餓えしものどもに捧ぐる賛歌(Ⅵ)
本作中の登場人物について、オリジナルではない既存の登場人物については、内面・外面とも著者の独自の解釈が多分に含まれています。また、作品内世界設定についても同様です。
本作には、「ログ・ホライズン」本編のネタバレに関する内容が断片的に含まれています。ご了承ください。
6.
「おい、はらぐろっ! 何が起きたのか説明しろよっ!」
腕組みをし、厳しい視線でデミクァスを凝視したままのアイザックが、まるで無茶振りと思っていないような顔で隣に座ったシロエに無茶振りする。
あのなあ、と疲れた表情を浮かべるシロエ。いい加減この人には、少し何とか云うべきなのかもしれない。
「アイザックさん、脳筋なんて評価に居直らないでくださいよ。どちらかと云えば、アイザックさんのほうが専門分野でしょうに」
「いんだよ、俺は。こっちのほうがみんな安心するからな」
「そりゃそうかも知れませんがね」
その”安心”とやらの為に無茶振りされるほうの身にもなってくれ、とむくれながらも、目にした現象を仔細に分析し、細分化し、分類し、検討するのが自らの習い性だと正確に認識している〈腹黒眼鏡〉のシロエは、たった今、〈盗剣士〉を拳の一撃で昏倒させたデミクァスから目が離せないでいた。
自分の知識が、ごく限られた範囲に限定されたものだと云う自覚はある。また、特に戦士職や武器攻撃職の攻撃特技は、〈大災害〉からこっち、個々の〈冒険者〉が積み重ねた研究と研鑽によって、様々な発展的分化が為され、ゲーム時代の画一的なモーションを離れて多様な発動形態を持つに至っていることも知っている。
それでも彼の知識にある〈武闘家〉の攻撃特技の中には、今デミクァスがやってのけたような劇的な効果を発揮するそれは存在していなかったのだ。
「僕に今分かるのは、何が起きたのかと云う事であって、何故それが起きたのかと云う事じゃありません。それでも?」
「構わねえ。ひとつ頼むわ、解説のシロエさん?」
「うるさいなあ」
お気楽なアイザックに溜め息をひとつ吐いてから、シロエは頭の中で使うべき単語を整理した。こんな時でも、出来るだけ正確な物言いを心掛けてしまうのは長所なのか短所なのか。
「端的に云えば、そうですね、今、デミクァスさんがやったのは、謂わば攻撃特技の二重発動ってところじゃないでしょうか」
「二重・・・・・・発動? どういうこった?」
当然のことながら、ゲームであった時代の〈エルダー・テイル〉には、ゲームをゲームとして成立させるために必要な、特技を発動する際に絶対の条件となる基本原則が存在した。「修得していな位階の特技は使用できない」だとか「特技の使用の際には必ずMPを消費する」などがその代表であるが、そうした基本原則のひとつに「複数の特技を同時に使用することはできない」と云うものがある。
例えば、幾つかの特技にキーボードのキーを振り当てて、それらのキーを同時に押しても複数の特技が同時に発動することはない。要するに、一度に発動できる特技はひとつだけ、次の特技を発動できるのは、前の特技を使用し終わり、更に定められた硬直時間が経過した後、と云うのが特技使用の大原則であるわけだ。
それを踏まえて先程のデミクァスの一撃を顧みて、何が起きていたかを判断するに、それは恐らく――――ただ一撃の正拳に、〈ライトニング・ストレート〉と〈オーラ・セイバー〉、二つの攻撃特技の性質が、同時に付与されていたのではないか。シロエはそう考えるのだ。
テオドールの鳩尾に命中する寸前のデミクァスの右拳、推測の根拠はそこに在った。〈伊達男〉の正中線中心に打ち込まれんとするその拳は、はっきりとは分からないが、〈オーラ・セイバー〉の黄金色のオーラと、〈ライトニング・ストレート〉の荒ぶる紫電とを、同時に纏っていたように見えたのだ。
このあたり、〈大地人〉より遥かに優れているとはいえ、魔法使用職のシロエとしては自分自身の動体視力に自信が無いため、断言することが出来ないのが歯痒いところだ。動体視力なら隣に座っているアイザックのほうがシロエを大きく上回っている筈で、知識と分析力のあるシロエには事態を仔細に見分するだけの眼力が無く、眼力を持つアイザックには知識と分析力が欠けていると云う、解説役コンビとしてはかなりちぐはぐな組み合わせであることに溜め息が出る。
「・・・・・・あー、なんだ。要するに、今のデミクァスのパンチは、〈ライトニング・ストレート〉だし、〈オーラ・セイバー〉でもあったと、つまりそういう事か?」
それでも流石に脳筋を自称するだけあって、戦闘技術に関しての飲み込みは早い。我が意得たりと頷くシロエに、アイザックは考え深げな表情を見せながらさらに疑問をぶつける。
「しかしよ、〈ライトニング・ストレート〉も〈オーラ・セイバー〉も、どっちも〈武闘家〉の基本攻撃技だ。要するに、どっちも大したダメージを出せる技じゃねえ。そんな技同士を組み合わせたところで、94レベルの武器攻撃職を、無傷ではないと云っても一撃で瀕死にさせるなんて芸当が出来るもんか?」
「出来るか出来ないかと云う話をすれば、二つの特技を複合発動するなんて、その時点で普通はそんなこと出来ませんよ」
「違いねえ。つまりは常識外れな現象なんだから、何が起こっても不思議はねえって事か」
「そこで思考停止しちゃっても、僕ら的には問題はないんですけどね」
シロエはそこで、我知らず握り締めていた拳が汗でじっとり濡れていることに気付いて、上着の裾で掌を拭った。自分は、いやアイザックも、集まったこの観衆も、恐らく今までこの世界には存在しなかった、まったく新しい何かの誕生に立ち会っている。
「そもそも人間の皮膚ってのは、もともとある程度の絶縁機能を持っているんです。落雷ほど膨大なエネルギーの前では無力ですが、ちょっとした過電流なんかは、皮膚表面を流れ散らされて、体内にまで影響は与えないように出来ている。中級以上の〈冒険者〉ならそこに、熱や冷気、電撃などの精霊力耐性の魔法防御が付与された装備品を身に着けますから、人間が特技や魔法で生み出す程度の電流は、通常体表面付近にしか影響を与えないんです」
「ですがそこに、防御力を貫通する〈オーラ・セイバー〉の特性が絡むと話しが違ってくる。恐らくテオドールさんは、すべての耐性を無視して直接体内に〈ライトニング・ストレート〉の電撃を流し込まれた状態になったんじゃないでしょうか。〈ライトニング・ストレート〉の電撃は、勿論落雷に較べれば微々たるエネルギー量ですが――――それでも内臓器官や神経系に、直接電撃を喰らったら、まあ受けるダメージは想像がつきますよね。想像したくありませんけど」
豪胆なアイザックがぶるりとひとつ身震いをする。
「さらにダメージにプラス、一瞬とはいえ神経系や内臓器官を直接電撃に晒されたことによる、強度の麻痺や窒息。考えられる影響としては、こんなところじゃないですか」
「成る程、よく判った。ありがとうございました解説のシロエさん」
「それはもういいですってば」
心底嫌そうにアイザックを見やるシロエだが、アイザックも茶化しでもしなければ冷静さを保っていられないのかもしれない、と考え直した。同じ戦士職だ、アイザックにこそ、デミクァスがしでかしたことの”とんでもなさ”は、震えるような興奮とともに実感できているに違いない。
彼らは今またひとつ、新しい”口伝”の誕生に立ち会っているのかもしれないのだ。
* * *
シロエとアイザックの問答とは全く無縁な〈アリーナ〉の舞台の上で、デミクァスもまた、理屈ではなく本能で、シロエの推測と同様の真相を感じ取っていた。
彼が無心にテオドールに打ち込んだ右正拳は、〈ライトニング・ストレート〉の電撃と〈オーラ・セイバー〉のオーラとを同時に纏っていた。
より正確に表現するなら、無心の内に打ち込んだ〈ライトニング・ストレート〉に、無意識に発動した〈オーラ・セイバー〉のオーラが加わった、と云うべきか。
砂粒を積み上げて泰山にするように、一途に打ち続けてきた正拳だ。
打つとなれば、殊更打とうと意識する前に既に身体が打ち込んでいる。そこまで練り上げ、磨き上げた珠玉の正拳だ。
その拳を、ただ愚直に、石を穿つ水滴の心を以て、積み重ねることのみを想って打ち込んだのだ。
その右正拳が、〈ライトニング・ストレート〉と〈オーラ・セイバー〉の象をとったのは、或る意味必然ではあった。
〈オーラ・セイバー〉は、〈武闘家〉のみならず戦士職共通の基本攻撃技だ。
その発動形態は、剣、槍、斧と云った刃物から、棍、槌鉾、短杖と云った鈍器、正拳・平拳・一本拳・手刀・貫手・猿臂などの手業、足尖・足刀・足背・踵・脛・膝などの足業まで多岐に渡る。
即ち、使用者によって発動形態に極端に融通が利く特技である。
〈オーラ・セイバー〉は基本特技だ。その使用にはデミクァスも限りなく習熟している。今のデミクァスは、通常攻撃で使用するすべての部位で〈オーラ・セイバー〉を発動させることが出来る。
一方の〈ライトニング・ストレート〉もまた、〈武闘家〉の基本攻撃技だ。
詠唱時間はほぼ即時、再使用規制時間も短くMP消費もごくわずか。この攻撃特技を、デミクァスはいまやほとんど通常攻撃と同じような感覚で使用している。
正拳の構えを取って打ち込めば、殊更意識せずともその拳に紫電を纏わせることが出来る、そのレベルに到るまでに鍛え上げたのだ。
そして、ブレイクスルーはそこにあった。
ほとんどどんな形態でも発動できる基本技と、ほとんど通常攻撃のような感覚で使用できる基本技。ゲームシステムに則り、通り一遍のやり方で上昇させる習熟位階とはまったく別の次元において、研鑽の果てにその境地にまで至った二つの技だからこそ、二つを無為自然に、あるがままに融合させることが出来たのだ。
ほとんどすべての通常攻撃に乗せることが出来る〈オーラ・セイバー〉のオーラを、ほとんど通常攻撃と同じレベルで使用できるまでに昇華した〈ライトニング・ストレート〉に乗せる。
通常ならば有り得ない、攻撃特技の多重発動――――”ゲーム”の壁を、ただ意思と鍛錬とを積み重ねることのみによって乗り越える。
それが、まさにそれこそが、今のデミクァスの”現実”だった。
そしてそれは、デミクァスが期待もしなかったような、思わぬ威力を発揮して、デミクァスの研鑽と練磨に十分以上に応報した。
(そんなこと――――知ったことかよ、クソッたれっ)
だが、デミクァスには、求道の果てに手にしたそれに感激し感動する、そんな暇もゆとりももありはしなかった。
何故なら彼は、未だ途半ばにして、眼前に差し迫った為さねばならぬ責務があったからだ。
今の彼にとっては、どんなに完全に近い技を身に着けようとも、どんなに全能に近い技を作り上げようとも、ただ目の前にある、たったひとつの為すべき義務を果たせぬならば、技の在る意味など涅槃寂静の彼方、ほとんど零に等しかったからだ。
――――頼んだ、相棒。
この異世界に飛ばされてから今の今までただ一人、笑って彼を”相棒”と呼んだ、あのいけ好かない女〈暗殺者〉との何気ない約束が、今、彼の手を支えていた。
ようやく掴んだ宝石よりも、ゲームを越えた現実よりも、唯一つ、あいつと交わした約束が、何にもまして大切だった。
だから彼は、それをくだらぬものと一蹴した。
だから彼は、ただ只管に、たったひとつ己の為すべき義務を果たすべく、遮二無二前に進み続けた。
だから彼は、瞬きよりも、呼吸するよりも自然に黄金の輝きを纏った右の踵を、倒れゆく〈伊達男〉の後頭部に向かって、稲妻の如く振り下ろした。
* * *
「かっ・・・・・・かはっ、ごほっ」
テオドールは、咳き込みながら恐る恐る薄目を開けて、視界に飛び込んできた光景に驚愕した。
彼がいるのは〈アリーナ〉の入り口ではなかった。彼は未だ〈アリーナ〉の闘技場の真ん中で、顔だけ右に向けた俯せの状態で倒れていた。
内臓が苦痛と衝撃に踊り狂っている。手足は全部、糸が切れたように動かない。横隔膜も肺も彼の制御を受け付けず、ほとんどか細い呼吸すら難しい。
そして彼の鼻先数センチには――――ごつい鉄靴を履いたデミクァスの右の踵が、コンクリートの床に深々と突き刺さっていた。
ようよう視線だけで鉄靴の主を見上げると、長髪の巨漢は、ぺっ、と床に唾をひとつ吐き捨てて、
「意識はあるな」
と呟いた。
素早く右足を引き戻し、テオドールに向かって残心を取ると、その姿勢のままテオドールの顔を覗き込む。
「まだやるかい?」
意外といえばこの上もなく意外な一言に、テオドールは大きく目を見開いた。
〈アリーナ〉での”死”は”死”ではない。ただ死ぬ直前に〈アリーナ〉の入り口に転送されるだけだ。だからそんなまどろっこしい質問などせずに、ただ黙って止めを刺せばいいだけの話しだ。
何よりも、テオドールがフアン=ブランコや他の者から聞いていた噂の中では、このデミクァスと云う男は、止めを刺すのを躊躇うような男にはとても見えなかった。
一度敵対した相手には、たとえそいつが死体になっても駄目押しの一撃をくれねば気が済まぬ、そういう人物と受け取っていたのだ。
だからこのデミクァスの一言は、テオドールにとっては予想外もいいところだった。
そもそも先ほどの踵の一撃からして、デミクァスが標的を外すなどとは――――外れたのか、外したのか――――テオドールは思ってもみなかったのだ。
「聞こえてるよな、色男――――まだやるかい?」
更にもう一度、デミクァスが静かな声で訪ねてくる。
身体のほうはようやっと、僅かずつだた自由が戻ってきたところだ。
テオドールはたいそう難儀して身体を動かし、仰向けになると改めてデミクァスを見つめた。
血がこびりついたテオドールの口元には、苦しげな笑みが浮かんでいる。
「意外、だね、旦那。そんなことを云う人間だとは・・・・・・予想もしなかったよ」ひゅうひゅうとなる咽喉を無理矢理押し開いて、そんな台詞を絞り出す。「とっとと・・・・・・止めを、刺せばいいだろ。そんな無駄口、叩く必要があるとは、思えない。ちょいと・・・・・・甘っちょろいんじゃないのかね?」
寧ろ咎め立てする様なテオドールの台詞にも、デミクァスは大理石の彫像の如く微動だにせず、眉一筋すら動かさない。
「必要があるかないかは俺が決める・・・・・・テメエにゃこれ以上は必要ねえ」
テオドールはそれを聞きながら、己の右腕を見下ろした。少しづつ力は戻っている。ゆっくりと握ったり、開いたりを繰り返し、その動きを確かめる。サーベルは――――数センチ先に落ちたままだ。呼吸も大分整ってきている。今なら、一呼吸の四分の一の時間があれば、サーベルを拾い上げつつ跳ね起きて、そのまま屈み込んでいるデミクァスの頸動脈に斬り付けられる。
「甘っちょろいぜ、〈武闘家〉の旦那。今ならあんたも俺の間合いだ。俺がもう、動けるかもとは考えないのかね?」
それならそれで、態々馬鹿正直に口にせず、黙ってそうすればいい筈なのに、何故なのか自分自身にもわからぬまま、テオドールはデミクァスに向かってそう告げた。
「余計なお世話だ。そん時ゃ、テメエをブン殴る準備は出来てる」
〈武闘家〉の表情には髪の毛ひと筋ほどの動揺もない。それは、脇目も振らず、自分の為すべきことをたった一つに思い定めた者の貌だった。
迷いもなく、焦りもなく、侮りもなく、ただ己の為すべき事を為すために。
恐らくは、テオドールが攻撃の意志を以て僅かでも筋肉を収縮させた瞬間に、或いは彼の相棒の〈ヒール〉の詠唱が耳に届いたその瞬間に、腰で構えた鉄の塊みたいな右正拳が、デミクァスの意志とは無関係に、デミクァスがそう考えるよりもなお迅く、テオドールの身体に叩き込まれる筈だ。
たとえ相棒の援護が届いたとしても、〈ヒール〉が間に合うとは思えない。
たとえ”ヨーイドン”で斬り合ったとしても、よくて相討ち――――七割がたは、サーベルの刃がデミクァスの頸の皮膚に触れるか触れないかのタイミングで、デミクァスの拳が彼の顔面を粉砕する。
・・・・・・仮に俺が斃されれば、たとえこいつを相討ちに斃したとしても。
そこまで考えたテオドールの脳裏では、今まさに、相棒のHPバーが、一瞬真っ赤になって0%を示した後に、緑色の100%の表示を取り戻したところだった。
視線だけ動かして窺えば、彼の視界に入るのは、長剣を振って血を払う女〈暗殺者〉の姿のみだ。
それを確認し、デミクァスに視線を戻す。
テオドールの全身が、緊張を解いて弛緩した。
「・・・・・・たいしたもんだ、あんたらは」
大の字に寝転がった彼の口から、自然とそんな言葉が漏れる。
「参った。降参。俺たちの負けだ」
テオドールは、ゆっくりと目を瞑り、いつもどおりの飄々とした笑みを浮かべる。
ちぎって投げ捨てる様な投げ遣りな調子ではあったが、今度は明確に、自分自身の意志でそう口にした。
* * *
「そこまで・・・・・・そこまでっ! 勝負ありっ!」
いつの間にか傍らにいた〈剣聖〉が、試合終了の合図をするのを聞いて、ほとんど入神状態のまま、そこで初めてデミクァスは残心を解いた。
膝をついた姿勢から立ち上がると、大の字になった〈伊達男〉に正対し、両腕を交差して十字を切る。
十字を切って礼をするなど何年振りのことだろう。誰にそうしろと云われたわけでもないが、最低限、倒した相手に礼を払うべきであろうと、今のデミクァスは自然にそう考えることが出来た。
声にはならないものの、唇が自然と「押忍」を形作る。
なぜテオドールに止めを刺さなかったのか、自分自身にもよく判らない。
ただなんとなく、「その必要はない」と思っただけだ。
今まで幾つもの戦いを越えてきた。今まで何人も打ち倒してきたけれど、今みたいなこんな気持ちになったのは初めてだった。
〈伊達男〉の後頭部に踵を落とすその刹那、いつか誰かが口にした、銀の鈴を鳴らすような
”そいつはもう、それ以上は必要ない”
と云う声が聞こえたような気がしたけれど、今となってはいったい誰の言葉だったのか、はっきり思い出すことは出来なかった。
だがそれは、彼がこの異世界を訪れて以来、きっと初めての経験だった。
相手に止めを刺さずとも、勝利を収めることが出来たのは。
戦う力を残した相手が、怯えもなく、憎しみもなく、賞賛とともに自ら敗北を認めるのは。
観客席の観衆は、今の決着を量りかねたかのように、ざわざわと低いざわめきを続けている。
その時、どこからか、掌が打ち合わされる音が小さく、ささやかに聞こえてきた。
不器用で、不愛想なそのちいさな拍手は、奇妙に頑固で、孤独にたじろぐこともなく、暫しの間、辛抱強く響き続けた。
喧々諤々と、今見た事象について議論を交わしていたシロエとアイザックは、ちいさな拍手に気が付くと、訳知り顔ににやりと微笑みを交し合って、どちらからともなくその拍手に加わった。
一塁側のスタンドでは、猫頭の紳士とその連れの少々ふくよかな〈森呪遣い〉の少女が、二人並んで熱心に拍手を送り始めた。
そうして拍手の波は連鎖して、ついに〈アリーナ〉全体を、盛大な拍手と歓声が包み込んだ。
半ば以上喪心していたデミクァスの耳に、その拍手と歓声は、突然現実感をもって襲い掛かり、彼の聴覚と思考とを飽和させた。
それはまるで、モノクロだった世界が唐突に鮮烈な色彩を取り戻したかのようで、状況がまるで呑み込めず、夢から醒めたような面持ちのまま、デミクァスはゆっくりと周囲の観客席を見回した。
この満場の拍手と喝采の理由はなんだ。これはいったい、誰に向けられているものなのか。
それがわからず、不意に恐ろしい不安と孤独に襲われて、デミクァスは思わず”やめろ”と喚きたてたい気持ちに駆られ、追い詰められた手負いの獣の形相で、大きく口を開きかける。
その時、細くて頼りなさげで、けれど気が遠くなるくらいやさしい手のひらが、デミクァスの肩にそっと触れた。
「――――だいじょうぶ」
びくりと身体を震わせて、戸惑いながら肩越しに、やさしい手のひらの持ち主を振り返る。
「だいじょうぶ」
いつしか見慣れた満面の笑顔が、あやすようにデミクァスの肩を優しくたたく。
その瞳に揺れるのは、口許に浮かんだそれよりもっとあたたかく、もっとやさしい向日葵みたいな笑みだった。
「・・・・・・てとら、か」
「はい、てとらです」
いつもだったら耳障りな筈のその声が、不安と孤独に覆われたデミクァスの心に染み入って、お日様みたいにそれらすべてを溶かしてゆく。
「すごい、すごい、ほんとにすごい。やっぱり、デミデミってば、すごいです」
「・・・・・・これは、こいつは、なんなんだ。いったいこいつら、どうしてこんなに騒いでるんだ?」
戸惑い、苛立ち口にしたその言葉に、てとらは一瞬目を丸くした。ちょっと考え込んでから、訳知り顔のドヤ顔に、再度にんまり笑みを浮かべる。
「デミデミにですよ」
「・・・・・・俺に?」
「この拍手も、歓声も、全部デミデミに向けられたものですよ」両手を広げてぐるり観客席を指し示す。「勿論デミデミにだけじゃなくて、ゴーストさんにも、テオドールさんにも、フアン=ブランコさんにも向けられたものですけどね――――間違いなく、今ここで戦った四人全員を、すんげえカッコよかったぜ!って讃える拍手喝采です」
その答えに、デミクァスはしばし呆然と観客席を見渡した。
これは、俺が受けるべきものか。他の三人は知らず――――俺に、この満場の賞賛を、受ける資格が果たして有るか。
「ああ、それは――――そいつはきっと、有り得ない――――」
多くの〈冒険者〉を殺し、傷付けた。
力の劣る沢山の〈大地人〉を恐怖させ、苛酷な生活を強いて踏みにじった。
・・・・・・ゲームならばよかった。
だが、この世界がゲームではなくリアルであるならば――――〈冒険者〉の身体が、ただのデータとテクスチャの塊ではなく、血が通い痛みを感ずる生きた肉体であるならば。〈大地人〉が、AIで動く人形ではなく、生きて意思持つ人間であるならば。
ススキノで、俺がしてきたことは、いったいなんだ。
そうだ。今までずっと、幽鬼の如く彼を追い、付け回し、駆り立ててきたものの正体は、なんのことはない、ただおそろしく巨大な罪悪感であったのだ。
数限りない憎悪と怨嗟をこの世界に生み落した、その償いは終わっていない。いや、始まってすらいない。
けれどこの世界に法はなく、彼を罰する者など、罰してくれる絶対者などどこにもいない。シロエもウィリアムも、ただ自分たちの都合によって彼を打ち負かしただけであって、法に則り彼を裁き、罰したわけでは無論ない。
償うことが出来なければ――――人はただ、際限なく肥え太ってゆく罪悪感に押し潰され、磨り潰されて、摩耗しながらいつ果てるともない罪の意識に苛まれ続けねばならぬ。
石もて追われるならば受け容れられる。耐えられる。何故ならそれこそ俺に相応しいからだ。それこそ俺が希い、待ち望むものであるからだ。因果応報と云う言葉が正しいならば、俺が今までしてきたことは、そうされて然るべきであるからだ。
だからこいつは受け容れられない。耐えられない。
こんな明るさは、こんな眩しさは、こんな暖かさは、ひとつも俺を罰してくれない。なのに俺は弱くて卑怯だから、ひとたびこの明るさを、眩しさを、暖かさを知ってしまえば、それを手放すことなどできなくなる。そして罪の意識を抱えたまま、光の中に立ち続けねばならぬことこそ、およそ耐え難い拷問なのだ。
罰してくれる者がいないのならば、俺はいつか赦されるその日まで、せめて悪鬼の如く戦って、戦って、戦い抜いて、孤独で冷たい闇のなか、自分で自分を疵付け続け、自分で自分を罰し続けねばならぬ。
俺がこの世界に生きて在る限り、俺がこの先居るべきは、血泥に塗れてのたうちながら、踏みつけ虐げた者の怨嗟を背負い、休むことも許されぬまま只管前に進み続ける、そんな地獄のような戦場であって、こんな、こんな眩しい栄誉と称賛の中では断じてない。それでは誰も彼もがまるっきり救われない。
だからこいつは――――これは――――この、ここは、俺の在るべき場所ではない。
そう怒鳴り散らしたかった。そう喚きたてたかった。
「いいえ――――ありえないことなんて、ありえませんよ」
そんな彼の気持ちのなにもかも、知ったふうに微笑むてとらが囁いた、無責任なような、悟ったような言葉がなかったら。
「これもまた、ひとつの世界の在り様です。世界には、在るべき決まった形なんてない。だったら、世界の在り様を、自分自身で窮屈に、型に押し込む必要なんてないんです。だからいっそ、そうなるならばなるようになれ、って開き直ったっていいじゃないですか。あかるく、まぶしく、あたたかい――――こんな世界がデミデミの本当の居場所だったとしても、そう悪いもんじゃあないでしょう?」
――――あいつに怒鳴られた時のことを思い出す。
(・・・・・・はあ? これからどうすればいいかって? わたしが知るかっ! 馬っ鹿じゃないのっ!)
そういえば、あいつも随分おっかない女だった。
(大の男が、これから自分がどうすればいいかなんて、そんなこと、あんたが自分で決めなさいよ。あんたがやるべきだと思えば、それがあんたがやるべき事なんだから)
(けど、どうすればいいのかわからなくなったらその時は、なるにまかせるのだってアリじゃないかしら。わたしが結局、あんたのところに居着いちゃったみたいにね。わたしとしては、らしくないとは思ってるけど――――まあ今の居心地は、出て行きたくなるほど悪くはないわ)
彼が抱いた罪も、後悔も、償いも、なにもかも、まるで関わりなしに時は流れる。世界は移ろう。そして、ひとのこころもまた。
妥協でもなく、打算でもなく、ただ純粋な賞賛と敬意を込めて、拍手も喝采も、彼の意思とは関わりなしに、絶えることなく降りそそぐ。
それは決して、彼が手に入れたいと望んで得たものではなかったけれど、だからこそ貴く、得難いものにちがいない。
それは決して、彼が望んだ償いのかたちではなかったけれど、だからといって、それを送ったどこかのだれかの心根を、無視してよかろうはずがない。
「――――こいつもまた、俺の世界の在り様か」
「ええ、そうです。・・・・・・ぶっちゃけ、たまにはこういうのだって、アリっちゃアリじゃないですか?」
流石にそいつは、居直りの詭弁と云うべきじゃあるまいか。
呆れたようにそう考えながらも、急に視界が開けたような気がして、デミクァスは空を見上げ、にこにこ笑うてとらを見下ろし、そして改めて観客席を見回した。
法無きこの異世界で、自分の罪を罰することができるのは、とどのつまりは自分自身しかいない。
そして、彼が今まで生み出した、憎悪と怨嗟の一切合財を、なべてほかの、もっと温かくて眩しい何かに変えてゆくのもまた、償いのひとつのかたちではあろう。
それはきっと、ただ憎悪と怨嗟をその身に受けて、己を傷付け傷付けさせるよりも、なお万倍も困難な道に違いない。
彼が黙々と歩むその途が、時には続くべくしてそうした方向に続いてゆくこともあるならば、胸据わって受け容れて、一途にその途を進んでゆくのも、きっとそれほど悪い選択肢ではないのかも知れぬ。
ふと気が付くと、少年のような笑みを浮かべた〈剣聖〉が、傍らに立ってデミクァスの長身を見上げていた。
「御美事でした。この試合、一番近くで見届けられたことを誇りに思います」
そう云って、〈剣聖〉が指し示したその先には、相も変わらず無愛想な面をした彼の相棒が、彼に気付いて歩み寄ってくるのが見えた。
* * *
「なんだ、おい。終わらせてたのか。驚いた」
怒涛の様に降り注ぐ拍手と歓声を小憎らしいほどすました顔で受け流し、長剣を鞘に納めながらデミクァスに向かって歩み寄って来た〈幽霊犬〉が、彼の厚い胸板を、華奢な拳で叩いてみせた。
「そっちこそ、俺より先に終わらせてたとはな。流石本職ってもんだ」
デミクァスの、それは本音だった。彼女の相手は回復職、しかもレイドギルドの一線を張る〈施療神官〉だったのだ。そのしぶとさは容易に想像できていた。だからこそ、デミクァスは一撃で〈盗剣士〉を仕留めることに拘ったのだ。
だが、俺の苦労と心配は何だったんだ、とは勿論デミクァスは思わない。今、彼の胸の裡にあるのは、彼の相棒に対する限りない賞賛と尊敬の念だった。
「まったく、たいしたもんだ、テメエはよ」
表情の無かった女〈暗殺者〉の口許が、その言葉を聞いて綻んだ。そういう表情を浮かべると、思いの外に女性らしくてどきりとさせられる。〈幽霊犬〉は本当に嬉しそうに、険のない子供みたいな微笑を浮かべると、デミクァスに向かって
「お前こそ、まったくもって、たいしたものだ」
と鸚鵡返しに言葉を返した。
ああ、これだ。
きっと俺もこいつも、この言葉こそが欲しかったのだ。
デミクァスは、照れ隠しにことさら仏頂面を作りながら、ごつい籠手に包まれた右の拳を、〈幽霊犬〉に向かって差し出した。
〈幽霊犬〉は、握っていた長弓を背中に戻し、空いた左手でデミクァスのそれよりずっと小さな拳骨を作ると、こちらは素直に照れ臭そうな笑みを浮かべながら、そいつをデミクァスの拳骨と打ち合わせる。
たったそれだけの遣り取りが、無性に誇らしく、嬉しかった。
「しかし、なんだ。こいつに止めは刺さなかったんだな」
〈幽霊犬〉が顎をしゃくって大の字に寝転んだテオドールを指し示す。
「必要ねえ。勝負はついてた・・・・・・だからそうした。それだけだ」
「そうか。お前がそう思ったんなら、それでいい」
木で鼻を括った様なデミクァスの素っ気ない応え様に、しかし気分を悪くした様子もなく、女〈暗殺者〉はうっすら笑って彼の意志を肯定した。
「そういう事。俺は往生際はいいほうだからね。時に姐さん、ひとつお願いがあるんだけど」
寝転んだままのテオドールが、デミクァスの台詞に頷きながら、〈幽霊犬〉に声を掛ける。胡散臭そうに耳を傾ける〈幽霊犬〉。
「ちょいと介抱してくれないかな。まだHP一ケタ台でさ」
「・・・・・・前言撤回だ。おい、とっととこいつに止めを刺せよ」
「・・・・・・知ったことかよ、面倒くせえ」
〈幽霊犬〉とデミクァスがぎゃあぎゃあと口論を始め、放置されたテオドールは、空を見上げて溜め息を吐き独り言ちた。
「あーあ、負けちまった。団長に合わせる顔は、まあねえわけじゃねえか」
空は高く、歌うように流れる風が、テオドールを指差して、ころころと笑いながら吹き過ぎてゆく。
そんな彼に、うっすらと白い光が纏わりついた。〈ヒール〉が掛けられ、重ねて〈ヒーリングライト〉。さらに続く〈エリアヒール〉が彼のHPを半分近くまで回復させた。
〈伊達男〉の目の前に、金属製の籠手に包まれた手が差し伸べられる。
「ほら、立てよテオ。もう立てるだろ」
声のしたほうを見上げると、さばさばした表情のフアン=ブランコが、にこりともせずに彼の顔を覗き込んでいるのが見えた。
その手を握って立ち上がりながらも、不貞腐れたように
「色気がねえなあ。団長に怒られる前に、〈黒剣〉辞めて〈西風〉か〈三日月同盟〉あたりに移籍すっかな」
とぼやいてみせると、〈聖堂騎士〉は、眉を顰めて生真面目な声で彼を窘めた。
「莫迦。今のは聞かなかったことにしておくぞ。そら、団長にどやされに行こう」
フアン=ブランコが、地面に落ちていた彼のトレードマークの羽根付き帽子を拾って投げてくるのを器用に受け止める。テオドールは、そいつを目深に被り直し、傍らに落ちていたサーベルと短剣を拾い上げて鞘に納めると、相棒の肩をぽんとひとつ叩いてから、然程気落ちした様子もなく、肩で風切り堂々と闘技場を出て行った。
〈黒剣〉の二人組が退場した後も、まだしばらくは、拍手と歓声は鳴り止まずに続いている。
* * *
その夜行われた〈雪季祭〉の最後の宴のことは、実を云うとあまりはっきり覚えていない。
料理も酒も、まるでこの世の全てを集めたみたいに数限りなく給仕されていたし、アキバの中央広場に溢れた参加者は、我も人も、貴族も平民も、〈冒険者〉も〈大地人〉もなくただみな等しく食い、飲み、肩を抱き合って笑い合っていた。
デミクァスは生まれてこの方、こんなにたくさんの人間が、こんなに渾沌として混ざり合い、誰も彼も分からぬままに乾杯し、踊り、議論し、また乾杯する場に居合わせたことはなかったのだ。
〈黒剣〉のアイザックは、警備責任者を務めていた筈なのに、会場の端の天幕の中で何時の間にやらとっかえひっかえジョッキを空けながら、若い戦士たちに戦士心得をがなり立てていた。
デミクァスを見つけると天幕に引っ張ってこさせ、「兄弟、兄弟」と呼びかけて離さないので、しまいにはギルドの仲間たちが八人がかりで引き剥がして、チェリーコークの樽の中に彼らの団長を頭から突っ込んだのには、流石のデミクァスも吹き出さざるを得なかった。
〈伊達男〉のテオドールは、両脇にそれぞれそこらへんで引っ掛けてきたらしい〈吟遊詩人〉の〈狐尾族〉の美女と〈大地人〉のウェイトレスの少女を引き連れてデミクァスに挨拶に来た。両脇の女性二人についてデミクァスが胡散臭そうに尋ねると、〈伊達男〉は真面目な顔で
「俺は平等主義者なんだ」
などと訳の分からない主張をしてデミクァスを困惑させた。
そのテオドールの後頭部を小突きながら現れた〈聖堂騎士〉フアン=ブランコは、にこりともせずにデミクァスに向かって酒瓶を突き出した。
「ん」
「おう」
デミクァスが差し出したマグにエールを満たすと、自分のそれにも手酌で注いで、口数少なく乾杯し、数杯マグを干してから、エルフの騎士はテオドールの襟首を掴んで引き摺り去って行った。
てとらは意外にも、早々に酔いつぶれ、テーブルに突っ伏してすうすう寝息を立てていた。隣でココアを飲んでいたアカツキは、てとらが酔っ払って脱ぎ出したので、公序良俗に悪影響を及ぼしかねないと判断した〈腹黒眼鏡〉のシロエの号令で、寄ってたかって酔い潰したのだと、相も変わらず愛想の無い顔で説明した。云われてみれば、幸せそうに寝言を呟くてとらの着衣は乱れていて、訳を知っているデミクァスさえも一瞬どきりとさせられたので、彼はてとらの首根っこを掴んで持ち上げ、救急医療班のテントに放り込んだ。
〈幽霊犬〉は、まるで酔った様子も見せず、水でも飲むみたいに注がれる端からマグを空けながら、〈西風の旅団〉や〈D.D.D〉の女性陣と戦闘談義に興じていた。浅黒い頬がそれでもほんのり朱に染まっていて、それでようやく酔っているらしいことは分かったが、その立ち居振る舞いからはまるっきり酔っている様子は窺えなかった。
デミクァスと一瞬目が合うと、彼女はにやりと笑みを浮かべて寄越す。〈幽霊犬〉がデミクァスにだけわかるように僅かにマグを持ち上げたので、デミクァスも仏頂面を崩さぬまま、ほんの少しだけ自分のマグを掲げてみせた。
デミクァス自身はと云えば、居場所に困ってあちらこちらをうろつきながら、それでも祭の空気そのものを、彼なりに楽しんでいた。なにも爪弾きにされていたわけではなく、どういう理由か知らないが、一か所に座って飲んでいると、彼の大きな背中や肩の上に、どこからか湧いてきた〈大地人〉の子供らが先を争いよじ登ろうとするのに閉口したのだ。
結局、どこに行っても彼の居場所をどうやってか嗅ぎ付けて集まってくる子供たちを散らすため、怒鳴るわけにもいかぬデミクァスは、
「その、カラテってやつを教えてよ!」
と口々にねだる子供たちに、今度アキバの街に来たら必ず教えてやると約束することで、ようやく子供たちから解放された。
子供たちから解放されたデミクァスは、人の手の入っていない廃ビルを見つけて屋上に登ると、未だ祭の喧騒真っ只中の中央広場を見下ろしながら、約束していた相手に念話を送った。
雑音の多い念話の向こう側から響いてくるその声は、いつもどおりにぶっきらぼうで、狷介なその表情が容易に想像できたけれど、それでもデミクァスが言葉少なに〈黒剣〉のメンバー二人に勝ったことを伝えると、
(そうか、すげえな! そいつはまったく、本当にすげえなあ!)
と、本当に嬉しそうに祝福の言葉を送ってくれた。
幾つか近況を交換してから、短い念話を切ったデミクァスは、誰にそうしろと云われたわけでもなかったが、明日の早朝アキバを発って、ススキノへの帰路に就くことを決めた。
デミクァスが宿に戻って床に就いたのは、日付が変わってからの事だったが、いったいどうやって宿に帰り、どうやって一人で着替えたのかは、その後もずっと、思い出すことが出来なかった。
* * *
スミダの川面から湧いた川霧が、早朝のアキバの街を深く濃く覆い隠して、宴の後の惨状を、せめて見せまいと気を遣っていくれているようだった。
宿酔で痛むこめかみをさすりながら、荷物を十把一からげにまとめて魔法の鞄に放り込んだデミクァスは、早起きして掃除を始めていた宿の主人に挨拶すると、空中回廊への昇降口のある、旧世界ではJR秋葉原駅舎であった廃墟目指して足を進めた。
空中回廊に昇り、中央線の高架線路を西に歩いて、旧首都高速都心環状線に合流したら、そのまま北に進んで東北自動車道に乗るのが一番手っ取り早そうだと調べはつけてある。旧世界の高架線路や高速道路は、当然既に風化し崩れた個所もあるものの、この世界でも主要な街道として整備され、頻繁に使用されていることが多い。すっかり緑に呑み込まれた下の道と違って、歩きやすいし、騎馬でゆくにも馬に負担をかけづらいのだ。
デミクァス自身は徒歩中心の旅の経験はないが、昨夜の宴の最中に、猫親父がそう教えてくれ、地図まで融通してくれたのだった。
朽ちかけた階段を昇って空中回廊に出る。見下ろせば、足元の街並みはほとんど霧に覆われて、空中回廊はまるで霧の海に掛けられた一本の橋だ。
金属製の装備が結露するのを気にしながら、シンジュク方面に向かって歩き出す。霧で足元がおぼつかないうちは、馬を使うのは控えるべきだろう。
御苑の外堀に沿って作られた高架線路を足早に歩いてゆく。霧は水路に沿って湧いており、まるで歩くデミクァスの行く先々に付いて回っているに見える。
眼下に〈書庫塔の林〉を臨みながら歩を進め、幾つかの亀裂を飛び越え、乗り越えて、丁度〈スイドウバシ・アリーナ〉の巨大な姿が霧の中に浮かび上がって見え始めたころ、デミクァスは、行く手の線路の上に蟠る、幾つかの人影を見つけて戦闘態勢に入った。
このあたりは〈ウエノ盗賊城址〉に近く、山賊や黒魔法使いがうろついていることもある。
用心深く近づくと、その人影が、〈記録の地平線〉のシロエ、にゃん太、アカツキの三人であるのがわかり、デミクァスは溜め息を吐いて差し当たり警戒を解いた。
三人のほうでもデミクァスに気付いた様子で、霧の中をこちらに向かって歩いてくる。
「水臭いにゃあ。今日帰るなら帰ると教えていただければ、見送りぐらいみんなでしますのに」
「・・・・・・いつ帰ろうが、俺の勝手だ。余計な世話を焼くんじゃねえよ」
にゃん太の言葉に、ばつが悪い気分を味わいながらも反論すると、アカツキが下から彼を凝っ、と見上げながら、
「それならそれで、てとらにくらい、挨拶してくるべきだろう。今更戻れとは云わないけれど」
と苦言を呈した。
それについてはまったくの正論なので、デミクァスは言葉も無い。舌打ちをするのがせいぜいだ。唾のひとつも吐きたい気分に駆られたが、その代わりに
「そのてとらの奴はどうしたんだよ」
と質問を返すと、これにはにゃん太が
「てとらちは、まだぐっすりと眠ってますにゃあ。昨日あれだけ飲んだのだし、今日は昼まで動けませんにゃ」
と答えてくれた。
「デミクァスさん」
シロエがデミクァスの前に立った。
昨夜の宴の間中、〈円卓会議〉の評議員であるシロエは、あちらこちらと忙しく走り回っていたので、ついにデミクァスと顔を合わせることはなかったのだ。
だからシロエとデミクァスが顔を合わせるのは、一昨日、〈記録の地平線〉のギルドハウスで顔を合わせて以来ということになる。
〈記録の地平線〉のギルドマスター、アキバ随一の策士と評される〈付与術師〉は、無言で自分を見下ろす巨漢の〈武闘家〉に、思慮深く問い質すような視線を送る。
「昨日の試合、あの最後のテオドールさんへの一撃は、あれはきっと〈口伝〉の」
そこまで云いかけたところで、突然シロエの鼻先で何かが爆ぜた。
目が眩むような衝撃に、一瞬鼻がもげてしまったのかと錯覚する。鼻孔の奥からきな臭い匂いが漂ってきて、滲んだ涙に視界がぶれる。眼鏡がずり落ちそうになり、必死に指で支えると、涙で霞んだ視界の中で、目の前の巨漢が左手を軽く握って胸の前で構えているのが見えた。それと同時、鈍い痛みが遅れてやってきて、声にならない苦鳴が勝手に口から漏れ出でる。
「デミクァス、おまえっ!!」
珍しくアカツキが声を荒げる。それでようやく、デミクァスに鼻っ面を一撃されたのだと云う事を理解した。
つ、とひと筋鼻血が垂れ落ちて、白いコートの胸に紅い花びらをひとつ、ふたつと散らせるのを見て、思わずかっと怒りがこみ上げる。
「いったい何をするんですかっ! だいたいあなたはいつもそうだっ! そんなに僕の話を聞きたくないんですかっ!!」
デミクァスはシロエの怒りなどどこ吹く風で、一撃した左拳にちらりと目をやると、そのまま腕組みをして無言のままシロエに見下したような視線を送る。きっと今の一撃など、デミクァスにとってはほんのひと撫で撫でた程度なのだろう。とはいえ、喧嘩の経験などまずないシロエにとって、親でも兄弟でもない赤の他人に顔面を殴られると云う経験は、ほとんど初体験である。
デミクァスの意図が分からない。なんでこの男は、いきなり自分の顔を殴ったりしたんだろう。やっぱり、この男とはどこまで行っても相容れない。
同意を求めるようににゃん太を振り返ると、猫頭の紳士は憤慨するアカツキの肩を押さえながら、意外にも、
「シロエっち。〈円卓会議〉の一翼を担う〈記録の地平線〉のギルドマスターともあろう者が、ギルドメンバーの面前で、部外者に顔面を殴打されて反撃のひとつもできないというのは、些か情けないですにゃあ」
などとけしかけてくる。
流石に唖然とした。
「何云ってるの、班長っ」
「シロエちだって、男の子ですにゃ?」
涼しい顔でそんなことを云うにゃん太に、表情を唖然から憮然に切り替えて、シロエは再びデミクァスに視線を戻す。
デミクァスの唇が、声には出さずに”こいよ、おら”と動くのを見て、シロエはもうどうでもよくなり、ぎゅっと右拳を握りしめると、思い切りデミクァスの鼻に叩きつけた。
タイヤを殴りつけたような感触に、殴った拳のほうが壊れそうで、声にならない悲鳴をあげて右の拳を抱え込む。
「そんなもんか」
デミクァスは、瞬きひとつせず、鼻血のひと筋すら流さずに、小馬鹿にしたように鼻を鳴らしてシロエを見下ろした。
「鼻で笑うぜ。こんなモヤシに俺が負けたとはな」
その台詞を聞いて、目尻に涙を浮かべながら、それでもデミクァスを強い視線で見上げたシロエは、自分を見下ろすデミクァスの顔に侮蔑も嘲笑も浮かんでおらず、ただその瞳の中に、ひどく真摯な光が揺れていることに気が付いた。
「だが、ようやく俺にもわかった。〈記録の地平線〉のシロエ、テメエのほんとにすげえ部分は、そんなところにゃねえってことがよ」
デミクァスはにこりともせず、相変わらず真剣な眼差しでシロエを見下ろしている。
「〈口伝〉だかなんだか知らねえが、そんなもんはどうでもいいんだよ。どんなにブン殴ってみたところで、テメエを負かしたことにはならねえんだからな」
「・・・・・・まだ、僕を負かしたいんですか」
右手を押さえたままそう問いかけると、デミクァスは腕を組んだまま肩をいからせ、当然の権利を主張するように
「当たり前だ、クソ野郎」
と吐き捨てた。
そんなものか、と思う。やはりこの男は理解できない。相容れない。
そこでシロエは、ふうっ、とひとつ溜め息を吐いた。
理解できない、相容れないと思考停止することこそが、彼がかくあるべしと肝に銘じた流儀とは、まるで相容れぬはずではないか。理解できぬ、相容れぬ相手だからこそ、真正面から相対し、理解し認める努力をすることに、何物にも代え難い価値があるのではないか。
デミクァスでさえ、彼に勝ちたいと云う一念からではあるけれど、彼を理解し、認める努力をしようとしているのだ。
シロエの中で、デミクァスの”挑戦”を、正面から受け止める決意が固まった。
「・・・・・・それならそれで結構です、〈ブリガンティア〉のデミクァス。またいつでもこの街に来ればいい。僕は逃げも隠れもしませんから」
「応ともよ、〈記録の地平線〉のシロエ」
そうして交わした約束は、きっとお互い、目的はまるで違っていたけれど。
云い訳もせず、逃げもせず、真正面から受け止める――――その一点において、紙一枚の齟齬もなく。
二人の男が結んだそれは、決闘の約束と云うよりも、まるで再会の誓いのようだった。
アカツキに「かっこ悪いぞ、主君」などと云われながら鼻血を拭ってもらっているシロエから視線を外すと、デミクァスは少し逡巡してから、云い難そうににゃん太に向かって声を掛けた。
「・・・・・・おう、猫親父」
デミクァスの顔を見て、にゃん太は小首を傾げると、何もかも心得ているかのようににっこり笑う。
「猫親父ではなく、にゃん太と呼んで欲しいにゃあ」
「・・・・・・にゃん太、さんよ。ひとつ、頼まれてくれねえか」
「我が輩に出来ることなら、にゃんにゃりと」
にゃん太の大人な態度に甘えているな、と云う自覚はある。だが、それを許してくれるなら、甘えでもなんでも云っておかねばならない時がある。忸怩たる思いを押し殺しながらデミクァスは、慣れぬ言葉を必死に探して、一言、二言切り出した。
「その、なんだ、セララの事だが。あいつによ、ススキノではすまなかったと伝えてくれねえか」
にゃん太は、そのデミクァスの台詞を十二分に予想していたようだった。背筋を伸ばし、腰の後ろで腕を組んで、デミクァスの目を真正面から見つめると、にっこり笑って
「にゃんの、そういうことなら――――お断りしますにゃ」
とにべもなく断った。
それはそうだ。デミクァスも、なかば以上はにゃん太の返答を予測していた。特に気落ちも失望もない。何故ならそれは当然のことだからだ。
「そうか――――悪かった。埒もねえこった、忘れてくれ」
「ああ、それなら我が輩からも、ひとつお願いがありますにゃ」
「・・・・・・あァ? なんだよ?」
まさかあちらから頼みごとをされるとは予想していなかったデミクァスは、少々戸惑いながらも既に向けかけていた背を翻し、再度にゃん太に向き直った。にこにこ笑みを浮かべているだけで、何を云い出すのかまるで見当もつかない猫頭の紳士は、どことなくてとらの奴と似ている気がする。
「たいしたことではありませんにゃ。今すぐにとは云わないにゃ――――今度アキバに来た時は、どうかご自分で、今の言葉をセララちに伝えてほしいのですにゃ」
一瞬、何を云われているのか理解が出来なくて、言葉が詰まる。
「・・・・・・そりゃ、どういう――――」
「言葉通りの意味ですにゃ。セララちは、きっと貴方が思っているよりも、ずっと、ずっと強い子なのですにゃ。セララちは、とっくにススキノでのことを乗り越えて、克服しているのですにゃ」
ああ、そうか。
要するに、ぐちぐちいつまでも思い悩んで前に進めずにいる莫迦は、俺一人だったと云う訳か。
格好悪いことばかりだと、思わず自嘲の笑みが漏れる。
きっと彼女は、思い悩み、怖れ、苦しみ、それでも歯を食い縛って耐え、踏み止まって乗り越えたのだ。
セララがとっくに乗り越えたことを、加害者の俺が、未だ償う事も出来ぬまま、前にも進めず囚われている。そんなざまではセララに――――あいつに――――今まで苦しめた者たちに、云い訳のひとつも出来やしない。合わせる顔も無いではないか。
そのことが、胸にすとんと落ちた途端、するりと自然に覚悟が決まった。
「・・・・・・必ず来る。必ず伝える。それでいいか、にゃん太・・・・・・さん」
「これ以上ないお答えですにゃ」
猫頭の紳士は、にこりと笑って右脚を引くと、左手を水平に伸ばして一礼し、デミクァスに向かって最大限の敬意を表した。頭を上げると、猫の瞳で器用にウィンクしてみせる。人間とはまるで違う獣の顔の筈なのに、そこに浮かんだ茶目っ気は、あの〈伊達男〉よりさらに洗練されていて、そのうえ限りない親しみが込められているのがデミクァスにも理解できた。
「いい顔ですにゃ、デミクァス。貴方は今、とてもいい顔をしてますにゃ」
「・・・・・・そうか」
俺は今、そんなにいい顔をしているか。
この猫頭の紳士にそう云われたことが、なにやらとても誇らしかった。いい餞別を貰ったと、素直に思うことが出来た。
「そうか、ならばゆく。世話になったな・・・・・・ありがとう」
この街で為すべきことは充分に為した。語るべきことは充分に語った。戦うべき戦さを充分に戦った。そして己の身に余る様な過分な贈物さえ受け取った。
未練が無いと云えば嘘になる。
だが未だデミクァスは道の途中だ。一時どこかで翼を休めても、再び進むべき時がきたならば、前に進んでゆかねばならぬ。そして一途に前に進んでゆけば、いつか誰かの途と交わることもあるはずだ。
だから彼は、莞爾と笑って背中を向けた。
「武運を祈る――――どうか、達者で!」
霧の帳のその奥で、漸う顔を見せ始めた朝陽を背にしたアカツキが、咽喉も嗄れよとばかりに叫んだ、最後の言葉に片手を挙げる。
あとはちらとも振り返らずに、〈ブリガンティア〉のデミクァスは、遥か彼方のススキノ目指し、新たに一歩を踏み出した。
跋.
次第に陽は高くなり、晴れゆく霧の最後の名残をその身に纏わりつかせたデミクァスは、〈スモールストーン薬草園〉を右手に臨みつつ、旧世界では首都高速5号池袋線と呼ばれていた高架道路をイケブクロ方面に向かって歩いていた。
旧飯田橋駅舎付近の、一際背の高い古代樹の森が高架道路上に影を落とす辺りに差し掛かったところで、高架道路に張り出した古代樹の梢から、デミクァスを呼ばわる者があった。
「おい、〈無法者〉」
出会ってまだ三日目なのに、いい加減聞き慣れたと思えるハスキーな声に、デミクァスは足を止めてわざとらしい溜め息を吐く。
「・・・・・・テメエらはまったく、揃いも揃って待ち伏せしかやることがねえのか、暇人どもが」
「まあそう云うな。出て行くならばどうせ早い時間だろうと思って、宴がお開きになったあと、枝の上で寝て待っていたんだ」
大人の胴ほどの太さのある枝の上で、胡坐をかいてデミクァスを見下ろしているのは、暗い草色の外套のフードを深く引き下ろした、ギルド〈万色の幻像〉の〈暗殺者〉、〈幽霊犬〉であった。
「・・・・・・で、プレゼンは成功したのか。どっか拾ってくれるところは見つかったのか?」
腕組みをし、梢を見上げてデミクァスが尋ねると、〈幽霊犬〉はいきなり挙動不審になってデミクァスから目を逸らした。不審に思ったデミクァスだが、ある一つの可能性に思い当たって片眉をぴくりと跳ね上げる。
「・・・・・・〈西風〉か?」
「あー、まあその、なんだ」
「〈西風〉なんだな? まったく・・・・・・結局最後は『イケメンに限る』かよ、クソッたれ」
みるみる不機嫌になるデミクァスに、〈幽霊犬〉は、困ったな、とでも云いたげに頭を掻いた。決してソウジロウ=セタが可愛いので〈西風〉の誘いを受けた訳ではない。女性ばかりと云うのが安心できるし、そのくせサーバーのトップを争うガチガチのレイドギルドだと云うところも面白いと思ったのだ。所属する女性〈冒険者〉も、気持ちのいい人間ばかりなのは昨日の宴でよく判った。ソウジロウが可愛いことには間違いない、間違いないが、決してそれが全てで〈西風〉を選んだわけではない。
真面目な話をすれば、〈黒剣〉は相変わらず閉鎖的だし、〈D.D.D〉はギルドマスター不在で新規加入者を迎えるどころの騒ぎではないし、選択肢としては〈ホネスティ〉か〈西風〉しかない状態だったのだ。その上で、なによりもソウジロウ=セタの器が大きかった。〈幽霊犬〉が大切に思っているものを、認め受け容れるだけの度量を示してくれた。つまるところ、ただそれだけだ。
「まあそこ、ツッコむなよあんまり。私だって、それほど選択肢があったわけじゃないんだからな」
「ケッ、云ってろ」
唾を吐き捨てるデミクァスに、やれやれ、と溜め息を吐いた〈幽霊犬〉は、話題を変える必要を認めて、居住まいを正し――――枝の上で、胡坐をかいた状態ではあったけれど――――少し声のトーンを落として口を開いた。
「それで、ゆくのか」
「おう、ゆく」
「そうか、ゆくか」
デミクァスの言葉には、あまりにも迷いが無さ過ぎて、木の実がことりと落ちるように、どこまでも自然に”死ににゆく”と云い出しそうで、〈幽霊犬〉はほんのわずか、ひそやかに眉を歪めてデミクァスを見つめ直した。
彼女には、家族と再会すると云う、極めて明確な目標があった。きっとそれがある限り、彼女は全身全霊、我が身の全てをそのために、迷うことなく歩いてゆける。
だが――――だが、デミクァスには、辿り着くべき目標はあるか。迷い、求め、足掻いたすえに、手に入れるべきなにかはあるか。
以前、〈幽霊犬〉はデミクァスに云った。『人は、”必死さ”を失くしたときに死ぬ。それになれねば己になれない――――そういうそれを失くしたときに、人の魂は斃れて伏して、二度と起き上がることはない』と。果たしてデミクァスは”そういうそれ”を見つけることができるのか。
〈幽霊犬〉は、この異世界に飛ばされて、最愛の家族と別離の憂き目に遭いはしたが、それでもそれは、揺るがず譲れぬ目的を与えられたと云う点で、大半の者に較べて幸運であったのかも知れないと思っている。なんとなれば彼女はミナミにおいて、目的も無く、ただその日を生きることのみを強いられた末に摩耗した、屯し彷徨う多くの魂を、或いはただ戦いのみに囚われて、擦り切れ、削れていったすえ、ただ力を行使するだけの現象に等しく成り下がった哀れな魂の成れの果てを、数限りなく見てきたのだ。
デミクァスの、この〈無法者〉の上にも同じような磨滅が訪れるならば、そんな理不尽は許容できない。断じて受け容れることなどできはしない。
だから、決して云わずにおこうと決めた言葉を、彼女は思わず口にした。
「デミクァス・・・・・・一緒にアキバに残らないか。ともにアキバで戦わないか。私の大規模戦闘を手伝ってはくれないか。私と一緒に、この悪しき夢を終わらせないか。そうすればきっと――――きっと私の上にも、お前の上にも、なにがしかの”終わり”をもたらすことができるはずだ。だから来ないか、私と一緒にアキバの街に」
暫し、樹上の〈幽霊犬〉と路上のデミクァスは、無言で互いに視線を合わせていた。
〈幽霊犬〉の瞳には、どこまでもデミクァスのゆくすえを想い、気遣う気持ちが揺れていた。
デミクァスにもそれはわかった。有り難かった。俺には過ぎた言葉と思った。この世にたった一人でも、そういう気持ちを抱いてくれる者がいると分かった今ならば、その事実だけを胸に留め、永劫に続く無明の闇の果てるまで、笑って前に進み続けることができると、そう思えた。
それは――――それはあの〈アリーナ〉の舞台の上で、満場の観客から惜しみなく、分け隔てなく贈られた栄誉や賞賛と同じだった。この街で、彼が〈幽霊犬〉や、アカツキや、シロエや、にゃん太や、顔も知らず名も知らぬ、どこかの誰かから贈られた、得難い宝石のひとかけらだった。
だから彼の口許には、自然と笑みがこみ上げた。相手を小馬鹿にするような、嘲笑混じりの皮肉な笑みでもなく、戦いの最中に浮かべる様な、犬歯を剥き出した獰猛な笑みでもなく、その笑みひとつで死んでいけるような、覚悟に満ちた笑みだった。
「俺にはまだ、”終わり”は早すぎる。俺にはまだまだ探すべきものがある。求めるべきものがある。俺の途は未だ終わらん。だからそれまで、きっと俺自身がなにかを終わらせられる様になるまでは、遮二無二俺の戦さを戦い続けなきゃならん――――すまねえな、〈幽霊犬〉」
それは確かに、〈幽霊犬〉が予想した通りの答えであって。
だから彼女は、ただうっすらと微笑むと、自分の名を初めて呼んだ男に応え、そっと男の名を呼んだ。
「デミクァス、お前は強いな」
〈幽霊犬〉は、武勲を讃える戦乙女の様に、或いは哀歌を謡う歌姫の様に、気高さと嘆きを綯い交ぜにした表情を浮かべてデミクァスを見下ろした。
「お前は強いな――――だが哀れだ。哀れなお前は、いったい何処へゆかねばならぬ?」
歌う様な女の声は――――己自身のためではなく、他者を見舞う理不尽をこそ嘆き、憐れむ者の抱く憤りに満ちていたが、デミクァスは、それらすべての一切合財を顧みず、女の嘆きを、憐れみを、憤りをも見ぬ振りをする。彼は寧ろ意気揚々と、嗤って地獄に向かう兵士の覚悟に満ちた不敵な笑みを口端に乗せて、静かに女に囁き返した。
「――――何処なりとも、戦の巷へ。いずれ俺を待つ、次の戦いのために。そのまた次の戦いのために。戦って、戦って、戦い抜いたその先で、もし天上の何ものかが、それをなした者だけに賜うなにかがあるならば、それがなにかを確かめるために」
そこでデミクァスは言葉を切ると、ふいに冗談めかした様に肩を竦めた。
「だが、そうさな――――差し当たってはススキノに。俺の故郷に。テメエはどう思っているのか知らねえが、俺にだって待ってる奴くらいいるさ」
待っているのか、それとも待たせてしまっているのか。
(遅えぞ、デミ。鈍足化でも喰らってるのか? 早く来ないと、置いてくぞ)
(早くなさいよ、デミクァス。あんたが帰ってこないならこんな家、わたしの居場所とは云えないわ)
「・・・・・・そうか。お前にも、待ってる奴くらいいるか」
〈幽霊犬〉が浮かべた笑みは、どこまでも澄んでなおやさしい。
だからデミクァスは、やはり笑って彼女に背を向けた。
「ああ。だからゆく。達者でな、〈幽霊犬〉」
お互い前に向かって進めば、いつかまた、お互いの途が交わることもあるだろう。
それがわかれば、何も思い悩むべきことはない。ただ只管に仔細なく、胸を据え、一途に想い定めて歩いてゆけばいい。
その時、〈幽霊犬〉が、物も云わずに梢の上に立ち上がった。目にも留まらぬ速さで長弓を抜き放ち、箙から鏑矢を一本引っこ抜いてつがえると、弓弦の音も高らかに、天に向かって射ち放つ。
放たれた矢は瞬く間に蒼穹に吸い込まれ、それを見送ったデミクァスの鼓膜には、高い笛の音のような澄んだ響きだけが、いつまでも尾を引き遺っていた。
「では、然らばだ、デミクァス! またいつか――――然らば、達者で!」
それきりお互い、言葉も交わさず、振り返ることもせず。
〈武闘家〉と〈暗殺者〉は、それぞれの信ずるその途を、誇らしげな笑みをともに浮かべて、脇目も振らず歩き始めた。
そのさまは、確かにお互い、背中を向け合ってはいたけれど――――
きっといつの日か、肩を並べて歩くときがくる。
たったふたりの戦友は、その日が必ずくることを、まるで疑っていなかった。
〈了〉
以上で本稿『餓えしものどもに捧ぐる賛歌』は終了となります。
ここまでお読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。読んでくれている方がいると云う事が、書き続けるための一番の力になるのだと云う事を、久方ぶりに再確認させていただきました。重ねてお礼申し上げます。
それではまた、いつかどこかで。