第八十八話「お金ってのは地道に働いて稼ぐもの」
そんなわけで時刻は13時になって、このままさっさと馬券を買いに行ってもよかったのだが、一応、カレンさんと一緒にパドックに行って、本日唯一の「グリグリ二重丸」たる、7レースの4番イェーガーオレンジの状態を確認した。
「どうなの、サトシくん? 正直、うちにはどの馬も同じに見えるんだけど……」
「特に問題ありません。ヤネも武騎手ですし、まず大崩れはしないでしょうよ」
「え? ヤネ?」
「ああ……騎手のことを競馬用語で『ヤネ』って呼ぶんですよ、馬の上にいるから、家とかの『屋根』と引っかけてね」
「へぇー……」
「そんなことより、早く馬券を買いに行きましょう。早くしないと発売が締め切られてしまうんで……」
「うん」
俺とカレンさんはスタンド内の馬券売場に戻った。
「じゃあ4番の単勝を買えばいいんだよね……」
「待ってください、カレンさん!」
「え? 何?」
安易に単勝馬券を買おうとするカレンさんのことを、俺は引き止めた。
「たかが2倍程度の単勝を買ってもおいしくないですし、何よりこのイェーガーオレンジという馬は近走成績が3着→2着→3着→2着→3着です。安定はしていますが、絶対に勝つとは言い切れません、また2着になるかもしれません」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「2着になっても当たりの馬券を買うべきかと……別に複勝でもいいんですけど、どうせ1倍台でしょうし、オススメは馬連ですね」
「馬連?」
「そうです。選んだ2頭が両方とも1着か2着に来れば当たりの馬券です。1990年代は最高配当が狙える馬券だったため、今でも人気があり、配当が高くなる馬単よりも売れている、珍しい馬券です。ちなみに正式名称は『馬番連勝複式』で略して『馬連』と呼ばれていますが、南関東競馬ではなぜか『馬連』ではなく『普通馬複』と呼ばれています」
自分でも「ああ、また早口になっている」と思うけど、好きなことについては、一度話し始めたら止まらなくなるのが人間という生き物なのだから仕方がない。
あ、一応書いとくけど、俺が今、語っていることもほぼすべて親父の受け売りであって、別に俺の経験則などではない、俺はそんな不良高校生ではない。
「そ、そうなんだ……でも、それだと2番以外の馬も買わないといけないから、難しいんじゃないの?」
「そうですね、わかんないんだったら最悪『総ながし』にすればいいんですけど、このレースは芝1200メートルの短距離でフルゲートですからね、さすがに馬連で17点も買ったらガミってしまうでしょうね」
「え? ガミ……?」
「当たっても赤字になってしまうことを『ガミる』って言うんです。買った金額よりも、配当の額の方が低いとそうなってしまいますね。極端な話、ギャンブルなんて全通り買えば絶対当たるんですよ、でも全通り買って当てても大抵は赤字になるので、意味がないんですよ」
これも親父が夕食時に偉そうに語っていたことをまんまコピーしたに過ぎない。
「そうなんだ……」
「だから絞らないといけませんね、とりあえず単勝50倍以上の馬が連対する確率は低いので、それ以外の馬すべてにながすことにしましょう」
「単勝50倍以上……」のくだりももちろん親父の受……
俺はスマホで単勝オッズを確認しながら、慣れていないカレンさんの代わりに、マークシートに印をつけた、イェーガーオレンジが軸の馬連8点を買うために。
「1点何円ずつ買いますか?」
「え?……1000円?」
「1000円で8点買いだと8000円かかりますけど、いいんですか?」
「だって、当たるんでしょ。当たるんだったらいいよ」
「そうですか。それじゃあ……」
俺は1点1000円のところに印をつけて、カレンさんにマークシートを渡した。
こうして、カレンさんの8000円は1枚の馬券と化した。
2番イェーガーオレンジが軸の馬連、相手は単勝人気順に3、17、12、15、18、2、14、8の8頭だ。
カレンさんが買った直後に7レースの発売は締め切られ、俺とカレンさんはスタンドの外に出て、ゴール前でレースを見ることにした。
夏の午後の日ざしは厳しかったが、ゴール前でレースを見るお客様は午前中と比べると増えていた。
しかし、今はそんなこと気にしている場合ではなかった。
冷静に考えれば、フリーターのカレンさんに8000円もの大金を賭ける、大勝負をさせてしまったのだ。
当たればいいけど、もし当たらなかったら……
俺は双眼鏡をのぞき込みながら、心の中では「頼んまっせ、武はん」と思わずにはいられなかった。
小倉7レース・3歳未勝利(芝1200メートル)は予定通りの時刻にスタートし、4番イェーガーオレンジはまずまずのスタートを切り、先行した。
「よし、位置取り的にはなんの文句もない」
「え? なんて……」
カレンさんの言葉、聞こえてはいたけれど、あえて無視をした。
今は冷静に応対をできるような精神状態ではなかった。
レースが4コーナーをカーブして最後の直線になると、俺はまたしてもプルプルと震え始めてしまった。
止めたくても止められなかった。
最後の直線のイェーガーオレンジは前の馬が壁になって、進路がどこにもない、加速したくても前の馬とぶつかってしまうからできないという状態になっていた。
短距離の芝1200メートルでそうなってはもうどうしようもない。
俺はもはや何もしゃべることもできない状態で、小倉7レースを見終えた。
イェーガーオレンジが正確に何着なのか確認することさえもできなかったが、1着でも2着でもないことははっきりとわかった。
やっちまった……フリーターのカレンさんに8000円もの大損失を与えてしまった……
「えっと……どうなったの?」
「すいません……外してしまいました……」
「あ……ああー、そうなんだー……」
二人の間を気まずい空気が流れる。
「本当に申し訳ない……なんとお詫びしたらよいものか……」
俺はまるで戦に敗れた武士のような気分になっていた、ここに刀があったら自害していたかもしれない、それぐらいの罪の意識を感じていた。
「え? そんなそんな、気にしないでよ、サトシくん。別にあの8000円がうちの全財産ってわけじゃないし……」
「でも……」
「だから気にしないでって……また次以降のレースで取り戻せばいいじゃん、ねっ……」
カレンさんは笑顔で明るく振る舞ってくれたが、俺の心を覆う黒い雲が晴れることはなかった。
それまでの饒舌が嘘のように黙り込んでしまい、場所取りした椅子から動けず、ずっと座っていた。
とてもじゃないが、「次以降のレースで取り戻せばいい」などという気持ちにはなれず、ずっと落ち込んでいた。
カレンさんはそんな俺のことをおだてたりなだめたりしていたが、俺の罪の意識が消えることなどなかった。
1回外したぐらいでここまで落ち込むような男ではカレンさんに好かれることなどあり得ないとわかっていても、どうすることもできず、落ち込み続けていた。
さすがにメインレースの九州スポーツ杯(芝1200メートル・3上1000万下)は勝負せねばなるまいと思って、力を振り絞って、パドックに馬を見に行った。
でも、今の乱れた精神状態ではどの馬が勝つかなどさっぱりわからず、「困った時は外国人騎手だろ」と思って、ホワイト騎手の乗る11番ポップオーヴァーの単勝をカレンさんにオススメしたが、ポップオーヴァーは2着、勝った馬は単勝74.1倍の人気薄、6番スノーエンジェルだった。
まさかのメインレースでそんな人気薄の馬に勝たれてしまうと、逆に闘志に火がついて、最終12レースで一発逆転を狙おうと意気込んでいたが……
「もういいよ、サトシくん。やっぱりお金ってのは地道に働いて稼ぐもんなんだなってわかったから。うちはもう帰るよ」
カレンさんにそう言われてしまっては、未成年の俺にはもうできることは何もなかった。
でも一つだけどうしても聞いておかないといけないことがあった。
「カレンさん、俺は小倉で一泊して、明日も競馬場に来るんですけど、カレンさんはどうですか? 明日も来ますか?」
「ごめんね、うち、明日はバイトだから防府にいないといけないんだ」
「そ……そうですか……」
「それじゃあ、サトシくん。またね」
「あっ、その前に一つだけ……」
「え? 何?」
「俺のことは嫌いでも、競馬のことは嫌いにならないでください!」
「え? 前田敦子? ウケる……別にこの程度でサトシくんのこと嫌いになったりしないよ。また今度、デートしようね」
「は……はい!」
こうしてカレンさんは最終レースを待たずに帰ってしまい、俺は一人取り残された。
だけれども、カレンさんの最後の言葉「デートしようね」のおかげで、俺はようやく元気を取り戻した、本当に男ってのは単純でいけませんわね、奥様……
閑話休題、元気を取り戻したので、とりあえず予想だけしてみた、小倉最終12レースの3上500万下(ダート1000メートル)は本命の1番ダノンチャンスが当たり前のように逃げ切り勝ちを収め、「こんなことならば、カレンさんのことをもっと強く引き止めておくべきだった」と思ったが、後の祭りだった。
カレンさんのいなくなった競馬場、一人きりで見る、1分にも満たない、一瞬で終わってしまうダート1000メートルのレースはむなしかった。
周りには家族連れや友達連れがたくさんいたが、俺は一人だった……まあ、俺が自ら望んで一人で行動しているわけだから、当然なのだが……
このまま一人でい続けると、どうにかなってしまいそうだったので、俺は親父に電話をして、居場所を聞き、合流することにした。
次回、そんなわけで小倉で一泊するわけだけど、どこに泊まるかは、まあ、だいたいわかるよね、お楽しみに。
脚注(興味のない方は無理して読まずに、飛ばしていただいて結構です)
競馬騎手の呼び方は「ヤネ」の他に「乗り役」「鞍上」「ジョッキー」など、いろいろあるが、作者は通ぶって「ヤネ」と言ってしまうダメな奴(笑)
複勝→単勝は選んだ馬が1着にならなければ外れのシビアな馬券だが、複勝は1着だけでなく2着3着になっても当たりの馬券である。その代わり、当たっても配当は低い。特に単勝1番人気の馬の複勝はだいたい1倍台で、当たってもお金が2倍にすらならない。
1990年代は最高配当が狙える馬券だった→1991年に馬連が導入されるまで、馬券は、今でいう単勝、複勝、枠連の三種類しか存在しておらず、万馬券が出ることはほとんどなかった。それが馬連の導入で、少なくとも、単勝、複勝、枠連よりは万馬券が出やすくなり、1990年代、馬連はおおいに売れた。その後、1999年にワイド、2002年に馬単と3連複、2004年に3連単が導入されたことにより、馬連が最高配当になるということはあり得なくなった。が、1990年代に競馬ファンになった人が多いからかなんなのか、馬単が導入された現在でも、馬連は馬単の2倍ぐらいの額、売れていて、今でも絶大なる人気を誇る。
競馬以外の公営競技では、2連単(競輪では2車単)や3連単よりも、2連複(競輪では2車複)や3連複の方が売れているなどということはあり得ず、競馬だけの特殊な現象である。
南関東競馬(東京の大井、神奈川の川崎、千葉の船橋、埼玉の浦和の4競馬場で行われている競馬のことを「南関東競馬」あるいは略して「南関競馬」と呼ぶ)で「馬連」ではなく「普通馬複」と呼ぶ理由は私にはわかりません(笑)
頼んまっせ、武はん→の元ネタは杉本清アナの迷言「頼んまっせ、マチカネイトハン」である(笑) ようつべで「ミヤマポピー エリザベス女王杯」と検索すれば見れる(笑)
3上1000万下→「3上」は「3歳以上」の略で「3歳以上の馬が出走できるレース」のことを表し、「1000万下」は簡潔に言えば「収得賞金1000万円以下の馬のみが出走できるレース」ということであるが、玄人にはともかく、素人にはわかりにくいからか、今年(2019年)から「2勝クラス(すなわち、主に2勝馬が出走できるレース)」と名称が変えられてしまった。でも作中ではまだ2019年ではないので……(笑)
ちなみに「500万下」は「収得賞金1000万円以下の馬のみが出走できるレース」で、今は「1勝クラス」という名称になっている。もうひとつ、「1600万下」というのもあるが、それは「3勝クラス」で、基本的には4勝以上した馬が出走するレースが「オープン」であり、オープンの中でも格が高いレースが「重賞」である。
なんで「万下」なんて名称にしていたのかと言えば「降級制度」というのがあったからだが、それを説明するのはめんどくさいので、意味を知りたい人は各自で検索してください(笑) 作者は若い頃に「ウイニングポスト」の取扱説明書を熟読して、中央競馬の「クラス」というものを理解しました(笑)




