らせん怪談〜冥土のカノジョ〜
ブーン・・・ブーン・・・
そこは、換気扇の音が響くくらいしんとしていた。
「では、お話をお伺いしてもよろしいですか?」
ANJ放送局の男性アナウンサーにそう聞かれると、男はことの顚末を話し始めた。
「あれは、去年の夏のことです。当時、私は築二十年を超えるボロアパートに住んでいて。本当にボロアパートでした。近隣住民の生活音も筒抜けでして・・・」
男の目の前にはプライバシー保護のためのモザイクがかったガラスが一枚置かれている。
ANJはローカル局ということもあり、小さなスタジオに所狭しとカメラやらハンドマイクやら、撮影に必要な機材が置かれていた。置かれていたというよりは、放置されていたという方が正しいかもしれない。
『驚愕!! ホントにあった真夏のKAIDAN!』と書かれた看板は傾いたまま。
これも演出のひとつなのか、それともただただここのスタッフの仕事が雑なのか。
とても撮影現場とは呼べないくらい足の踏み場のない狭いスタジオは、当時男が住んでいたあの部屋のようであり、ポジティブにこの現状を受け入れるのであれば、そのおかげでリアルにその当時のことを思い出すことに一役買ったということ。
あの信じがたい体験は、一年前の夏だ。あの夏の体験を俺はきっと忘れることはないだろう。
○【四谷羊祐の体験談】
その時。
俺は焦りと不安でできた山の頂上にいた。
「四谷さん、ホンマにここでええんか?」
大家の男は、くどいくらい何度も俺に問いかけた。
俺にはここしかない。
「あのな、四谷さん。遊び半分でここに住んだらアカン」
遊びなんかじゃない。俺はかなりのマジだ。
「悪いことは言わん。別の部屋にしときて」
「いや、何度も言ってますが、僕はここでいいんです」
それを聞いて、大家が呆れた表情で言う。
「ここは出るんやで。一ヶ月ともった奴はおらんのやで」
噂は聞いていた。
この築四十年もするボロアパートの205号室。
ここには以前、一人の若い女性が住んでおり、酷いストーカー被害にあっていたという。
身の危険を感じ、何度も警察に助けてもらうように懇願するも、事件性がないという理由で結局は取り合ってくれなかったらしい。
そして、悲劇は起きた。
ストーカーによって彼女は殺害されたのだ。
あまりの恐怖からか、殺害された被害者の目は開ききったままだったという。
全て見ていたに違いない。
ストーカーが侵入してきた時も、襲われた時も、殺害されるまで。
この世の地獄を冥土の土産に彼女は、犯人によって旅立たされたのであった。
それからというもの、この部屋の悪い噂は絶えない。
あの忌まわしい事件が風化して十数年経っているにも関わらず。
それは、徐々に訪れるという。
最初は、誰かにじっと見られているような視線。次に、不快な音。
誰もいないはずの階段を上ってくる足音。それは、まさにこの部屋に迫ってくるかの如く徐々に近づいてくるという。
これらが単なる気のせいではないのでは、と疑う頃にはポルターガイスト現象が住人を襲う。
さらには、もうとっくに消し去ったはずの血痕が浮かび上がり、
そして、女性の霊が現れ・・・etc。
大家の言う通りである。
そんなことが毎日のように起こり続ける部屋に好んで住み続ける者などつゆおらず、一ヶ月ともつことなく転居していくのである。
俺にはその方がかえって好都合だった。俺が求めていたのはこの環境だった。
「よつや・・・ようすけさんでええでっか、読み方?」
契約書の署名欄に書かれた『四谷妖祐』という俺のサインを見て大家が言った。
「物騒な名前でんな」
コテコテの関西弁に虫酸が走る。
いまの時代「でんな」なんて使うかよ。
「物騒な名前というのは?」
走る虫酸を止めて、俺は冷静さをなるべく保った。
「いや、『四谷怪談』の『四谷』に『妖怪』の『妖』って。いかにも・・・ですやん」
「あっ、違います」
俺は慌てて、『四谷羊祐』と書き直した。
「実は僕、普段は『四谷妖祐』という芸名で怪談師をやってまして」
「ああ、芸人はんでしたか」
芸人『はん』? 『はん』? 走った虫酸の背中はもう見えなくなっていた。
脱サラして、怪談師になったのは三十代も半ばになった頃。
もともと人前で話すのが好きだった俺は、家族の反対を押し切りこの業界に入ることを決断した。
嫁からは「人前で話す職業なんてごまんとあるのになんでよりによって怪談師なのよ?」
と言われたが、俺は人が怖がる表情がたまらなく好きだった。
昔から友達とホラー映画を観る時は、友達の怖がる様子ばかりが気になり映画なんてそっちのけ。
当時、五歳だった子供には「パパ、幽霊見たことあるの?」と聞かれたが、正直なところ霊感は全くのゼロで見たことはなかった。
ただ、今までの人生を冷静に振り返ると、何回かは見たことがあったような気がする。
幽霊と目が合ったことがあるような感じがする。
小学生の頃、学校に行く道中ですれ違ったあの女性。
いま思えば、あの女性はこの世のものではなかったかのような感じがする。
この『感じがする』という感覚を霊感と置き換えてもいいのであれば、俺の霊感は十分あると言っていい感じがする。
こんな体験をして来たのは何か運命じみたものを感じていたのだ。
俺が自由意志で「怪談師」を選んだのではなく、俺は運命に導かれてこの選択をさせられているような気がしていた。
結局、そんな俺に呆れた嫁と子供は俺のそばから去って行った。
あれから、五年。
それまでの人生がそうだったように、俺の身に恐怖体験なんて急に起こるはずもなく、未だに持ちネタはゼロ。
稼ぎのない俺に取り憑いたのは幽霊ではなく、タチの悪い金融業者だった。
膨らむ借金は、今更ながら俺に『本当に怖いのは幽霊ではなく人間なのだよ』と教えてくれているようだった。
四十代になっていた俺には、もう後がない。
ここで、とびっきりの恐怖体験をして、とびっきりの怖い話を語らなければならない。
そんな使命感の中、ようやく『出る』と噂のこのアパートに辿り着いたのだった。
すべては上手くいく。
苦節五年。幸運にも俺の初舞台は一ヶ月後に決まっていた。
すべては上手くいく。
俺の命にかけてでも、その舞台で成功してやる。
入居して二週間が経った。
期待していた怪奇現象からの音沙汰はまだなし。
ここまで何もしてこなかった訳じゃない。
今までの生活習慣もかなり変えた。
ずっと早寝早起きだった俺は、怪奇現象のゴールデンタイム『丑三つ時』に合わせて目を覚ますようにしたし、ここの幽霊が和テイストではなく、ドラキュラよりの西欧テイストの可能性もあると考えて、好物のニンニクも食べないようにした。
クリスチャンだった俺の必需品である十字架も早々に折ってやった。
雰囲気重視で夜中には『エクソシストのテーマ曲』を大音響で聴きながら過ごし、ロウソクに火をつけては消し、消してはつけを繰り返す。
幽霊撃退の合言葉が「びっくりするほどユートピア」と叫ぶことと知るや否や、こちらはおもてなしする側なので、その言葉の逆である「白けるほどのデストピア」と叫んでもみた。
仏像を買って来ては首を刈って行き、経典は仏教徒には縁もゆかりもないスワヒリ語に訳す。
タバコもやめたし、本気になって大原もユーキャンも辞めた(それとこれとが関係あるかはわからないが、とにかく幽霊が出やすい環境作りに努めたのだ)。
暇さえあれば裏拍手。
無意味に満月も見てやったさ。
でも、来ない。来ないの、アレが。アレが来ない。
怪奇現象の一つや二つ起きてもおかしくないこの環境。
この部屋、幽霊にとっては好条件じゃん。なのに・・・
「なんで来ないんだよ!!」
そう夜中に叫んでも、聴こえてくるのは相変わらず大音響の『エクソシスト』。
俺は追い込まれていた。
何度もリピートされる『エクソシスト』効果もあり、頭がおかしくなりそうだった。
初舞台は二週間後に迫っていたが、持ちネタは相変わらずのゼロ。
この部屋に入居する前、俺は舞台監督に、
「あまりの怖さに観客全員が次の日、筋肉痛になるくらい震え上がらせますよ」
と意気込んでいた。
「二、三人は身体を震わせすぎて腹筋割れるんじゃないすかねぇ」
それくらいこの部屋に期待していたのだ。
なんせ、住んでも一ヶ月ともたない呪われた『いわくつきの部屋』に住むのだから。
そういった経緯もあり、一昨日、舞台監督から電話があった。
「お疲れデース」
ムカつくハイトーンボイスが耳を突く。
時代が時代なら、俺はこいつを兵糧攻めで殺したい。
「四谷さんのために、出演順を大トリにしましたよ。それと当初は持ち時間3分を予定していましたが、これもなんと30分を確保しました。僕もスタッフも四谷さんには期待しているんで、腹筋割れるくらいの怖い話、よろしくデース!」
『人生オワタ。監督死ね』
これは、裏垢でやっている俺のブログのその日のタイトルである。
自業自得ではあるが、それにしてもこの舞台監督は、一生分の余計なことを俺にしてくれた。
30分も話す内容がない。
何も起こってない。
ここを先人たちは『絶望の淵』と呼んだのか。
初めて見るその景色は、涙でかすんでよく見えなかった。
「とりあえず寝よ」
と俺は『爆音・エクソシスト』をオフにした。
現実逃避は最低の睡眠薬である。
逃げたくなった途端、急に睡魔に襲われる。
「畜生!! お前が出て来ねぇからだぞ!」
いるかどうかもわからない同居人に俺は当たった。
"ドン"
「え?」
"ドン"
聞こえる。
"ドン"
聞こえる、どこからともなく不快な音が。
"ドン・・・ドン!・・・ドン、ドン"
来た。来た!
「キターーーーー!!」
"ドン!ドン!ドン!"
音は続く。
そうか、俺は気付かなかっただけなんだ。本当はずっといてくれたんだね。
あなたの訴えるこの音は、かの邪智暴虐のミュージック、『爆音・エクソシスト』によってかき消されていたんだね。
今思えば、この音だけじゃなく、殺された女性の視線も二、三日くらい前から感じていたような気がする。
ずっと見られている感じがしていたんだ。
そんな気がしてならなかった。
「キター! キター! いや、キテター! すでにキテター!」
俺は一晩中叫んだ。
冥土の彼女もそんな俺に、不快音で応えてくれた。
「白けるほどのデストピア! 白けるほどのデストピア!」
俺はライブ中のアイドルに投げかけるようにコールした。
次の日。
この部屋の怪奇現象は早くも次のステージへと移行していた。
というのも、人が寝静まったはずの深い夜、聞こえたのだ。
"カツン・・・カツン・・・"という階段から聞こえる足音。
噂通りにそれは、この部屋めがけて歩いてくる。
キタぜ。キテルぜ。
足音が部屋の前で止まる。
人の気配がする。間違いない。冥土の彼女だ。
「キター!!」
ポルターガイストとか、血の痕ブシャーとか、いくつかステージを飛ばしているが、これだけ懇願したんだ。
きっと彼女の計らいで、飛び級させてくれたんだ。
「なにしてんだよ? 早く来いよ! 俺の目の前に出て来いよ!」
いよいよ、幽霊とご対面だ。
嬉しさで、鳥肌が尋常じゃなくそびえ立ち、身体は早押しの正解ボタンの如く上下する。
ここで、出囃子、『爆音・エクソシスト』。
からの、『白けるほどのデストピア』コール。
俺は無我夢中で叫んだ。
恐怖体験間近のこの状況に歓喜した。
「白けるほどのデストピア! 白けるほどのデストピア!」
生首だけの仏像がそこら中に散らばっており、足の踏み場もない。
寝転ぶスペースだけを確保し、そこにごろんと横たわってはや三日。
視線の先には生首の仏像があり、勝敗のつかないにらめっこが延々に続いている。
こちとら笑う気力も、立ち上がる気力もない。
当然、『悟りの境地』にいらっしゃる仏像も笑わない。
『死んだ魚のような目』
仏像の目は『悟った』というより、それに近かった。
部屋に鳴り響く着信音は、きっとバイト先の店長からであろう。
ここ三日は無断でバイトを休んでいた。
結局あの夜、冥土の彼女は現れなかった。
落ち込む俺を救ったのは、三日経った後に起きたポルターガイスト現象だった。
あれ以来、怪奇現象の『か』の字もなかったこの部屋に不満を募らせていたところだった。
部屋は揺れに揺れ、物という物が床に散らばった。
おかげでこの有様となったのだが、やはり彼女は現れない。
初舞台まで残り三日と迫った日。
「白けるほどのデストピア。白けるほどのデストピア」
俺の声はすでに枯れ果てていた。
ずっと、誰かの視線は感じていたような気はしていた。
ずっと、不快音が鳴り続けていたような気はしていた。
ずっと、何か物が動いていたような気がしていた。
でも、そんな安い霊感を俺はもう求めてはいなかった。
冥土の彼女をこの目で見たかった。
その事実なしでは、到底30分もの怪談は話せない。
仏像とのにらめっこをやめ、仰向けに寝転がる。
その時の感動を俺は今でも忘れない。
俺はなんておこがましい人間なのであろう。
冥土の彼女に飛び級で出会えると思っていたのがダメだったんだ。
じっと見られているかのような視線と部屋に鳴り響く不快音。
階段からこちらに向かってくる足音。
ポルターガイスト現象。
ちゃんと、一歩ずつ俺は冥土の彼女に近づいてたんだ。
"キタ"
"キタ・・・キタ・・・"
枯れた喉が少しずつ風が抜ける。
そして、天井に向かって俺はようやく叫ぶことができた。
「キターーーーーーーーーー!!!」
天井には、消し去られたはずの血痕が広がっていた。
これは、現実か。それとも夢か。
ポタポタと落ちる血が、仏像の生首を真っ赤に染めていた。
「これは、現実だ」
○ 【豊島トオルの体験談】
「これが、現実か」
二週間ぶりに帰って来た我が家は、足の踏み場もなく、豚小屋のようになっていた。
床に散らばったペットボトル。
中身は全て出ており、床は真っ赤に染まっている。
「馬鹿の三寸、間抜けの開けっ放し」
昔、父親に言われたことを思い出す。
小学生の頃、飲みかけの水筒も「馬鹿の三寸、間抜けの開けっ放し」で鞄に入れてビショビショにしたっけ。
そんな郷愁にふけりながら、部屋中に散らかったゴミを袋詰めにしていく。
大好物だったトマトジュースの残骸はすでに腐っており、酸っぱい臭いに耐えながら床を拭いていく。
もう金輪際、トマトジュースを飲むことはないだろう。
好きと嫌いは紙一重で、トマトジュースは嫌いに都落ちしていた。
半年ぶりのゴミ出しだ。
性格上ガサツな俺は整理整頓というものがからきしダメで、この部屋は二週間前も豚小屋寸前の状態だった。
そんな俺が、掃除をしているのはきっと、二週間の海外旅行のせいであろう。
「海外行ったら、世界観変わるぜ」
聞き飽きた言葉だった。そんなことがあるわけないと思っていた。
でも、確かに変わった。俺は嫌いだった掃除をいま真剣にしている。
トマトジュースは嫌いになった。
俺の世界観とは、所詮こんなちっぽけなものだ。
それにしても、ひどい豚小屋っぷりだ。
片付けても片付けても、ゴミが次から次へと発掘されていく。
二週間前はこれほどまでではなかった。
ふと見ると、ベランダの引き戸が開いている。
「やられた!!」と俺は思った。
直感で空き巣が入ったのだと思った。
これは、しばらく経った後のことになるが、俺の部屋をひっちゃかめっちゃかにした犯人は空き巣ではなかった。
俺が出国した二日後にこの地域を大地震が襲ったのだという。
「馬鹿の三寸、間抜けの開けっ放し」
冷静に考えればそうだ。
ここは三階。
こんなボロアパートの三階にリスクを背負って入る空き巣なんていない。
ただ、その時の俺はまだその事実を知るよしもないので、怯えながらゴミを出しに行くはめになる。
ゴミ袋を担いだ季節外れのサンタクロースは、はたから見れば寒さで震えているようだが、心底空き巣に恐怖していたのだ。
「トヨシマはん、トヨシマはんて」
大家がおそらく俺を呼ぶ。
アパートのゴミステーションにちょうどゴミをプレゼントするところだった。
「あの、何度も言いますけど、『豊か』に『島』で『トシマ』って呼ぶんです。僕の名前は『豊島トオル』です」
「そんなんどっちゃでもええねん」
俺はこのコテコテな関西弁を話す大家が嫌いだった。
ここの世界観は今も健在だ。
「あんな、トヨシマはん。今日は燃えへんゴミの日でんねん。それ燃えてまうゴミやろ? 今日捨てたらアカンで」
『燃えてまうゴミ』?
おそらく、『燃えるゴミ』のことだろう。
関西弁が過ぎてその表現は間違っている。
その気になれば、全種類のゴミは『燃えてまう』からだ。
結局、俺は大量の『燃えてまうゴミ』を部屋に持って帰ることにした。
苛立ちながら帰っている道中、二階から三階をつなぐ踊り場でふと思い出す。
嫌なことを思い出してしまった。
「こんにちは」
不敵な笑みを浮かべてこちらに挨拶してくるオッサンの顔が脳裏に蘇る。
確か、あいつがここに越してきたのは、一ヶ月くらい前だっけ。
誰もいない二階の廊下をじっと眺めながら俺はふと思った。
部屋に帰ってきた俺は落ち着かない。
それは、大量のゴミがリターンされたからではない。
また、アレが続く日常の開始が嫌だった。
あの時は、海外に行く楽しみがそれをいくらか緩和していた。
『キターー』
真下から叫び声が聞こえる。
俺は反射的に床にかかと落としを食らわす。
『キタ、キターーー』
なおも続く絶叫。
俺は何度も床を叩いた。
二週間前もそうだった。
一ヶ月前に引っ越してきた住人はクレイジーだった。
一晩中、何かに対して叫んでいる。
最初の頃はじっと静観していたが、堪忍袋の緒が切れるきっかけとなったのは、どこかの映画で聴いたことのある音楽だった。
恐怖の象徴として名高いその音楽は、真下の住人によって毎晩のように爆音で流された。
俺は何度も何度も床に蹴りを入れるが、おさまる気配はない。
むしろ、エスカレートしていった。
大家に相談しようとしたが、あの関西弁を自ら聞かないといけないのが嫌だった。
だからだ!
だから、出国する前日。
直接、真下の住人に文句を言いに行こうと決意したのだ。
もちろん、そんなクレイジーな奴に裸一貫で挑むことはしない。
俺は万が一のことが起こった時に退治するようのロープを手に二階へと降り立った。
これが俺のリーサルウェポンだ。
結果は敗北。
住人の住む部屋の前まで行ったが、
『なにしてんだよ? 早く来いよ! 俺の目の前に出て来いよ!』
あの住人は狂っている。
こんなクレイジーなオッサンに文句を言っても理解される訳がない。
俺は逃げるように日本を発った。
あまりの怖さに、リーサルウェポンは気づくと無くなっていた。
今思えば、なぜロープなんかにしたんだ?
もっと殺傷能力のある包丁などの刃物を持って行けば良かったと今はそう思える。
でも、多少の興奮状態にあったその時の俺にそんな冷静な判断なんて出来やしなかった。
『キタぜ! キタぜ!』
なおも住人の劈く声が聞こえる。
『キャハハハ! キャハハハ!』
笑い声。
そして、慟哭。
「どないしてんな、トヨシマはん」
次の日、俺は朝早くに大家を訪ねていた。
もうこの際、「トシマ」でも「トヨシマ」でもどっちでもいい。
俺はことの経緯を大家に話した。
一ヶ月前に越してきた真下の住人がクレイジーであるということ。
昨日の晩も相変わらず、クレイジーさを放っていたこと。
もう、俺自身が限界を迎えているということ。
「昨日・・・でっか?」
こんなにも住人が訴えているのに、この関西弁大家ときたらいたって冷静だった。
というよりも、被害者の俺を疑っているような目をしていた。
「ホンマに昨日?」
「そうだよ! 昨日も『キター!キター!』って叫んでんだよ! 迷惑してんだよ!」
「そんなハズあらへん」
大家の表情が曇る。
「だって、トヨシマはんの下に住人はおらんで」
「は? 四十代くらいのオッサンが一ヶ月前に引っ越して来ただろ?」
「あぁ。四谷はんかいな。四谷はんなぁ。死んだんや。自殺やった」
俺は耳を疑った。
「一週間前や。首吊ってなぁ」
『その時。
俺は焦りと不安でできた山の頂上にいた。』
俺の真下に住んでいた住人、四谷羊祐はちょうど俺が帰国する一週間前にバイト先の店長によって首を吊っているところを発見されたという。
バイトを一週間以上無断で休んでいた四谷羊祐の身を案じて、そこの店長が大家に駆け寄ったのだ。
でも、昨日確かに彼の声を俺は聴いていた。
幻聴なんかじゃない。
確かに、四谷羊祐は昨日、俺の真下の部屋にいたんだ。
ことの真相を確かめようと、無理言って大家に四谷羊祐が遺した遺書を見せてもらった。
『その時。俺は焦りと不安でできた山の頂上にいた』から始まる文章は遺書というより、小説のような文体だった。
そこには、俺の床ドンや俺が部屋の目の前まで行った様子を、女の幽霊と勘違いして歓喜する彼の心情が書かれていた。
○ 【四谷羊祐の遺書】
『「これは、現実だ」
ようやく、最終ステージに俺は立ったんだ。
あとは、女の幽霊の姿を拝むだけだった。
でも、現実はこれだった。
トマトジュース。
天井から垂れてくるシミは血の痕なんかじゃない。
トマトジュースだった。
ニュースでは、三日前に大地震をこの地域を襲ったことが報じられていた。
全ては勘違いだったんだ。
結局、俺に霊感なんてこれっぽっちもなかったんだ。
頼むという願いで、俺は部屋の扉を開けた。
これまでのそれが、たとえ勘違いだったとしても、冥土の彼女さえそこに現れてくれたら何も問題はない。
頼むから扉の向こうに居てくれと俺は懇願した。
でも、誰も居なかった。
廊下を見回すが誰も居ない。
なぜかそこにはポツンとロープが一本置いてあるだけだった。
全てが運命に導かれているのであれば、これもまた運命である。
俺はそのロープを使って死ぬことにした。』
○ 【豊島トオルの体験談、再び】
俺はそのあとすぐに、長年住み親しんだこのアパートを去ることにしたのだ。
あの出来事から一年が経つ。
「豊島さん、豊島さん」
ANJ放送局の男性アナウンサーがモザイクがかったガラス越しにそう呼びかけたところで、俺ははっと我に返る。
どうやら、意識が飛んでいたらしい。
「大丈夫ですか? 豊島さん」
心配そうな声でアナウンサーが問いかける。
「いや、大丈夫です」
そう俺が答えると、アナウンサーは進行を続けた。
「では、お話をお伺いしてもよろしいですか?」
そこは、換気扇の音が響くくらいしんとしていた。
ブーン・・・ブーン・・・
○ とある学生の体験談
三階立てのボロアパート。
三階のあの部屋はまだ空き家だが、その真下には貧乏学生が住んでいた。
その学生にとっては、待ちに待った新生活の初日の夜。
期待と不安を抱えたまま眠っている。
と、そこに。
『キター! キター!』
学生はハッと目を覚ます。
『キター! キター!』
自分しか居ないはずの部屋に響く声。
学生は真っ暗な部屋の中、恐る恐る声のするリビングの方へと歩いていく。
リビングの電気をつけた途端、声は静寂な夜に溶けていくように消えた。
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
天井に広がる血の跡を見て、学生が叫ぶ。
『キャハハハ! キャハハハ!』
そして、慟哭。