序章 新藤春磨(しんどうはるま)の序曲(オーバーチュア) 前編
運命は、我々を幸福にも不幸にもしない。ただ、その材料と種子を提供しているだけだ。
ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ
私は、蒼の下、黄色の中、灰色の上にいた。
空は蒼穹。雲一つない、快晴。
大地は黄色。嵐の晩の、荒れ狂う波間を凍結したような砂の海。
道路は灰色。整備が成されず、歪んでいるコンクリート。
そんな悪路を進んで行くのは、私と娘を乗せた4WDの車だった。
新藤春磨。
それが私の名前だ。
性別は男。
肉体年齢は40歳。
老人のように真っ白に染まった髪は直毛で、その前髪は目に掛かっている。
周囲からの評価によれば、目つきがおっとりとしたハンサムとのことだ。
そのような自覚は一切なかったが、家系的に恵まれた容姿である可能性は高かった。
肌は血色が悪いために青白い。
身体は痩せていた。
普段は研究室に籠って研究に没頭している。
そんな私にとって研究よりも大切なものは、亡き妻の忘れ形見である自分の娘だった。
現在、その娘は後部座席で大きく揺さぶられている。
新藤綾音。
それが私の娘の名前だ。
性別は女。
肉体年齢は16歳。
愛娘であるため、若干、私の目には補正が掛かっているのかもしれないが、美少女だ。
黒髪の毛質は妻の遺伝の影響でくせ毛である。
妻の髪は、背中まで伸びているロングだったのに対し、娘の髪は、襟足が少し見えるほどのショートだ。
見た目はゆるふわでウェーブがかっている点は同じだった。
肌は白い。
身体はやや小柄。
私がそうであり、妻がそうであったように、研究者気質で実験が大好きな、ちょっと変わった子だった。
そして、妻と同じように明るくて優しい心を持っていた。
そんな娘と一緒に異国の地を旅しているのにはわけがある。
しかし、そのわけを一から話すとなると相当な時間を要するに違いないだろう。
そのため、私たちの今日の目的を簡潔に説明するのであれば『敵情視察』だ。
私たちの敵は、同じ星の下で生まれた人類の片割れだった。
世界は二分されている。
単純な正義と悪ではなく、秩序と混沌で。
私たちは『秩序の国』のエージェントだった。
つまり、『混沌の国』からすればスパイだった。
そんな私たちは、西暦2040年に、『混沌の国』で誕生した、『エジプト・キムラヌート』というエリアにある目的地へと向かう車の中で揺さぶられている。
綾音は両手で口を押さえながら、吐きそうになるのを堪えているようだった。
それから数時間が経った頃だろうか。
車が停止する。
「シンドーサン。ギザ、ツイタヨー」
現地のガイドを務めるエジプト人であり、仲間のエージェントが運転席でミラー越しにこちらを見ながら目的地に到着したことを告げた。
「ありがとうな。シドさん」
「ドーイタシマシテー。コレヤルカラシヌナヨー」
私は、シドが運転席と助手席の間に左手を差し込んで、後ろ手で渡して来た、掌サイズの小さな布袋を受け取った。
その布袋の口を縛っている紐を緩めて、そっと中身を見ると、七色の虹の光がグラデーションとなって表面に浮かび上がっている『奇蹟の石』が入っていた。
「ほ、本当にもらっていいのかい?」
私はこの『奇蹟の石』がどれほど高価なものかを知っていたので驚いていた。
「シンドーサンニハ、イロイロトオセワニナッテイルカラ、コレハ、サービスダヨー」
「ありがとう」
私はシドに礼を言うと彼に会釈した娘と共に車を降りた。
「ソレジャアナー」
私たちはこちらに向かって軽く手を振ってから車を発進させたシドの姿を見送った。
そして、目的地の『クフ王のピラミッド』へと向かって歩き始めた。
「顔色が悪いけど、大丈夫かい?」
「う、うん」
綾音が虚勢を張って強がっているのは明白である。
それでも私は、手を貸さずにいた。
否、貸せずにいた。
非常に嫌がるからだ。
この頑固さは妻と通じる部分がある。
妻は病床に就いて尚、私たちのために最期まで笑顔を絶やさなかった。
そんな彼女と初めて出会ったのは、大学のゼミである。
天才考古学者、神薙綾歌。
それが単なるあだ名から肩書きになるまでに時間は掛からなかった。
日本を代表する有名な賢者を父に持っていたために、注目を浴びるのが早かったということもその要因の一つである。
彼女は類稀なる美貌と知性を持っていた。
そのため、近付いて行く輩はあとを絶たなかったことをよく覚えている。
自分から声を掛ける勇気がなかった私は、遠目から眺めるだけで充分だと考えていた。
だが、運命とは分からないものである。
私は誠実でありたいと考えながら生きていた。
そのため、心中では綾歌が同じゼミであることを喜びつつも、授業中に惰眠を貪ってばかりいた彼女を起こして、寝たらマズいよ、と、注意したことがある。
綾歌の父があまりにも偉大すぎる人物であったからだろう。
彼女に対し、学生はおろか、教授さえも授業中の態度に対して注意をしなかった。
ペーパーテストで毎回ほぼ満点を取っていたために問題はないと判断していたのかもしれないが。
私はそれが気に入らなかった。
綾歌も綾歌だが、彼女を腫れ物扱いしている彼らと同じにはなりたくなかったのである。
そんな想いから泣けなしの勇気を振り絞って声を掛けたのだ。
顔を上げた彼女は髪がボサボサで机に接していた額は赤くなっていた。
驚いたのか目をパチパチと瞬いていたのも覚えている。
そんな隙だらけでだらしない姿さえも美しく見えた。
まるで、妖精みたいだな。
私はそう考えてから急に恥ずかしくなって目を逸らした。
黒板の文字へと目を向けても、授業の内容はほとんど頭の中に入って来なかった。
視線が突き刺さって来ているのを感じていたが。
この一件で、綾歌の不興を買ってしまったのだろう。
ゼミがある日は、いつも決まって隣に座るとこれ見よがしに寝ていたのだ。
そのため、負けず嫌いな性分がそっと顔を覗かせていた。
私は綾歌が寝る度に懲りずに起こしていたことを思い出す。
そして、何故だか友人になっていた。
恋愛相談を受けたときは軽く絶望したが。
そのあとは普通に友人として楽しく話していたはずである。
だから、何が決め手だったのか分からない。
けれども綾歌は告白した。
「お前のことがオスとして好きだ」
綾歌は私に向かってピンと伸ばした人差し指を拳銃のように突き付けながら、真っ赤な顔でそう言ったのである。
私は、あまりにも不器用でまっすぐな愛の告白を聞いて噴き出してしまったので睨まれた。
だが、私からの愛の告白を聞くと笑顔を見せてくれた。
私たちは恋人になった。
そして、大学院を卒業した私たちは夫婦になった。
これを期に、綾歌は専業主婦として育児に専念したい、と真剣な眼差しで伝えて来たので、その彼女の意志を尊重することを決断した。
そして綾歌が最後に提出した論文の衝撃的な内容をめぐって、学会では大論争が起きたのだ。
私は綾歌の伴侶であるために彼女の身代わりという形で矢面に立たされたが、彼女にその論文を提出するべきだと進言したのは他ならぬ自分であった。
世界の未来のために、彼女の論文が明らかにした真実は必要不可欠なものだと考えたからである。
その判断は後に間違いではなかったことが証明された。
私は綾歌の父からの声もあって学会を追放されるというような憂き目に遭わずに済んだ。
綾歌の論文内容が世間に公表され、驚きと戸惑いの中で、後に人類の希望となる力に関する認知度が高まっていた頃だろう。
赤ちゃんが生まれた。
私は妻と相談した結果、綾音と名付けた。
綾音はすくすくと大きくなり、その成長速度には驚かされた。
とても、幸せだった。
綾音が小学校に入学して数日が経った頃だろう。
私が大学から帰って来るとキッチンの前で綾歌が倒れていた。
綾音が側にいて泣いている。
そのときの光景は今でも鮮明に覚えていた。
携帯の画面をなぞる指が小刻みに震えていたが、どうにか救急車を呼ぶことができたのだと考えられる。
でも、何を言っていたのか。
それはほとんど記憶になかった。
綾音の話によれば何度も大きな声で「妻を助けてください!」と頻りに叫んでいたとのことである。
そして、綾歌は一命を取り留めたものの入院生活を余儀なくされた。
彼女は特殊な病気を発症したとのことである。
それは現在の医療技術でも治せないということが分かった。
どうして、綾歌はそんな病気を発症してしまったのだろう。
私は何も答えることができずに医師が謝る声が聞こえる中で「誰も悪くないじゃないか」とそう思っていた。
それから、数年が経った頃である。
綾歌はあと一年と余命宣告を受けた日から四年も長く生きてくれた。
そして、綾歌は綾音が高校に合格したという話を病床で聞いて嬉しそうに笑っていたことを覚えている。
綾歌は綾音の制服姿を見て嬉しそうに微笑んでから静かに息を引き取った。
享年38歳。
あまりにも短すぎる、彼女の一生だった。
綾歌は今もどこかで私たちのことを見守ってくれている。
私はそのように感じていた。
表向きは敵情視察であるが、裏では別の目的でこの地へと訪れていた。
その目的というのは、綾音が遺伝の影響で綾歌と同じ病気を発症するという最悪の事態に備えて、病気を予防する、あるいは病気から回復する力を持った『何か』を見つけることだった。
私は、この『何か』の正体は奇蹟だと考えていた。
序章
新藤春磨の序曲 前編
了