餓えしものどもに捧ぐる賛歌(Ⅲ)
本作中の登場人物について、オリジナルではない既存の登場人物については、内面・外面とも著者の独自の解釈が多分に含まれています。また、作品内世界設定についても同様です。
本作には、「ログ・ホライズン」本編のネタバレに関する内容が断片的に含まれています。ご了承ください。
3.
晩飯に何を食うかと云う事すら考えるのが億劫だったが、体育会系の常として身体を動かせば腹が減るのが習い性になっているデミクァスは、結局宿の窓から偶々目に入った〈ふるーてぃお〉という名前のギルド経営のラーメン屋で手っ取り早く夕飯を済ませることにした。
アキバの新年を祝う〈雪季祭〉での〈円卓会議〉主催の祭典も、残すイベントは明日の〈黒剣杯〉のみとなり、狭い店内は残り少ない祭りの夜を堪能する人々で賑わっている。
カウンター席の隅っこに座って、近寄って来た何故かメイド服姿の女性店員にラーメンとチャーハンセットを注文する。
料理が運ばれてくるまでの間、前髪越しになんとなく店内の人の流れを目で追えば、否が応でも気付かされるのは、「アキバの〈大地人〉は、〈冒険者〉に恐れを感じてはいない」という事実だ。
〈大災害〉後の料理革命からこっち、目覚ましく発展してきたのは料理そのものだけではない。横丁の瀬戸物市を覗けば、伝統的な西洋風の皿やスープボウルだけではなく、〈冒険者〉の〈陶工〉が焼いた茶碗やドンブリ、レンゲなどの和風・中華風の陶製食器が所狭しと並べられている。それに、近頃の〈大地人〉の間では、〈冒険者〉が使っている”ハシ”でする食事が流行っているという話も耳に入ってくる。そしてそれらを裏付けるように、〈ふるーてぃお〉の店内では、〈冒険者〉たちに混ざって沢山の〈大地人〉もまた、ハシで食べる温かいラーメンに舌鼓を打っている。
どの客も、隣のテーブルで談笑しているのが〈冒険者〉だろうが〈大地人〉だろうが気にしていないように見える。
無関心、というのでもない。
関心が無い様に見えるのであっても、それは、決して関係を持つことを拒否しているのではない。現代日本人からすればあまりにも自然な――――要するに、お互いのプライバシーを尊重しているだけのことだ。
まさしくそれは、”隣人”たちが織り成す光景だった。
こうして食事をしている姿には、〈冒険者〉にも〈大地人〉にも変わりがない。デミクァスから見れば、この街に住む彼らは、敵同士でもなければ主従でもなく、対等な”隣人”同士であるようだった。
つまるところ、アキバの〈冒険者〉たちは、デミクァスたちススキノの〈冒険者〉よりも、ずっと賢くて、ずっと現実を見据えていて、ずっと要領がよかったのだということだ。
アキバの〈冒険者〉たちがこの異世界で生き残るために知恵と力を振り絞って〈大地人〉との関係を模索している間、デミクァスたちススキノの〈冒険者〉は、異世界に放り出されたという現実に目を瞑って、「こいつはゲームなんだ」「ゲームだから、出来ることなら何をしたっていいんだ」と嘯きながら現実逃避していたに過ぎなかった。
〈幽霊犬〉は、あのいけ好かない女〈暗殺者〉は云っていた。
(お前たちは無法者なんかじゃない)
(お前たちはただの餓鬼だ。みんなが怒っているのに、空気を読まず悪ふざけを続けて、みんなが怒っているのに気付いたら、”こんなのただの悪ふざけじゃないか” ”たかが悪ふざけに、そんなに怒ることはないじゃないか”と逆切れして駄々をこねる、どうしょうもない糞餓鬼だ)
(私はいつでも本気で、必死だ――――餓鬼のお守りをしてる暇なんか無い)
シロエの仲間の、アカツキとかいう娘の言葉が脳裏に甦る。
(お前は・・・・・・お前がやってることは、ただの八つ当たりだ)
(そうか――――お前は、自分自身が許せないんだな。だから、似た者同士のこいつらに八つ当たりするんだ)
結局のところは、そういうことだ。
デミクァスたちは、空気が読めない餓鬼だったのだ。
そして、そんな自分がどうしようもなく許せないから、他人のそういうところもどうしようもなく許せないのだ。
「・・・・・・格好悪ぃな」
今度こそ、唾でも吐き捨てたい様な気分でデミクァスは呟いた。
戦って負けることなど珍しくない。
〈エルダー・テイル〉を始める遥か以前から、喧嘩に負けるなんてのは慣れっこだったのだ。身体の痛みなど我慢すれば気にならないし、屈辱を力に変える術をデミクァスは知っている。
だが、生き方そのものを、真っ向から無価値なものと否定されたら、一体どうしたらいいのだろう?
〈冒険者〉の生命のその価値は、その肉体的強靭さに比べてあまりにも軽い。切り刻まれようが叩き潰されようが、数秒後には大神殿で何事もなかったかのように甦る。
〈冒険者〉が使う言葉の中で、恐らく最も無意味な言葉は、『命がけ』『生命に代えて』『この身がどうなろうとも』である筈だ。人は、無尽蔵に黄金の湧き出る奇跡の泉を持つ者が、契約の担保に両手いっぱいの黄金を差し出したとしても、決してそれを信用することは無いのだから。ましてやそんな奇跡の泉を、誰も彼もが所有しているとなれば尚更だ。
そんな軽い命から”必死さ”を取れば、後には何も残らないのだと云う事を、デミクァスは、たったひとつの儚い生命しか持たない〈大地人〉の、取るに足らない痩せっぽちの娘から、そしてすました顔で自分を糾弾する、最高にけったくその悪いエルフの女〈暗殺者〉から、嫌と云うほど思い知らされた。
”それ”が分かってしまったからには、自分が何も分かっていない餓鬼だったという事実に居直ることはできない。
この世界がゲームではなく、途方に暮れるほどリアルな現実であるのならば。
理由も意味も定かでないまま与えられた、鍛えた鋼みたいに強いくせにちり紙みたいに軽い〈冒険者〉の生命に、ほんの僅かでも何らかの”価値”を与えることが出来るのは唯一つ、”必死になる”ことしかないのだ。
そして今のデミクァスには、その”必死さ”を持たない自分がどうしようもなく”格好悪く”思えてしまう。更には、その”格好悪さ”を指摘したのが、よりにもよって、生まれてこの方出会った中で一番いけ好かない女たちだという事実が、デミクァスを、自分自身でも驚くほど凹ませていた。
(つくづく――――俺をどん底まで叩き落とすのは、クソ女どもの役目になってるって訳だ)
「ラーメンとチャーハンセット、お待ちどうさまでした~」
目の前に置かれた湯気の立つドンブリに我に返る。
翻るフリル付きのエプロンが訳もなく癇に障り、思わず右手を伸ばそうとして、デミクァスは舌打ちをしそうになった。
だから女はイヤなんだ。こっちの話は聞かないクセに、自分は正論で武装して一分の隙も見せやがらない。
”あいつ”もそうだ。クソてとらが馬鹿みたいに何十通も送って寄越した手紙を、俺が焼き捨てろと云ってるのも聞かずに全部几帳面に仕舞ってやがった。
(友達の手紙でしょ?)
・・・・・・てとらが友達とか、どんな冗談だ。
(行ってみたらいいじゃない。こんなに毎日沢山手紙をくれるんだもの。きっとあんた以外に、頼れる人がいないのよ)
(それに・・・・・・なんとなくだけどわたし、思うんだ。てとらって人がこんなに熱心に来て欲しいって云うのは、きっとあんた自身の為にもなる、って思ってるからじゃないかしら)
この糞ったれな自己嫌悪のスパイラルが、いつか自分自身の力になるのなら、その時はクソてとらにもあいつにも、欲しいものを好きなだけくれてやる。
未だ嘗て経験の無いくらい捨て鉢な気分のまま、心の中でそう吐き捨てたデミクァスに掛けられたのは、
「ラーメン・・・・・・伸びるぞ」
――――ほんの二時間ばかり前にデミクァスが逃げ出してきた筈の、黒い燕みたいな娘の声だった。
* * *
デミクァスの背後、意外なほど近くから聞こえたその声に、仏頂面のまま振り向くと、そこに立っていたのは、〈記録の地平線〉のアカツキと、〈万色の幻像〉の〈幽霊犬〉、二人の女〈暗殺者〉だった。
いかに自分の思考に埋没していたとはいえ、喧騒に紛れてここまで背後直近への接近を許したという事実に、デミクァスの眉間の皺がみるみる深くなる。
アカツキは先ほど見た時と変わらない、ゆったりした墨染めの忍び装束に、腰に小太刀を佩いただけの軽装だったが、ひとつだけ先ほどと違うのは、後ろで結わえた漆みたいに艶のある黒髪に、白鷺を象った白金と翡翠の髪留めを差していることだった。黒で統一された衣装の中で、寧ろ控えめに輝くたった一羽の白鷺が、少女の凛とした印象をかえって強めているのが見事である。
〈幽霊犬〉のほうは街着に着替えたようで、薄手の白いタートルネックセーターにジーンズを履き、その上からグレーのダッフルコートを羽織っている。現実世界の東京の街並みを歩くようなラフな格好だが、腰の剣帯には、美しい拵えの鞘に納められた細身の長剣を、左右に一振りづつ下げていた。フードに隠されていた素顔は露わになっており、見事な銀髪は首の後ろでまとめられ、額には飾り気のない、これも白金と翡翠でできた額環を嵌めている。
〈幽霊犬〉は、てとらの、ひいては〈記録の地平線〉の客人だった筈だから、おおかた〈暗殺者〉同士気が合って、一緒に食事に来たというところなのだろう。
・・・・・・出掛けた先でデミクァスとかち合ってしまうというのは、デミクァスにとっては意地の悪い偶然だと云うべきであったが。
それでもデミクァスが、〈幽霊犬〉に視線を送り、口端を歪めて
「よう、尻穴野郎」
と声を掛けたのは、ぶっちゃけて云えば子供っぽい意地のゆえだ。
〈幽霊犬〉は、デミクァスと一瞬だけ視線を合わせ、ぴくんと右の眉だけを跳ね上げると、アカツキに向かって
「空気が悪いな、アカツキさん。店を変えよう」
と声を掛けた。
その反応は、デミクァスからすれば当然予想された反応で、先刻まで自己嫌悪のデフレスパイラルに陥っていたデミクァスとしては、〈幽霊犬〉のその言葉に有難ささえ感じたくらいだったのだ。
・・・・・・だから、それに対するアカツキの、
「疲れたし、お腹も空いた。ここでいい」
という台詞のほうに、デミクァスは寧ろ困惑させられたのである。
(・・・・・・何考えてやがる、このクソチビ)
予想だにしなかった展開に、狼狽を押し殺して二人から視線を逸らしたデミクァスは、更にうまくない状況に自分が置かれているのを発見して、この日何度目かの舌打ちをしそうになった。
狭いうえに客でいっぱいの店内には、今現在空いている席は、デミクァスの右隣の二つのカウンター席しかないのだ。考え事に没頭している間、自分がどれほど剣呑な空気を発していたかということに、デミクァスは初めて気が付いた。
デミクァスと〈幽霊犬〉に言葉を挟む暇も与えず、アカツキはさっさとデミクァスの隣の席に腰を下ろしてしまう。まるで体重を感じさせないその挙動は、軽やかに舞い降りる燕を連想させた。
そんなアカツキの様子を見て、〈幽霊犬〉は諦めた様に溜め息をひとつ吐くと、こちらは油断のない大山猫みたいなしなやかな動作で、アカツキを挟んでデミクァスの反対側の席に腰を下ろした。
近寄って来たメイド服姿の店員に、アカツキはタンメン、〈幽霊犬〉は鶏塩ラーメンを注文する。
デミクァスは仕方なしに肚を決めると、少しでも早く店を出るために、ドンブリを抱え込んで伸びかけのラーメンをすすり始めた。
「タンメンに鶏塩ラーメン、お待ちどうさまでした~」
ほどなくして、メイド服姿の店員が、野菜がたっぷり入ったタンメンと、山盛りの白髪ねぎと蒸し鶏が乗った塩ラーメンをトレイに乗せて運んできた。
アカツキと〈幽霊犬〉は、声を合わせて行儀よく「いただきます」と云うと、あとは無言で熱い麺をすすり始める。
しばらく、無言の時間が続く。
喧騒に包まれた店の中で、そこだけぽっかりと切り取られたように、会話の無い空間が生まれた。
三人が黙々と麺をすする音だけが響く。客にも店員にも、三人の間に会話が無いことを咎める者は誰もいないし、そのことに居心地の悪さを感じている者もいない。ここアキバの街では、どんな人間にも会話を楽しむ自由があるし――――穏やかな沈黙を守る自由もまた、あるのだ。
「・・・・・・デミクァス」
デミクァスがラーメンを食べ終わり、残ったスープにチャーハンをぶち込んでレンゲでかき込み始めたところで、隣でもにゅもにゅとモヤシを食んでいたアカツキが、ドンブリから顔も上げないまま、ぽそりとデミクァスの名を呼んだ。
即席のスープチャーハンをかき込んでいたデミクァスの右手が、ぴくりと微かに震えて止まった。そのままドンブリとレンゲを置いて、グラスに入った冷水を呷る。
「・・・・・・ンだよ、クソチビ」
「クソチビとかゆうな」
言葉だけ取れば怒っている様な台詞だが、アカツキの口調には怒った様な調子はない。
アカツキは箸を置いて向き直ると、改めてデミクァスの顔を覗き込んだ。シロエ以上に上背に差があるため、父親を見上げる娘の様な上目遣いになるが、瞳に籠る純粋さというか、一途さの様なものが、デミクァスを奇妙に落ち着かなくさせた。
この娘は、なりは小さくとも、己の裡に、鍛えた日本刀みたいに折れず曲がらず、決して揺らぐことなく常に変わらず在り続ける、確固としたなにかを持っている。無意識のうちに感じ取ったそれが、デミクァスを我知らずたじろがせたのだ。
「わたしはアカツキだ――――ひとつ教えて。答えたくないならそれでもいい」
デミクァスが無言でいるのを了承と受け取ったのか、アカツキは言葉を続けた。元々口下手なのだろう。ゆっくりと、探るように言葉を紡ぐその姿を、隣に座った〈幽霊犬〉が、少し驚いた様な表情を浮かべて横目で伺っている。
「デミクァス、あー。・・・・・・お前ほんとは、背が低いだろう?」
デミクァスの表情の変化は劇的だった。
両目を目いっぱいに見開き、アカツキをほとんど睨むように見据える。口はへの字に引き結ばれ、おそらく奥歯を噛み締めているのであろう、ぎり、という軋る様な音がアカツキにも微かに聞き取れた。もしかしたら、ざわり、と髪の毛が逆立つ音すら聞き取れたかもしれない。
アカツキには――――いや、アカツキだからこそわかったのだ。
デミクァスの戦いぶりを見ていれば、嫌でも以前までの自分の戦い方との類似点に気付く。
最初の一撃に跳び蹴りを多用するのは、少しでも高い位置から運動エネルギーを利用することで、足りない威力を補いたいから。
敵の懐に飛び込み、吐息が触れるくらいの至近距離で技を打ち込むのは、リーチの差を埋めたいから。
中段や下段を狙うのが多いのは、防御を下げさせて、頭や首の急所を自分の手の届く高さに引き寄せたいから。
・・・・・・どの動きも、戦術的な目的は同じ。体格に勝る相手と対等に張り合うために、小さい者が精一杯背伸びして身に着けた戦い方なのだ。
だから気付いた。デミクァスも、アカツキと同じように、せめてゲームの中では、理想の体格で活躍したかったのだろう。デミクァスの戦い方には、ゲームのキャラクターの動きだけではない、プレイヤー本人が身に着けていたであろう、何らかの武道の心得が感じられた。日頃染み付いた、小さな身体で自分より大きな相手を倒すための身体運用、身のこなしが、この世界での戦い方にも顕われていたのだ。
更にアカツキを驚かせたのは、デミクァスが、恐らく現実世界の自分の身体と相当のギャップがあるであろう〈冒険者〉の肉体を、まるで最初から自分のものであったかの様に、至極自然に使いこなしている事実だ。
我が身を振り返ってみれば、それがどれほど困難なことであるのかわかる。
アカツキ自身は、突然本来の自分と異なる性別、30センチ以上も高い身長の〈冒険者〉の肉体に押し込められたとき、まともに歩くことすらできなかったのだ。
「お前の・・・・・・現実のお前の背が高かろうが低かろうが、そんなことはどうでもいい。わたしが云いたいのは、そんなことじゃない」
「・・・・・・一体なんだ。何が云いてえ?」
食い縛った歯の間から、搾り出す様に問い返されて、アカツキは少し逡巡しながらも、誤解を与えぬよう言葉を吟味しながら、一語一語はっきりとデミクァスに告げた。
「わたしが云いたいのは、たったひとつだけだ。今の身体を、現実の身体と同じレベルで使えるようになるまでに、お前が乗り越えてきた困難や積んできた鍛錬は、その・・・・・・尊敬に値するってことだ。」
デミクァスは、アカツキに何を云われているのか、理解が出来ない様だった。
親の仇みたいにこちらを睨んでいた視線から、切迫した気配が抜け落ち、代わりに困惑の色が広がってゆく。
「わたしも主君と同じだ。お前が持っているものの大半は気に入らない。お前がススキノで、セララや他の者たちにしていたことを肯定する気はまったくない・・・・・・けど、それでも」
無言のままこちらを凝視してくるデミクァスの視線を、真っ向から受け止めながら、アカツキはもう一度、はっきりと口にした。
「それでも、お前はその身体を自分のものにするまでに、わたしには想像もつかないような困難を乗り越えてきた――――お前の克己心、ただその一点をもって、わたしはお前に敬意を表する」
〈武闘家〉と〈暗殺者〉は、そうして長いこと視線を交し合っていた。
先に視線を外したのは、恐らくデミクァスのほうであっただろう。
長髪の巨漢は、一言
「・・・・・・ごっそさん」
とだけ呟くと、何枚かの金貨をカウンターの上に置いて、のそりと席を立った。
視線だけでそれを追った〈幽霊犬〉には、店から出てゆくその広い筈の背中が、何故か傷付いた少年の様な、奇妙に小さな背中に見えたのだった。
* * *
「・・・・・・アカツキさん。あいつがリアルじゃ背が低いって、本当なのか」
デミクァスの背中がアキバの夕闇の中に消えたのを見送って、たっぷり数分待ってから、〈幽霊犬〉はアカツキにそう尋ねた。
アカツキはといえば、既に注意をタンメンに戻しており、山盛りの炒め野菜を片付ける作業に没頭していたが、〈幽霊犬〉の質問に、目線だけを〈幽霊犬〉のほうに向けて、一瞬考え込むような表情を見せてから、
「ん、知らない」
と短く答えた。
「でも今・・・・・・」
「うん、デミクァスの反応見れば、当たってたみたい」
「じゃあ・・・・・・」
アカツキは箸を置くと、先ほどデミクァスに向かってしたように、今度は〈幽霊犬〉の顔を覗き込んで、その瞳を真正面からじっと見つめた。アカツキ自身は意識していないのかもしれないが、思いのほか強い視線に、〈幽霊犬〉もまたたじろいでしまう。
「さっき・・・・・・おかしな奴らに喧嘩を売られたんだ」
「おかしな奴ら?」
戸惑いながら、〈幽霊犬〉は鸚鵡返しに答えた。唐突に話題を変えたアカツキの意図が読めない。
「うん。・・・・・・そうしたら、あいつに助けられた」
「・・・・・・誰に?」
「あいつ。デミクァス」
思わず口を閉じるのを忘れたまま、10秒間考え込んでから、ようやく意味を理解する。あのPK野郎が、アカツキを、助けた? 自然と眉根が寄ってしまう。聞き間違いか、と真剣に悩む。
「・・・・・・デミクァスに? 喧嘩を売られたんじゃなくて?」
「うん。正直、わたしとしては別に助けが欲しい場面じゃなかったし、あいつも、わたしを助けたつもりはなかったみたいだったけど」
「ご免なさい、全然、訳が分からない」
「説明が難しいな。正直わたしも、あいつの行動が100パーセント理解できるわけじゃないから」
「それはそうだ」
困ったように腕組みをするアカツキに、〈幽霊犬〉も溜息を吐く。自慢ではないが、〈幽霊犬〉は、『誰かに何かを分かりやすく説明するのが苦手』と云う事にかけては人後に落ちない。アカツキだってそうだろう。こと戦闘にかけては一家言あり、聞く者がいれば何時間でも話し込める二人ではあるが、それ以外のことについてはからきしである。
「ススキノで、最初にわたしが目にしたときのあいつは、そりゃあひどかった。短気で、粗野で、狂暴で、まさしくあいつのギルドタグのとおり、まるっきり野盗の首領だった」
「だろうな。私が聞いてるあいつの評判も、まったく逐一紙一重の齟齬もなくその通りだ」
アカツキと〈幽霊犬〉の歯に衣着せぬ物言いは、当人ばかりでなく他人が聞いても鼻白むくらい、徹頭徹尾率直だ。
「でも、さっき。わたしとそいつらの間に、デミクァスが割って入って来た時。わたしの目の前でそいつらを叩きのめしたあいつは、八か月前にススキノで主君やにゃん太老師に一杯喰わされたあいつとは全然違った。あの時と同じように短気で、粗野で、怒りのままに相手を叩きのめすところはまるで変ってなかったけど――――今のあいつは、なんて云うか、自分が何者なのかわからなくて、そのことがもどかしくて、そのことに苛立って、その怒りを拳に乗せて相手にぶつけてるようだった。”野盗”というよりは、そう・・・・・・”求道者”だった」
そこまで云ってむ、と唸ると、アカツキは小首を傾げて「待てよ、”求道者”と云うにはちょっと粗暴に過ぎるか。難しいな」とひとりごちる。その様子が可愛らしくて、思わず〈幽霊犬〉は口元を綻ばせた。真面目な顔をして、いちいち仕草が可愛らしい。
「それは兎も角――――リアルのあいつは、背が低くて、きっとそのことに、ものすごく劣等感を持っている。それも、漠然と『格好悪いから』とか『馬鹿にされるから』なんて軽い理由からじゃない。きっとあいつは、背が低いことで、その・・・・・・自分がすごく大切にしてたものとか、すごく打ち込んでたものを、取り上げられた経験があるんだと思う」
正確にはわからないが、戦い方、身体操法から推測すれば、恐らく――――30センチメートル程度。
アカツキの場合とほぼ同じくらいの身長差が、現実のデミクァスとこの世界のデミクァスにはあるように思える。
アカツキ自身のことを考えれば、この世界に放り込まれた当初は、戦うことはおろか、満足に歩くこともできなかった筈だ。30センチメートルという身長差は、日常生活において通常意識せずに行っている些細な動作すら、劇的に勝手が変わってしまうのだ。アカツキ自身には経験はないが、それはちょうど現実世界において、ある日突然自分の四肢の代わりに、義手や義肢を着けて生活しなければならなくなることに似ているかも知れない。
生半な覚悟では、耐えられる不便さでは無い筈だ。
(わたしの場合は、それ以前の問題だったけど)
それでも、たとえ性別のことがなかったにしても、シロエの〈外見再設定ポーション〉の助けを借りずにいられたかと云えば、多分無理だっただろうと思う。
魔法使用職であれば或いは別かもしれないが、自らの肉体を頼みの綱とする戦士職や武器攻撃職にとって、自らの身体を自らの思い通りに動かせない状態を受け容れると云う事は、自己同一性を自ら否定することに直結する。
デミクァスは、現在の境地に至るまでに、いったい幾つの嘆きの夜を越えてきたのだろう。アカツキにも、それを推し量ることはできない。
「・・・・・・だからきっと、今、あいつが何事もないような顔をして、あの身体で生活や戦闘をこなしていること、それ自体が――――あいつの”必死さ”の証しなんだ」
〈幽霊犬〉は、自分の瞳をど真ん中直球に、一部の隙も無く真っ直ぐ見つめてくるアカツキの瞳を、自分にできる限りの誠実さを込めて真っ直ぐに見つめ返した。誠実であることにかけては自信がある――――『誠実さ』なるものについて、そういう表現が適当であれば、であるが――――彼女であったが、この時に限って云えば、たとえ自分が世界一誠実な人間であったとしても、それが相手に伝わらなければなんの意味がないと云う事が、途轍もなく不安だったのだ。だから〈幽霊犬〉は、全身全霊を込め、あらん限りの誠実さをその視線に乗せて、アカツキの強い視線を受け止めた。
「わたしが云いたい事がうまく伝わってるかどうか、まるで自信が無い。わたしはその、ほんとうに、こういうことが苦手なんだ。自分が嫌になるくらい、苦手なんだ」
今にも泣きだしそうに思えるくらい、アカツキの瞳がもどかしさに歪む。それを見て、〈幽霊犬〉は自分の胸が万力で締め付けられるような感覚を覚えた。違う、そうじゃない。あなたが悪いんじゃないんだ。私にもっと他人の気持ちが判れば、私がもっとあなたの気持ちを汲むことが出来たなら、あなたにそんな顔をさせることもない筈なのに。
「だから、わたしからアドバイスができるとしたら、ひとつだけ。あいつの戦いを、あなた自身の目で見てみたらいい。あいつと一緒に戦うんでもいいし、なんならあいつと戦ってみてもいいと思う」
そこまで云うとアカツキは、ふっと視線を緩めて、なんだかいつもの難しい顔をしている彼女とは別人みたいな、ひどく優しい表情を浮かべた。
「気が済むまで、やってみたらいい。――――結局、”戦うしか能のないもの”には、それしかないんだから」
〈大災害〉後の〈冒険者〉の半分以上が、現実世界での自分の身体と、〈冒険者〉としての自分の身体との間のギャップに多かれ少なかれ苦しんだ経験があると云う事は、周知の事実である。
〈ロデリック商会〉が安価で提供を始めた廉価版の〈外見再設定ポーション〉は、多くの〈冒険者〉を救った画期的な発明品であり、恥ずかしながら〈幽霊犬〉もその恩恵に与ったことがある。
彼女の場合は、背の低い女の子に憧れて、キャラクターの身長を現実の身長173センチより僅かに低い、169センチに設定したのだ。
本当はアカツキくらい小さいほうが女の子としては上等だと思っているのに、マイナス4センチなんて微妙な差に留めていたのは、ゲームで願望を充足するという行為に気恥ずかしさを感じたからだが(それでも身長170センチ台と160センチ台には、太陽と月くらい劇的な違いがあると自分では考えている)、その数センチの差ですら、戦闘の際には激しい違和感となって〈幽霊犬〉を困惑させた。歩幅が違う。射程が違う。そして何より、身体を動かす勝手そのものが違う。
その数センチの差が、数十センチの差になった時にどんな影響を及ぼすか――――我が事として考えてみれば、背筋が冷たくなるどころの話ではない。
だから、仮にもし、そのギャップを誰にも、何の助けも借りずにたった独りで克服したのであれば――――それは誰の行いであるかにかかわらず、まさしく尊敬に値する行為である。
〈幽霊犬〉は、〈エルダー・テイル〉を始めて以来ずっと、ゲームの中で出会う者誰にでも、公平であろうと努めてきた。
エルダー・テイルの様なやり込み性の高いゲームにおけるコミュニティでは、女性はとかくプレイヤースキルを低く見られがちである。
〈幽霊犬〉自身もずっと、そうした偏見に晒されてきた。だから、出来るだけ愛想を振り撒かず、女性らしい振る舞いは極力抑え、プレイヤースキルと、それを得るために費やしたゲーム内努力だけを評価する様に周囲に求めてきた。そして、相手に求める以上、自分も同じかそれ以上に、外見や上辺の性格ではなく、プレイヤースキルや、それを身に着けるための努力の多寡を、他者を評価する際の基準としてきた。そして、そうした自分の価値観を、ごく自然に受け容れ、当たり前の様に尊重してくれた〈万色の幻像〉のギルドタグに、他人からは測り知れない愛着と誇りを抱いてきた。
要するに、相手が下ネタ好きのセクハラ野郎だろうが、或いはアイテム狙いの欲深野郎だろうが、見所のあるプレイヤースキルを持ち、それを身に着けるために必要な努力をしてきた者であれば、相応の敬意を払う。それが、彼女が己に課した、唯一にして絶対のルールだったのだ。
・・・・・・してみれば、デミクァスに対する自分の態度は、些か公平さを欠いていなかったか?
そこに思い至って、〈幽霊犬〉はアカツキの瞳をまじまじと見つめなおした。ようやく、この娘のことが少しわかった様な気がしたからだ。
わかりにくい。本当にわかりにくいが、きっとこの娘は、自分を気遣ってくれているのだ。
アカツキとは、数日前に出会ったばかりだ。
〈幽霊犬〉には、一目見てこの少女が尊敬すべきプレイヤースキルの持ち主であることが分かったし、数刻短い会話を交わしただけで、そのプレイヤースキルを身に着けるに相応しい、厳しく己を律することが出来る人間であることが理解できた。アカツキは――――率直に云って、気持ちのいい人間だ。尊敬すべき同業者であるし、自分も、この少女の尊敬を勝ち得たいと素直に思える。
デミクァスはPK野郎で、ススキノを荒廃させた張本人の一人だ。どう贔屓目に見ても好きにはなれない。
だが、もしアカツキの推測が正しいのであれば、その克己心は本物だ。アカツキや自分が逃げたその場所で、逃げずに踏み止まって戦って、アカツキや自分が得られなかった勝利を手にしたことになる。それは、アカツキが認めるように、間違いなく尊敬に値する勝利だ。
気に入らない奴に借りを作るのははっきり云って、苦痛だ。でも耐えられる苦痛である。
一方で、尊敬すべき点に目を瞑り、デミクァスを否定すれば、自分は二枚舌と謗られるだろう。他の誰が云わずとも、他ならぬ自分が自分を軽蔑する。自分が自分を許せなくなる。それはおそらく――――どんな人間にとっても耐え難い苦痛であるに違いない。
まだほんの短い付き合いしかしていないのに、この小さな友人は、〈幽霊犬〉が見失いかけていた、彼女を動かす最も重要なたったひとつの歯車を見つけ出し、拾い上げて、彼女に返そうとしてくれているのだ。その気遣いに気付かない振りをするのは、〈幽霊犬〉自身の矜持が許さなかった。それは、アカツキの気持ちも、自分が今までやってきたことも、どちらも無にする愚かな行為だったからだ。
それがわかったから、〈幽霊犬〉は、アカツキを見下ろし、彼女に対する感謝を込めて、ほんの微かにではあるけれど、口の端に微笑を浮かべた。
「アカツキさん」
「・・・・・・アカツキ、でいい」
少し照れたように視線を外して、ぶっきらぼうな口調で答えるアカツキの様子に、ふと優しい気持ちがこみ上げてきて、〈幽霊犬〉の声から、普段は意識して出すようにしている肩肘張った様な余所余所しさがなくなった。ハスキーな声に、仄かに女性らしい柔らかさが籠る。
「ああ、うん、じゃあ、アカツキ。先に帰っていて。私はもうひとつ、行かなきゃいけない場所があるから」
「わかった。てとらにも云っとく」
それから二人は、伸び切ってしまったタンメンと鶏塩ラーメンをそれぞれ平らげると、代金分の金貨をカウンターに置いて、肩を並べて店を出た。
空を見上げると、不意に一つ、二つと白い花びらのような雪片が落ちてくるのに気付き、〈幽霊犬〉はダッフルコートのフードを引き上げる。
「一足先に、ギルドハウスに帰るから」
アカツキはそういうと、ビルの壁を蹴ってたちまち屋上に飛び上がり、音も立てずにアキバの夜の空に消えていった。
「デミクァスに、よろしく」
最後にそんな台詞だけが、雪とともにビルの谷間に降ってきて、〈幽霊犬〉を苦笑させた。
* * *
空手が好きだった。
仮宿の、二階の部屋の路地に面した窓を開け放ち、窓枠に背中を預けて、デミクァスは、降り積もり始めた雪をぼんやり眺めながら、現実世界にいたころの自分を思い出していた。
切っ掛けは、小学生の時に、コンビニで立ち読みした漫画雑誌で連載していた格闘漫画だった。登場人物の一人の、武神と呼ばれる空手の達人がたまらなく格好良くて、その日の夜に両親に、空手がやってみたいと頼み込んだのだ。
ちょうど自宅のアパートから歩いて15分の場所に、極真空手の札幌道場があったのが幸いして、すぐに諦めないという条件付きで、極真空手の少年部に入門することができた。
そのまま、中学・高校と空手に打ち込んだ。その頃は、寝ても覚めても空手漬けの毎日だった。
デミクァスの身長は、他の友人たちの背がどんどん伸びる中、160センチを少し超えたあたりで成長が止まってしまっていた。体格に恵まれなかったので空手選手としては芽が出なかったが、練習は苦にならなかったし、何よりも空手が楽しかったので、デミクァスは腐らずに空手を続けた。
状況が変わったのは、地元の国立大学に進学して、空手部に入部してからだった。
空手部のコーチは、デミクァスにこう云ったのだ。
「身長のねえ奴は、空手家としちゃ大成しねえ。辞めんなら、今のうちだぞ」
それから、他の部員とデミクァスの間に、明らかな待遇の差が顕われ始めた。
まず、練習に参加させてもらえない。常軌を逸した量の雑用をデミクァスだけが押し付けられ、練習の時間を与えられない。歯を食い縛ってそれをこなすと、更に倍する雑用が押し付けられる。
抗議しても無駄だった。「イヤなら辞めろ」の一点張りだ。時には台詞とともに、突きや蹴りが飛んでくる。それをデミクァスは、唇を破れるほど噛み締めながら、黙って受けた。
ついにデミクァスは腐った。しかし、その腐り方がデミクァスは変わっていた。デミクァスは、練習に費やす時間を更に倍に増やしたのだ。
真夜中、誰もいなくなった道場で、ひたすら型稽古を繰り返す。時代遅れの巻き藁突きや、砂の詰まった瓶に貫手を突き入れる訓練を、狂ったように繰り返す。空手部の練習が休みの日には、極真のほうの伝手を使って、他の空手道場や、レスリングや柔道の道場にまで出稽古に行った。
皮肉にも、これが切っ掛けで空手の芽が出た。1年次の冬には、今まで取れなかった極真空手の初段を取得し、2年次の秋には、コーチもデミクァスの実力を無視できなくなった。
「お前なら、叩けば芽が出ると思ってた」
媚びるような笑顔を浮かべたコーチが抜け抜けと云った台詞に、デミクァスはにっこりと笑ってはい、と答えた。
そしてその夜、デミクァスは地元のゲーセンでたむろしていた高校生4人に喧嘩を吹っ掛け、3人を病院送りにした。警察署に迎えに来た両親と、真夜中に呼び出されて飛んできたコーチの真っ青な顔を清々した気分で眺めて、デミクァスはひとしきり大笑いした後に、懐に仕舞っておいた退部届をコーチに叩きつけて、それっきり空手を辞めたのだ。
大学の空手部が、その年10月末に控えていた大学空手道選手権大会の出場を棄権したと知ったのは、後になってからだった。
――――そして、デミクァスは〈エルダー・テイル〉と出会ったのだ。
〈大災害〉から続く五日間のことを、デミクァスは一生忘れないと思う。
身長190センチ、体重100キロを超える〈武闘家〉の筋骨隆々とした強靭な肉体。
自分の物であって、自分の物でない肉体。
リアルの自分にこの身体があれば、空手を辞めることはなかった。
そう思ったら止まらなかった。パニックに陥る他の〈冒険者〉を後目に、思い通りにならない四肢を無理やり前に進ませながら、デミクァスはこの身体を本当の自分の身体にするためには何でもすると誓った。
デミクァスにとって、〈大災害〉後の五日間は、飲まず食わず、眠ることも惜しんで、死すらも厭わずに、錆びついた鋼の刃を鍛え直すのに費やした日々だったのだ。
いったい何度、叩き、突き、蹴り、穿ったか分からなくなるくらいに。思うように動かぬ脚を引き摺りながら、歯車の狂った時計の様に云う事を聞かない我が腕を無理やり振り上げて。最初は木、石、鉄から始めて、次はモンスターだ。わざと何匹もの集団に囲まれ、そいつらを簡単に斃せるようになったら、更に上のレベルの相手を探す。ススキノ周辺は霜巨人とドワーフたちとの戦いの最前線だ。高レベルの遭遇モンスターには事欠かない。
最初に”死”を経験したのは、自分より20レベルも下の雪狼の大群と戦った時だ。
デミクァスはこの世界での初めての”死”を、その刹那の瞬間すらも見逃すまいと心に決めていた。
七匹目の狼の顎を両手で掴んで引き裂いた直後に、背後から右の踵に咬み付かれた。アキレス腱が食い千切られる感触も、膝をついた自分の咽喉に喰い込む犬歯の熱さも、引きずり出された腸がびちびちと裂けるその音も、どれも五感の全てが鮮明に覚えている。デミクァスは、狼どもが生きたまま自分の身体を喰らう光景を、一度たりとも瞬きもせずに己の瞳に焼き付けたのだ。その記憶は、鉛でも詰め込まれたかのように重い、まるで己の所有物ではないような朧げな感覚しか伝えてこない自分の手足の感覚よりも、遥かにリアルで生々しかった。
五日目の朝日が昇り、神殿とフィールドとの往復が九回を数えたころ、デミクァスは、フィールド上で出会う自分と同じ90レベルのモンスターを――――ゲーム時代と同じように――――苦も無く蹂躙できるようになった自分を発見した。
頑強な〈冒険者〉の肉体は、数十時間にも渡る不眠不休、空腹、咽喉の渇きに能く耐えたが、精神はさすがに休息を必要としていた。九度の死は、デミクァスの精神と魂を極限まで摩耗させていたのだ。
デミクァスは、ススキノ郊外の廃墟の片隅で、泥の様に眠った。
苔むしたコンクリートの床の上で、薄汚れた毛布に包まったデミクァスは、後悔と挫折に塗れた悪夢に苛まれた。その夢の中で彼は、記憶にある限りこの世界に来て最初で最後の涙を流した。
夕闇の中目を覚ますと、肉体も精神も、今まで経験がないくらい賦活しており、そのことがデミクァスを大いに満足させた。そのまま彼は廃墟を出ると、双眸を光らせ犬歯を剥き出しにした獰猛な笑みを浮かべながら、宵闇の中浮かび上がるススキノゲート目指して歩を進めた。
ススキノゲートの百歩手前で彼は足を止めた。街道沿いに植えられた防風林のエゾマツの陰から、三人組の人陰が姿を現すのに気付いたからだ。明らかにPKの一団だった。一瞥して、〈武士〉〈盗剣士〉〈妖術師〉のパーティーであることだけ確認すると、デミクァスは脳裏で素早く特技のショートカットアイコンを呼び出した。
「〈武闘家〉かよ。面倒く――――」
人数の有利に油断して、緩み切った醜い笑みを浮かべながらそう云いかけた〈武士〉の鳩尾に、7メートルの間合いを一瞬で詰めて〈ワイバーン・キック〉。弾き飛ばしで吹っ飛ぶ〈武士〉は放置して、〈ファントム・ステップ〉で〈妖術師〉の懐に飛び込む。〈ライトニング・ストレート〉を水月に、続けて左の一本拳を咽喉、人中の急所に叩き込み、動きの止まった相手の顎にぴたりと右の拳を添えて〈虎響拳〉を一閃。とどめに横隔膜に両の貫手で〈双手突き〉を叩き込んで、残心を取りつつ漸く起き上がる〈武士〉に向き直る。
「ヤ・・・・・・ッロ・・・・・・嘗めやがっ・・・・・」
のろのろと太刀を抜こうとする〈武士〉の鳩尾に再度〈ワイバーン・キック〉を叩き込むデミクァスの背後で、〈虎響拳〉の時間差ダメージで吹き飛んだ〈妖術師〉が、悲鳴をあげる暇もなく光の粒子を残して消滅する。
弾き飛ばされよろめく〈武士〉に三度目の〈ワイバーン・キック〉。〈ファントム・ステップ〉で遅ればせながら斬りかかって来た〈盗剣士〉をやり過ごす。刃の掠った左頬から血を撒き散らしつつ〈武士〉の背後に回ると、ダメ押しの〈ワイバーン・キック〉。四度弾き飛ばされた〈武士〉は、今度は〈盗剣士〉を巻き込んでエゾマツの幹に叩きつけられた。
明らかに、反応が追い付いていない。〈冒険者〉の肉体には十分にこの状況に対処するだけのスペックがあるにもかかわらず、こいつらは、その優れたスペックを発揮しきれていないのだ。その事実を確認して、更に獰猛な笑みを深くしたデミクァスは、五度目の〈ワイバーン・キック〉で〈武士〉と〈盗剣士〉をエゾマツの幹に縫い止めると、〈武士〉が纏った大鎧の胴の真ん中目掛けてとっておきの正拳突きを五発、釣瓶打ちに叩き込んだ。〈オーラ・セイバー〉のオーラを纏った五発目の正拳を引き抜くと同時、〈武士〉は盛大に血を吐いて絶命し、光の粒子の中に消える。後に残るは、デミクァスの長髪を濡らす夥しい量の血液ばかりだ。
「おげぇぇぇぇっ!」
間に〈武士〉の身体を挟んでいたとはいえ、少なくないダメージを鳩尾に集中して受けた〈盗剣士〉は、吐瀉物を撒き散らしながら転げ回っている。デミクァスは、唇をまくり上げて凄絶な笑みを浮かべながら〈盗剣士〉に向かって歩み寄ると、殊更ゆっくりとした動作で〈盗剣士〉の頸にブーツを乗せた。
「ひっ・・・・・・ひっ・・・・・・許し・・・・・・許してっ・・・・・・」
「許すか、バカが」
ゴキン、と云う何かが砕ける音と同時に、〈盗剣士〉の身体は、本人の意思とは無関係に爪先までぴん、と突っ張ると――――だらりと弛緩し、それきり動かなくなった。
「クッ・・・・・・クククッ・・・・・・カカカカカッ・・・・・・カァハハハハハハハッ!!」
可笑しかった。
クソコーチに冷遇されたことも、腐って荒れて流した悔し涙も、あれほど好きだった空手を辞めたことも、ようやく全部忘れられたような気がした。
デミクァスは、気の済むまで笑い続けた。
笑い終わると、デミクァスはその場に腰を下ろし――――夜が明けるまでに、そこを通り掛かった十二人の〈冒険者〉を、すべて”神殿送りに”した。
あれから幾つもの夜がデミクァスの上を過ぎ去って行った。
戦いに負けることなど珍しくなかった。そもそもリアルのデミクァスには、勝てる戦いのほうが珍しかったのだ。だから、戦いに負けたことで怒り、屈辱を感じたことはあっても、それで腐ることはなかった。二度や三度ぶちのめされたくらいでめげるほど柔な鍛え方は、デミクァスはしていなかった。
シロエの時も、〈シルバーソード〉の連中の時も、〈奈落の参道〉のレイドボスどもに蹂躙された時でさえ、デミクァスは復讐を胸に立ち上がることが出来た。
人でなし、PK野郎、無法者と罵られるのは、ゲーム時代から慣れっこだった。他人からの評価など、くだらない不純物だと思っていた。
リアルもゲームも、結果がすべてだ。負ければ云い訳はできないし、勝つまで食らいつくしかない。そういう意味では、何度でもやり直せるゲームの世界は、俺のために用意された舞台だと、本気で思っていた。
そんなピント外れなことを考えていたから、一回こっきりやり直しの効かない筈の〈大地人〉の小娘にも勝てなかった。何をどうすればあの娘に”負け”を認めさせることが出来るのか、皆目見当がつかなかった。
(結局、俺のやってることは、そもそもの始まりからして間違ってたのか)
そう思った。自分のやってきたことが、途端に無価値な、無意味なことだったように思えて、ついにデミクァスはへし折れた。真ん中からぽっきり折れて、自分がなんの役にも立たない、ただのガラクタになってしまったのだと思った。
そうだ。今日、この街に来るまでは、自分は廃棄処分寸前のポンコツだったのだ。
だから、シロエの仲間の筈のあの娘から、誰にも見せなかった秘密のほんの小さなひとかけらを見透かされ、その上でそれを肯定されたあの瞬間、確かにデミクァスは救われた。
アキバの寂れた裏路地で、一度は救われるわけにはいかないと拒絶した。自分には、誰かに救われる資格などないと思っていた。救いは他の誰でもなく、自分自身が見出さなければならぬと思っていた。そして何より、あの娘が示した救いが、真に自分が求めるものなのか、それともまったく真逆のものなのか、そいつが分からぬ限りはその救いに縋るわけにはいかないと思っていた。
だが、あの娘は再びデミクァスの前に現れて、ひどく不器用で婉曲な、救いの言葉を差し出した。
なぜあの娘が自分に構うのかはわからない。シロエの仲間が自分を気に掛ける理由など、この世の何処を探しても見つけることはできない筈だ。
でも、重要なのはそんなことじゃない。
傍から見ても他人とのコミュニケーションが苦手そうなあの娘が、つかえ、迷いながらもはっきりと口にした言葉だ。
あの娘が、どんなつもりでデミクァスを肯定する言葉を口にしたのかはわからない。シロエの仲間に、ほんの少しでも評価されるようなことをした覚えはまるでない。でも、そんなデミクァスにもわかることがある。
あの娘の言葉が、嘘偽りのない本心から出た言葉であるということだ。
それが分からないほど、落ちぶれてはいないつもりだ。
もしかしたら、何も考えていないのかもしれない。ただ単に、思い当たった事実を口にしただけなのかもしれない。それでも、「尊敬する」という言葉に込められた重さを、デミクァスは無視するわけにはいかなかった。あの娘が、誰にでも軽い気持ちで、そんな言葉を贈る様な人間には見えなかったからだ。
デミクァスの中で長いこと燻り続けていた、ほんとうは大切な筈なのに今までずっと忘れられていた何かが、この時ようやく、がっちりと噛み合った――――そんな気がした。
「おい、〈無法者〉!」
窓の下からハスキーな女の声が自分を呼ばわるのに気付き、デミクァスは背中を預けていた窓枠から顔だけ上げて、声の主を視線で探した。
驚いたことに、雪が薄く積もり始めた路地から、腕組みをしたまま炯々と輝く瞳で自分を見上げているのは、ダッフルコートのフードを深く引き下ろした〈幽霊犬〉だった。
「ンだ、尻穴野郎!!」
デミクァスが怒鳴り返すと、〈幽霊犬〉は、眉を顰めて一旦口を噤む。
デミクァスの呼び方が気に入らなかったのだろう。が、そのことについては何も云わず、〈幽霊犬〉は少し声のトーンを落として続けた。
「ひとつだけ云いたい」
「なんだよ?」
云いつつ窓から飛び降りようとするデミクァスを目で制して、痩せぎすの女〈暗殺者〉は改めてデミクァスの瞳を見つめた。その態度が妙に生真面目に見えて、デミクァスは浮かびかけていた皮肉っぽい笑みを、思わず引っ込めた。
「私はお前が嫌いだ――――最初に云っとく。私はお前が嫌いだ。けど、アカツキから聞いた。お前も”必死”だったってことは、ほんの少しだけど、わかった。その」
〈幽霊犬〉は、腕組みを解くと、フードを背中に引き上げた。露わになった銀髪に、雪が落ちては溶けてゆく。
「その、なんだ。お前に”必死さ”が無いと、ずっと見くびってた。お前が持ってる、お前なりの”本気”を否定する権利など、私にはない。その一点について謝罪する。・・・・・・すまなかった」
見下ろすデミクァスの視界の中で、銀色の頭が深々と下がった。
既視感を、感じる。
あの時と同じ場所に、戻ってきたような気がした。
(お前なら、叩けば芽が出ると思ってた)
あの時デミクァスは、そう云い訳をするコーチの言葉を上辺だけは受け容れ、心の中では丸めてクズ籠に放り込んだ。
あれから一年以上経って、また、この分岐点に立たされている。あの時の選択が間違っていたかどうかは今でもわからないが、今度は、選択肢を誤るわけにはいかない。
そしてここには、〈幽霊犬〉の言葉には、あの時とは決定的に違うものが、確かにある。
「それから、すまん、もうひとつだ。明日は、お前の”本気”を見せてほしい。勝とうが負けようがどうでもいいんだ――――私は、お前の”本気”が見たい。見たくなった。だから・・・・・・」
〈幽霊犬〉の声は、相変わらず感情の起伏に乏しかった。無機質で、平板で、いつものデミクァスならいらいらさせられるであろう落ち着いた冷静さに誤魔化されそうになるけれど、今ならデミクァスにもわかる。そこにあるのは、たしかに〈幽霊犬〉の意地と、矜持と、もうひとつ。
「だから、私の”本気”も見てくれ。明日、一緒に戦ってくれ。虫のいいことを云ってるのは承知だけど、頼れるのは、お前しかいないんだ」
――――嘘偽りのない本心、まごころ。
尊敬すべき何かを持った相手から、自分も尊敬を勝ち取りたいという切実な想い。
〈幽霊犬〉も、デミクァスと同じだった。たったひとつ、それさえあれば、きっとデミクァスは、空手を棄てることはなかったはずだ。〈幽霊犬〉は、もっと肩肘張らず、他人と打ち解けることが出来たはずだ。
きっと誰かの、
”お前はすごいな、たいしたものだ”
という言葉さえあれば、すべての困難を吹き飛ばし、笑い飛ばして、前に前にと進めたはずだ。
(・・・・・・成る程な。クソッたれの似た者同士か、お笑いだぜ)
それを手に入れるのは、今からでも遅くない。いや、本当は、いつだって、遅すぎるなんてことはなかったのだ。そこに気付いて、デミクァスは思わず忍び笑いを漏らした。それが分かったから――――笑いが止まらなくなった。
不意に咽喉の奥で笑いを漏らし始めたデミクァスに、〈幽霊犬〉は頭を上げて訝しげな視線を送る。
「・・・・・・そんなにおかしかったか、今の」
その声に不機嫌そうな響きが混じったのに気付いて、デミクァスは更におかしくなった。笑いの発作が止まらない。ああ、こいつの鈍感さこそ幻想級だ。大概にしやがれ、コミュ障女が。
「クックックッ・・・・・・いやよ、ガキじゃあるめえし、回りくどいのも大概にしとけよって、なあ?」
「餓鬼とはなんだ、こっちは真面目なんだ。」
あからさまに不機嫌になった〈暗殺者〉の様子に、引き攣ったように咽喉を鳴らしながら、デミクァスは改めて窓の下の銀色の頭に、からかうような調子で声を掛けた。
「『さっきはすまん』『明日は頼む』二行でいんだよ、そう云う時ゃあな。俺は莫迦なんだ、小難しいセリフを並べられてもわからねえ」
「・・・・・・そうだったな。ミスは認める」
「クソ〈暗殺者〉が。・・・・・・いいぜ、明日、胸焼けするほど見せてやるよ、俺の本気をな。だからお前も、気ィ抜けたモン見せやがったら承知しねえぞ」
鉄の塊みたいな両の拳をガツンと一度、火花が出るかと思うほどに打ち合わせる。
「ああ、クソッたれ。清々したぜ。礼を云っとく。今、少しだけ気分がいいぜ」
今日出会ってから、まだ顔を合わせたのは三度目で、しかも前の二度はお互いに、悪態を吐くか無視するかしかしていなかったにもかかわらず、デミクァスは明日、この仏頂面の女〈暗殺者〉と一緒に戦うことに、もうなんの疑問も不安も抱いていなかった。
こいつと一緒に戦うんなら、別にいい。他の一切合財は知ったことじゃない。
デミクァスは、先ほどとはまるで違う、犬歯を剥き出しにした獰猛な笑みを浮かべて〈幽霊犬〉を見下ろした。その表情を見て、不機嫌さが吹き飛んだのか、〈幽霊犬〉のほうも――――彼女にしては至極珍しいことに――――唇の端を大きく歪めた挑戦的で好戦的な笑みを、頭上の〈武闘家〉に送って寄越す。
「イイな。――――今、最高にイイ貌してるよ、お前。じゃあ、明日、よろしくな」
そう云って、〈暗殺者〉は踵を返すと、フードを引き下ろし、片手だけ上げてデミクァスに挨拶を送って寄越して、あとは振り向きもせず――――闇の中、白く染まり始めたアキバの喧騒の中に消えていったのだった。