第二章 空讀聖真(そらよみせいま)の独奏(ソロ) 前編
透明な盾の向こうを見ると炎の海が広がっていた。
ドラゴンは唸り声を上げるものの再び口を開こうとはしていないようである。
「聖真。あそこにある階段を使って逃げてください」
アイリスは、俺と同じように玉の汗を額に浮かべながらも、怖じ気付いている姿は見せないで、後ろにある階段を指差している。
白い空間を生み出していた仕切りは、パズルのピースのように砕け散った瓦礫となっていた。
それは階段の前を塞ぐ障害物となっていたが、イメージから作り出されたものなのだろう。
天井から落ちて来る瓦礫とは異なる瓦礫は、砂のように細かい粒となって消えていた。
そして俺は、アイリスの指示に従って昇り階段の前に到着したところで立ち止まる。
何故ならアイリスが付いて来ていないからだ。
彼女はドラゴンと戦おうとしているのだと分かった。
「あ、あいつを相手にするだなんて無茶だ!一緒に脱出しよう!」
俺はそう叫んでアイリスに手を伸ばす。
だが、アイリスは、それこそ過去の俺がしたように、頭を左右に振ってそれを拒絶した。
「あなたにそう言って頂けるのはありがたいですが、私は強いですので『彼ら』を退けたらそちらへと向かいます。ですから、ご心配なさらないでください」
アイリスはそう言って微笑んだ。
彼女がドラゴンの方を見ながら『彼ら』と言ったことに引っ掛かりを覚えた。
アイリスの目が他の存在も捉えているのだと確信する。
そして俺が、アイリスがあまりにも堂々としているために、言葉を失っていると、ある異変に気付いた。
俺は疲れているのかもしれない。
身体が若返っていると感じていたからである。
それは僅かなズレとでも言うべきものなのかもしれない。
だが、それは確かにおかしなことだと感じていた。
身長が数センチほど縮んでいることや、体重が数キロほど減っていることが感覚的に分かっていたからである。
それは信じ難いことであるが。
時間が巻き戻っている、ということだった。
それは、俺とアイリスがいた白い空間と、外の空間では、時間の流れが違っていたということになる。
身体の細胞が急激に変化したのは、その時間差を埋めるためだったと考えていいだろう。
だが、時間は進み続けるもので、過去に戻ることはない、という知識を持っている。
それは普通に考えると、時間という概念の中では、若返ることよりも、老いることの方が理解しやすいということだろう。
けれども俺は、時間が巻き戻っていることをどこかで受け入れている気がしてならないと感じていた。
過去の俺は、このような奇蹟が起きることを知っていたのだろうか。
その答えを知っている可能性が高いと考えられるアイリスは、ドラゴンと向かい合っていた。
姿勢、重心が低くなる。
艶やかで美しい足が覗いていた。
床が強く踏み込まれる。
収縮からの拡大。
あるいは、負荷からの解放。
これによって、彼女の足が離れた。
銃弾のようにドラゴンの眼前まで一直線に飛び出す。
そして、足場に使われていた床のタイルが捲れ上がると砂埃が発生した。
正面から吹き付ける風に押し流されたことで砂埃は消し飛ばされる。
剣先はドラゴンの額へと向けられていた。
「すみません!」
何故か、ドラゴンに謝りながらも剣先は額の中心に突き立てた。
ドラゴンは僅かな傷を受けたに過ぎない。
だが、大きな叫び声を上げる。
アイリスは剣先を引き抜いて、飛び退く。
僅かな傷でもドラゴンにダメージがあるのは、剣が持っている天使の力が影響しているのかもしれない。
ドラゴンの姿勢が崩れる。
そこで初めて人影を確認した。
黒髪の少女が、ドラゴンの肩に乗っている。
その姿を見ていると脳が熱くなった。
無表情でこちらを見ている彼女のことを、知っている。
そんな気がしてならなかった。
彼女の瞳は青い。けれども何も映してない。
その瞳は曇っている。
アイリスもそのことに気付いたのか、口を開閉しながらも言葉を掛けることはなかった。
彼女だけでなく、ドラゴンもまた瞳の中に光を宿していなかった。
謎の少女の右手にも『奇蹟石』が握られている。
それは俺の知識の中にある梓弓と呼ばれる弓へと変化した。
色は青かった。
少女が揃えた指先の中心にも同じように青い光が集まる。
さらに少女は、その光を摘まんで引き伸ばして光の矢に変化させていた。
弓に番えられた矢の先は、アイリスの方を向いている。
これは避けないとマズいやつだろう・・・・・・!
俺はそう感じていた。
アイリスもそのことは分かっているはずである。
けれどもアイリスは、動きを止めていた。
その理由は目線の先にあると判明する。
少女の右目から、つーっと涙が頬を伝って落ちていく。
その光景からは悲哀というものが感じられる。
だが、そこには美しさもあった。
そのためだろう。
俺たちは少女の機械的な動作を見逃していた。
「うっ・・・・・・!」
小さな呻き声が聞こえる。
そこで、はっと我に返った。
声の主はアイリスである。
俺はすぐに視線を少女からアイリスへと戻す。
彼女は眉根を顰めながら、口端を歪めている。
これが苦悶の表情であると分かった。
少女にはずっと目を向けていたはずである。
けれども、少女が矢尻を離した瞬間は見逃していた。
光の線がアイリスの左肩に到達している。
それどころか、突き刺さっていた。
矢が残した光の道が消える。
そして矢もまた光のポリゴンとなって砕け散った。
アイリスが右手で握っていた剣も、相手の武器と同じ過程を辿ったあとに消滅する。
彼女は矢を受けた衝撃で吹き飛ばされていた。
身体は仰け反ったあとに重力に従って落ちていく。
俺は一目散にアイリスのもとへと駆け出した。
だが。
「くそっ・・・・・・!距離が遠すぎる・・・・・・!」
俺は予感していた。
このままでは間に合わないことを。
手足を必死に動かして近付こうと前進すればするほどに、その現実に絶望していた。
彼女との距離が遠すぎる。
だが、何故だろうか。
俺の中にはその差を埋められるイメージがある。
彼女の落下地点の近くを走っている自分の幻影が視えていた。
その背中に辿り着けると確信したときに、脳裏に浮かび上がったのは『奇蹟石』である。
俺は、そこで立ち止まると口を開いた。
「『この輝石こそ、奇蹟なり!』」
俺は『奇蹟石』を握り締めた。
何故かは分からない。
だが、『奇蹟石』を額に擦り付けるほどに強く当てながら、過去に何度も言ったことがあるのかもしれない、懐かしさすらもあるフレーズが、俺の口から飛び出していた。
「限界を・・・・・・!忘れろ・・・・・・!」
俺はそんなことを言っていた。
そして、俺が忘れようとしているのは自分の心身に掛けられたリミッターを外すことなのだと理解したのである。
これが、成功した。
俺は呼吸の苦しさも筋肉の痛みも忘れていたのだ。
そして、自分のイメージが作り出していた幻影に辿り着いたのである。
幻影は消滅した。
俺はアイリスの落下地点で待機する。
そしてアイリスの身体をキャッチした。
俺は苦悶の表情を浮かべている彼女を地面に降ろす。
意識が朦朧としながら何度も譫言のように、「ごめんなさい」と俺に謝っていた。
「大丈夫。君は謝らなくていいんだよ・・・・・・」
俺はそう言うと『奇蹟石』を彼女の額に付けた。
アイリスが穏やかな表情で眠っている姿をイメージしながら呪文を呟く。
「痛みを、忘れろ」
その言葉は俺と同じように彼女の脳にも届いてくれたようである。
アイリスの表情は穏やかなものへと変わっていた。
だが、心身の負荷を忘れていられる時間がどれほどなのか分からない上に、医療行為をするにもその知識が乏しいので、この場所から離れて安全なところへと行かなければならないということも理解していたのである。
俺は自分のシャツの裾をリミッターが外れた筋力を駆使して引き裂くと、それを彼女の肩にある傷口に巻き付けた。
ドラゴンの鼻息が熱風となって押し寄せる。
熱さを感じながらも、背筋がぞわりと凍り付く。
俺は左腕でアイリスの身体を抱き寄せる。
「諦めてなんか、やるものか・・・・・・!」
俺はそう呟くと震えている右腕を前に突き出しながら唱えた。
「『この輝石こそ、奇蹟なり!』」
俺は『奇蹟石』を召喚した。
しかし、『奇蹟石』にイメージを与えることができない。
ドラゴンに気を取られているせいだ。
頭では分かっている。
それでも、ドラゴンから目を逸らせずにいた。
イメージすることに、集中できない。
『奇蹟石』は砕け散って消滅する。
俺はギュッと目を瞑ると終わりを迎える覚悟を決めた。
そのときである。
「よくがんばったね」
暗闇の中で低い声が聞こえた。
俺は目を開く。
そこにあったのは、白い旗、ではなく、白い服であった。
ドラゴンの翼のはためきが巻き起こす風を受けて生地が波を作っている。
人間の背中がそこにあった。
声から察するに、大人の男だと分かる。
その背中越しからではよく見えない。
だが、男の右手には『奇蹟石』が握られていた。
男が『奇蹟石』を天高く掲げると、その上に黒い穴が現れる。
さらに、その中から1枚の羊皮紙のようなものがスーッと降りて来た。
それは鉄の板であるかのように強烈な風の中でも形を変えていない。
さらに、物理法則を無視するように男の顔の前で止まっていた。
その紙面には何かが描かれている。
だが、その内容はよく見えない。
アイリスを腕の中に抱いてしゃがみ込んだ状態で、男がいる方へと向かって滲み寄って行く。
そして、数歩先の位置で静止した。
俺は男の手元を観察しようとそう考えたのである。
男は『奇蹟石』の先で紙面を軽くトンと突いた。
その衝撃を受けたことで紙面の裏から何かが飛び出す。
金色の円だ。
それは一瞬でドラゴンと同じくらいの大きさへと拡張する。
さらに、その内部には文字や形が幾つも浮かび上がった。
俺はそのデザインが服の意匠である樹とは似て非なるものだと分かる。
それは光の陣だった。
俺は一定の速度で男の前にいるドラゴンとその肩に乗っている少女へと向かって放たれた光の陣が、その彼らに接触するのを目撃する。
そして、光の陣が通り過ぎると、彼らの姿は、消滅していた。
あまりにも一瞬の出来事であったために言葉を失う。
そして、数秒間の静寂が訪れたあとに何とか口を開いた。
「あ、あなたは・・・・・・?」
俺は目の前にいる男に、その背中越しで尋ねた。
「わたしは神父、グレートワイズマンというものだ」
男は颯爽と振り返ると、微笑みを浮かべながら低い声でそう答えた。
その背は、俺の頭一つ分ほど高い。
身体は痩せているようだった。
黒髪は、肩に掛かるほどの長さのロン毛である。
そして彫りの深い顔立ちで、ハンサムだった。
だが、男は生気を感じられないほどに疲れた顔を浮かべていて、その口周りや顎から無精髭を生やした状態であることもそうだが、瞳は鋭い眼光を放っているために、近寄り難いというような印象を与えている。
「し、神父さん!助けてくださってありがとうございます!」
「礼には及ばないよ。では、早速で申し訳ないのだが場所を変えようか」
「・・・・・・・」
「どうかしたのかね?」
「そ、その。ど、ドラゴンと、その肩に乗っていた少女は、し、死んでしまったのでしょうか?」
「・・・・・・彼らは死んでないよ。一瞬で別の空間に転移させたということなのだけれど分かるかな?」
「は、はい!何となく分かります!」
「・・・・・・君は、優しいね」
「そ、そうなのでしょうか?」
俺は苦笑した。
「自分の命を脅かす相手を心配するだなんて、私にはできないよ」
神父は悲しそうに笑っていた。
「俺は、彼らのことを知らないんです。だから、彼らのことを危ないから殺して終わりにはしたくなかっただけですよ」
俺は彼らが襲い掛かって来た理由を知りたいと考えていた。
「・・・・・・君は私の神と同じようなことが言えるんだね」
神父はそう言って寂しそうに微笑んだ。
何故、そんなにも寂しそうな顔を浮かべているのかを考えていたときである。
神殿の奥で黒い人影が揺らいでいるのが見えた。
俺は呟く。
「何か・・・・・・います・・・・・・!」
「あれに追い付かれる前に早く移動しようか」
神父はそう言うと先程と同じように羊皮紙を取り出す。
それを地面の上に配置すると魔法陣の紋様だけがそこに焼き付いていた。
「は、はい!」
俺は神父がそうしていたように、躊躇することなく魔法陣の上に乗っていた。
そして俺は、周囲の景色が吹き飛んで行く中で瞬間移動しているのだと分かったのである。
第二章
空讀聖真の独奏 前編
了