餓えしものどもに捧ぐる賛歌(Ⅴ)
本作中の登場人物について、オリジナルではない既存の登場人物については、内面・外面とも著者の独自の解釈が多分に含まれています。また、作品内世界設定についても同様です。
本作には、「ログ・ホライズン」本編のネタバレに関する内容が断片的に含まれています。ご了承ください。
5.
自分に何の相談もなく奇襲攻撃を敢行した相棒に舌打ちをしながら、フアン=ブランコは抜剣すると同時、盾を構えたまま突撃を開始した。
開始時の彼我の距離15メートル。開始線についたばかりのクソ生意気な〈武闘家〉に肉薄した〈伊達男〉までの距離もそれとほぼ同じだ。15メートルは十分回復魔法の射程範囲内ではあるが、激しく移動しながら戦闘を行うのが常である武器攻撃職を補助するとなれば、いつ射程範囲から外れてしまってもおかしくない距離でもある。効果的に回復作業を行うのであれば、自分も前線に出て白兵距離で相棒を支援しなければならない。
フアン=ブランコは生粋の〈アーマークレリック〉だ。それは、回復職であっても、常に最前線で戦士職や武器攻撃職と肩を並べて戦ってきたという矜持と同義である。仲間と肩を並べて戦うに、否やのあろう筈が無い。彼はいつでもどこでも、相手がなんであろうとそうしてきたのだ。
敵手の女〈暗殺者〉が、突進を開始した自分に長弓の照準を合わせるのが視界に移る。回復職を仲間から分断する、或いは回復職から優先して排除するのはPvPの定石のひとつだ。当然予想される相手の対処に、こちらも当然の手で応える。退がるな、退がるな、飛び道具が相手ならば、進むのは前だ。上手くすれば最低射程を割る。フアン=ブランコは、構えた盾の陰に隠れるようにして、左半身の姿勢で突進した。
フアン=ブランコは、現実世界では警視庁警備部第四機動隊に所属する司法巡査、いわゆる機動隊員である。剣道三段、柔道も講道館の二段を有しており、治安警備部隊として最前線でヤクザや暴徒と渡り合う”鬼”の四機に選ばれたエリート隊員の端くれだ。ゲーム内の恰好だけの〈武士〉とは違う、本物の〈現代のサムライ〉だという自負がある。
彼が愛用しているのは、地面に置いても高さが自分の鳩尾ほどになる巨大な方形の盾だ。現実世界で彼が吐くほど使い込んだジュラルミンやポリカーボネート製の盾とほとんど同じ大きさで、付与された魔法のお蔭でそれよりさらに軽くて頑丈、かつ取り回しがいい。
彼に云わせれば、日本の機動隊員は、現代社会において世界で最も盾の使用に習熟した部隊集団である。
諸外国と違い、銃器の使用に制限のある日本の警察官にとって、使える武器が警棒や警杖、刺股程度に限定される治安出動の際には、盾は最も頼りになる防具にして武器だ。銃器の使用に制限の少ない海外の警察官と較べれば、その技術、練度には一日の長がある。彼自身、〈大災害〉後は、同輩の〈守護戦士〉に盾の操法をレクチャーしたこともあるのだ。
盾を上方約60度の角度に傾け、盾を担いだ左肩を、盾の裏に押し付けるような姿勢をとったまま、前方敵陣目掛けて驀地に突撃する。
飛来する射出物に対して盾は最も効果的な防御手段だ。ライフル弾のように高速かつ貫通力の高い弾体なら兎も角、矢の様な低速・軽質量の飛来物は、適切な大きさの盾によってそのほとんどを遮断しうる。
フアン=ブランコは教導役の分隊長から、適切妥当な構え方と姿勢をとることにより、盾一枚で手榴弾の飛散する破片も完全に防御することが可能だと教わっていた。その盾が――――大きく上方に弾かれたのは、低い姿勢で長弓を構える女〈暗殺者〉の約3メートル手前だった。持っていかれたのは盾のみならず、フアン=ブランコは身体ごと、後方に数メートルも弾き飛ばされる。
(重いっ!)
〈暗殺者〉の〈ヘヴィ・ショット〉だ。渾身の一矢が、通常に数倍する重さでもって全身鎧を着た騎士を盾ごと後方に押し戻したのだ。
「嘗めるな、駄犬! ここまで来れば充分だ!」
鷹みたいな目でこちらを睨み付けながら、今度は三本まとめて箙から矢を引き抜き、見たこともないような速さで弓につがえる〈暗殺者〉に真っ向対峙し、盾を今度は不落の城壁の如く地面に突き立てて、フアン=ブランコは己が愛剣の真銘を解放し、魔法力場を展開した。
「〈高徳の剣〉!」
〈幽霊犬〉は、無色無形の魔法力場の展開を肌で感じながら、〈聖堂騎士〉が高らかに呼ばわる剣銘を聞いて、漸く相手の剣の正体に気が付いた。
〈ナーサルーン〉。〈高徳の剣〉の二つ名を持つ幻想級だ。
〈朽ちた勲〉のレイドボス、〈死戦士ルグリウス〉からのレアドロップであるこの〈施療神官〉専用の長剣は、近接〈施療神官〉御用達の補助魔法、〈癒しの錬鉄〉の効果を増幅する魔法能力を持つ。
〈癒しの錬鉄〉は、有効にしておくと〈施療神官〉が繰り出す通常攻撃の命中時に、一定の確率で自分とその近くにいる仲間に集団回復が発動する常時発動特技である。戦士職と肩を並べて剣を振るう〈アーマークレリック〉には必須と云える特技だが、〈ナーサルーン〉はこの集団回復の威力を増大させるのだ。更には、回復職用の武器としてはかなりの強度の攻撃速度増加効果を使用者に付与するため、集団回復が発動する頻度を高める効果もある。敵に回すとまことに厄介な能力と云えた。
矢継ぎ早に繰り出す〈ラピッドショット〉や〈スパークショット〉を盾で受け止め、或いは鎧の厚い部分に命中するに任せながら、エルフの騎士は更に〈ナーサルーン〉を床に突き下ろす。風化しかけているとはいえコンクリートでできた床面に、バターにナイフを突き立てるように易々と、魔法の長剣の切っ先が掌の幅ほどにめり込んだ。
「〈天上の庭園〉!」
呪文の解放と同時に、地面に突き立った〈高徳の剣〉を中心として黄金の円環が地面に広がった。半径20メートルほどのそれから立ち上る黄金の光の粒子が、テオドールとフアン=ブランコの身体に纏わりつく。
(面倒な戦術を使うな!)
厄介なことになった、と心の中で舌打ちをしながら、〈幽霊犬〉は片膝立ちで弓を構えたまま、箙から十本ほどまとめて矢を引き抜くと、そいつを足元の雪の塊に突き刺した。掌の中に残った一本を弓につがえて照準を〈聖堂騎士〉に合わせると、乾坤一擲の意志を以て総ての集中力を動員し、騎士の鳩尾付近に狙いを定める。
今時躊躇いもなく〈天上の庭園〉を戦術に組み込む〈施療神官〉が、まさかいるとは思わなかった――――云っても詮無い事ではあるが。
これで、手数で圧倒し、単位時間当たりのダメージ出力を稼ぐ戦術が封じられた。
もともと、回復三職の中でも〈施療神官〉はコンボや手数でダメージを稼ぐ〈武闘家〉や〈盗剣士〉に特に相性が良いとされる。〈施療神官〉の特殊回復呪文である反応起動回復が、ダメージが小さく手数の多い攻撃に対して非常に効果が高いためだ。
反応起動回復は、一撃あたりのダメージが低くかつ単位時間当たりの攻撃回数が多いほど高い効果を発揮する。
一方、〈施療神官〉の切替式上級特技である〈天上の庭園〉の効果は、反応起動回復の起動回数一回ごとの回復量を倍増させるというものである。つまり、反応起動回復の「一回当たりの回復量が少ない」と云う最大の欠点をカバーするわけだ。
即ち、コンボ職の特色である「短時間に小さなダメージを積み重ねてDPSを増加させる」という方法論がまったく通用しないことになる。
無論、反応起動回復と〈天上の庭園〉の連携は、強力な一方欠点もある。〈天上の庭園〉を維持している間、〈施療神官〉は通常攻撃と反応起動回復の更新以外に特技を使用することが出来なくなってしまう。強力な回復出力を得られる代わりに、搦め手や、突発的な状況の変化に対する対応力が弱くなるのだ。
だが、この戦いに限って云えば、その心配はほとんどないと云っていい。〈武闘家〉も〈暗殺者〉も、単純な与ダメージ能力は優れているが、弱体化や行動阻害などの搦め手はほとんど持っていないためだ。
反応起動回復と〈天上の庭園〉の連携は、戦術と呼ぶのが烏滸がましいほどに単純な戦術だ。〈庭園〉を使用したらあとはひたすら機械的に反応起動回復の更新のみを続ける様を指して、口さがないネットの住人の中には”ヒールBOTガーデン”と揶揄する者もいる。
だが、単純な分、それを打ち破るのは難しい。〈天上の庭園〉で強化されたHPSを純粋に上回るか、反応起動回復による回復そのものを無効にするか。いずれにせよ、急造のコンビであるデミクァスと〈幽霊犬〉には、採れる戦術の幅はそう広くない。
兎にも角にも、手数を減らし、一撃のダメージが大きい”大砲”を中心に畳みかける。小技は却って折角減らした相手のHPを回復させることになりかねない。
〈聖堂騎士〉が足を止めて、反応起動回復を掛け直すその僅かな隙を逃さずに、〈フェイタルアンブッシュ〉のタメを終わらせ叩き込む。地面から次の矢を引き抜きつがえながら、〈幽霊犬〉は脳裏で特技使用順の組み直しを開始した。
* * *
「クッソがぁっ!!」
「おっとっ!」
射撃の後の僅かな硬直を縫って〈幽霊犬〉に肉薄しようとする〈伊達男〉の脇腹に、〈ワイバーンキック〉を叩き込んで移動妨害する。
相手の狙いは当面はデミクァスではなく〈幽霊犬〉のほうだ。デミクァスを盾とするなら〈幽霊犬〉は彼ら急造コンビの剣である。防御力も耐久力も劣るダメージディーラーを最優先で落としてしまえば、如何に残ったデミクァスが粘ったとてそれは敗北までの時間を引き延ばすだけの結果にしかならない。剣を失くして盾だけを構えた戦士など、戦い慣れた〈黒剣〉の二人組にかかれば料理するのは容易い筈だ。
〈タウンティングシャウト〉や〈ラフティングタウント〉、〈モンキーステップ〉は、ほとんど火の車のように回し続けだ。コンボ職の〈武闘家〉は、ほとんどの特技において再使用規制時間に優れるが、回転の速い小技が使えないとなると、大技だけを回し続けるのは流石に不可能だ。いきおい与ダメージによって相手の注意を引き付けることが難しくなるため、デミクァスが普段はあまり使わない、これらの挑発特技の使用頻度が高くなる。
どういう理屈なのかデミクァスにはよく判らないが、敵の反応起動回復のHPSが劇的に増加したのには早々に気が付いた。相手の防御を崩そうと、〈盗剣士〉の左の肩口に〈蟷螂拳〉を叩き込み、続けて〈施療神官〉を巻き込んで〈震脚〉のコンボを決めたところで、何故か二人のHPが減るどころか寧ろ僅かに回復したことに気付いたのだ。
咄嗟に背後の〈幽霊犬〉を振り返り、彼女が厳しい目付きで首を振るのを目にしたところで、デミクァスもそれを理解した。直後から、〈幽霊犬〉が使う特技が、ダメージがデカく回転の遅い特技ばかりになったことで、頭の中の理解が確信に変わる。
以後、デミクァスは、小技を除いた非常に苦しい特技回しを強いられていると云う訳だ。
挑発特技は、一部を除けばもともとそれほどコストも再使用規制時間も重くないが、それでも以前のデミクァスならば、これだけの速度で回し続けることはできなかった筈だ。
だが、今のデミクァスには、苦しいなりにMPを遣り繰りし、再使用規制時間を管理して、なんとか特技を回すことが出来る。
(クソッたれがっ、ここが感謝のしどころって事かよっ!)
デミクァスは、心の中で悪態を吐きながら、丁度胸の真ん中あたりで、彼が特技を使うたびに、”それ”が微かな温もりを放って彼の手を支えてくれているのを感じていた。
苦しい戦いの最中の筈なのに、馬鹿みたいな劣勢に防戦一方な筈なのに、彼の口許には仄かな微笑が漂っている。
それは、彼がはじめて他の誰かから贈られた、彼自身は認めたがらないけれど、彼の大事な”絆”だった。
――――〈黒玉の記憶〉。
それが、絆に付けられた名だ。
(おう、来た来た、デミクァス。これ、やるよ)
それは、〈シルバーソード〉が〈奈落の参道〉で、炎蛇〈三なる庭園のイブラ・ハブラ〉の遺した財宝から新たに入手した幻想級素材、〈炭化した古木の化石〉からメニューに頼らず作成された、うねる炎の蛇を象った首飾りだった。
美しい炎が絡みついた蛇体を艶のある黒い宝石から削り出したのは、とてもそんな繊細そうな作業に向いているとは思えない、土方みたいな風貌のドワーフの〈宝飾師〉だ。
(僕? 僕はもうもらったよ。順三や羅喉丸ももらってる。そうだよな?)
(シロエさんとこの〈守護戦士〉、直継くんって云ったっけか? 彼にも昨日、メールで送ったってよ)
(デミクァス、そいつはお前さんのだよ)
黒く艶やかに、有機質的な輝きを発するそれは、身に着けた者のヘイト操作系の特技の再使用規制時間を短縮し、MPコストを減少させるとともに、特技の威力も増幅する。
(もらっちまえよ、デミ。遠慮なんてらしくないぜ)
(そうそう、いつものあんたなら、ひったくるぐらいが丁度いいや。なあ、ギルマス?)
(・・・・・・お前は俺たちと一緒に戦った戦友だ。だからそいつは、お前の正当な取り分だ。そうだな、みんな)
デミクァスの記憶の中で、彼らのギルドマスターの声に応えて次々に湧く笑い声は、からかうような調子ではあったけれど、きっと一生忘れることの無い、くすぐったくて暖かい笑い声だった。
だから今のデミクァスは、誰かと一緒に戦うことが、ひどく暖かくてくすぐったいものだと云う事を知っている。
心の背中は、〈シルバーソード〉の連中が、不敵な笑みを浮かべながら守ってくれている。
そして今、現実の彼の背中を守ってくれているのは、不愛想な顔にきつい微笑を貼り付けた、とびきりおっかない女〈暗殺者〉だ。
〈虎響拳〉の振り切り動作に〈デュアルベット〉を合わせられ、ひやりとするデミクァスの右脇を、背後から〈へヴィ・ショット〉が奔り抜け、〈盗剣士〉の右肩に命中して彼を三歩分押し戻した。空振りしたサーベルに舌打ちをした〈盗剣士〉テオドールが注意を〈幽霊犬〉に向けかけたそのタイミングで〈タウンティングシャウト〉。
対モンスター戦闘とは異なり、各プレイヤーがヘイトとは無関係に目標を選択することが出来るPvPでは、戦士職の挑発特技は一時的に対象の目標を使用者に向けさせるだけの効果しかない。挑発を受けた相手は一旦ターゲットを戦士に変更されるものの、すぐに任意にターゲットを変更しなおすことが出来る。
だが、その一瞬の挑発効果を地道に重ねているお陰で、〈幽霊犬〉への圧力は何もしない時に比べて半分以下に減っている筈だ。〈幽霊犬〉に較べれば、デミクァスの防御系スキル値やHPは三割増し、同じ革鎧でも〈武闘家〉用は〈暗殺者〉用と較べて装甲値は二割増しである。そのうえデミクァスは〈レジリアンス〉や〈呼吸法〉、更には右拳の〈強欲の籠手〉のHP吸収効果で、完全回復には及ばないまでも自己回復も可能なのだ。そもそもの耐久力が段違いである。
煩わしげに〈アーリースラスト〉を仕込んだ突きをデミクァスに向けるテオドールの目にも苛立ちが窺えて、デミクァスは心の中でざまあみろと悪態を吐いた。今の〈タウンティングシャウト〉に釣られてフアン=ブランコのオートアタックまでがデミクァスにヒットして、新たなダメージを刻むとともに、〈癒しの錬鉄〉が彼と相棒のHPを幾許か回復させたのは、少しばかり収支が合わなかったが。
〈レジリアンス〉はほとんど常に発動している。〈ブレス・コントロール〉も再使用規制時間の度に使用している状況だが、今一つHPの戻りが遅いのは、彼の防御をかいくぐって〈幽霊犬〉にヒットする攻撃の半分程度を〈カバーリング〉で引き受けていることだけが原因ではないようだ。
脳裏の状態異常ウィンドウには、出血を伴う何らかの弱体効果アイコンが点滅している。恐らく、受け取りヒール量の減少効果が働いているのだろう。
彼我のHPの状況は、デミクァスが五割、〈幽霊犬〉が四割、テオドールとフアン=ブランコがそれぞれ七から八割程度だ。このままではジリ貧なのは、敵も味方もよく心得ているだろう。
〈黒剣〉の二人組は、このままこの戦術を採り続ければよい。遠からず、デミクァスの防御をかいくぐった攻撃が〈幽霊犬〉を捉えるか、デミクァスが支えきれずに崩れるか。〈致命の一撃〉を始めとした大砲の対処のみに気を配っていれば、勝利は殊更無理をせずとも引き寄せられる。
デミクァスは、いよいよ明確になって来た敗北の予感に抗う様に、ぎしりと奥歯を噛み締めた。
* * *
「思ったよりは、面白くない展開になったねぇ!」
「るっせぇぞクソ野郎っ!」
僅かに間合いを開けて一息つこうとするデミクァスを逃さず、低い姿勢で滑り込んできたテオドールの〈レイザー・エッジ〉が今度はデミクァスの咽喉元にマーカーを貼り付ける。更に追い縋って放った〈ワールウィンド〉は紙一枚でスウェーで躱し、がら空きになった左の脇腹にカウンターの〈無影脚〉。一瞬動きの止まった〈伊達男〉のカバーに走り込んできたエルフの騎士ごと足元を刈り取るように放った〈ドラゴンテイル・スウィング〉で転倒させ、起き上がりかけたフアン=ブランコの顎先に下段回し蹴りをひとつ決めると、続けて〈ワイバーンキック〉を直撃させる。のけぞりよろける〈施療神官〉の胸板ど真ん中に、追い打ちの遠隔〈フェイタルアンブッシュ〉が突き刺さった。
ここまでやっても削れたHPは二割に届かない。増幅された反応起動回復に加えて、〈聖堂騎士〉の全身を包む魔法の甲冑の防御力も侮れない。これだけ畳みかけていても、まともにダメージを与えたのは、デミクァスの〈ワイバーンキック〉と〈幽霊犬〉の〈フェイタルアンブッシュ〉だけだ。恐らく〈暗殺者〉の〈アサシネイト〉であっても、贔屓目に見ても半分も削れればいいところだろう。一方のデミクァスはまともに〈レイザー・エッジ〉をもらった上に、五つ目のマーカーのおまけつきである。
いい加減デミクァスに妨害され続けたテオドールは、ダメージの集中を放棄したようだった。兎に角攻撃の手を緩めずに、手の届くところにいる相手に対し攻撃を仕掛け、二人のどちらにもダメージを蓄積させる戦術にシフトしている。飽和攻撃に近い戦術だが、回復役のいないデミクァスたちには後が無い。
だがデミクァスにも気付いたことがある。〈幽霊犬〉の矢を集中して受けているフアン=ブランコの移動速度が、格段に遅くなっているのだ。先程の〈ドラゴンテイル・スウィング〉が間に合ったのはそれが理由だが、兎も角〈幽霊犬〉の装備に付与された何らかの手続き発動能力が発動して、〈施療神官〉の機動力を奪っているのだ。その証拠に、〈幽霊犬〉の矢が命中する都度低くない確率で、〈施療神官〉の足元に緑色に輝く蔦が絡まるエフェクトが表示されているのが見て取れた。
ちかり、となにかがデミクァスの脳裏で閃光を発し、彼の第六感を刺激した。
思わず〈幽霊犬〉を振り返る。
二人の視線が交錯する。急造のコンビだ、意思の疎通に自信はない。
だがその時、すべての冷静さをかなぐり捨て、全霊を込めて〈幽霊犬〉が吠えた。
「”20”だっ!!」
デミクァスが一瞬その言葉の意味を理解しかねて硬直した隙に、テオドールが再び〈クイック・アサルト〉で〈幽霊犬〉に肉薄した。
咄嗟に〈モンキー・ステップ〉で跳躍し、〈伊達男〉に挑発を入れながら二人の間に無理矢理身体を割り込ませる。〈クイック・アサルト〉を二の腕で受け、六個目のマーカーがそこに張り付くのも構わず、追い打ちで放たれたサーベルの〈デュアルベット〉を回し受けで捌くと同時、これだけはほぼ100パーセントヒットしているカウンターの〈無影脚〉を〈伊達男〉の鳩尾に抉り込むと、うまい具合にクリティカルヒットして〈伊達男〉のHPが減少した。
「呼ッッッ!!」
背後で〈幽霊犬〉の気配が消失するのを感じながら、デミクァスは鋭く呼気を吐く。身体をくの字に折って悶絶するテオドールの顎に、床を割るほどの踏み込みから渾身の勁を込めた〈虎靠撃〉。捨て身のカバーから丁寧に打ち連ねた痛撃に、テオドールは血と唾液を撒き散らしながら踏鞴を踏んで数歩後ずさり、さらに〈ライトニング・ステップ〉で間合いを外してフアン=ブランコのもとまで後退した。
ダメージを重ねる好機を逃がすまいと、テオドールが足を止めたまさにその瞬間を狙って、何時の間にか元居た位置の後方数メートルに移動した〈幽霊犬〉が狙いすました〈ステルスショット〉。獲物に迫る猟犬の如く〈伊達男〉の咽喉元に奔る矢を、今度はフアン=ブランコが自分の身体を割り込ませ、盾では受け損ねたものの肩口で受けて、身体を張って相棒を守る。
「あー効いた。今のは効いた。色男台無しだぜ」
「無茶するからだ。いつも団長に云われてるだろう」
「悪かったって。だが、結構やるぜ、敵さんも」
デミクァスと〈幽霊犬〉は、小技を回すことが出来ない手数の不足を、各々が交互に特技を使用して単一目標に集中させる戦術でカバーしていた。戦闘中に、恐らく自然にその結論に達したものか、打ち合わせた様子は無いものの、二人が特技を撃ち込むタイミングにはほとんど淀みは見られない。
デミクァスはひとかどの壁役である。猪武者に見えてその実、挑発や〈カバーリング〉の使用タイミングが抜群にいい。装備だけ見ると、一見ソロに慣れた〈武闘家〉にありがちな攻撃偏重DPS重視型であることに騙されてしまったわけだが、実際は自分がすべき仕事をよく判っている。〈盗剣士〉の強力な範囲攻撃に二人ともが巻き込まれぬよう、自らの身体で白兵戦域を前に前にと押し出して、〈暗殺者〉を直接攻撃に晒させない。
一方の〈幽霊犬〉は、傭兵ギルドに在籍させておくには惜しいほどの手練れの〈暗殺者〉だ。なんと云っても位置取りが実に巧い。移動特技や戦闘中のステルス系特技の使用に極めて習熟している様子が覗える。盾となる相棒を十分に利用して、間合いを外し、巨漢の〈武闘家〉の身体そのものを死角に使ってステルス状態に入る手際は目を瞠るものがある。
転瞬の間にそれらを見て取ったテオドールは、閃光みたいにほんの一瞬、にやりと血に飢えた鮫の様な笑みを浮かべると、相方の肩に軽く手を置いた。
「嘗められないね。MPは?」
「七割がた。反応起動回復の更新しかしてないからな」
「そいつは重畳。そら、いくぞっ!」
ほんの短い軽口の応酬。一見戦闘を”ゲーム”としてしか捉えていないかのような飄々とした態度の相方が、しかしその実戦闘に対する真摯さは〈黒剣〉有数であることをフアン=ブランコは知っていた。遊び好きに見えて、実際のテオドールのモットーは”最短・最速・最良”だ。戦略戦術に関して遊びは無い。必要とあらば逆撃・不意討ち・騙し討ちもまるで躊躇わず実行する。
決してそれらを好んで行う為人ではない。飽く迄も”必要ならば”の但し書き付きだ。だがフアン=ブランコは今までに、それらが必要な場面で彼がそれを行わなかった場面を見たことが無い。彼がこの〈伊達男〉の世話を焼きながらも、一定の敬意を表し親友として遇する所以だ。
「おおおおおおおっ!!」
フアン=ブランコは、相棒の短い、しかし自分を信頼しきった戦闘再開の合図に応えて咆哮した。〈ステルスショット〉の強烈な一撃は、増幅された反応起動回復でかなり威力を殺されていたが、それでも喰らった左肩は、盾を持ち上げると僅かに痛む。だがこれぞ心地良き痛みよ――――仲間を庇って負った疵は、彼を高揚させこそすれ怖れを齎すことはない。
〈暗殺者〉の武器のプロックで、鉛の蛇が巻き付いたように重い脚を懸命に前に進ませて、突進する〈伊達男〉に後れを取るまいと〈聖堂騎士〉はその背中を追って突撃を開始した。
* * *
ごう。
ごう。
ごう。
いつからか、頭蓋骨の中でひっきりなしに響いているのは、他ならぬ自分自身の息遣いだ。
戦っているときはいつもそうだった。
自分と相手の呼吸音。
こめかみでどくどくと脈打つ血管の鼓動の音。
ひびの入った第三肋骨がぎしぎしと軋る音。
伸びかけた膝の靭帯が、動かすたびにみちみちと細かく断裂する音。
そこには観客の歓声もブーイングも存在しない。
向かい合う自分と相手の肉体が発する、様々な音があるだけだ。あらゆる雑音も、不協和音も、この瞬間だけは鳴りを潜めて世界から消える。
肉と肉が発するそれらの音は、個としては耳障りで、調子はずれで、渾沌に満ちていたけれど、総体としては完璧に調和し、和合し、合一して、本来楽の無い世界になおいづる楽、極小単位の戦争音楽を構成している。
デミクァスはその昔、その音楽が何よりも好きだった。
それは〈大災害〉が起きる遥か以前、彼が〈エルダー・テイル〉を始めるよりももっと前。
彼が、現実の自分の肉体で、叩いたり叩かれたり、蹴ったり蹴られたり、挫いたり挫かれたりしていたころのことだ。
彼が大好きだった空手が、彼の世界のすべてだったころのことだ。
だがいつしか、彼はその音楽のことをすっかり忘れ去っていた。
モニター越しの〈エルダー・テイル〉の戦闘に、そんなものを求めるのは不可能だったし、〈大災害〉を越えて〈冒険者〉の身体が自分の身体になった後も、最初からそんな音楽なんかこの世の何処にも存在しなかったかのように、その音楽が、戦うデミクァスの耳に響くことはなかったのだ。
だが、それは帰って来た。
いまや、デミクァスの肉体は一個の楽器だった。
己の肉が発する音。相手の肉が発する音。己の肉と相手の肉がぶつかり合って発する音。
余計な雑音が消え、クリアになった彼の意識に、それらはみずみずしい鮮やかさをもって、再び戦争音楽を奏で始めた。
――――そうだ。今彼は、本当に帰って来たのだった。
あの地獄のような戦場に。あの天国のような戦場に。
彼の唯一の使命が存在する場所に。彼が唯一安息できる場所に。
彼が、本当に在るべき場所に。
* * *
「かぁぁっ!」
”息吹”によって、臍下丹田に集中した気を全身に行き渡らせる。
〈呼吸法〉は本来ならば最大HPの三割ほどを瞬時に回復させるはずだが、実際に回復したのは一割強だ。だが、同時に発動した治癒効果により、敵の〈盗剣士〉から受けた種々雑多な弱体効果とともに出血効果も解除され、発動中の〈レジリアンス〉が本来の回復力を取り戻した。
一息つけたのは〈呼吸法〉を使用する僅かな間だけだ。何やら短く言葉を交し合った〈黒剣〉の二人組が再び殺到してくるのを迎え撃つべく、デミクァスは再び〈幽霊犬〉の前に進み出る。
状況は七分でこちらの不利だ。回復職の有無がそのまま状況の優劣の差である。
回復職として〈施療神官〉を含む〈冒険者〉集団は、謂わば重武装の補給隊を擁し万全の兵站を整えた軍部隊に喩えられる。
軍隊における補給の有無が戦場での生死を分けるのと同様に、〈エルダー・テイル〉における回復職の存在は、PvP・PvEを問わず戦闘の死命を決する重要な要素だ。”輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々蜻蛉も鳥のうち”などと蔑んで補給を軽んじる軍隊が勝てる戦などこの世に存在しないように、回復職の存在を軽んじる者が勝てる戦いなど、〈エルダー・テイル〉のどこを探してもありはしない。
デミクァスと〈幽霊犬〉は、機動力と攻撃力に優れる電撃戦部隊だ。最大戦力で敵の反抗力を奪い、短期決戦での殲滅を得意とする。
だが、敵は攻撃力には劣るものの、万全の補給線と堅牢な防御陣地を構築し、長期戦でデミクァスたちを突き崩そうとしている。戦いが長引けば、補給の無い彼らは疲弊したところを叩かれ、掃討されるしかない。
状況を打破するためには、まず第一に敵の補給線を破壊すればよい。
味方に〈付与術師〉がいればそれは有効な戦術だろう。〈付与術師〉は、直接MPにダメージを与える攻撃呪文や、敵の特技使用時のMPコストを倍増させる弱体化呪文を複数所持している。いかな回復職とて、MPが切れれば回復魔法を使用することはできない。
だが、今の彼らの手札でその戦術を使用するのは不可能だ。
ならばどうする――――デミクァスは必死に答えを探す。
”20だ”
ちかりと脳裏を〈幽霊犬〉の言葉が掠め過ぎた。
「”20”だな?」
両手を広げて迎撃姿勢を整えながら、背後の〈幽霊犬〉に押し殺した声を掛ける。〈黒剣〉の二人に意図を読まれるわけにはいかない。
「そうだ」
それを心得ているのであろう、〈幽霊犬〉の回答もごく短い。
「策がある。〈施療神官〉は任せたぜ」
「応っ」
短い遣り取り、その直後、味方前衛と敵前衛が接敵する。
先手はテオドール。左手の短剣による突きはフェイント、本命は、デミクァスの利き腕を狙った〈ヴァイパーストラッシュ〉だ。だが
「シィッ!」
斬撃を山猫の身のこなしで跳躍し躱したデミクァスは、テオドールの背後――――即ち、テオドールと鈍足化の影響で出遅れたフアン=ブランコの中間の位置に滑り込んだ。
「わざわざ挟撃させてくれるとはなっ!」
デミクァスの背中に斬りかかろうとしたフアン=ブランコの胸甲の真ん中に、狙いすました〈へヴィ・ショット〉が突き刺さり、〈聖堂騎士〉を3メートルほど後方に押し戻した。間髪入れず〈ステルス・ショット〉、次いで今度は右肩の装甲の隙間に〈パラライジング・ショット〉がヒットし、一瞬フアン=ブランコの動きを硬直させる。
「今っ!」
〈幽霊犬〉が合図を送ったその時には、デミクァスの体内ですべての準備が整っている。思い切り撓めた全身の発条を、爆発するように弾けさせ、ほとんど身体ごと〈伊達男〉目掛けて跳躍し、突進した。
通常の人体の挙動では有り得ない、弾丸の軌跡を描くその飛び蹴りは、デミクァスの最も得意とする絶技――――〈ワイバーン・キック〉だ。
テオドールは、ぞっとしたような笑みを口端に貼り付けたまま背後のデミクァスに向かって振り向いたところだ。辛うじて反応が間に合って、紙一重の差でサーベルと短剣を交差させてデミクァスが描く軌跡に割り込ませると、躱すのは不可能とみて両足を踏ん張り、ブロックの姿勢に入る。だが、デミクァスは端からクリーンヒットさせるつもりはない。
「ブッ飛べ、オラァッッッ!!!」
「おおおおっ!!」
デミクァスの全身が、右足刀を先端にして一個の巨大な破城槌となる。幻想級の武器を組み合わせた強固な城門に、火花を散らして打ち付けられるその衝撃は、最早打撃のレヴェルを越えて、さながら交通事故か土木建築用の重機の一撃だ。
〈伊達男〉は日頃の飄々とした態度をかなぐり捨てて、歯を食い縛り、二の腕から頸にかけて太い筋肉の束を隆起させながら、デミクァスの蹴りを正面から受け止める。予想を遥かに上回る速力、衝撃力に、咄嗟に威力を逃がすことが出来ない。足元の雪を蹴立てながら、敵陣方向、即ちフアン=ブランコから遠ざかる方向に、為す術もなく押し込まれる。
だが幻想級の武器による防御は堅牢だ。デミクァスの恐るべき突進を、テオドールはなんとかノーダメージでいなし切ることに成功した。脂汗が額にびっしり浮かんでいるほかは、テオドールにダメージらしいダメージは見られない。
「惜しいねぇっ!」
ほぼ密着状態のデミクァスに、窮屈な姿勢ながらサーベルを振り上げたテオドールの胴衣の襟首を、〈武闘家〉の巨大な掌が鷲掴みにした。
「寝惚けてるんじゃねえよ、本番はこっからだぜ! 〈ドラッグ・ムーブ〉!!」
その瞬間、〈盗剣士〉を取り巻くすべての重力法則が、根底から覆り、渾沌に呑み込まれた。
〈記録の地平線〉のシロエは、見覚えのあるその光景にぶるりとひとつ、大きく身体を震わせた。
「うわあ・・・・・・効くんだよな、あれ」
以前自分もやられたことだが、傍から見ると如何にとんでもないことをされていたのかがよく判る。
やっていること自体は柔道でよくある光景だ。向かい合った相手の奥襟を、片手で掴んで力任せに引きずり回す。シロエも高校生の頃、体育の柔道の授業の時に、柔道部員のクラスメートが力を誇示するためにやっているのをよく見かけた。シロエや他の運動が苦手な生徒を捕まえて引きずり回し、息が上がったころを見計らって畳に叩きつけるのだ。
だがこの場合は、引きずる側の力と速度が段違いだ。ほとんど馬か自動二輪車に襟首を括り付けられて引きずり回されるようなものである。シロエが以前デミクァスに同じようなことをやられた時には、早々に抵抗を諦めて身を任せたからまだよかったが、今のテオドールのように無暗に抵抗すれば、逆にそれが原因で怪我をしかねない。
「〈ドラッグ・ムーブ〉か。確かターゲット固定効果があったはずだけど・・・・・・あの状態で、そもそも引きずる相手以外に注意を向けることなんて、普通の人ならできないよなあ」
ため息交じりのシロエの呟きは、湧き上がる歓声に掻き消され、〈アリーナ〉の宙に溶けて消えた。
(ここで分断にくるかね!)
ものすごい勢いで引きずられ、相棒から引き離されながら、テオドールは心の中で舌打ちをした。そうだ、それが唯一の正解だ。
補給線の破壊が適わぬならば、敵はどうする? 答えはこれだ。前衛を、防御陣地から引きずり出して、後方の支援部隊と分断し、各個撃破する。
20メートル――――それは即ち、フアン=ブランコが持つほとんどの回復呪文の射程距離であり、そして彼を中心とした〈天上の庭園〉の効果範囲でもある。つまり、テオドールとフアン=ブランコを20メートル以上引き離して分断すれば、テオドールにフアン=ブランコの回復や支援が届かなくなる。だからこそ、フアン=ブランコは回復職でありながら、常にテオドールと肩を並べて敵の刃の届く距離に身を置いていたのだ。
テオドールたちのミスは、フアン=ブランコにかかっていた敵の女〈暗殺者〉の鈍足化を軽視したことだ。いざとなれば、いつでも〈天上の庭園〉を切って治癒できる、と高を括っていたツケだ。その鈍足化を放置していたために、突出したテオドールと遅れるフアン=ブランコとの間に間隙が生ずる。敵はそこを正確に衝いてきたのだ。
だが、ミスは必ず取り返す。テオドール自身の手で、この生意気な〈武闘家〉と〈暗殺者〉のコンビに意趣返しをせねばならぬ。
「調子に乗るなよ、〈武闘家〉の旦那っ!」
フアン=ブランコとの距離は、みるみるうちに臨界に迫る。テオドールは、デミクァスに引きずられる不自由な体勢から、脳裏の特技アイコンを呼び出して、〈ブラッディ・ピアッシング〉をアイコン起動しデミクァスの右膝に短剣を突き立てた。
途端にデミクァスのスピードがガクンと落ちる。この下半身への刺突特技は、相手の回避力を低下させるのみならず、移動速度を低下させる効果もあるのだ。テオドールは頬に血飛沫を散らした壮絶な笑みを浮かべながら、更に左の膝にも血まみれの短剣を突き立てる。〈ドラッグ・ムーブ〉の効果時間はせいぜい数秒間、その数秒間が勝負の分かれ目だ。逆転はさせない。が――――
「うざってえんだよ! 小賢しいぜ、色男!」
瞬間、怒号とともに、デミクァスの両脚が速度を取り戻す――――否、いっそう加速し、一陣の颶風となって、更に20メートルばかりの距離を、ほとんど一呼吸で奔り抜ける。
〈鬼歩法〉。幽鬼の如くすべての移動阻害効果を無効化し、瞬間移動じみた移動を可能とする、戦士職では〈武闘家〉だけが持つことを許された強力な移動特技だ。
これで、彼我の距離約40メートル。
〈聖堂騎士〉の支援も回復も届かない。
思い切ってタイマンでケリをつけるか、それとも〈ドラッグ・ムーブ〉の効果時間が終わると同時に、〈ライトニング・ステップ〉でフアン=ブランコとの合流を優先するか。
この戦いが始まって以来初めて、ほんの数瞬、テオドールが逡巡した、その心理的陥穽を、デミクァスが敏感に察して機先を制した。
「シッ!」
鋭い呼気とともに、目にも止まらぬ拳速で右の拳を翻し、手の甲をテオドールの眉間に打ち付ける。
ただのオートアタックだ。〈庭園〉の影響が切れた反応起動回復でも、ダメージ自体はほとんど相殺されてしまう。
だが、目の近くに受けた思わぬ衝撃に、テオドールがびくりと身体を震わせ反射的に動きを止めた。
それは、デミクァスが見つけた、ほんの小さな”気付き”のひとつ。〈エルダー・テイル〉のゲーム世界にそっくりなこの世界では、たとえ目玉に指を突っ込もうが、気管を踵で踏み潰そうが、もともと〈盲目〉や〈窒息〉の効果が付与された攻撃でない限り、実際に目が見えなくなったり、呼吸が出来なくなることはない。恐らくは、そうしたデバフが付与されぬ限り、腕を折っても死ぬまで腕は使えるし、脚を折っても倒れるまでは通常に移動が可能であろう。この歪な法則が支配する異世界においては、外形的に身体の器官を破壊することに、ダメージ以上の意味はない。
だが、それはそれとして、人体の反射は健在だ。〈大地人〉だろうが〈冒険者〉だろうが、眼球に異物が接近すれば反射的に瞼を閉じるし、咽喉に異物が侵入しようとすれば、反射的にえずいて呼吸を止める。
即ち、強制的に盲目状態にすることはできなくても、数瞬ならば自ずから、目を閉じさせることはできるのだ。
そして研ぎ澄まされた武術者にとっては、その数瞬で十分だった。
水月の急所に貫手の〈オーラ・セイバー〉を叩き込み、次いで同じ箇所に正確に三発〈トリプルブロウ〉。更に重ねて拳をぴたりと当てると、渾身の〈タイガー・エコーフィスト〉。反応起動回復に相殺されながらも確実に刻まれていくダメージに、〈伊達男〉が激昂した。
どの攻撃にも丁寧に、〈ラフティングタウント〉の挑発効果が乗っているのだ。
「いいぜ、ここらで幕引きと行こうかねっ!」
一つ一つ積み重ねていたのは、そっちばかりだと思うなよ。
足を止め、デミクァスと真っ向から斬り合いながら、テオドールは目を細めて相手の身体に貼り付けた六つの〈マーカー〉を確認した。
〈武闘家〉はしぶとい。本気で防ぎにかかる〈武闘家〉を仕留め切るのは容易ではない。落とすなら、一撃でだ――――そのつもりで積み重ねてきたのが〈マーカー〉だ。
〈ブラッディ・ピアッシング〉を二つ重ねて回避力は奪ってある。そして相手は今を好機と防御を捨てて、自分を倒すべく攻撃に全精力を傾注している。
ならば今こそ、自分にとっての好機に違いない。
顎に一発、いいのを貰ってよろめいた、そこを狙ったデミクァスが〈ワイバーン・キック〉で弾丸のように自分目掛けて突っ込んでくる、それを敢えて鳩尾で受けた。
口中にこみ上げてくる血を無理やり呑み込みながら、デミクァスの右足を左腕で抱え込み、一番最初の奇襲と同じ、相手の右肩目掛けてサーベルで渾身の突きを放つ。
「腹一杯に喰らいやがれ、〈ブレイク・トリガー〉!!」
「んだとォッ!?」
サーベルの切っ先がデミクァスの右肩で瞬く道化師のアイコンに触れた瞬間、デミクァスの身体に貼り付けられたすべての〈マーカー〉が、連鎖的に大爆発を巻き起こした。
* * *
「ぐああああぁぁっ!」
背後から耳に届いたデミクァスの絶叫に、瞬間、全身の汗腺が冷汗をどっと吹き零す。
目の前の〈施療神官〉が、咄嗟にテオドールとデミクァスが戦う方向を見やって、にやりと勝利を確信した笑みを浮かべるのが見えた。
(畜生っ!)
デミクァスの生死は分からない。ステータスバーを確認する余裕はない。だが、敵が奥の手を出してくるならば、確実にデミクァスのHPを削り切れる自信があるからだろうと予想はついた。何故なら、〈幽霊犬〉自身が奥の手を出すならば、必ずそういうタイミングを狙うからだ。
(どうするっ!?)
迷ったのは一瞬だけだ。
あいつ自身が云ったのだ。”策がある。〈施療神官〉は任せたぜ”と。
ならば私は、私の仕事を完遂するまでだ。
もともと機動力に劣る〈施療神官〉に対し、〈大地の声〉の鈍足化プロックに〈アトルフィブレイク〉を重ね、更にその上から〈パラライジング・ショット〉や〈ハムストラング〉を撃ち込んで、徹底的に、ありとあらゆる手段を駆使して足止めをする。
本当にデミクァスが斃れたのならば、足止めなど無意味なのかもしれないが、それこそ私の知ったことか。
その時はその時だ。もしもそうなら――――〈アリーナ〉の入り口で気が済むまで、あいつを指差し笑ってやる。
連鎖する爆発音と、次いで響く生意気な〈武闘家〉の絶叫に、ほとんど勝利を確信する。
相棒の〈トリガー〉は、ひとつ爆ぜるごとに約1000ダメージを対象に与える。〈ブレイク・トリガー〉で六つ一度に起爆すれば、相乗効果で8000ダメージは優に超えるのだ。ほぼあの〈武闘家〉のHPの半分に相当する大ダメージを、今の状態で耐えきれる訳がない。
もう〈庭園〉は必要ない。すぐにも〈ライトニング・ステップ〉でテオドールが合流してくるはずだ。そこで〈庭園〉を切って集団回復か〈オーロラヒール〉で一気にHPを建て直し、あとは盾役がいなくなった〈暗殺者〉を二人で確実に仕留めればよい。
重い脚で〈暗殺者〉に向かって駆け寄るフアン=ブランコの視界の中で、〈トリガー〉の連鎖爆発の煙が晴れて、巨漢の〈武闘家〉が、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちようとしている。
HPバーは真っ赤、表示はきっかり0%だ。
こちらを振り返り、〈伊達男〉がにやりと微笑を浮かべている。
・・・・・・何かがおかしくはないか?
その光景に、異様な違和感を感じて思わずフアン=ブランコの脚が止まる。
あの〈武闘家〉のHPは0%だ。ならばどうなる? 通常ならば〈武闘家〉の死体が残る。〈武闘家〉が〈大神殿〉での蘇生を選択するか、定められた時間が経過すれば、〈武闘家〉の死体は渦巻く光の中に消えて、金銭や所持アイテムをばら撒く筈だ。
だが、ここは通常のゾーンとは違う。ここは――――ここは、〈アリーナ〉だ。
ぞくりと太い悪寒が脊髄を脳まで駆け上る。
咄嗟に〈庭園〉を解除して、同時に〈治療〉で移動阻害デバフを消去する。
〈武闘家〉の”死体”に背を向けた相棒の姿に、揺れる視界の中で真っ赤な警告灯が点滅する。
最大音量で警告を発すべく、大きく肺を膨らませながら、相棒に向かって駆け出そうとしたまさにその瞬間――――フアン=ブランコの懐に、颪のように滑り込んできた女〈暗殺者〉が、逆手に握った長剣で〈アクセル・ファング〉を叩きつけた。
前のめりに崩れ落ちるクソ生意気な〈武闘家〉を視界の端に収めて、テオドールはしてやったりと笑みを浮かべた。
これで厄介な盾は排除した。あとは〈暗殺者〉を仕留めるだけだ。
先ほどまでのデミクァスとの鍔迫り合いで、テオドール自身も大きくHPを減らしている。ここで〈暗殺者〉の矛先が自分に向く前に、フアン=ブランコと合流しなければならない。
・・・・・・そんな僅かな焦りが、〈伊達男〉の判断力を微かに鈍らせていた。
相棒が、彼に向かってあげた警告の絶叫に、思考と身体が一瞬停止する。
「テオドール・・・・・・そいつは〈武闘家〉で、〈無法者〉だ!!」
言葉の意味を理解するのに、数瞬の間が必要だった。反射的に背後の〈武闘家〉の”死体”を確認しようとして、視界に飛び込んできた光景を理解するのにもう一呼吸。
〈マーカー〉の連鎖爆発で息絶えたはずの〈武闘家〉は、身体のところどころを燻らせながら、倒れる寸前で右足を、コンクリートの床が罅割れるほどに踏み出して踏み止まると、犬歯を剥き出し、凄絶な笑みを浮かべてぎろりとテオドールを睨み付けた。
ざまあみろ、クソッたれ。まんまと謀ってやった。
残りHPは一割ちょっと。満身創痍であることには間違いないのに、デミクァスは愉快で仕方がなかった。今すぐ地面に大の字に寝転がって、間抜け面で固まってる〈伊達男〉や〈聖堂騎士〉と、来賓席に座ったまま苦虫噛み潰したみたいな顔をしている(であろう)〈黒剣〉のアイザックを指差して、腹を抱えて笑い飛ばしてやりたかった。
だが、まだだ。まだ俺の仕事は終わっちゃいない。
デミクァスは、萎えそうになる膝を無理矢理建て直し、ぎりっと奥歯を強く噛み締めると、〈伊達男〉に向かって猛然と突進を開始する。
手品のタネは二つの特技。〈金剛不壊〉と〈死んだふり〉だ。
〈金剛不壊〉は〈武闘家〉の奥の手のひとつだ。一般に〈死亡保険〉と呼ばれる特技群に分類される。効果は単純、事前に起動しておけば、使用者のHPがゼロになった瞬間、少量のHPを回復し、死亡自体を”なかったこと”にするのだ。
一方の〈死んだふり〉は、デミクァスのサブ職業である〈無法者〉の固有技能である。使用すれば、相手に自分が死んだと思い込ませ、モンスター相手ならば敵愾心をすべてクリアする。〈冒険者〉が相手ならば、HPのステータス表記を0%に『見せかける』ことが可能だ。
〈ブレイクトリガー〉の連鎖爆発でHPがゼロになった瞬間、〈金剛不壊〉が発動する。死亡保険が効果を発したその瞬間に、間髪入れずに〈死んだふり〉を起動――――まんまと〈黒剣〉の二人を騙し遂せたと云う訳だ。
分がいいとはとても云えない賭けだった。
〈アリーナ〉内でHPがゼロになれば、通常即座に〈アリーナ〉ゾーンの入り口に転送される。死亡保険の処理と転送処理のどちらが先か、デミクァスに事前の知識はまるでなかった。
〈金剛不壊〉が有効で、皮一枚残して生き延びたとしても、回復するHPはほんの僅かだ。〈伊達男〉が素直に騙されてくれればよいが、ほんの少しでも疑われれば、追撃を貰ってそれで終わりだ。そうでなくとも、念には念を入れて止めを刺しに来られれば、デミクァスの〈死んだふり〉は、たちまち本物の死に変わる。
だが乗り切った。敵のとっておきの切り札を、間違いなく一枚切らせてやった。
ならば今度は、俺が仕事をする番だ。
* * *
彼の眼前に、〈伊達男〉の無防備な脇腹が晒されている。その一点目掛け、乾坤一擲、重量100キログラムを超える砲弾となって、デミクァスは〈ワイバーン・キック〉を叩き込んだ。
「がぁぁっ!」
真横から、丸太でぶん殴られたような衝撃がテオドールを襲う。たまらずよろめく〈盗剣士〉の顎に、かち上げの〈エリアル・レイブ〉。数十センチも宙に跳ね上げられ、無防備になった鳩尾に、鋭い〈震脚〉から〈虎靠撃〉のコンボを決める。
だが、まだ届かない。反応起動回復が、攻撃の度にダメージの何割かを押し戻す。手数の多さでは武器攻撃職に迫る〈武闘家〉だが、一つ一つの攻撃技の基礎ダメージにおいて〈暗殺者〉には遠く及ばない。
(どうすりゃ届くっ!!)
視界の隅に、〈幽霊犬〉が射撃をかなぐり捨てて、白兵戦でフアン=ブランコを押し留めている姿が映る。
相手は〈施療神官〉だ。機動力は凡庸で、移動特技こそ持たないが、鈍足化や移動阻害など、撃ち込んだ端からまとめて治療されてしまう筈だ。敵を分断していられる時間に猶予はない。そして、再度敵を合流させてしまえば――――デミクァスと〈幽霊犬〉に後はない。
時間にしたら、ほんの半秒。無心に拳や蹴りを撃ち込みながら、いつしかデミクァスは、あの日アキバの薄暗い裏路地で、黒い燕の娘が見せた、探し求めた宝石のちいさな欠片を想っていた。
それが欲しくて、走り続けた。
この世界に来る前も、この世界が彼の現実となったその後も。
一途に想い、希い、すべてを擲ち求め続けた。
あの日見た淡い輝きを、自分の手のひらに握り締めたいと、ただそれだけが望みだった。
だから、手を伸ばす。答えはそこにある。求めて得られず、足掻いて届かず、それでもなお研ぎ澄まし、穿ち続けたその先に。
「ッだらァァッ!!」
〈伊達男〉が獣の声で咆哮する。
大振りの〈デュアル・フィスト〉を無敵時間でやり過ごし、跳ね上がったテオドールの〈ラウンド・ウィンドミル〉がデミクァスの胸板をざっくり切り裂く。跳ね飛ばされ、よろめくデミクァスに向かって、血走った双眸に必死の形相を浮かべたまま、ぴたり、とサーベルを構えたテオドールの姿が、一瞬ぶれて残像を残した。恐ろしい速度でデミクァスの懐に踏み込むその動きは、〈盗剣士〉の切り札のもう一枚、広範囲に対する超高速の多重斬撃。
「〈エンド・オブ・アクト〉ぉぁあッ!!」
〈ラウンド・ウィンドミル〉をまともに喰らったデミクァスのHPは残り5%もない。そして如何に回避に優れる〈武闘家〉でも、多重斬撃すべてを躱すことは不可能だ――――ほとんど三つ、同時にしか見えない速度で放たれた斬撃が、デミクァスの胴を薙ごうとしたその刹那、デミクァスの全身を、流れる澄んだ水のエフェクトが優しく包んだ。
幻想級の魔法で鍛えられたはずのテオドールのサーベルが、一見無防備に低い姿勢で前に踏み出したデミクァスの身体を、流れる水に切り込んだかのようにすり抜ける。
否――――デミクァスは、テオドールの多重斬撃を、すり抜けたようにしか見えない程の、最小限かつ空恐ろしいほどの精度の体捌きで悉く躱したのだ。
「〈不朽の波濤〉だ、クソ野郎。勝ちを焦ったな――――いくぜ」
〈守護戦士〉の〈キャッスル・オブ・ストーン〉に相当する〈武闘家〉の回避奥義が、〈伊達男〉の二枚目の切り札を紙一重で無効化した。
同時に、攻撃回避をトリガーに、カウンターの〈無影脚〉が自動発動する。影すら見えない神速の足尖蹴りが、驚愕に目を見開いたままのテオドールの水月にハードヒットし、一瞬その動きを止めた。
反応起動回復のトリガーがどれ程残っているかはわからない。だが、もしまだ残っているならば、連撃では〈伊達男〉を倒しきれまい。倒し切る前に、フアン=ブランコの回復が届く。
必要なのは、通常連撃で積み重ねる筈のダメージを、ただの一度の打撃に込める、そんな方法だ。
それは、あの日見た宝石の欠片の中に、きっとある。
クリアになった意識の中、蹴りを打ち込んだ鳩尾を中心に、まるでスローモーションのようにゆっくりと、〈伊達男〉の身体が曲がってゆく。
研ぎ澄まされた感覚が、デミクァスの認識を数十倍に加速して、まるで自分以外のすべての時間の流れが停滞したような、そんな錯覚を感じながら――――打ち込んだ右脚を引き戻すと同時、身体が自然に、右の正拳を中段に構えさせた。
彼が小学生のころから、何万回、何十万回繰り返してきたか分からないその構え。
騎馬立ちの姿勢から更に腰を落とし、拳を腰の後ろに引いたその様は、恰も伏せる虎の如しだ。
答えは未だに見つからない。だが、見つかるとすればそれは世界できっと唯一つ。それは百万、千万、脇目も振らずに積み重ねてきた拳の中に。
ならば、こいつだ。結局俺にはこいつだけで、最後に帰ってくるのはここだ。
それをするしか能が無いなら、構うものか、それならそれで、もししくじったらその時は、こいつを抱いて死んでやる。
ただ愚直に、ただ無心に、とっておきの一番上等な拳骨を、〈伊達男〉の身体のど真ん中に叩き込む――――デミクァスは、一途にそう思い定めた右正拳を、初めて師範に突きを習った時のことをほんの少しだけ思い出しながら、正確にテオドールの正中線、そのど真ん中目掛け、己のすべてを丸ごと込めて打ち込んだ。
テオドールの鳩尾に打ち込まれるその瞬間、デミクァスの右の正拳は、全てを穿つ黄金のオーラと、小さな龍のような幾筋もの紫電とを、ともに纏っているように見えた。
どんっ。
分厚い壁を隔てた向こう側の落雷の様な、鈍く籠った衝撃音。
〈伊達男〉の口許に、にいっと凄まじい微笑が浮かぶ。テオドールは、打ち込んだ姿勢のまま微動だにせぬデミクァスの脳天目掛けてゆっくりサーベルを振り上げて――――
「かっ・・・・・・ごぼっ・・・・・・」
激しく吐血し、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
デミクァスの動きが再び加速する。
テオドールの吐血を浴びて、頭からバケツ一杯の血を浴びたような有様のまま、右の拳を相手の鳩尾から引き抜いた。ぐぼっ、と粘っこい音を立てて引き抜かれた血塗れの右拳は、ぶすぶすと燻り煙を上げている。
支えを失くし、顔面から突っ伏す様に崩れ落ちる〈盗剣士〉。
「シッイィィィィィッッッ!!」
デミクァスは、素早く足を踏みかえると、食い縛った歯の間から鋭く呼気を漏らしながら、地面に落ちてゆく〈盗剣士〉の頭上に装甲鉄靴を履いた右脚を高々と振り上げた。その後頭部目掛けて鉈の様に振り下ろされる右の踵に、再び黄金色の輝きが灯る。
何が起こったのかわからない。
テオドールの身体に打ち込まれたのは、たった一撃の右正拳だけだった筈だ。
一体どういう理屈なのか、身体のほうは、すべての神経が切断されたかのように動かない。純粋に疑問に支配された頭の中で、辛うじて確認できた自分のステータス・バーの、ほとんど数%しか残っていないHP表示が、真っ赤になって点滅している。
(ヤッ・・・・・・ベっ・・・・・・こいつは・・・・・・っ)
痺れて声も出せない咽喉から声にならぬ声を絞り出しながら、後頭部にものすごい速度で迫るデミクァスの踵を感じ、テオドールはなす術なく崩れ落ちつつ、数瞬後に襲ってくるであろう衝撃の予感に身を固くした。
* * *
フアン=ブランコの眼前で、〈武闘家〉が〈死んだふり〉を解除して、相棒の脇腹に強烈な〈ワイバーン・キック〉を直撃させた。
相棒を援護しなければならない。
防御特技や回復特技を含めた戦士職の高い耐久力は、ギリギリの戦いになればなるほど強みを発揮する。
一方の〈盗剣士〉は、武器攻撃職の中では防御能力は高いほうだが、それでも根本の耐久力が段違いだ。反応起動回復のトリガーが切れれば、落ちるときはあっさり落ちる。
射撃を棄ててかかったらしく、身体を張って移動妨害にかかる女〈暗殺者〉が放つ〈アトルフィブレイク〉を、鈍足化プロックごと治療してテオドールのもとに走り寄ろうと足を踏み出す。
その踏み出した膝の裏に、掻き切る様な〈ハムストラング〉。つんのめるように止まる脚に再び治療を施すと、煩わしげに長剣を一振りする。
だが、魔法の長剣は女〈暗殺者〉にかすりもしない。避けられたのではない。〈ハムストラング〉を打ち込むと同時、フアン=ブランコが長剣を薙ぎ払う前に、女〈暗殺者〉はフアン=ブランコの攻撃範囲から既に離脱していたのだ。
次いで打ち込まれる〈ヘヴィ・ショット〉。ノックバックで数歩後退を余儀なくされる。よろめくフアン=ブランコの左右の腿に次々突き立つ〈ラピッドショット〉。〈ヒーリングライト〉で傷を癒すと同時――――空いた間合いを埋めるように〈アクセル・ファング〉で再度密着される。
少し顔を前に出せば、接吻すらできそうなくらいに間合いが詰まる。女〈暗殺者〉の、フードの奥の陰に沈んだ双眸が、射抜くような光をフアン=ブランコに向けている。濡れたように紅くて奇妙になまめかしい唇が、僅かに歪んで微笑を形作るのを、瞬間、〈聖堂騎士〉はどきりとしながら凝視した。
「――――〈庭園〉を解いたな」
無表情で抑揚の無い風を装いながら、その実抑えきれない戦さの歓喜と愉悦が漏れ出でるようなその囁きに、恐ろしく場違いなまでの艶を感じて、フアン=ブランコの動悸が高まった。
「・・・・・・なんだと?」
「そうだよな。〈庭園〉を解かなきゃキュアもできない。当然の選択だ」
長剣を振り上げる自分の腕の速度が、もどかしくなるほど遅い。のろのろと剣を振りかざす自分を嘲笑うかのように、囁きながら女〈暗殺者〉は彼の足元に礫を打ち込む。〈シャドウバインド〉の短時間麻痺で動きの止まる彼の脇をすり抜けながら〈ハイドウォーク〉。視界から消えた女〈暗殺者〉は、すぐ傍にいる筈なのに気配すら感じられない。
「だがもう遅い。これで終わりだ。王手詰みだ。あの〈伊達男〉によろしくな」
背後から、胸甲の継ぎ目をすり抜けて、脾腹の急所に〈デスストライク〉。スタンの解けたフアン=ブランコが、振り向きざまに長剣を振るうが、〈幽霊犬〉は既に数歩下がって射程外だ。
ぞくり。
再び背骨を駆け上がる悪寒。訳も分からぬまま、咄嗟にとっておきの筈の〈秘蹟の璽〉を解放する。スタンもスネアも、詠唱妨害すら無効化する光の加護を、だが〈幽霊犬〉は一顧だにしない。
もう移動妨害は必要ない。斃し切れる。
女〈暗殺者〉の瞳がそう云っている。
そしてそれを裏付けるように、レイドボスの攻撃からすら仲間を守る筈の彼のヒールワークが、追い付かない。届かない。
反応起動回復、即時回復、小回復に集団回復まで回しても、必ず相手のDPSが一撃分、自分の予測を上回る。
〈幽霊犬〉は、終始右手に長剣、左手に長弓を把持したままだ。通常は、遠隔攻撃を行うためには飛び道具を装備して間合いを取らねばならないし、接近戦をするには白兵武器に持ち替えて間合いを詰めねば攻撃できない。射撃攻撃技と近接攻撃技を並行して運用するのは不可能な筈だ。
だが、〈幽霊犬〉は、この女〈暗殺者〉は、こまめな移動を繰り返し、精密に間合いを調節し、射撃の間合いと白兵戦の間合いをめまぐるしく出入りしつつ、射撃特技と近接特技を切れ目なく繋いで攻撃を仕掛けてくる。
間合いを離すと同時、右手の長剣を手から離して射撃を行う。だが、柄に結ばれた革紐で、長剣は手首にぶら下がったままだ。そして射撃終了と同時、こんどは間合いを素早く詰めつつ、手首の捻りひとつで長剣を跳ね上げて掌に戻し、フアン=ブランコに強烈な斬撃を喰らわせる。
ただでさえ基礎ダメージの高い〈暗殺者〉の攻撃特技を、遠近織り交ぜ、通常に倍する回転速度で使用する。いまや、眼前の女〈暗殺者〉は回転する鋼の嵐、死の渦だ――――凡百の回復職には及びもつかぬ筈のヒールワークのその上から、まるでコンボ職のような特技の連撃が、容赦なくフアン=ブランコのHPを削り取ってゆく。
再び鎧の継ぎ目に矢が突き立つ。盾を掲げて矢を防ごうとした途端、〈暗殺者〉が盾で出来た死角に〈トリックステップ〉で滑り込む。同時に発動した〈ロードミラージュ〉が〈暗殺者〉の姿を大気に霧散させた。敵を見失い、焦燥に駆られながら盾で周囲を薙ぎ払うが、盾を振り回すためにガラ空きになった左の脇の下に〈フェイタルアンブッシュ〉の痛撃を打ち込まれる。〈暗殺者〉はそのまま、左脇を時計回りに〈ガストステップ〉ですり抜けて、背後に回って間合いを離すと、一瞬も止まらずに〈ハイドウォーク〉で死角に移動し〈ステルスショット〉を叩き込む。
翻弄される。止められない。
間合いを完全に掌握されている。〈暗殺者〉はこちらの詠唱に合わせて接近し、一撃し、詠唱が終わって攻撃の準備が出来るころにはこちらの射程外から遠隔攻撃を次々と放り込んでくる。
移動力は相手が遥かに上だ。捉えきれない。
「おのれぇぇぇっっ!!」
〈天使の囁き〉を解放する。天から無数に降り注ぐ輝く羽根がフアン=ブランコのHPを回復し、同時に〈幽霊犬〉のHPを大きく減らした。これでもうこの手は使えない。
だが、今ので流石の〈暗殺者〉も、範囲攻撃は躱せないことを再確認する。〈ジャッジメント・レイ〉を〈暗殺者〉の周辺に重ねれば、残りMPの八割と引き換えに、〈暗殺者〉を倒し切れる――――そう判断して〈ジャッジメント・レイ〉の詠唱に入りかけたフアン=ブランコの咽喉に突き立ったのは、〈幽霊犬〉の渾身の一矢。弓による強烈な〈致命の一撃〉だった。
(これは・・・・・・まずい、これはまずいっ!)
HPバーが一気にゼロ近くまで押し戻される。フアン=ブランコは、反射的に〈ジャッジメント・レイ〉の詠唱を中断し、〈オーロラヒール〉の詠唱に切り替えた。
ここで自分が斃れれば、無防備になった相棒も、遅かれ早かれ斃される。
それはさせない。それだけは、矜持にかけて許さない。
彼の反応は責められまい。だが、切り札を切った〈幽霊犬〉にとっては、攻撃を回復に切り替えた、彼の必死の心情までもが予測のうちだった。
攻撃を――――与ダメージを以て防御に代える。そして倒される前に、倒し切る。まさに武器攻撃職の基本思想に忠実だ。
唐突な詠唱中断、再詠唱が、フアン=ブランコを無防備にした。
〈幽霊犬〉が〈ガスト・ステップ〉で正面から、〈聖堂騎士〉の懐に滑り込む。
〈施療神官〉と〈暗殺者〉、二人の視線が、至近距離で交錯する。
「それじゃあ、さよなら。ご機嫌よう」
身震いするほど艶っぽい、夢見る様な仄かな微笑に、フアン=ブランコが目を奪われた、その刹那。
〈聖堂騎士〉の内懐で、身体を捻って一回転。逆手に握った〈大地の声〉に全体重プラス遠心力を乗せて――――充分にタメを作った〈フェイタルアンブッシュ〉が、〈オーロラヒール〉の詠唱が完了する直前に、フアン=ブランコの咽喉に突き立った。
「き・・・・・・さま・・・・・・っ」
紫電を走らせる魔法の長剣の切先が、一気に気管と延髄を両断し、首の後ろに貫通する。
咽喉に喰い込む熱い鋼の感触に、なぜか一瞬、愛撫する唇を連想しながら、〈聖堂騎士〉は渦巻く輝きの奔流に包まれて、光の粒子となって消えたのだった。
本作は全六回、次回で終了となります。残り一回、お付き合いいただける方はどうぞよろしくお願いします。