餓えしものどもに捧ぐる賛歌(Ⅳ)
本作中の登場人物について、オリジナルではない既存の登場人物については、内面・外面とも著者の独自の解釈が多分に含まれています。また、作品内世界設定についても同様です。
本作には、「ログ・ホライズン」本編のネタバレに関する内容が断片的に含まれています。ご了承ください。
4.
〈アリーナ〉とは、プレイヤー間戦闘専用のゾーンである。
この云い方は、或る意味では正しくもあるし、或る意味では間違ってもいる。
より正しく表現するなら、『間違ってはいないが、正確ではない』と云うべきであろうか。
そもそも、〈エルダー・テイル〉において、”PvPが不可能なゾーン”は存在しない。一般的なフィールドゾーンでも、或いはグループ向けのダンジョンでも、フルレイド24人の入場制限がある大規模戦闘ゾーンでも、特定のプレイヤーに私有されPvP不可設定が掛けられていなければ、他のプレイヤーに対してシステム上何らペナルティなしに戦闘を仕掛けることができる。
唯一の例外は衛士システムにより保護されている都市ゾーンだが、それとて、あくまでも『他のプレイヤーに戦闘を仕掛けた場合、強大な戦闘力を持つNPCの衛士に捕捉される』に過ぎない。つまり、他のプレイヤーに対して戦闘を仕掛けること自体は可能だし、何らかの要因により衛士の到着が遅れる、または衛士が現れない場合は、そのまま戦闘を継続することも可能なのだ。
だから、結論としては、〈エルダー・テイル〉の世界は、地表にも地下にも”PvPが不可能なゾーン”は存在しない。
では、〈アリーナ〉ゾーンが『PvP専用ゾーン』と呼ばれる所以は何処に在るのかと云えば、その理由はただ一点に集約される。それは、プレイヤー間戦闘の結果死亡した際のペナルティが、ほぼゼロに近いという点だ。
まず第一に、〈アリーナ〉ゾーン内におけるPvP戦闘で死亡した場合、通常死亡時に引き起こされる”経験値の喪失””装備の破損””手持ちアイテムの喪失”は一切起こらない。また、通常の死亡から復活した際、プレイヤーに課される〈死亡負荷〉と呼ばれる数分間に渡る能力値の大幅な低下も、PvPによる死亡からの復活時には課されることがない。つまり、死による能力的及び財産的なペナルティが全く存在しない。
そして第二に、〈アリーナ〉ゾーン内において死亡した場合、キャラクターはホームタウンの〈大神殿〉ではなく、当該〈アリーナ〉ゾーンの入り口に転送される。これは、大規模戦闘ゾーン等によく見られる独自の復活システムだが、これが〈アリーナ〉ゾーンにも適用される。即ち、死による距離的・時間的ペナルティさえも、〈アリーナ〉ゾーンには存在しない。
そして第三に、すべての〈アリーナ〉ゾーンには、モンスターも攻撃的NPCも存在しない。要するに、PvP戦闘以外では死亡する要因がない。
従って、より正確に言い表わすならば、〈アリーナ〉とは、『〈エルダー・テイル〉内でもっとも、PvPのために便宜を図られたゾーンである』と云う事になるだろう。
〈アリーナ〉の歴史は古い。
実装されたのは、〈エルダー・テイル〉の二番目の拡張導入時。現実世界の時間でおよそ16年前、ススキノの街の実装よりも早かったわけだ。
世界初の〈アリーナ〉は、西欧サーバーのセブンヒル郊外に作られた。PvPと云えばPKか、PKを殺すPKKぐらいのイメージしかなく、PvPerに対しては総じて「仮想世界で殺人を楽しむいかれた連中」という見方が主流で、純粋な競技としてのPvPを楽しむ層と云うのは限られた一部のゲーマーしかいなかった時代に、「PvP専用のゾーン」として実装された〈万神のコロッセウム〉は、当初特別にピックアップもされずひっそりとオープンした、よくある過疎ゾーンのひとつでしかなかった。
拡張導入直前の〈デザイナーズ・レター〉の〈アリーナ〉実装に触れた部分について抜粋する。
”〈エルダー・テイル〉のオープンβが開始して以来、PvPは常に不幸な環境の下にあり続けた。”
”私を含めたアタルヴァ社のスタッフたちは、如何なる楽しみ方も、プレイヤー自身が求め、プレイヤー自身の責任において行われる限り、これを全力で支援し続けてきた。――――だが、我々はこれ以上、『プレイヤー間戦闘』が内包する可能性が、ありきたりなモラル低下のヴェールにより覆い隠され、多くの善良なプレイヤーから、彼らがそれを喪うという自覚も無しに喪われつつあるという現状には我慢ならない。従って我々は、この憂うべき現状を打破するために、可能な限り誰の喜びも(そう、所謂PKと呼ばれるプレイヤーたちの喜びさえも!)奪わない形での努力を行うことを決意した。”
”〈万神のコロッセウム〉は、この目的を果たすにあたっての私たちの試みの最初のひとつである。これはささやかにしてほんの僅かな一歩かもしれない。だが我々は、この一歩が最初の一歩ではあっても、決して最後の一歩とはならないことを知っている。願わくば、皆様のゲームライフが、我々の試みによって更に幸多いものになりますように。”
〈万神のコロッセウム〉導入の二か月後、北米サーバーと日本サーバーに、それぞれ〈MSGアリーナ〉と〈スイドウバシ・アリーナ〉がオープンした。以来、数度の拡張におけるPvP専用コンテンツの導入や、PvPそのもののバランス調整などを経て、PvPは〈エルダー・テイル〉の全てのプレイヤーの間に、市民権を確立したのである。
そして、〈アリーナ〉ゾーンは、全ての善良なプレイヤーたちにとっての、PvPの象徴となった。現在、PvP専門のギルドは、日本サーバーに限っても10や20ではきかない数が存在するし、各地の〈アリーナ〉では毎年定期的にPvP大会が行われている。また、北米サーバーはビッグアップル郊外にある〈MSGアリーナ〉が、世界最大のPvPギルド〈ワールド・ウォー・エクストリーム〉のホームとなっているのは、PvPerのみならず多くのプレイヤーに知られた事実だ。
PvPを人口に膾炙させるために、アタルヴァ社のスタッフたちが行った地道な努力は、彼らの望み通りのかたちで報われたのだった。
さて、アタルヴァ社スタッフの偉大なる努力の象徴のひとつである〈スイドウバシ・アリーナ〉は、現実世界で云えばその位置は東京ドームに相当する。建築総面積は約11,600平方メートル。〈ハーフガイア・プロジェクト〉に沿ってほぼ正確に東京ドームを二分の一サイズに再現した巨大建築物だ。観客席部分の収容人数はおよそ1万2000人。〈大地人〉による飲食店や消耗品売り場の他、マーケットの窓口も設けられた世界でも有数の規模を誇る〈アリーナ〉であるが、往時は〈ビッグエッグ〉の名を冠したドーム部分は既に朽ち、人工芝もほとんど残っておらず、コンクリートの基部を陽光と風雨に晒している。
〈アリーナ〉ゾーンの仕様上の特性は、〈大災害〉後数か月の調査の結果、ほぼゲーム時代と変わりなく稼働していることがPvP専門ギルドの有志によって確認されていた。唯一ゲーム時代の仕様と異なっている可能性があるのは”死”の扱いである。
前述のとおり、ゲーム時代、〈アリーナ〉ゾーンにおける死は、そのことによるペナルティがほとんど存在しない”死”であった。ゲームシステム上は間違いなく死亡扱いであり、サーバーデータ上の死亡回数にもカウントされるが、死亡によって通常引き起こされる不利益は存在しなかった。
だが、〈大災害〉を経て、挑戦的な〈冒険者〉たちが発見したのは、〈アリーナ〉ゾーンにおける”死”が、厳密な意味での”死”とは呼べないという事実であった。
死亡には、必ず何らかのリスク、ペナルティが伴う。〈アリーナ〉ゾーン内での死亡には、ペナルティが無い。よって、〈アリーナ〉ゾーン内での死亡は、厳密には”死”ではない。
その証拠に、聞き取り調査の結果、〈アリーナ〉ゾーン内で”死亡”した〈冒険者〉の中で、通常の死亡時に程度の差はあれ誰もが訪れ苛まれる、心象風景を後悔で味付けしたようなあの”夢”を見た者は、一人もいないことが分かったのだ。どの〈冒険者〉も、とどめの一撃を喰らったと思った次の瞬間には、無傷で〈アリーナ〉の入り口に佇む自分自身を発見する。
結局、〈アリーナ〉ゾーンにおける”死”について〈円卓会議〉が調査の結果下した結論は、『〈アリーナ〉ゾーンでHPがゼロ以下の状態になった〈冒険者〉は、死亡処理が行われる直前に、すべてのHP・MPが回復した状態で、当該〈アリーナ〉の入り口に転送されるという処理が行われる』というものだった。
要するに、ゲーム時代、「ペナルティが無い”死”」であった〈アリーナ〉ゾーン内での死亡は、〈大災害〉後においては、「ペナルティが無い」と云う部分に引きずられ、「一見死亡に見えるだけの別の処理」が行われるようになったのではないか。〈円卓会議〉はそう理屈付けたうえで、『〈アリーナ〉ゾーンにおけるPvPについては、”差し当たり”死亡のリスクが存在しない』と云う声明を発表した。
”差し当たり”の部分については、”絶対安全”と言い切ることのできない〈円卓会議〉の弱気とも云える部分の顕われであったろう。
ただ、最終的な結論を出すにあたって意見を求められた円卓11ギルドのひとつ、〈記録の地平線〉のギルドマスター、〈腹黒眼鏡〉のシロエは、この世界に来て得た知識と経験則から、死亡時に見せられるあの”夢”が、この世界の生と死の根源を司る〈魂魄理論〉の秘密と密接に絡み合っているという持論を持っていたので、慎重論を唱えながらも頭の中では
(例の”夢”が無い以上はまあ――――おおむね100パーセント、大丈夫だろうな)
などと考えていた。
かくしてPvPに関する最大の障害は”差し当たり”解決し、晴れて〈大災害〉後最初の〈雪季祭〉最終日に、〈大災害〉後のヤマトサーバーで最初の(そして恐らく世界で最初の)大規模なPvP大会が、ここ〈スイドウバシ・アリーナ〉で開催される運びとなったのである。
* * *
「あー、いたあ! デミデミだぁ!」
コンクリ生打ちの壁に元気いっぱいのアルトがキンキンと響いて、パイプ椅子に座って〈ワイバーン・レガース〉のベルトの締め付けを調節していたデミクァスは、うんざりした様に顔を顰めた。
今、デミクァスがいるのは、〈スイドウバシ・アリーナ〉の1階、一塁側のベンチ裏にある第一選手控室だ。〈召喚術師〉が呼び出した光の精霊の明かりの下、大会参加者たちが思い思いに消耗品の確認や準備運動をしている。
二人組での参加が条件だけあって、同じギルドタグを付けた息の合う相方同士で参加している者がほとんどだ。その中で、たった一人他人を寄せ付けないオーラを発散させながら、黙々と装備の点検をしているデミクァスの姿は嫌でも目立つ。ましてや、〈ブリガンティア〉のデミクァスと云う名前は、〈大災害〉直後のススキノの事情を少しでも聞きかじっている者からすれば、控えめに云っても諸手を挙げて歓迎できるような名前ではない。周囲の空気は良く云っても消極的敵対、中には隠す様子もなく公然と、敵意を込めた視線を送り続けてくる者もいるのだ。
敵意悪意は致し方ないとしても、こちらから無駄に目立つこともない、そう考えていた矢先に出鼻を挫かれて、短気なデミクァスの眉間にたちどころに雷雲が立ち込める。
「うるせえぞクソてとら、てめえの声は脳天に響くんだよ!」
「えへへ、ごめんにょっ!」
まるで反省の色が無いてとらの脳天気な謝罪に更に怒声を重ねようとして振り向いたデミクァスは、自分の咽喉が何か妙な音を立てて呼吸不全を起こしかけるのを自覚した。
「・・・・・・おいクソてとら」
「うい?」
「なんだそのフザけたナリは」
「似合います? そりゃ似合うよね当然っ」
「いや、そういう事聞いてんじゃねえから」
てとらの後ろをとぼとぼと歩いてきた〈幽霊犬〉が、深酒で二日酔いしたみたいなげんなりした表情を浮かべているのが見える。今の自分はきっとあいつと同じ表情をしているに違いない。そう確信しながらデミクァスは、てとらの恰好を頭のてっぺんから爪先まで、うんざりしながら見直した。
今日のてとらの服装は、どこで仕入れたか知らないが、一目見て高級と分かる黒いタキシードに黒い革靴。白いブラウスの襟元には、人を小馬鹿にしたような黒い蝶ネクタイ。ここまではいい(いや、よくはないが)。
問題は首から上だ。何故か白く染めた髪をワックスで全部上に逆立てた髪型は、てとらの身長を普段の1割増しにしている。そしてやたらデカくて顔に合ってない色付き眼鏡。極めつけは、これ以上無いくらいにしてやったり感溢れるドヤ顔だ。
「・・・・・・ドン・キング?」
「ち、違うよ!? 今日のボクは謎の敏腕プロモーター、ドン・カイザーだよ!」
「なんでもいいよもう。俺は今、お前のブッキングに乗ったことを心底後悔している」
「もう、デミデミったら。なんにも出ないぞう?」
「褒めてねえっ!」
「あーもういいから」
心底疲れた表情で二人の間に割って入った〈幽霊犬〉は、意外に思いながら苛ついて舌打ちをするデミクァスを横目で盗み見た。まさかデミクァスが、てとらとこういう掛け合いをできる男だとは思っていなかったのだ。
とは云え、これはてとらの呼吸と距離の測り方も見事と云うべきなのかもしれない。デミクァスは、例えば直継あたりと較べれば遥かに短気だし、口より先に手が出る類の人間であるわけで、さすがにてとらも過剰な身体接触はしないしセクハラ発言もない。もしかしててとらの奴、とびきりひねくれた猫か何かを飼っていた経験でもあるんじゃなかろうか、などとなんとなく考える。デミクァスはとても家猫とは云えないが、
(デカい虎っぽくはあるよな、こいつ。)
してみれば、差し詰めてとらは猛獣遣いか。それも猛獣を鞭で操るような荒っぽい奴じゃない。猛獣に、自分を敵と認識させないで、自ずと云う事を聞かせる巧妙な調教師だ。
「兎も角だ・・・・・」
妙な感心しながら見守る〈幽霊犬〉の前で、虎は気に入らない様子でぺっ、と唾を吐き捨てると、猛獣遣いの薄い胸板に、花崗岩の塊から削り出したような巨大な左拳をとん、と軽く一触れさせた。
「来たぞ、ここまで。これで文句はねえな」
まるっきり宣戦布告の様な調子でそう告げるデミクァスに、突かれた胸に手を当てながら、てとらはにっこりお日様みたいな笑みを返した。
「うん。全然。そもそも事の始まりから終わりまで、徹頭徹尾、ボクはデミデミに文句なんかないですよ」
色付き眼鏡を外した瞳は、実際口元に浮かべた表情以上に、ずっと穏やかに笑っていて――――傍で見ている〈幽霊犬〉は、一瞬てとらがいい奴なのかと錯覚しそうになる。
「たとえデミデミが、アキバに来てくれなかったとしたって、ボクは全然、文句なんか云う気はなかったよ。きっと、ものすごく困ったと思うけど」
デミクァスは、乗せたてとらよりも、乗せられた自分自身が忌々しくて舌打ちをした。まさしくこいつは”人たらし”と云うべきだ。笑って他人を死地に駆り立てやがる。あの〈奈落の参道〉でもそうだった。〈シルバーソード〉の猛者たちが、自称アイドルのこのチビ施療神官の一声で、ゾンビの様に起き上がってはレイドボスに突撃していくのをデミクァスは何度も目撃したのだ。小さくて可愛らしい、ドヤ顔をした死神だ。
半ば八つ当たり気味にそう考える。それでも――――ドヤ顔だろうが死神だろうが、結局のところ乗せられた俺の負けってことだ。
「クソッたれが。お前がシロエんとこにどうやって潜り込んだのか、理解できたような気がするぜ」
「日頃の行いって大事ですよね? じゃあまた、入場の時に!」
そんな台詞と、にひひ、という少々下品な笑い声を置きみやげにして、てとらは控室から出て行った。ひらひらと振られる白くて小さな右の手のひらだけが、デミクァスの網膜に鮮やかな残像を残す。いったい涼風なのか嵐なのか、捕まえる隙も無く吹き過ぎてゆくにしても、せめてどちらなのかはっきりしろ、と悪態を吐きたい気分に駆られて、デミクァスはもう一度、床に唾を吐き捨てた。
〈幽霊犬〉は、しばし圧倒されたようにてとらを見送っていたが、デミクァスがパイプ椅子に座り直し、再び装甲鉄靴のベルトを調整し始めたのに気付き、自分を落ち着かせるように溜め息をひとつ吐いて、立ったままデミクァスの背中を見下ろした。
「昨日はよく眠れたか?」
「ああ、そうだな」
間を保たせるために取り敢えず放った質問だったが、幸いなことにデミクァスは意図を察してくれたようだった。間を置かず直ぐに帰ってきた答えは、寧ろ〈幽霊犬〉が何か云うのをデミクァスが待っていたかのようなタイミングだった。
「実を云うとな。昨日の夜、眠れなくてずっと考えていた」
「・・・・・・へえ。何をだ?」
デミクァスの答えが意外な方向に向かったので、〈幽霊犬〉は、手近にあったパイプ椅子を引き寄せると自分もそれに腰を下ろした。外套のフードを引き上げて、背もたれを軋ませながら背中を預ける。〈大災害〉から八か月、この世界における冶金技術は目覚ましい進歩を遂げ、工業の発展に大いに寄与している。日常的なレベルで云えば、金属製の家具類はほぼ現実世界と同様の製品が作成されており、パイプ椅子やスチールラックなどの小型・中型家具類は、ほぼ違和感なく使用できる高品質のものが安価に入手できるのだ。〈幽霊犬〉がもたれているそれも、女性としては決して軽くない部類に入る彼女の体重を、些かの不安もなく支えてくれる。その堅牢さは、彼女の倍近いであろうデミクァスの体重を受けても変わらない。
デミクァスは、顔を上げずに革ベルトの締め付けの調整を続けながら言葉を紡ぐ。
「勝ち負けの外にいる奴らと、勝負をする方法だ。〈大地人〉や、あのクソチビや、お前みたいな」
「勝ち負けの、外?」
片眉をぴくんと跳ね上げながら先を促す〈幽霊犬〉に、デミクァスはベルトを締める手を止めると、相変わらず顔は下に向けたまま、視線だけを上げて〈幽霊犬〉を睨み付けた。
「――――俺はよ、つまるところ、どこまで行っても勝つか負けるかでしかものを云えねえ人間だ。俺たちは、日がな一日酒場で管を巻きながら、あいつより俺のほうが強えだとか、この中で一番強え奴は誰だとか、そんな話ばっかりしてるのさ。挙げ句、結論が出ねえって事になりゃ、行き着くところは、こいつだ」
云いながら、デミクァスは〈幽霊犬〉の鼻先に、金属製の籠手を装着した巨大な右の拳を突きつける。デミクァスが装着しているのは、打撃用に拳頭の部分に金属スパイクが取り付けられているうえ、組打ち用の指先部分が露出したタイプの製作級の籠手だ。〈強欲の籠手〉と銘の付けられたこの籠手は、〈魂喰らい〉の魔力が込められており、敵手に与えたダメージの幾許かを装着者のHPに還元するのだ。まるで俺の様な人間を象徴するようなアイテムだ、とデミクァスは自嘲気味に考える。
「上と下、勝ちと負け、手に入れるか失うか、俺たちは、そう云う次元でしか手前を量れねえ。だから、お前たちみたいな、上か下かだとか、勝った負けただとか、取った取られただとか、そんなことの”外”にいる奴らには、どう逆立ちしたって勝てっこねえ。どんなに叩きのめしても、踏みつけても、奪っても、そんなことは歯牙にも掛けねえ連中が相手じゃ、俺たちみたいなのは、最後には両手を挙げて降参するしかねえんだよ」
「・・・・・・そうか」
「そうだ。デカい口を叩かせてもらえば、戦いに勝ちさえすりゃあいいんなら、俺は〈腹黒眼鏡〉だろうが〈ミスリル・アイズ〉だろうが、〈黒剣〉だろうが〈狂戦士〉だろうがいつかブチ倒してやる自信がある。何故なら俺は諦めが悪いし、〈冒険者〉の身体は、戦い続ける限りいつか勝つ様に出来てるからだ」
その言葉を口にすると同時、周囲で聞き耳を立てているアキバの大手ギルド所属の〈冒険者〉たちの間から、一斉に怒気の陽炎が立ち上るのを肌で感じるのは、いっそ爽快だった。そんな空気を感じているのかいないのか、軋み音を立てる背もたれに背中を預け、腕と脚を組んだ鷹揚な姿勢のまま、
「クククッ・・・・・・お前なら、本当にいつか全員ブチ倒しそうだ。その光景が目に浮かぶな」
などと笑みを含んだ答えを返す〈幽霊犬〉も相当なタマだ。
「だがな・・・・・・そんなことじゃ、シロエにもウィリアムにも、お前やあのクソチビにだって勝ったことにならねえ。同じ土俵に立ったことにすらならねえ。俺が欲しいのは、その先の答えだ」
その刹那、呟くデミクァスの瞳には、嘗て彼が囚われ続けていた獣の様な凶暴さは微塵も存在していなかった。草木一本生えず、海鳥の一羽も立ち寄らぬ、打ち上げられるのは波に洗われた白く輝く骨の欠片のみ――――此岸と彼岸の境を隔てる清涼の岸辺を目指して補陀落渡海を試みる捨身僧の如く、何処に在るか分からずとも、全てを擲ってもそれを求め、希い続けずにはおれぬ。それは、余人には窺い知れぬおそろしい苦悩を湛えた求道者の瞳だった。
その苦悩の大きさに慄きながら、しかし〈幽霊犬〉は、殊更陽気に、寧ろ神にでも挑むかのようにふふん、と鼻から息を漏らすと、挑戦的に口端を歪ませた。
”較べっこ”しか出来ないならば、それでいい。自分にできることがそれしかないならば、莫迦と云われようがなんだろうが、それを続けるしかないではないか。そう、求める『答え』を最初から知っている者など、誰もいないのだ。誰もが『答え』が何なのかすら知らぬまま、あるかどうかも分からないそれを追い求めて足掻き続けている。お前も、私もだ。
「なら、そのデカい口に絶望の追加情報だ。先刻試合の組み合わせのくじ引きをしてきた――――私たちの相手は、まさにその〈黒剣〉の二人組だ」
「・・・・・・あァ? そいつはまた、つくづく、クジ運のいいこった」
魔法の鞄から、薄いアルコールをオレンジの果汁で割ったものを入れた水筒を取り出して直接口を付けていたデミクァスが、思わず呆れるような声を出したので、〈幽霊犬〉はしてやったりとほくそ笑んだ。
「私は最初にてとらに、『私はくじ引きが苦手だ』と云っておいたんだからな。文句はあいつに云え」
ひどく楽しそうな笑顔を浮かべる〈暗殺者〉は、その笑顔を隠す様に、再びフードを目深に引き下ろした。光の精霊が投げる白い光の下、いやに明確になった陰影の中で、彼女の顔はほとんどが影に沈み、射抜くようにデミクァスを見据える双眸と、微笑が貼り付いたままの口元だけが濃い影のなか、浮かび上がって見える。
「試合まで寝る。起こさなくていいぞ」
その言葉とともに目が閉じられ、数瞬後には、すう・・・・・・すう・・・・・・と規則正しい寝息が漏れ始めた。このささくれ立った空気の中で、そいつを気にも留めずに寝ていられるとは、
(こいつの神経、ナイロンザイルかなんかで出来てるんじゃねえのか?)
と呆れたデミクァスは、溜息を吐いて水筒を魔法の鞄に仕舞うと、黙々と装備の点検を再開した。
* * *
一組また一組と選手たちが控室を出て、その度に幾度もの歓声が〈アリーナ〉全体を揺らし、そうしてついに、控室に残るのは〈幽霊犬〉とデミクァスだけになった。
「・・・・・・んだよ、試合の順番まで最後とは、ホントにクジ運最悪じゃねえか、この女」
パイプ椅子にふんぞり返って寝息を立てている女〈暗殺者〉に悪態を吐いた丁度そのタイミングで、控室のドアが勢いよく開けられる。
「〈記録の地平線〉推薦のお二人、そろそろ出番です。入場してください」
それと同時に、眠っているとばかり思っていた、否、間違いなく今の今まで寝息を立てて眠っていた〈幽霊犬〉が、勢いよく立ち上がった。咄嗟のことに反応できず、驚いて見上げるデミクァスを無表情に見下ろして、〈幽霊犬〉は、
「ぼんやりしてるな。行くぞ」
と云い捨てると、デミクァスに何か答える暇も与えずに歩き出す。数瞬の自失から己を取り戻したデミクァスは、ぼりぼりと頭を掻くと、舌打ちをして早足で〈幽霊犬〉を追った。
リノリウムの床をデミクァスの鉄靴と〈幽霊犬〉の長靴が打ち付ける音が、歩調にかなりの差があるにもかかわらず、不思議とリズム良く響く。
〈幽霊犬〉は、魔法の鞄から弓弦を取り出すと、歩きながら器用に、美しい森の乙女を象った装飾が施された長弓に弦を掛け始めた。デミクァスは、空手をやっていたころに、他の武道にも興味があって和弓やアーチェリーについて聞きかじったことがあった。弓に弦を掛けるのは、普通は受け板などの道具を使ったり、機械を使って掛ける様な力の要る仕事だった筈だ。それを歩きながら片手間に難なくこなすのは、〈冒険者〉の剛力のなせる業なのだろう。
「・・・・・・んなこた、事前にやっとけよ」
そう文句を垂れてみると、
「莫迦。戦場じゃあるまいし、ずっと掛けっぱなしにしてたら、弦も伸びるし弓のほうも駄目になるだろ」
と一蹴される。
〈幽霊犬〉は弓弦を掛け終ると、今度は長さ30センチほどの頑丈そうな編み上げた革紐を取り出した。革紐の末端は、片方は丁度手首がくぐる程度の大きさの輪になっており、もう一方には金属製のいわゆるナス環が取り付けられている。輪になったほうに右の手首を通して抜けないように絞り上げると、もう一方についたナス環を、腰の剣帯に佩いている双剣の一方の柄に取り付けられた、これも金属製のリングに結着した。興味深そうに見守るデミクァスの視線に気づいて顔を上げると、「これで、手から離れても落ちないだろ」と相変わらず無愛想な調子で説明する。
「ああ、すまん。試合前にもうひとつだけ、云っておきたいことがあった」
遠くに歓声が聞こえ始め、〈スイドウバシ・アリーナ〉の〈闘技場〉への入り口が、白く輝く方形として視界に入ってきた辺りで、突然〈幽霊犬〉が歩きながらそんなことを口にした。
「あんだよ」
視線は前に向けたまま、声だけで訝しむデミクァスに、〈暗殺者〉は自分も視線を前に向けたまま、何の気負いもなく
「私は、リアルじゃ主婦なんだ」
と云った。
「へえ、主婦」いかにも興味無さそうに、投げ遣りな声を出しかけたデミクァスの声が突然裏返る。「・・・・・・はァあ!? 主婦だァ!?」
「悪いか? これでも素敵な旦那様に、可愛い娘が一人いる。3年前まではオフィスでバリバリやってたもんでな。この口調だけはついぞ治らなかったが」
胡乱そうに自分の身体を上から下まで眺め回すデミクァスの視線を感じて、自分が人妻だとカミングアウトしたばかりの〈幽霊犬〉は、その反応を心底楽しみながらくつくつと笑う。
「昨日お前が口にした、第一の疑問に回答する。私は、旦那と娘のところに戻るためには、どんなことでもすると誓ったんだ。・・・・・・そのためには、大規模戦闘だ。この世界の命運を握ってるのは、いつだってレイドだった。そしてきっと、今度も同じなんだろう。だから私は、何が何でもレイドの最前線に潜り込まなきゃならん。その上で、そこが〈円卓会議〉の一翼を担うような大手ギルドなら、これに過ぎたることはない」
特段結婚に幻想なんか抱いているつもりはなかったが、あんまりにも色気も糞もない調子の告白を聞かされて、デミクァスは食道に苦い胆汁が逆流してきたような気がして、思わずげんなりと胸を押さえた。
「・・・・・・おっかねえ。主婦、おっかねえ」
次第に近付いてくる歓声を聞くとはなしに聞きながら、〈幽霊犬〉は、左手に愛用の〈森の精髄の弓〉を携え、右手を一閃、鞘から片手抜きに抜き放った、紫電を纏う双剣の片割れ〈大地の声〉を逆手に握る。背中の矢筒に矢は十分。入り口から吹き込んでくる雪混じりの風を気持ち良さそうに全身で受けて、周囲の陰に溶け込みそうな暗い草色の外套をはためかせる。
デミクァスは、長髪を雪風が嬲るに任せ、感触を確かめるように鉄靴の踵を音高く鳴らし、籠手を嵌めた左右の拳を二、三度火花が散るくらいの勢いで打ち合わせながら、最後の疑問を隣を歩く〈暗殺者〉に投げかけた。
「・・・・・・それなら、改めて訊くぜ。そんな理由があるんなら、〈大災害〉のすぐ後に、〈Plant hwyaden〉でもどこでも適当なところに移籍すりゃあよかっただろうが。アキバで云や、噂に聞く〈西風〉なんかは、女ばっかりなのにガチガチのレイドギルドだっていうぜ」
胡散臭そうに尋ねる巨漢に、〈暗殺者〉は生真面目な思案顔を見せる。
「アキバのギルドなら、〈黒剣〉はダメだ。あそこは排他的すぎる。〈西風〉は・・・・・・あー、なんだ。あそこはギルドマスターがちょっとなあ。一番が旦那じゃなくなるのはその、困る」
「ケッ、ノロケやがって。結局テメエもあれか、『イケメンに限る』ってか」
「そうなるな。〈D.D.D〉や〈ホネスティ〉でもダメなわけじゃないんだが・・・・・・〈Plant hwyaden〉が選択肢に入ることだけは絶対に無い。その理由、お前ならわからないか?」
「あァン?」
問い返しながらもデミクァスは、〈強欲の籠手〉を嵌めた右拳を、左手の〈キムンカムイの神爪〉の甲に打ち付ける。魔法力場の展開とともに、〈神爪〉の拳頭の部分から、ナイフみたいに鋭い爪が四本、待ちかねたとばかりに飛び出した。
「お前がその、傾きかけた〈ブリガンティア〉の看板背負い続けてるのと、多分同じ理由だよ」
〈幽霊犬〉も答えながら、帯電した〈大地の声〉の刀身で、〈森の乙女〉の加護を受けた弓の背をしごく。緑色の柔らかい光とともに弓の魔法力場が展開して、バチバチと音を立てて稲妻と反応しあい、濃いオゾン臭を辺りに漂わせた。
「私にとって〈万色の幻像〉のギルドタグは、私を私たらしめる、一番大事な欠片のひとつであって、ただの名札じゃないんだよ。損得勘定だけでそう簡単に、掛けたり外したりはできないね」
「クソッたれの頑固野郎が・・・・・・道理でテメエにゃ勝てねえワケだ」
そうして地を揺るがす様な歓声の下、光の中に踏み出しながら、デミクァスは、〈幽霊犬〉の”本気”と”必死さ”に、改めて、自ら敗北を認めた。
しかしそれは、屈辱とも怒りとも縁のない敗北だった。
(母は強し、だ。そりゃ、こいつになら、しょうがねえ)
「そんならひとつ、〈円卓会議〉のお偉方が、ギルドタグを外さなくてもテメエを欲しがるように、お膳立てと行こうじゃねえか」
「頼んだ、相棒」
歓声とブーイングに掻き消されそうなはずなのに、その呟きと、不思議と眩しい〈幽霊犬〉の微笑だけは――――途中で空気に溶けて消えもせず、デミクァスの心に届いたのだった。
* * *
『最終戦!!』
スーパーハイテンションなMCの声が、〈風の精霊〉の魔力の流れに乗って、会場内に響き渡る。湧き上がる盛大な歓声が、それに続いて〈アリーナ〉を揺らす。
天候は快晴。昨晩降り積もった雪は、観客席部分は綺麗に除雪されてはいるものの、〈闘技場〉部分については、そのほとんどが新雪で覆われている。面積的には旧世界の東京ドームに比して約四分の一程度の広さに過ぎぬにしろ、未だ広大な面積を有する闘技場を除雪する労を費やすよりは、
”普段との環境の差を考慮することもまた、〈大災害〉後のPvPの妙味である”
と云うPvP専門家たちの判断(プラス「いい加減めんどくさい」と云う会場整備担当ギルドの泣き言)が優先された形である。ところどころ部分的には今までの試合で踏み荒らされてはいるが、新雪の感触を味わうには不自由しないだけの、現実世界の東京とは比べ物にならないくらいの積雪が視界を白く染めている。ススキノから来たデミクァスには珍しい光景でもないが、風が吹き抜ける度に舞い上がる、きめの細かい粉雪を肌に受ける〈幽霊犬〉は、猫の様に目を細めて気持ち良さそうな溜息を吐いている。
〈闘技場〉中央で先に入場を済ませ、デミクァスたちを待ち受けているのは、それぞれ黒尽くめの軍装に身を包んだ、赤い巻毛の〈盗剣士〉とエルフの〈施療神官〉の二人組だった。
どちらも、デミクァスが昨日見た顔だ。
人を食ったような飄々とした笑みを浮かべる〈盗剣士〉は、ビロード製の仕立ての良い黒の胴衣にゆったりした革のズボンを履き、その上から黒く焼きを入れた鎖帷子を身に着けている。手足にはそれぞれ黒い革の手袋と長靴。そして一番目立つのは、派手な極楽鳥の羽根飾りが付いた黒い鍔広の帽子と、左右の腰に吊るした、何れも高名なマジック・アイテムと思しき美しい装飾の施されたサーベルと短剣だ。背丈は〈幽霊犬〉よりわずかに高いくらいか。痩身ではあるが、一分の無駄なく鍛え上げられた敏捷そうな肉体が、ゆったりした衣装の上からでも見て取れた。
もう一方の〈施療神官〉は、相方とは対照的に気難しそうな険しい表情を浮かべている。頑丈そうな板金鎧を隙無く着込み、盾と長剣を身に着けた典型的な〈アーマークレリック〉だ。鎧のほうは、レイドに参加する〈施療神官〉の装備としてはメジャーな部類に入る、大規模戦闘産の素材を使った製作級の鎧だが、腰に下げた長剣は、見たところ店売りのロングソードみたいな地味な拵えだ。背丈のほうは〈盗剣士〉とほぼ変わらないが、体格は更にがっしりしている。
デミクァスと〈幽霊犬〉が〈闘技場〉中央に歩み寄り、〈黒剣〉の二人組と4メートルほどの間合いをとって対峙したところで、場内の興奮は最高潮に達した。怒号の様な歓声が四人に向かって降り注ぐ中、ところどころに混じるブーイングは、
「お前宛だな」
「わざわざ指摘していただかなくても結構だ。要らん事を云うんじゃねえよ」
並んで腕組みをし、〈黒剣〉の二人組を睨みつけながら、すまし顔で指摘する〈幽霊犬〉に苦虫噛み潰したような顔で悪態を返す。
『選手紹介ッ!!』
『ススキノの暴れ竜がアキバの街に上陸だ! 〈記録の地平線〉推薦! 〈暴君竜〉デミクァス!!』
怒涛の様に浴びせられるブーイングを受けながら、まるで花崗岩の塔の如く巍然とした佇まいのデミクァスは、腕組みをしたまま、口端に傲岸不遜な笑みを浮かべて観客席を見まわした。
「いいね・・・・・・いい空気じゃねえか。こうでなくちゃいけねえ。特にこの選手紹介の文言考えた奴、ワカってるな」
自分が格闘漫画の登場人物になった様な高揚感が、ぞくぞくとデミクァスの背骨を駆け上がる。
隣の〈幽霊犬〉は、デミクァスを変わったものを見るような目で見ながら、こんなくだらないことで無邪気に興奮するところは如何にも”オトコノコ”だ、と溜息を吐いた。
(ほんとに男ってのは、幾つになっても餓鬼だな)
『西から放たれた万色の矢が〈黒剣〉への刺客に名乗りを挙げた! 同じく〈記録の地平線〉推薦! 〈万色の天弓〉幽霊犬!!』
「なんだその恥ずかしい二つ名は・・・・・・誰が考えたんだ・・・・・・」
あんまりにも恥ずかしくて、赤面しながら下を向いてフードを目いっぱい引き下ろす〈幽霊犬〉を見たデミクァスが、不思議そうな顔をする。
「どうしたよ。カッコいいじゃねえか」
「・・・・・・趣味悪いな、お前」
『〈黒剣〉一の色男が竜退治に出陣だ! 〈黒剣騎士団〉所属! 〈伊達男〉テオドール!!』
羽根付き帽子の〈盗剣士〉が、紹介と同時に帽子を取ると、四方に向かって慇懃に礼をした。殊更深々と、慇懃を通り越して無礼に踏み込むくらいに茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべながら最敬礼したのは、〈黒剣〉のアイザックと〈腹黒眼鏡〉のシロエが並んで座っている、野球場で云えばバックネット裏に設えられた主賓席に向かってだ。アイザックが面白くもなさそうな顔で片手を上げる。
『聖ジョージの衣鉢を継ぐ聖騎士は竜退治もお手の物! 同じく〈黒剣騎士団〉所属! 〈聖堂騎士〉フアン=ブランコ!!』
エルフの騎士のほうは、〈盗剣士〉とは対照的に、アイザックとシロエに目礼しただけで、あとは腕組みをしたまま親の仇でも見る様な目でひたすらデミクァスを睨み付けている。昨日、倉庫で短い時間を過ごした間も、今と同じような視線をずっと送られていたことを、デミクァスは思い出した。ススキノに友人縁者でもいたのだろうか、と考える。
主賓席などと云う不慣れな場所に座らされたシロエは、居心地の悪さを感じながら選手紹介を聞いていたが、この試合が最終試合だと云う事もあり、ついに我慢が出来なくなって隣に座る〈黒剣〉のアイザックの脇を肘でつついた。
「なんでえ」
「いやあの・・・・・・ずっと聞こうと思ってたんですが、この選手紹介、誰がやろうって云い出したんですか」
その質問を口にした瞬間、シロエは激しく後悔した。アイザックの瞳が、『よくぞ聞いてくれました』と云わんばかりにきらりと輝いたのに気付いたからだ。
「お前もいいと思うか? K-1みてえでカッコいいだろ! な! あれ、文言も俺が考えたんだぜ! 選手全員分、寝る間も惜しんで考えたんだ! 感無量ってもんだぜ、おい!」
上機嫌のアイザックは、シロエのうんざりした視線にも気付かず彼の背中をばんばん叩く。ここ数日、何故かずっと機嫌が悪そうだと思っていたのだが、どうやら単に寝不足なだけだった様だ。なのになんだ今のこの機嫌の良さは・・・・・・苦労話をドヤ顔で、延々続けるアイザックに、シロエは藪をつついて蛇を出した己自身をひたすら呪った。
『見届人は、先の試合に引き続き、〈西風の旅団〉のギルドマスター、〈剣聖〉ソウジロウ=セタ氏が行います!』
二組の間に進み出た童顔の〈武士〉が、あるかなきかの微笑を浮かべながら四人と、次いで正面のアイザックらに会釈する。一際大きな歓声が〈アリーナ〉を揺らすが、その半分は黄色い声援だ。
「非才の身ながら、精一杯務めさせていただきます。皆さん、悔いなど残されませんよう。」
いつもの街着ではなく、上等な仕立ての藍色の紋付袴を身に着け、大小を佩いた〈西風の旅団〉のギルドマスターは、春風みたいな微笑を浮かべたまま、四人それぞれの顔を見回した。最後にデミクァスの顔に目を留めると、その微笑に、少しばかり悪戯っぽい色を含ませる。
「シロ先輩・・・・・・〈茶会〉の作戦参謀に喧嘩を売るなんて、どんな人かと思いましたけど――――なかなかどうして。健闘、期待しています。」
デミクァスはどうという応えも返さず、ただ気に入らぬ様子で〈剣聖〉を睨み付けると、唾を床に吐き捨てた。
PvPにおいて、開始時の間合いというのは重要な要素である。
通常、魔法攻撃職が持つ強力な攻撃呪文や効果の高い弱体化魔法を使用するには、長い詠唱時間を必要とする。また、遠隔武器による攻撃には最低射程が存在し、一定以上の相手との距離間隔がなければ遠隔攻撃が一切使えない。よって、これらの特技や武器を扱うクラスは、敵と一定以上の間合いを保つことが必要となる。
一方、近接攻撃特技が主力のクラスは、相手との間合いを遠くても3メートル程度に保たなければ、そもそも攻撃を当てることが出来ない。また、回復職の扱う各種の回復魔法は、ほとんどが魔法攻撃職の扱う攻撃魔法の半分程度の射程しか持たず、効果的な回復作業をするためには、出来るだけ近場に味方がいるほうが好ましい。これらのクラスは、敵との間合いを一定以上に広げてしまうと、攻撃力も支援能力も半減以下となってしまう。
フィールド上で突発的に行われるPKやPKKなら兎も角、試合形式でPvPを行う場合、これらのクラス特性を考慮したうえで開始時の間合いを設定しないと、一方的なつまらない試合になってしまう場合がままあるのだ。
開始時の間合いが広すぎると、近接職がその真価を発揮する暇もなく、〈妖術師〉や〈召喚術師〉の大魔法に蹂躙されたり、〈スナイパー〉の強力な遠隔〈アサシネイト〉で屠られたりと、一方的に虐殺される結果となってしまう。かといって、狭すぎれば、攻撃を受ける度に詠唱妨害される魔法職は、近接職相手に何もできずに終わってしまう。移動系の特技もすべての職が所持しているわけではない以上、間合いについて最低限”駆け引き”が出来る距離がどの程度か、試合を開催する側はその設定に頭を悩ませなければならないのだ。
開始時の間合いをどの程度に設定するのかは、各PvP団体の方針やそれぞれ試合の性質によってケース・バイ・ケースなのが実情であるが、〈円卓会議〉は今回、彼我の距離15メートルを開始距離として採用した。
15メートルは、魔法や弓などの遠隔攻撃については十分射程距離内であると同時に、近接攻撃特技の完全な射程距離外である。
また、ほとんどの移動特技で移動できる範囲内ではあるが、移動を伴う攻撃特技の攻撃範囲よりは僅かに広い距離だ。
魔法職からすれば、大魔法の詠唱を完了するには距離が近い。詠唱完了の前になんらかの妨害を受けてしまう。しかし、鈍足化や移動阻害、麻痺などを伴う『便利な小技』を使用するには十分な距離と云う事になる。
また、近接戦闘職からすれば、一足飛びに移動と攻撃を同時に行うことはできない。間合いを詰めたうえ攻撃を行うにはどうしても二つのアクションが必要となる。しかし逆に、移動特技で間合いを詰めたうえで近接攻撃技で詠唱妨害を狙ったり、通常移動で接近しながら防御特技で相手の大砲を凌ぐ程度の手管を講ずる余裕は十分にある。
つまり、15メートルと云う距離は、一般的な試合形式のPvPを行う際の、スタンダードな間合い設定と云う事になるわけだ。
「各組、開始線に」
〈剣聖〉の涼やかな声に促され、きっかり15メートルの間隔をあけて床に引かれた紅白の開始線に向かって歩いて行きかけたデミクァスに、大きくはないが鋭く底冷えのする声が飛んだのはこの時であった。
「おい、〈ブリガンティア〉のデミクァス」
振り返ったデミクァスに、先ほどの場所から一歩も動かぬまま、苛烈な視線を向けてくるのは、〈黒剣騎士団〉の〈施療神官〉、〈聖堂騎士〉フアン=ブランコだった。同じエルフでも、部族的な雰囲気を持つ〈幽霊犬〉のような”森エルフ”ではなく、〈シルバーソード〉のギルドマスター、ウィリアム・マサチューセッツと同じ”上のエルフ”の外見モデルの持ち主である。”上のエルフ”の外見モデルは、「指輪物語」などに描写される神の眷属としてのエルフを表現した、美しく繊細なモデリングが特徴だ。銀糸の様なシルバーブロンドや険のある目つきは、デミクァスの脳裏に狷介な〈狙撃手〉の顔を思い起こさせたが、ウィリアムの目つきが悪意のない生来のものであるのに対し、この〈聖堂騎士〉のそれは、デミクァスに対する強い敵意が原因であることが容易に読み取れる。
「云いたい事でもあんのかよ、クソエルフ」
挑発的なデミクァスの態度に、〈聖堂騎士〉の眉間の皺が深くなる。食い縛った歯の間から、搾り出す様に紡ぐ言葉に籠っているのは、デミクァスに対する圧倒的な怒りだ。
「・・・・・・先ほど控室で大口を叩いたそうだな。”戦って勝つだけなら、〈黒剣〉だろうが〈狂戦士〉だろうがブチ倒す自信がある”と。訂正するなら時間をくれてやる」
きょとんとするデミクァスの隣で、〈幽霊犬〉が「あちゃー」と呟いて右の手のひらを顔に当てた。もっとも、指の間から見える瞳にも口もとにも、悪戯っぽい笑みが揺れている。
「あー・・・・・・そういや云ったな。確かに云った。まあ、ものの喩えで」
『あったりまえだいっ!!!』
その瞬間、どこからか弾丸みたいに飛んできた黒い塊が、デミクァスの巨大な背中に駆け上がると、右の肩に足を掛けてフアン=ブランコをぴたりと指差しつつ、魔法的に増幅したキンキン響くアルトを場内にわんわんと響かせた。行き場を失くしたデミクァスの言葉は、三分の一を残して宙ぶらりんのままになる。
『〈黒剣騎士団〉だかなんだか知んないけど、デカいツラをするのも今日限りだっ!! この試合、頭からケツまでススキノの〈暴君竜〉デミクァスと〈万色の天弓〉幽霊犬が仕切るぜっ!! 手始めにまず、お前らからブッ倒してやるから覚悟しなっ!!!』
瞬時にキレかけたデミクァスが、肩に乗った仔犬みたいな狼藉者を捕まえようとするが、狼藉者――――満面の笑顔でマイクパフォーマンスを完遂した謎の敏腕プロモーター、ドン・カイザーというか要するにてとらは、器用に反対の肩に飛び乗って、胸を張って〈黒剣〉の二人組に挑戦的な視線を送った。たちまち湧き起こる大ブーイング。溜息を吐く〈幽霊犬〉。思いもよらぬマイクパフォーマンスに手を叩いて大喜びのアイザック。
「どっから湧いたクソてとらっ! いい加減降りろテメエ!」
「だからてとらじゃないですよ。ドン・カイザーですってば」
捕まえるのを諦めて、肩越しに覗き込んでくるてとらを怒鳴りつけるデミクァスを見て、怒気のままに抜剣しようとしたエルフの騎士の長剣の柄をやんわりと押さえたのは、面白くて堪らないと云う風に肩を震わせる〈伊達男〉テオドールだ。
「クックックッ・・・・・・いやはや、堂々たる悪役っぷりだねえ、旦那」
「ケッ、おきゃあがれ。云っとくが、世の中必ず正義の味方が勝つとは限らねえぜ」
「まったくもって違いない。いや、愉しみだ。本当に愉しみだ」
デミクァスの目を見て話している癖に、〈幽霊犬〉に向かって右手を差し出すところは〈伊達男〉の面目躍如と云うべきだが、鈍感力の高さではデミクァスも認める〈幽霊犬〉は、”なんだこいつ”という目で〈盗剣士〉を眺めるだけで動かない。
「ま、お互い正々堂々、気持ち良くヤろうや」肩を竦めて首を振りながら、行き場を失くした右手を挙げたテオドールは、そんな捨て台詞を残し、相方を促して開始線に戻って行った。
「ボク、嘘を云ってるつもりはないですよ?」
デミクァスの肩からぴょんと飛び降りると、顔に合わない大きさの色眼鏡をずらし、悪戯っぽい光を湛えた瞳をデミクァスに向けて、てとらは両手を広げた。ニヤけ面の癖に時折妙に真摯な光が混じるので、デミクァスはこの瞳が些か苦手だ。勢いのままに怒鳴りつけることもできず、どうにもてとらの思う様に乗せられてしまう気がする。
「少なくとも、今日この時のこの〈アリーナ〉の空間は、天も地もすべて、ボクがデミデミのために用意したとっておきの舞台ですよ。精一杯、上手に仕切ってくださいね!」
可愛い死神が、ちっちゃな鎌を指揮棒の様に振り立てて、いつもの様に眩しいくらいの笑顔を振りまきながら、デミクァスを地獄に誘った。実を云うと、デミクァスは〈シルバーソード〉の連中の気持ちが分からないでもない。てとらの掌の上で踊ってやるのは、気に入る気に入らぬは別として、それほど悪い気持ちじゃない。
何故なら結局のところ、てとらが駆り立てるその先には、望むと望まざるとにかかわらず、常に自分が本当に為すべきことが、底意地の悪い運命の女の様な笑みを浮かべて手招きをして待っているからだ。
「応よ」どうとでもなれ、乗ってやるさ。戦って、戦って、戦い抜いて、腕や脚の二、三本も失くして、血反吐を吐きながら泥の中でのたうち回って――――這いつくばってでも息絶えるまで、行けるところまで行きゃあいい。「応ともよ、クソッたれが。行け、早く行っちまえ。行って、その目で見届けろ。”細工は流々、後は仕上げを御覧じろ”だ」
デミクァスの答えに満足そうに親指を立ててとびきりの笑顔を返すと、てとらは小走りに観客席のほうに走り去った。
* * *
〈幽霊犬〉とともに開始線につき、敵手のほうに振り向こうとした刹那、ぞくりと太い悪寒が背骨を駆け上がるのを感じて、デミクァスは咄嗟に腰を落とし、跳躍に備えて膝を撓めた。
認識は半秒遅れで視界の隅に、稲妻の如き速度で懐に向かって飛び込んでくる黒い塊を映し出す。「始め」の合図も待たぬまま、〈ライトニング・ステップ〉で急接近してくる〈伊達男〉が、既に右手にサーベル、左手に短剣を抜いているのを瞬時に認め、反射的に前蹴りで迎撃を試みるデミクァス。しかし、テオドールは、デミクァスの足尖が鳩尾に触れるか触れないかのタイミングで、蹴り脚の外側にステップしつつ、右の肩口にサーベルの切っ先を突き込んできた。蹴りの軌道を急転換し、右側に回った〈盗剣士〉の右の膝裏に踵を叩きつけるようにしながら、腰の回転に合わせて右肩を後方に捻り切っ先を避けようとするが、踵は見事に空を切り、半身になった右肩を、予想外に威力も速度も乗ったサーベルの切っ先が浅く掠め過ぎた。皮膚が切り裂かれる感触とともに、熱鉄を押し付けられたような灼熱感が右肩に走る。
恐らく〈アーリー・スラスト〉が仕込まれていたのであろう。ただの突きと見えてその実想像以上に鋭い突きは、デミクァスの肩口に置き土産の様に〈マーカー〉を乗せている
〈マーカー〉は、〈盗剣士〉の特殊能力のひとつだ。幾つかの特技を使用することによって、〈盗剣士〉は〈マーカー〉と呼ばれるアイコンを相手の身体に付与することが出来る。〈マーカー〉それ自体にはダメージも弱体化効果も無いが、相手の身体の〈マーカー〉を再度〈盗剣士〉が攻撃することにより、〈マーカー〉は爆発して、追加ダメージを与える仕組みだ。
デミクァスが、瞬時にそれだけの情報を見て取っている間にも、テオドールの動きは止まらなかった。左手の短剣をデミクァスの咽喉を狙って突き出し、それが躱されると今度はサーベルで脛を払いにくる。しかし、デミクァスが飛び上ってサーベルを躱すと、流石の〈伊達男〉にも隙が出来た。サーベルを振り切ったために身体が流れて体勢が崩れる。
好機と見たデミクァスが、右の打ち下ろしの〈ライトニング・ストレート〉をテオドールの顎を狙って放ったその瞬間、かかったとばかりに笑みを貼り付けたテオドールの身体が、回転しながら跳ね上がった。
〈ラウンド・ウィンドミル〉だ。回転しながら跳躍し、武器で周囲を薙ぎ払うこの技は、跳躍時に一瞬だが相手の攻撃を無効化する時間が存在する。無敵時間を利用して、デミクァスの紫電の拳をやり過ごしたテオドールは、踏鞴を踏む〈武闘家〉の顔面目掛けて、掬い上げる様にサーベルを叩き込む。頭部が弾けるように跳ね上がり、そのまま巨漢の〈武闘家〉は、興奮した観客の血に飢えた歓声の中、赤い血を新雪の上に撒き散らしながら、身体ごと後方に弾き飛ばされた。
「審判っ!!」
〈ライトニング・ステップ〉で瞬時に間合いを詰めたテオドールがデミクァスに奇襲をかけるのを認めた〈幽霊犬〉は、咄嗟に佇むソウジロウ=セタに向かってそう怒鳴った。見れば、相手の〈施療神官〉も、開始線の位置で驚いた表情で固まっている。どうやら最初から相談したうえで連携した行動ではないらしい。
抗議の色を含んだ〈幽霊犬〉の声に、しかし涼しい笑みを浮かべたままの〈剣聖〉は、首を振って否の意を伝えた。
「ボクは”見届人”です。”審判”なんかじゃありません」
「なんだとっ!?」
「ボクの合図はただの目安で、ルールで決められた開始の合図ってワケじゃない。いつ始めるかなんてことは、お互い同士が決めればいいことです。今までの試合は、みんな何も聞かずにお行儀よく、ボクの合図に従っていましたけどね」
その言葉に頭に血を登らせ、更に言い募ろうとする〈幽霊犬〉を、ソウジロウは片手を挙げて押し留めた。そのまま、反対の手を耳に当てる。
「・・・・・・わかりました。そう伝えます」
どこからか念話を受け取っているようだ。
「今、アイザックさんから伝言がありました。貴女やデミクァスさんから、今の不意打ちについて一言でも抗議があれば、その場で即、貴女がたを不戦勝にするように、と。どうしますか?」
ソウジロウは相変わらず、何を考えているのかわからない微笑を浮かべたまま、真っ直ぐに〈幽霊犬〉を見つめている。
〈幽霊犬〉は、そのソウジロウを凄まじい目つきで睨み付け、次いで主賓席の〈黒剣〉のアイザックに視線を移し、アイザックの、いかにも「文句があるなら不戦勝になりゃあいい」とでも云いたげな不敵な笑みに一瞬だけ目を留めてから、最後に戦うデミクァスを見た。デミクァスは今まさに、稲妻を纏った突きをテオドールの顎に打ち下ろそうとして、跳ね上がったテオドールのサーベルに弾き飛ばされたところだ。
「決まっているっ!」
右手に〈大地の声〉を握ったまま、人差し指と中指だけで、流れるような動作で矢筒から矢を抜き取り、弓につがえる。前方照準は、彼女より一瞬早く気を取り直して抜剣し、盾を構えて突撃を開始しようとしている〈聖堂騎士〉だ。
「不意打ちされたあいつが何も云わないのに、私に文句なんぞあるわけがないっ!」
心の中で、あいつみたいに床に唾を吐き、あいつの口癖――――クソッたれ、と吐き捨てて、〈幽霊犬〉は口端にきつい微笑を浮かべながら、弦音高く、突進してくる〈聖堂騎士〉目掛けて最初の一矢を放つ。
その様を、微笑を浮かべて見守るソウジロウが、ほとんど声帯を震わせぬまま、唇の動きだけで”それでこそ”と漏らした呟きは、射撃管制に全集中力を傾注する〈幽霊犬〉の耳には届かなかった。
「・・・・・・おお!?」
〈ラウンド・ウィンドミル〉の硬直時間を素早く回復しながら、テオドールは軽く目を瞠った。〈伊達男〉の目の前で、弾き飛ばされたかに見えたデミクァスは、のけぞりながら綺麗に受け身を取り、熟練の体操選手よろしく後方に一回転すると、まるで予定された演技であるかのように滑らかに体勢を立て直したのだ。瞬時にそれを見て取ったテオドールは、定石通り追撃を掛け――――ようとして、踏み出しかけた左足が、見えない壁にぶつかったかの様に急制動を強いられる。
右足を前、左足を後ろの後屈に立ち、緩く開いた左右の掌は、右は指先が天に、左は掌が地に向かう。テオドールに追撃を思い留まらせたのは、ぴたり、と空気が止まる音さえ聞こえそうな、デミクァスの見事な”天地上下の構え”だった。
それまでテオドールの奇襲に熱狂していた観客たちの歓声が、ひりつくように熱を持った、重くて粘っこいざわつきに変わる。構えを取るだけで明らかに変わった、デミクァスが纏う”空気”に、目の肥えたはずのアキバのPvP好き〈冒険者〉たちが戸惑っているのだ。
「構えひとつで観客を黙らせるたァ、悪役らしくもない。なかなかどうして、堂に入ってるねえ、旦那」
サーベルを肩に担ぎ、口端に笑みを浮かべつつ、テオドールはデミクァスに声を掛けた。感嘆しているし予想外に驚いてもいるが、その声は、未だ余裕に満ち溢れている。その余裕を、気に障るどころか寧ろ愛しくさえ思いながら――――デミクァスは、〈伊達男〉のサーベルでぱっくり裂かれた左の頬から滴り落ちる己が血液を舐め取った。口中に、鉄と塩の濃い味が広がる。
「そっちこそ、奇襲とは恐れ入るぜ。正義の味方らしくねえな、おい」
咎める様で、それでいて満更でもなさそうなデミクァスの台詞に、テオドールは返答を返さず、代わりにアメリカ人がよくやるように、大袈裟な身振りで肩を竦めた。茶目っ気たっぷりのウィンクに微笑を添える。それを見たデミクァスは、足元の雪の塊目掛けて、血の混じった唾液を吐き捨てた。薄桃色の液体が、白く輝く雪を汚す。
「憧れてたんだよ」
「・・・・・・あァン?」
「餓鬼の頃から、ずっと憧れてたんだ。こんなデカい舞台でよ、テメエみたいなスカした野郎を相手に、こうやって構えてやるのさ・・・・・・〈武神〉みてえにな。」
我知らず、口角が吊り上がる。唇が歪に捲れ上がり、狩猟猫の様に巨大な犬歯が剥き出しになる。ああ、こいつだ。この感覚は久方ぶりだ。ススキノ郊外の薄汚れた廃墟の一隅で、闇のなか、乾いた涙のあとを拭いながら目を覚ました、あの時以来の感覚だ。
・・・・・・結局、俺にはこれしかないのだ。寝ても覚めても”較べっこ”だ。それ以外のことなどすべて濁った不純物でしかない。デミクァスはようやく理解した。
それをするために生まれた俺だ――――ならば辿り着くにも終わるにも、それをするよりほかに法はない。
(――――俺は”熾火”だ)
今、デミクァスは再び思う。今の俺は、ただの焼け残りの塵灰に過ぎない。未だ熱を孕み、目を凝らせば赤く輝く埋み火が見えるかも知れないが、すべては遠い昔日の焔の残り火でしかない。もはや全てを焼き焦がす火勢は無く、ただ風に吹かれて消え去るのを待つのみだ。
――――だが、もしも。
もしも吹き付ける風の向く先が変わるならば、そして吹き散らされつつある筈の塵灰に、その風を受けて燃え上がるだけの熱量が、未だ残されているならば――――熾火は火勢を取り戻し、再び煌めく火焔となるかも知れぬ。今の自分の心の奥底に、静かに蟠るしこりのその奥で形作られつつあるものは、もしかすると、今まで自分が望みながらも持ち得なかった、金剛石の原石なのかも知れぬ。
ならば求め続けねばならぬ。磨き続けねばならぬ。研鑽し続けねばならぬ。ただ一途に求め、足掻き続ける者の中の、更にほんの一握りだけが、それを手に入れることが許されるのだと云う事を、デミクァスは本能によって理解することが出来た。
テオドールの〈アーリー・スラスト〉で一突きされた右肩がじんじんと疼痛を伝えてくる。ちらり、と視線だけで確認すると、不吉に嘲笑う道化のアイコンが、デミクァスの鼓動に沿って明滅している。〈盗剣士〉の〈マーカー〉だ。己の死命を決しかねない”死点”であるはずのそれを、だがデミクァスは、まるで古ぼけた勲章であるかの様に誇らしげに見下ろした。口元の笑みが更に深くなり、凄絶なものに変わる。
「さあて、戦ろうぜ。斃したり、斃されたりしようぜ――――殺したり、殺されたりしようぜ。とどのつまり、俺たちには、そういうあれしかねえんだからよ」
* * *
恐らく無意識にであろう、隣に座ったセララがぶるっと大きく身体を震わせたのに気付き、にゃん太は少女の左手を優しく、あやすように握った。見下ろす彼らの視界の中で、デミクァスの獰猛な微笑は、どうしようもなく〈大災害〉直後のススキノの惨状を思い起こさせる。セララが怯えるのも無理はない。
「大丈夫、です」
にゃん太の手を握り返そうとしたセララの手のひらが、一瞬戸惑うように硬直した。おずおずとにゃん太の顔を覗き込んでくる〈森呪遣い〉の少女の瞳には、驚いたことに、僅かながらにゃん太に対する怯えの色が見えて、彼をどきりとさせた。
「うん、大丈夫、です。・・・・・・でも、にゃん太さん、ちょっとだけ、怖い・・・・・・」
そんなことを云われて、今更ながらに自分の口角が何時に無く歪み、〈猫人族〉特有の鋭い犬歯が(そう、まるでデミクァスの様に)口元から覗いていることに気付いて、にゃん太はさりげない動作で右の手のひらで口元を覆い隠し、知らず浮かんでいた笑みを揉み消した。普段は抑制された紳士的な態度のお蔭でそれほど目立たないが、こうした表情を浮かべると思いの外、自分の容姿が人間とかけ離れた獣のものであることを意識させられる。
「にゃ、これは失礼」今度はセララを安心させるような、いつもの優しい、本物の微笑を浮かべる。もっともそこに照れ笑いが混じっていないとは、流石の彼にも断言はできなかったが。「言い訳させていただけば、男の子はみんな、多かれ少なかれ『戦う』ことに憧れますにゃ。・・・・・・まあ、我が輩も男の子だってことですかにゃあ」
「わかります・・・・・・うん、わかります。今なら、わたしにも」
安心した様に笑顔を取り戻しながら、セララが頷く。
「デミクァスさん、あの頃とはちょっとだけ、違います。なんだか凄く、生き生きしてて、楽しそう」
(セララちは本当に、成長しましたにゃん)
もう一度セララの手のひらを優しく握ってから、にゃん太は再度、眼下で対峙するデミクァスとテオドールに視線を移した。デミクァスの中で”何か”が吹っ切れた、そんな気配がデミクァスの構えを、まるで鍛え上げたばかりの一振りの鋼の剣のように、剛直で、侮りがたく、触れれば切れそうなものにしているのが見て取れる。
(さてさて、これはいかな〈黒剣〉の猛者といえども、一筋縄ではいきませんにゃ。下馬評通りとはいかないと思いますが、どうにゃることやら)
「いざ頓に、頓に――――自らには飛ぶことしかないのだと、一途に思い定めた猛禽には、追い縋るのも逃げるのも、そう容易くはいきませんにゃあ。にゃはは」
猫頭の紳士は腕組みをし、口端にすました微笑を浮かべながら、預言者の如き厳かな口調でそう嘯いた。