Ⅵ:ボンサイアート
10分足らずでタクシーはアパートに着いた。ポリネッソ公爵が自分に愛を打ち明けてきたダリンダを利用して、自分を振ったジネーヴラが想うアリオダンテを陥れてやろうというアリアを歌い終わるところだ。結局、3時間ほどかかるこのオペラの終わりで、彼は決闘によって殺されてしまい、企みは破綻してしまうのだが、俺はこういうあからさまな勧善懲悪的オペラで動き回る姑息な悪人役が大好きだった。俺達自身の内にある卑小な感情と欲望を代弁してくれているようではないか。それにしてもこのC-Tはいい歌い方をする。裏声の訓練自体にチップを利用しているのは確実だが、この無理なく強く、弾力がありよく伸びる声はよほど地力があるのだろう。スポーツの世界と同じく、訓練自体に体内チップの神経記憶の反復学習システムを使うことは芸術の世界でも一般的だったが、実際の創造、実演の際に直接チップの神経細胞活動励起機能を使うのは(はっきり明文化されたスポーツ界と違い、芸術の世界では暗黙の了解という形だったが)ご法度とされていた。俺達が見たいのは生の人間の創造、感性、身体能力の達成点、限界であって、直接機械の助けを得て生み出された産物と結果ではない。体内チップが導入されてしばらくの頃、過去に熱狂的な名声を博していながら、声に限界を感じ始めていたある老声楽家が公演の際こっそりチップの助けをそのまま借りていたことが明らかになって、大騒ぎの話題となったことがあり、それを受けた一部の劇場ではそのようなチップ使用が公であれ、内輪であれ、明らかになった際は即刻そのような演奏家との契約を永久に絶つと通達した場所もあるが、それから40年近く、今に至るまで、大物から新人アーティスト、果てはコンクール界に至るまで、大小のそのような問題の話題が絶えたことはない。隠されたチップ発見の技術開発の競争も各社ますます加速していた。
俺は車内の料金投入口に紙幣を入れた。これも脳内サイバーアクセスでネット銀行から支払うことも出来たが、こうなっては手で直接入れる方が手っ取り早いし楽だ。シュッとドアがスライドして開き、俺は大きい通りから横の道に入ったばかりの角にあるマンションの前に降り立った。無人タクシーは音も立てず、また自動で待機車庫に帰って行く。
通りの他は全て一戸建て住宅の立ち並ぶ中に俺の住む10階建てのアパートはあり、5月の遅い日没の到来の薄闇の中、周囲の家の庭からの、湿り気を帯びた草木と花に土の臭いの入り混じった濃い芳香が俺の鼻に届いてきた。目に付く何軒かの家の生け垣越しには、グロテスクなほど幹と枝が太く発達して、一本の樹の内で入り組んで絡み合った木が生えているのが見える。そのやたら太い枝と幹に比して3メートルほどと丈が低く、おとぎ話に出てくる大男の怪物のトロールが舌を出しながら棍棒を持った両腕を上に持ち上げて、その横幅の広い体をくねらせて天に向かって差し出しているような、奇妙な存在感の迫力があった。元々は日本の伝統的な趣味芸のボンサイと呼ばれるもので、何でも本家の日本では両手で軽くもてるほどの小さな鉢植えに小さく刈り込んだ木を育てて観賞したものらしいが、外国に出て様々な国に受容されるうち、その形態と観賞態度が全く変わってしまったと聞く。寿司と似たようなものだ。このボンサイアートも神道の世界的な広がりとともに、日本の文化に興味を持った連中によってさっそく取り入れられていった。バイオテクノロジーの発展で、品種改良された育てる苗の選択や、土中質の細菌の割合まで容易に変えることが出来る今、園芸は誰でも気軽に楽しむことの出来る趣味だった。脳内改造こそ施してはいないが、ユングの原型質の理論に強く共鳴するある人間は、「自分の手である程度は成長の道筋を与えることはできるが、それでも細かなところは予期せず、時にはどうしようもなく変化して発展していく。これは俺達の心理状態と同じなんだ」と言った事があり、これは俺にはどうかわからないが、多くの人間の興味を引き、魅了しているのは確かだった。また、単純に地球環境のエコ活動への皆の高い関心もある。今目にしている家のうちいくつもが屋根や壁に多孔質の特殊な材質を使い、遺伝子組み換えで光合成活動を極度に活発化させた葉緑素を持つコケを一面に生やしている。マックやエマのような、自分たちに直接外科手術を施す`森の人々’ほどでなくても、その程度の事で緑化に参進している人間はどこにでもいっぱいいた。