと、そう考えることにしたのである。
俺は呟いた。
「この輝石こそ、奇蹟なり」
俺はその手に、銃を持っていた。
それは過去の記憶の中で、過去の自分自身に向けていた武器だと理解する。
アイリスは俺が使った謎の力で苦痛を忘れていたようだが、その感覚は戻って来ているのだろう。
俺に心配を掛けまいと気丈に振る舞いながらも、その身体からは汗が滲み出しているのが分かる。
「聖真。あなたの武器は『ケテルの銃』と呼ばれるものです。その銃の特徴は、空気中に浮かんでいる『奇蹟石』の粒子を、自動的に取り込んで一日一〇〇発分のスパーク弾を作れることです。スパーク弾というのは弾丸の形をした小さな雷の塊です。その武器は、一撃で対象を昏倒させるほどの威力を持っていますが、その殺傷能力は低いですので、ご安心ください」
アイリスは俺が懸念していたことに気付いてくれていた。
「アイリス。この銃のこと、教えてくれてありがとう。参考にするよ。でも、ここは俺に任せて君は休んでいてくれ」
「わ、私も戦えます」
「そんなわけないでしょうが。君の身体が悲鳴を上げていることはなんとなく分かるよ」
「で、ですが・・・・・・!」
「俺に任せてくれ」
俺は、たくさんの子どもたちが、「死ね」と連呼しながらも、大きすぎる鎌を振るえるだけの力を本来は持っていないからなのか、まるでゾンビのようにふらふらとした足取りで近付いて来ていたために、この場から逃げる算段を考えるまでの時間稼ぎくらいならできそうだと考えていた。
足が震えていたために咄嗟に動くことができない状態だったので戦うしかなかったからだとも言えるかもしれない。
そして、頭の中で、忘れろ、という声がした。
俺はどこまで忘れていいのか。
それが分からずに悩んだ。
けれども、冷静さを取り戻せるくらいには、理解できない何かに追われることへの恐怖心というものを、忘れたのである。
俺は子どもたちの攻撃を何度も受けたことで神父の考えが読めた。
それは、鎌の柄で殴られた傷ばかりが増えていると分かったからだ。
アイリスに鎌の刃を振り下ろそうとした子どもたちに対しては、銃弾をお見舞いした。
子どもたちを人殺しにするのも、アイリスの命が奪われることもあってはならないことなのだから、こればかりは仕方がないと、そう考えたからである。
けれども、幼い子どもたちが腹部に銃弾が当たる度に、「うっ!」と呻いて倒れていく様を見るというのは嫌だった。
俺のことは生け捕りにするつもりだと考えていいのだろう。
そのため、俺は自分のために銃の引き金を引くことはしなかった、というよりも、できなかったのである。
だが、俺の手足に青あざができる度に、泣きそうな顔をするアイリスを目の当たりにして、はっとした。
そうだ。
自分がここで意識を失っちまったら、彼女は殺されかねないじゃないか。
俺はそう考えると、自分のためにも子どもたちを倒すことができるように躊躇する気持ちを忘れようとした。
そのときである。
「聖真ああああああああああ!」
どこからともなく、俺の名前を叫んでいる女の子の声が聞こえた。
「だ、誰!?」
俺はアイリスよりも少し高めの女の子の声に驚いた声を上げながらも、そう尋ねた。
「あなたのこいび」
「聖真の恋人は私です」
アイリスは自分のポジションを譲るつもりはないようだった。
「じゃあ」
「じゃあ!?」
「聖真の愛人です!」
「そうですか。聖真に指一本触れない愛人になる覚悟を持っているのであれば、それでいいですよ」
俺の知識は、それって愛人でも何でもないとそう告げていた。
「せっかく助けに来てあげたんだから、お礼くらいは言ってもらいたいんですけどー!」
俺は声の主を探したが、その姿が見つかることはなく、それどころか、周囲が霧で隠れていく。
「な、何これ・・・・・・力が、入らない・・・・・・!」
「くそっ・・・・・・怪物めぇ・・・・・・!」
「うっ・・・・・・」
「ね、眠いよぉ・・・・・・」
子どもたちはそんなことを呟いていた。
そのあとに、子どもたちが、ドサドサと立て続けに倒れていく音が聞こえたので、霧の中には何かがあると考えていいのだろう。
俺とアイリスがいる空間には霧が流れ込んでいないことが分かる。
神父が小さく舌打ちする音が聞こえた。
その直後に、身体がふわっと浮かび上がる。
神父と子どもたちの影が消え去った。
そして、重力が戻って来て着地したのである。
何がなんだか分からない。
そんなことを考えていると神殿で見掛けた黒い人影があるのを確認したのである。
「綾音。助けに来てくれて、ありがとう。大好き。愛してる」
「そ、そこまで言われちゃうとさすがの私も照れちゃうから止めてほしいですね・・・・・・」
俺は黒い人影の正体がこの声の主である女の子なのだと理解した。
「では、どうやって助けるのか。お手並み拝見と行きましょう」
「な、何故、そんなに上から目線なのかは、さすがの私も理解できないですが、可哀想な凡人を導くのが優秀な天才の務めだということは分かっていますので、助けられるのを待っていやがれです」
「ふふっ。りょうかーい」
俺は、自分の力では引き出せそうもないアイリスの楽しそうな姿を目撃するともやっとしていた。
こ、この感情は何だろう。
そんなことを考えていると霧の中から小さな女の子が現れた。
背は、俺よりも頭一つ分ほど小さい。
黒髪の髪は襟足が見えるほどに短くて、全体的にゆるふわといった感じである。
その頭のてっぺんからアホ毛がぴょんと飛び出していた。
アイリスと同じ軍服ワンピースの上に白衣を着ている。
「や、やあ。久しぶり」
綾音はちょっと恥ずかしそうに、小柄な彼女には大きすぎる白衣の袖口から、僅かに覗かせていた右手を、軽く挙げていた。
「えっ・・・・・と・・・・・・」
答えに迷った。
「あー・・・・・・。やっぱり、忘れてしまったかー・・・・・・」
綾音は寂しそうに笑った。
「聖真は、聖真であることに変わりはないわよ」
アイリスは綾音にそう告げた。
「細胞の中で、遺伝子情報の継承内容から形作られる人間の元来の性格が、人間の本質だと考えると、記憶を失っている現在の聖真と過去の聖真の本質は同じだということね」
「ちょっと何言っているのか分からないです」
「あなたのような凡人にも分かるように簡単に説明すると、聖真は人格が変わっていても根っこの部分は変わっていないから優しいエッチをしてくれるってことですよ」
「せ、聖真が優しいだけのエッチで満足できる人だなんて思わないでくれますか!?」
「や、やかましーわ!その件は後で詳しく聞かせてもらうからな!」
俺は過去の自分が恥ずかしさで身を悶えさせている気がしてならないと感じていた。
「あ、あの。俺の前でそーゆー話をするのは止めて頂けると助かります・・・・・・」
俺は頬が熱くなるのを感じながら、そう呟いた。
「「ご、ごめんなさい」」
俺はアイリスと綾音の謝罪の言葉を同時に聞いていた。
彼女たちの頬が赤く染まっているのを見て、くすっと笑う。
そして、過去の俺は彼女たちに愛されていることを理解した。
俺は過去の記憶を取り戻すべきなのだろう。
だが、その結果として、過去の俺の人格が復活したときに、俺の人格は消滅するのかもしれない。
俺は、過去の俺の復活を望んでいるアイリスたちのために、記憶を取り戻すべきだという義務感と、現在の俺が消えてしまうことへの漠然とした不安との板挟みに苦悩していた。
アイリスたちは、そんな俺を安心させるように優しく微笑んでいる。
「その・・・・・・。俺は、君たちと一緒にいるのは楽しいことだと感じています・・・・・」
俺はそう言って笑みを浮かべた。
「ふふっ。ありがとう」
「・・・・・・私、こんなにも素直な聖真を見たのは初めてよ・・・・・・?アイリス、こっちの聖真を譲ってもらうことはできないだろうか」
「私はすべての聖真の恋人なので、それはできないです」
「な、なんて傲慢なやつなんだ・・・・・・!」
俺は自分を取り合ってくれる二人の姿を見ながら、この記憶があれば消滅することも怖くないと感じることができた。
そして、数秒ほどの心地良い沈黙が続いたあとにアイリスは綾音に聞いたのである。
「綾音。私たちはどれくらいの期間、いなくなっていたの?」
と。
「えーとねー。事象回帰の力で記憶を失わなかった私たちからすれば1カ月くらいかな。でも、記憶を失った人たちからすると、聖真は病院にいて、あなたはその存在も確認されていないことになっている。だから、私たちのように、特殊な人間以外は、あなたたちがいなくなっていただなんて考えていないんだよ」
「そう、なのね・・・・・・」
「うん」
「事象回帰で時間はどれくらい戻ったの?」
「四年だよ」
綾音はそう告げた。
「人類の歴史において、私たちが生きるこの世界の時間軸は四年という月日を消し飛ばした。
それ以降は進み続けて一カ月が過ぎて現在に至っているわけなんだよ」
「・・・・・・私たちがいなかった一カ月って、どうだったのかな・・・・・・?」
「まあ、前回の四年間に含まれていた一カ月とは異なる展開を迎えているけれど、正直、そんなことはどうでも良くて、ただただあなたたちの無事を祈ることしかできなかった自分の無力さが嫌になった」
「・・・・・・そう・・・・・・」
「あ、あなたたちに一生会えないかもしれないだなんて考えちゃったんだよ!?そ、それでやっと見つけたら、危ない目に遭ってることを知ったから慌てて駆け付けた私の気持ち、分かる!?」
「ご、ごめん。怖かったよね?」
「そ、そうだよー!寂しいというのも、あったんだからなー!」
「私もだよ。綾音に会えて良かった」
俺はアイリスと綾音が抱き合って泣いている姿を見ながら、これも美しいものだな、と、そう感じていた。
「私は非戦闘員だから時間稼ぎ程度に固有結界を張ることしかできない。仲間たちは時期に来るから待っていやがれです」
「ふふっ。りょーかい」
俺は、彼女たちの定番となっているやり取りを聞いていた。
そして、数分ほど経った頃に二人組が現れた。
両者とも、俺たちと同じように、男の方は軍服ジャケットを、女の方は軍服ワンピースを着用している。
綾音の前で膝を着いている姿は、さながら忍者のようだった。
俺は彼らが仲間だと理解する。
「新藤少尉。我々が敵の妨害魔法を防いでいる間に、お二人と共にこちらから本部へとご帰還ください」
俺は男が指し示す場所は魔法陣の上で見た景色のように、幾つもの光の線が伸びている黒い穴であることを確認した。
「了解。それでは君たちも、敵は空間座標を変えて戦線を離脱しているので、妨害魔法を解除しながらも後追いはせず、本部に帰還してくれ」
俺は空間座標というのは何のことだろうと考えていた。
「「了解」」
俺はそう言って立ち上がった二人の手には杖が握られていると分かった。
「よし!そんなわけなので、ホームに戻ろうか」
綾音はそう言って俺に右手を差し出した。
「うん」
俺はその手を握り締めた。
アイリスは、その様子を見ると空いていた俺の手を握り締めた、というよりかは、指を絡ませていた。
それに対し、綾音も負けじと張り合おうと指を絡ませようとしたところで顔を真っ赤にした状態で固まっていた。
どうしてこんなことになっているのか分からなかった。
その直後に、ごうっ!と風が唸った。
霧が晴れた。
だが、むしろ、霧よりも濃い、暗雲が広がる光景を目の当たりにした。
空間座標が変わったということの意味を、感覚的に理解する。
俺たちの立ち位置がズレたのだ。
そして、現在の俺たちは空中に放り出されていた。
だが、空から落ちていないのは、綾音がいうところの固有結界、つまりは、神父が展開したものとはデザインが似て非なる魔法陣から浮かび上がっている、透明な匣の面の上に立っているからなのだろう。
目を覚ましてから、初めて見る建物の外の景色は、あまりにも広大だったために、圧倒されていた。
先程の、俺とアイリスがいたのは、一番近くに聳え立っている、白亜の巨城の先頭部分だと考えていいのだろう。
暗雲の隙間から差し込んでいる日の光が、全体の中心から飛び出した台地、つまりは崖の上に立っている白亜の巨城を照らし出している様子は神々しくさえもあって、美しいと感じていた。
だが、そこから視線を落としていくと、山の斜面に沿うように作られた城下町の、惨憺たる状況が明らかになる。
俺の知識は、城下町にある家の造りが、掘っ立て小屋とほとんど変わらないものだと、そう告げていた。
それらは、山を下るほどに簡素なものとなっているために、落雷で焼け焦げている廃材のようなトタンの屋根は、穴や傷があることでボロボロな状態になっている。
貧富の差を残酷なほどに見せ付けているこの構図は、実に痛ましいはずなのに、これこそがリアルなのだと、どこかで受け入れている自分が存在していることに驚きを隠せなかった。
仲間の女が、「時間がないので早く指を絡ませてすぐに飛び降りてください」と、綾音に囁く。
「わ、わーってるよ!バカ!」と綾音が言って涙目で噛み付いていた。
それに対し、「ありがとうございます!」と言った仲間の女は真顔で鼻血を垂らしていたので変態なのだと理解した。
「そ、それじゃあ行くよ!」
綾音はそう言い放つと覚悟を決めたのだろう。
俺は彼女がやけくそ気味に指を絡ませて来たのを感じていた。
「・・・・・・目覚めたからには、我らの愛しき姫たちを守ってくださいね。変態紳士さん」
俺は明らかに変態である女から同類として扱われた上に、何故か血の涙を流しながら震えるクナイを首筋に向けられた。
「せ、聖真を脅すというのならぶっ飛ばすわよ!変態忍者!」
アイリスは俺のために怒りを露わにして叫んでくれていた。
「ありがとうございます!」
俺は、そう言って興奮気味な笑みを浮かべながら頭を下げた変態忍者は何かもう駄目だということを理解した。
「せ、聖真。それとアイリス。この子は最後まで聖真とアイリスの捜索を協力してくれたの。ま、まあ、この子はちょっと残念なところがあって、冗談がすぎることもあるけれど、それだけで、実は優しいから、今回のことは大目に見てあげてほしいんだけど、それって、お願いできるかな?」
「・・・・・・私は、聖真の判断に従います」
「お、俺は変態の君のことをよく知らないから、変態の君のことをよく知っている仲間の想いに応えたいです。それに、危害を加えられていないので許します」
「・・・・・・空讀先輩のそういうところ、ズルいです。だから、私があなたに対する嫉妬を隠せなくなるのも仕方ないと言わざるを得ないんです。それと変態じゃないです。美少女愛好家です」
「いや、君は変態です。それと彼女たちを別格であると考えているみたいだが、君も充分に美少女だと思うああああああああああ!?」
俺はアイリスと綾音に無言でぐいっと手を引っ張られると穴へと向かって落ちて行った。
「聖真のジゴロが発動したから、あの子のことは許してあげるわよ」
アイリスは綾音にそう告げていた。
「そ、それなら良かった。でも、驚いたな。聖真の素直さは、どうあがいても女を自然に口説く方向でその実力を見せ付けるようだ。これが聖真の本質であることは分かっていたはずなのに、どうしても、むっとしちゃうんだよね」
綾音の笑顔が怖かった。
「私もそうだから問題ないよ」
俺は二人が和やかに話しているのに、何故だか恐怖を覚えていた。
そのおかげで、ある意味では未知の空間へと突入していることへの恐怖感は緩和していると言えるだろう。
俺はアイリスの、アイリスが綾音の、綾音が俺の手を握り締めて輪を作っている状態は、スカイダイビングをしているようなものだと感じていた。
この先に待ち受けているものが何かは分からない。
けれども、彼女たちと一緒にいれば大抵のことは問題にもならないだろう。
俺はそんなことを考えていた。
第二章
空讀聖真の独奏 後編
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