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第三十話「ジャコ・パストリアスの肖像」

 5月3日水曜日、憲法記念日。


 今日からは祝日に土日も重なり、学生も5連休で、そう言えば、昨日クラスメートたちはテンションが高かったような気がする。


 でも池川家は家族でどこかに出かけるなんてことはなく、俺のテンションは低かった。


「ゴールデンウィークぐらい休んだらいいのに」と親父に言ったが、「祝日しか稽古に来れない弟子もいるから」という理由で祝日でも道場を開けているらしかった。


 自営業は大変だ……






 そんなわけで遠出できず、午前中は家でゴロゴロしていた俺だが、一日中家にいるのは嫌だった。


 ゴールデンウィークと言えども平日の昼間はテレビもワイドショーかドラマの再放送ばかりだし、公営競技も格の高いレースは競輪ダービーこと日本選手権競輪と、オールスター・オートレースの二つだけで、別にそれを見てもよかったのだが、よかったのだが……


 このまま家にい続けると、今日もまた、ウィメンズ・ティー・パーティーの誰かが、池川家を訪問してくるのではないかという恐怖が、俺を外出へと駆り立てたのだった。


 昨日モエピが「明日からライブの最終リハーサル」と言っていたし、実際ライブの2日前なのだから、普通は来ないと思う。


 来ないと思うし、実際午前中には来なかったけど、常識が通じないのがあの人たちだからな……警戒するに越したことはない。


 居留守も通じなかったし、実際に留守にするのが一番確実、一番安全。


 だから俺は午後から外出することにした。


 とは言え、一人で防府市(ほうふし)をブラブラするのもさみしいので、俺はナナのことを誘って一緒に外出しようと思った。


 だからナナに「今、暇?」などとラインをしたが、ナナの返事は「今、友達とお出かけ中だから暇じゃない」という、つれないものだった。


 仕方がないので、一人で外出した。


 別に夜遅くまで外出するわけでもないので、わざわざ親父に断りは入れなかった。


 特に行くあてなどはなく、自転車で適当に、今まで走ったことのない道を走り、それに飽きると、いつも行っている本屋に入って、文庫本や漫画雑誌などを立ち読みして、暇を潰した。





 そうやって暇を潰していると、意外に早く夕方になって、でも過去2日、ティー・パーティーが家に来たのは17時台で、今日も17時台に来るかもしれないので警戒して、18時頃に帰宅した。


 自転車を押しながら、自宅の敷地内に入って、何気なく玄関を見たら、玄関前の段差のところに誰かが座っていた。


 その誰かは祝日なのに制服姿で、段差に座りながら文庫本を読んでいた。


「あら、やっと帰ってきたのね、助兵衛(すけべえ)、遅かったじゃない……」


 長い髪が地面につかないようにアップにしていて、目が隠れていなかったので、一瞬誰だかわからなかったのだが、声を聞いただけですぐに誰だかわかった。


 俺のことを「助兵衛」呼ばわりする女は、この世にマッチ、ただ一人だ。


「どこへ行くのよ、助兵衛。あなたの家はここでしょう?」


 人影がマッチだとわかったとたん、逃げ出そうときびすを返した俺の両肩をマッチががっちりとつかんだ。


「逃がさないわよ……」


 そしてマッチは俺の頭をヘッドロックした。


「ご、ごめん、ごめんて……」


 俺はマッチの腕をタップして、ギブアップの意思を示し、腕をほどいてもらった。


「さあ、さっさと家にあげてもらおうかしら」


「はい、わかりました」


 やはりこの家は、俺の安息の地ではなかったのだ。







「それで、今日はいったい何用で?」


 居間に通したマッチは、モエピと同じように俺の向かい側に座り、サアヤさんのように隣に座ってくることはなかった。


 家にあがったとたん、髪留めを外して長い髪を下ろし、いつものように左目を前髪で隠したマッチ。


 別に左目が魔眼とか義眼とか、めちゃくちゃ充血していて真っ赤だとか、そういうわけではなく、普通の目だった。


 普通の目なのになぜ隠しているのだろう?


「別にあなたに用はないわよ」


 俺の疑問など知るよしもないマッチの口調は、今日も冷淡だった。


「じゃあ何しに来たんだよ……」


 本当はもっと強くツッコミたかったが、マッチに対する恐怖心からか、ささやくようなツッコミになってしまった。


「私が用があるのはあの部屋よ」


「あの部屋?」


「そう、この間見た、本がいっぱいある部屋を見せてほしいのよ。この間はじっくり見られなかったからね」


「なんだ、そんなことならさっさと行こうか」


「話が早いのね」


「そりゃあ、いろいろあるからね、いろいろ……」


 さっさと用を済ませて帰ってほしかった俺はマッチと二人で、速やかに書庫へ向かった。


「ところで今日は祝日なのに、なんで制服着てるの?」


 その途中、俺は気になっていたことを聞いた。


「なんでって……制服以外の格好で学校には行かないでしょう、普通」


「え? 今日、学校行ってたの?」


「ええ、学校の音楽室で明後日のライブの練習をしてたのよ」


「ああ、そうか。軽音部は部活だから、祝日でも練習で音楽室を使えるのか」


「ええ、そうよ。祝日だからって遊び回っているような、帰宅部のあなたとは違うのよ、私たちはね」


「ああ、そうですか……」


 マッチの嫌味だか皮肉だかにいちいち反応していてはいられないので、俺は適当に流しておいた。





 書庫に入るや否や、マッチは髪で隠れていない右目をキラキラさせながら、文庫本の棚から文庫本を出してはパラパラ読み、棚に戻しては、また別の文庫本を出してパラパラ読み、を繰り返した。


 俺はそんなマッチの様子を背後から眺めていたが、マッチが読んでいた本の大半は詩集だった。


「マッチは詩が好きなの?」


 前から気になっていたことを俺は聞いた。


「ええ、好きよ。言葉というものは本来、他者とコミュニケーションを取るために存在しているものだから意味が伝わらないといけないの。だけど詩人たちのつむぐ言葉は、難解で意味はなかなか伝わらない。同じ言葉のはずなのに、少し順序や並べ方を変えただけで、意味が伝わりにくくなる。それこそが詩の最大の魅力なのよ。蛮人(ばんじん)のあなたに私の言っていることが伝わるかしら? 助兵衛」


 マッチはいつになく饒舌だった。


 やはり人間、自分の好きなものを語る時はそうなってしまうものらしい、マッチのようにクールな人であっても。


「蛮人」と言われたぐらいで、いちいち目くじら立てていてはマッチと会話などできない。


「まあ、伝わるような……伝わるないような……」


「どっちなのよ」


「こういう曖昧、灰色なのが詩の最大の魅力だって、ヴェルレーヌも言ってなかったっけ?」


 俺の言葉を聞いたマッチの目の色がわかりやすく変わった。


「あなた、ヴェルレーヌの『詩法』を読んだの?」


「そりゃあまあ、詩は数分で読めるからね、結構読んではいるよ」


 などとさほど興味のないふりをしてしまったが、本当は詩人になりたいと思っているぐらいには、詩が大好きで、いろんな詩人の詩集を読んでいた。


 マッチには心を許していないので、「詩人になりたい」なんて決して言えないし、言わないけれども……


「ふーん……じゃあ助兵衛。あなたが一番好きな詩人は誰なのかしら?」


 だから、普通の人なら答えに窮するような質問にも、すんなり答えることができた。


「一番好きな詩人? そうだなぁ……やっぱりマラルメかな」


「マラルメ? あなたはステファヌ・マラルメのことを知っているの?」


 マッチは意外そうな表情で俺のことを見てくる。


「ほら、ドビュッシーの曲で有名だから。『牧神(ぼくしん)の午後への前奏曲』ってやつで。それで気になって読んでみたら、すごいなこれって思って……」


「あなた、ドビュッシーなんか聞いてるの?」


「そりゃあこの部屋にあるからね、CDが」


「驚いた。あなたは毎日、白いのをドビュッシーさせてるだけの猿だと思っていたのに……」


「いや、ド下ネタやないかーい!」


 マッチが突然ぶっ込んできたド下ネタには、大きな声でツッコまざるを得なかった。


 すると……


「ウフフフフ……」


 え? マッチが笑った……マジで?


「な、なんで笑ってるの?」


 思いもよらぬ出来事に、俺は思わず質問してしまっていた。


「なんでって……面白いからに決まってるじゃない。それ以外に笑う理由があるのかしら?」


「ないですね、ええ……」


 驚いた……クールなマッチのツボがまさかのド下ネタだったなんて……


「あ、マラルメの詩集、ここにあるじゃない。私も読んでみようかしら」


 笑い終えたマッチは、本棚にあった「マラルメ詩集」を手に取り、ページをパラパラとめくった。


「ねえ、助兵衛。この詩集、詩そのものよりも、訳者の解説の方が圧倒的に長いし、ページ数も多いんだけど、なんで?」


「それだけマラルメの詩が難解ってことだよ。ほら、西洋の詩って、脚韻が大事らしいんだけど、そういうのって日本人にはわからないじゃん。西洋の人に七五調が伝わらないのと同じようにね。そういう細かいことが全部解説に書いてあるんだよ。訳者の情熱を感じるよね」


 俺も自分の好きなこととなると饒舌になってしまう、ごく普通の人間の一人だった。


「ふーん……私はそういうの教えてもらうんじゃなくて、自分で気づきたいわね」


「いや、マラルメが詩に散りばめたテクニックは多分、フランス語話者でも、そう簡単には気づけないぐらい難解なものだと思うよ。大半の日本人が古今和歌集に秘められたテクニックを知らないようにね」


「助兵衛。あなた意外と芸術に理解があるのね」


「まあ、理解というか、憧れというか……」


「ただのスケベニンゲンだと思ってたけど、見直したわ……」


「え? そうなの?」


 マッチのその言葉は素直に嬉しかった。


「見直したついでに尋ねるのだけど、助兵衛オススメのベーシストは誰?」


 見直したのに呼び名は「助兵衛」のままかよ……一瞬でも喜んで損したね……


「え? オススメ?」


 そして今日もまた、このパターンか……


「ええ、そうよ。聞いたんだけど、昨日モエピにオススメのピアニストを紹介してあげたらしいじゃない。ぜひ私にもオススメのベーシストを教えてほしいわ、助兵衛」


 女子のおしゃべりネットワークってのは本当に恐ろしいな……言ったことやったこと全部筒抜けだぞ……


 閑話休題……


「オススメのベーシストってエレキのでしょう? そしたら一人しかいないよ……」


 俺はそう言って、本棚の前から、CD棚の前に移動して、手際よく目的のCDを取り出して、マッチのいる本棚の前に戻ってきた。


「ほら、ジャコ・パストリアス」


 俺はジャコ・パストリアスのCDをマッチに手渡した。


「ジャコ・パストリアス?」


「うん、歴代のすべてのベーシストの中でもトップクラスのスーパーベーシストだよ。ベーシストだから、リーダーアルバムは少ない……っていうか、ほとんどないんだけど、この初リーダーアルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』は、世界中の音楽ファンに衝撃を与えたらしいよ」


「ふーん……モエピの言う通り、あなたは洋楽に詳しいのね」


「全部おじいちゃんや親父の受け売りだよ」


「このアルバム、ぜひ聞いてみたいわ。聞かせてくれる?」


「うん。もちろんいいよ」


 俺はマッチと一緒に居間に戻った。


 そして居間にある親父と共用のノートパソコンのディスクドライブに「ジャコ・パストリアスの肖像」を入れ、再生した。


「な、なんなの、これ……」


「ジャコ・パストリアスの肖像」の1曲目「ドナ・リー」を聞いたマッチは驚きの声をあげた。


「なんなのって言われても、これがジャコ・パストリアスだよ。すごいよねー、ベーシストなのにソロでこんなに弾けるんだもん。そりゃ世界に衝撃を与えるわけだよ」


「ねえ、助兵衛。このCD、貸してくれない?」


「ドナ・リー」を聞き終えたマッチはそう言った。


「え? 貸してって言われても、それ俺のじゃなくて、親父のCDだし……」


「自分のパソコンに取り込んだらすぐ返すわ。絶対借りパクしないから、お願い、貸して」


 マッチはいつものクールが嘘のように熱かった。


 ホットだった。


「ま、まあ、そう約束してくれるのなら……」


 俺は例によって圧力に負けて、貸すことを承認してしまった。


「ありがとう。明後日のライブ、あなたも来るんでしょう?」


 マッチの表情は今まで見たことがないほどに穏やかだった。


「うん、行くよ。暇だし」


「じゃあその時に返すわ。それなら大丈夫でしょう?」


「うん、まあ親父も最近はネット配信で音楽を聞くことが多いから、別に1日ぐらいならなくてもバレないと思うよ」


「悪いわね、迷惑かけて」


 マッチは「ジャコ・パストリアスの肖像」を自分の鞄に入れた。


「いや、別に迷惑では……」


「それじゃあ、外が暗くなってきたから、私はもう帰るわね」


「うん」


 俺はマッチのことを玄関で見送った。


「今日は来てよかったわ。それじゃあまた明後日に会いましょう」


 マッチは自転車に乗って帰っていった。


 過去2日は突然の訪問に疲れ切ったものだが、今日はちっとも疲れていなかった。


 むしろすがすがしい気分だった。


 今までただ怖いだけのドS女だと思っていたマッチと、詩やジャコ・パストリアスを通して、少しだけ心が(かよ)ったような気がしたからだ。


 マッチとは仲良くできなさそうと思って避けていたが、今日思いがけなく二人きりで話してみて、意外に仲良くできそうだなと思った。


 それがわかっただけでも、今日は収穫がある一日だったと言える。


 苦手だと思っていた人でも、話してみると意外に……


 そんなありがちなパターンが自分の人生にもあるとは驚きであった。


 話をするって、大事なことなんだな。


 そう思った憲法記念日だった。

次回「見下げてごらん」 お楽しみに。



脚注(興味のない方は読み飛ばしていただいて結構です)

日本選手権競輪→競輪では1年に6レースしかないG1レースのひとつ。競輪のG1の中では最も優勝賞金が高く、また、優勝者には内閣総理大臣杯が授与されることから、ファンの間では「競輪ダービー」という通称で呼ばれている。開催時期はころころ変わっているが、近年はゴールデンウィークの6日間開催で定着している。


オールスター・オートレース→オートレースで年に5レースしかない最高格式のSGレースのひとつ。レース名の通り、ファン投票で選ばれた選手たちによって行われるレースである。これも開催時期はころころ変わるが、近年はゴールデンウィーク前半の5日間開催で定着している。余談だが、ボートレースのSGは「スペシャルグレード」の略だが、オートレースのSGは「スーパーグレード」の略らしい。


ヴェルレーヌ→フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌのこと。彼については第二十一話「グルーヴィン 日曜日の午後」の脚注に書いているので、興味のある人はそちらを参照のこと。


ステファヌ・マラルメ(Stephane Mallarme)→フランスの偉大なる詩人。詩人でありながら、何度も校正・推敲(すいこう)を重ね、ひとつの作品を完成させるまでに何年もの時を費やした、完璧主義の芸術家。一度発表した作品でも満足することなく改稿を重ねた上、当時の出版物は誤植が多かったので、どれが決定稿なのかを巡って、専門家たちが今でも揉めているらしい。その作品はあまりにも難解で、常人にはとてもじゃないが理解することは不可能。フランス人でもマラルメの詩を完全に理解することは困難なのに、翻訳でしか読めない日本人がマラルメの詩を理解するなどと笑止千万……


牧神の午後への前奏曲(Prelude a "L'apres-midi d'un faune")→そのマラルメの代表作の長編詩「L'apres-midi d'un faune(クラシックの世界では「牧神の午後」と訳されることが多いが、近年の「マラルメ詩集」では大抵「半獣神(はんじゅうしん)の午後」というタイトルになっている)」を読んで感動したフランスのクラシック作曲家クロード・ドビュッシーが作曲した管弦楽曲。ドビュッシーにとっては出世作であり、代表曲の一つでもある。日本人でマラルメを知っている人の大半はこの作品の解説を読んで、初めてマラルメのことを知ることになる。


古今和歌集に秘められたテクニック→を限られた人だけにひそかに伝えていたのが有名な「古今伝授(こきんでんじゅ)」である。


ジャコ・パストリアス→サトシの言う通りのスーパーベーシストだが、アメリカの天才ミュージシャンの宿命なのか、晩年は酒と薬に溺れ、精神病が原因でホームレスになってしまった挙句、ガードマンとの喧嘩に敗れ、35歳の若さで亡くなってしまった。「ジャコ・パストリアスの肖像(原題は「Jaco Pastorius」だけなので、「の肖像」は日本人が勝手に付け加えたものである)」は全ベーシスト必聴の名盤中の名盤である。

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