第三十八話「無言の雄弁」
「ああ、このどこからともなく漂ってくる、お好み焼きのソースの香り。広島市に来たって感じがするなぁ……」
などと俺がのんきなことを言っていられたのも、原爆ドーム前の電停のホームにいた時だけで、横断歩道を渡って、原爆ドームに近寄ると、もう黙らざるを得なかった。
もちろん原爆ドームを見るのはこれが初めてではない。
当然おじいちゃんおばあちゃんに何度か連れてこられたことはあるし、繁華街にあるのだから見たくなくても嫌でも見える。
いつ見ても原爆ドームには不思議な力があった。
もちろん建築物なのだから何もしゃべるわけはない……しゃべるわけはないけれども、原爆ドームは見る人に何かを雄弁に語りかけている。
俺は原爆ドームを見る度にそう思っていた。
そして、いつ見ても、涙をこらえるのが大変だった。
あれほどの惨禍をよくぞ耐え抜き、崩れ落ちなかったものよと思うと、無意識のうちに泣きそうになってしまう。
さすがにクレナお嬢とロバータ卿の前で泣くわけにはいかないのでこらえていたが、原爆ドームを見る度に俺は「世の中には生きたくても生きられなかった人がたくさんいたのだから、甘えたこと言わないで頑張って生きよう」と思うのであった。
路面電車の中までは明るくはしゃいでいたクレナお嬢とロバータ卿も、さすがに原爆ドームの前では神妙な表情で、言葉を失っていた。
原爆ドームは外から見るだけで、中には入れないので、見学するのに時間はかからない。
しばらく原爆ドームを黙って見つめたのち、クレナお嬢とロバータ卿は英語で何やら話し始めたが、俺にはもちろん話の内容を理解することはできなかった。
「この向かい側に、昔カーズが本拠地にしていた球場があったんですよ、今はもう取り壊されてしまいましたけどね」ぐらいのことはロバータ卿に言ってみたかったが、そんな英語力は俺にはなかった。
その昔の球場は本当に子供の頃、それこそ幼稚園とかの頃に何回か入場したことがあるが、トイレや売店に行くのも一苦労なほどに通路が狭かったことを覚えている。
どこかへ行こうと思ったら「すいません、すいません」を連発しないといけないのがめんどくさくて、試合中は席から一切動かずにずっと座っていたような……
それと比べたら新しい球場は広くて本当に素晴らしかった。
まず試合中に自由に移動できるだけで感激。
さらにはコンコースで内野から外野まで自由に周回できるのというのも昔の球場では考えれられないことで、実に素晴らしかった。
「サトシ様。一緒にお写真を撮りましょう」
などと原爆ドームを目の前にしながら、今から行く球場のことをあれこれ考えてしまう不謹慎な俺を、クレナお嬢が記念撮影に誘ってきた。
別に断る理由もないので、クレナお嬢、ロバータ卿と3人で、原爆ドームをバックに写真に納まった。
写真を撮ってくれたのはもちろん、そごうさんで、俺、クレナお嬢、ロバータ卿のスマホでそれぞれ写真を撮影してくれた。
さすがに原爆ドームを後ろにしてはニコニコ笑うわけにもいかず、3人ともお通夜にでも来たみたいな、神妙な面持ちだったが……
「それではサトシ様、ロバータ卿、次は平和記念公園に参りましょう」
原爆ドームから平和記念公園までは歩いて行ける距離なので、歩いて行った。
いくら金持ちでもこの程度の距離でタクシーは使わないみたいで安堵した。
平和記念公園では原爆死没者慰霊碑を4人で参拝して黙祷し、その後は公園内をあちこち散策して、公園内にある様々な慰霊碑に祈りを捧げた。
ロバータ卿はここでも言葉少なだったが、カーズのユニフォームを着た、金髪の白人美女は、周囲の人たちの注目を集めていた。
ロバータ卿は公園内にある、英語で書かれた様々な説明文を熱心に読んでいて、時間はどんどん過ぎていったが、貴族の娘に「早くしてくださいよ」などとは平民の俺だけではなく、クレナお嬢も言えないみたいだった。
「さて、これからどういたしましょうか?」
クレナお嬢の言葉を聞いた俺が100円ショップで買った安物の腕時計を見てみたら、時刻はすでに11時半頃だった。
「本当はロバータ卿を原爆資料館にご案内したかったのですけれども、今からですと、野球に間に合わなくなってしまうかもしれませんわね……」
「うん、今日のところは諦めた方がいいと思うよ。ここから球場までは最低でも30分ぐらいはかかるしね」
俺がそう言ったのは、もちろん実際にそうだからだが、本音を言えば、野球を見に行く前に原爆資料館に入って、暗い気持ちになりたくなかったからだった。
もちろん原爆資料館もおじいちゃんおばあちゃんに連れられて何度か入ったことはあるが、子供の頃に初めて見た被爆者の人形の衝撃と言ったら、高校生になった今でも決して忘れることはなかった。
新聞記事を読むに今はもう、人形は撤去されてしまったらしいが、当然今でも展示されているのであろう焼け焦げた国民服や弁当箱を見たあとでは、素直に野球観戦を楽しめないと思った。
だから俺はクレナお嬢に早めに球場に行くことを提案した。
「そうですわね。原爆資料館はまた今度来た時にご案内すればよろしいでしょう。それではそろそろ球場に参りましょうか」
クレナお嬢のその言葉を聞いて、俺は心底ホッとした。
原爆はあまりにもヘビーで、たとえ追体験であっても、俺の心にダメージを与えずにはいられないのだ……
クレナお嬢とロバータ卿のたっての希望で、広島駅に帰る時もタクシーではなく、路面電車に乗った。
今度はカーズ電車ではなくて、ごくごく普通の車両だった。
繁華街の少し手前の袋町という電停から乗ったので、今回は4人全員座ることができた。
しかし、俺もクレナお嬢もロバータ卿も、行きの時のようにはしゃいではいなかった。
みんな心の中で、原爆ドームが語りかけてくる無言のメッセージについて、あれこれ考えていたのだろう。
今は平和で、中国四国地方最大の都市として栄えている広島市だが、ほんの70数年前には今の繁栄からは想像もできない光景が広がっていたのだ。
今では友達として仲良くしているロバータ卿とも、出会ったのが70年数前だったら「敵の娘だから仲良くするな」とか言われたのかもしれない……
俺は目を閉じて、戦争と平和についてあれこれ思いを巡らせていた……
次回、サブタイトル未定も、当然みんな大好き野球回ですよ、そして次回からはいつも通りの軽いお話に戻るのでご安心を……
脚注(興味のない方は無理して読まずに、飛ばしていただいて結構です)
お好み焼きのソースの香り→別に広島市のすべての場所でお好み焼きのソースの香りが漂っているわけではないが、お好み焼き店が多い繁華街を歩いていると、マジでどこからともなくソースの香りが漂ってくるのである。私の記憶が確かならば(笑)。




