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餓えしものどもに捧ぐる賛歌(Ⅱ)

 本作中の登場人物について、オリジナルではない既存の登場人物については、内面・外面とも著者の独自の解釈が多分に含まれています。また、作品内世界設定についても同様です。

 本作には、「ログ・ホライズン」本編のネタバレに関する内容が断片的に含まれています。ご了承ください。


 本稿の見所はなんといっても「誰だおめえ」と云いたくなるくらいグチグチと思い悩むデミクァスです。ほんとに誰だおめえ。おもうさま思い悩むデミクァスをご堪能ください。

2.


 アキバの市街地は、かつて築かれた文明が自然の浸蝕を受けて久しいこの異世界の中でも、殊更に”自然の浸蝕”を強く感じると云う点で、ススキノとは対照的な街と云える。

 ススキノの街は、良かれ悪しかれ人類が、自然の猛威に対抗して発展してきた街だ。

 雑居ビルや学校などの建築物は、風雪に耐え得るように新たな鉄と石とで補強され、更には市街地全体に、暖房や融雪などの目的のため、温泉から汲み上げた温水が流れる鉄パイプの迷路が至る所に張り巡らされている。エッゾの無慈悲な凍土の大地に最初の開拓者が居留地を拓いて以来、雪と氷の脅威が厳しければ厳しいほどに、街は人口の構造物で覆われ続け、白一色の雪原の中にぽつんと浮かぶ黒い染みの様に異物感を際立たせてきた。

 対してアキバは、古代樹の森に呑み込まれ、一体化しつつある街だ。

 ねじくれた幹を持つ古代樹が、アスファルトばかりでなく、鉄筋コンクリートさえ割って根を張り、枝を伸ばし、葉を生い茂らせ、街全体を優しい緑のヴェールに包み込んでいる。街路のあちらこちらで緑の天蓋が心地よい木陰を作り上げ、街の住民は皆その木陰で涼を取りながら、古代樹を、自分たちよりも遥か昔からこの街を住み処と定めていた大いなる先住民として認め、多少の不便は感じていても、おおむね敬い、共存している。


 〈記録の地平線(ログ・ホライズン)〉のギルドハウスであるところの6階建ての雑居ビルは、そんなアキバの街を象徴するかのように、一際大きな古代樹が一階から屋上まで突き抜けて自己の巨大さ、強靭さをアピールしている、或る種圧倒的な存在感を放つ廃墟を改装した建物であった。

 旺盛な生命力を誇る古代樹は、ビルの窓のそこかしこから太い枝を八方に突き出しており、常緑の葉を寒風に負けずに生い茂らせている。

 6階建てと云っても恐らく、フロアのうちの半数は古木の枝葉に占領されて使い物にならないと見え、生活の香りがするのは年古りた先住者に間借りを許された、限られたフロアのみの様であった。

 ススキノの、どこか巨大な機械じみた外観の建築物に馴染んだデミクァスにとって、この生きた巨木と一体化したような雑居ビルはとてもそこに人間の生活の場があるとは信じ難く、数呼吸の間てとらへの怒りも忘れ、言葉も無い様子で見上げていた。

 そんなデミクァスの様子を横目で伺って、きしし、とほくそ笑んだてとらは、デミクァスの前に小走りに進み出て、くるりと可愛らしくターンすると、芝居がかった仕草で両手を広げて高らかに呼びかけた。

「〈記録の地平線(ログ・ホライズン)〉を代表して歓迎します――――ようこそ、アキバへ!」

「テメエだってちっと前まではススキノの住人だったろうが」

 不機嫌そうなデミクァスのツッコミも、てとらの厚い面の皮を傷付けることは適わず、つるりと表面を滑り落ちるだけだ。何しろ今日のてとらはすこぶる機嫌がいい。ススキノにいたころも、いつもニヤニヤ笑ってばかりいやがる気に喰わない奴だと思っていたが、今日の笑顔はとびきりだ。なんだかよく判らないが、何か本当に嬉しいことがあったのか、見ているほうにも嬉しさが伝わる笑顔ってものがあるのだと云う事を、デミクァスはこの歳になって初めて知った。

 てとらの顔を見たら開口一番、怒鳴りつけて問い詰めてやろうと考えていたのに、そんなに嬉しそうなツラをされたら、怒鳴るに怒鳴れないではないか。精々不機嫌な顔を作ってツッコミを入れるのが精一杯な自分自身に対して苛立ちが募る。

 以前てとらが、俺のことを”丸くなった”と云っていたのを聞いたことがある。実際、自分でもそう思う。

(我ながら、不甲斐ねえこった。)

 舌打ちをしたい気持ちを抑え込む。どんなに不機嫌な声を出そうと、怒りを込めた視線を送ろうと、てとらにはまるで通じない。あの笑顔を針の先ほども揺るがせることが出来ないのならば、舌打ちなどするだけ損だ。こういう手合いには結局のところ、疑問も怒りも率直ストレートにぶつけるしか法が無い。

「おいクソてとら。なんで俺をアキバくんだりまで呼んだのか、そいつを説明してくれるんじゃなかったのか?」

「慌てない慌てない」

「クソッたれが。こんなところまで連れてこられちゃ、〈帰還呪文コール・トゥ・ホーム〉を使ってももうススキノにゃ帰れやしねえ。もしつまんねえ理由だったら、そん時ゃわかってんだろうなこの野郎」

「わかってますって。 ささ、上がって上がって!」

「ホントに分かってんのかテメエ! おい!」

 背中を押すてとらに抗えぬ自分の不甲斐なさに、今度は本当に舌打ちしつつ、デミクァスは促されるままに〈記録の地平線〉のギルドハウスの扉をくぐった。


 雑居ビルの中は、外見から想像した以上に手狭な印象を受けた。フロアのど真ん中に鎮座する古代樹の幹が、予想よりも遥かに空間を圧迫しているうえに、恐らくあとから工事で取り付けたのであろう、普通に考えたら有り得ない位置に、武骨な鉄製の階段が据え付けられているためだ。

 とは云え、聞けば〈記録の地平線〉は、メンバー数が10人にも満たない、規模だけで云えば〈円卓〉の末席にも烏滸がましい極小ギルドだという。その程度の規模のギルドが、大きさだけ云えばこれだけ立派なギルドハウスを構えているのは、デミクァスからすれば相当分不相応な印象を受ける。それを考えれば、多少内部が手狭なくらい、大きな問題ではないのかもしれない。

「遅かったにゃあ、てとらっち。なにかトラブルでもありましたかにゃ?」

 意外としっかりした造りの階段を上って二階に上がると、出迎えたのはデミクァスも見覚えのある猫頭の紳士だった。むしろ忘れたくても忘れられない、率直に云えば”いつかぶっ殺す”リストの上位に入っている一人、〈盗剣士スワッシュバックラー〉のにゃん太だ。

「ああ、デミクァス。ご無沙汰してますにゃあ。アキバの街へようこそ」

「・・・・・・おう、猫親父。その節は世話んなったなあ」

 小憎らしいほどに優雅な物腰でこちらに会釈してくる猫親父を、前髪越しにやぶ睨み気味の三白眼で睨め付ける。にゃん太のほうは、ススキノであれだけ激しく殺し合いをした相手に接しているとは思えないほど、穏やかで涼しげな態度を崩さない。

「いえいえ、お世話だなんてとんでもないにゃあ。今日はこちらで一緒に夕飯でも如何ですかにゃ?」

「すっとぼけた野郎だな。おい、ちっとツラァ貸せや」

「困りますにゃあ。この顔は作り物じゃあなくて立派な自前ですにゃ。貸し借りはちょっとご遠慮願いますにゃ」

「・・・・・・テメエ」

「ちょっ、ちょっ、ちょ待っ、ストップ! ストぉ~~ップっ! にゃん太さんも挑発っ! 挑発なしでっ!」

 ぎしりぎしりと歯軋りをしながら、一歩二歩とにゃん太に向かって歩を進めるデミクァスを、てとらは必死に身体全体で押し留めようと試みる。ずりずりとにゃん太に向かって押しやられながら、泣き言じみた声を上げるてとらに、だがにゃん太の態度はあくまでも慇懃だ。

「とは云え我が輩もこれが素なのですにゃあ。古人曰く、智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈にゃ。兎角人の世は住みにくい・・・・・・まあ我が輩は猫であるからして、そんな浮世とは距離を保とうと常々心掛けておりますにゃ。」

「何が云いたいのかはよくわかりませんがあんまり抑えてくれるつもりが無いのはよくわかりましたっ! あっシロエさん! 逃げないでっ! 二人を止めてぇん!」

 目ざとく自分を見つけたてとらの声に、ぎょっとして固まったのは、三階からそっと顔だけ覗かせて二階のバカ騒ぎの様子を窺っていたシロエだ。

「ええっ、僕!?」

「そうそこの目つきが悪くてムッツリっぽいあなたっ! あなたですっ!」

「・・・・・・目つきが悪いのは認めるけど、ムッツリぽいってのは心外だぞ・・・・・・」

「そんな所に居やがったか、クソメガネ」

 てとらのひどい云い掛かりに思わず階段からずり落ちかけたシロエだが、デミクァスの発する気配が明らかに変わり、明確にその矛先がにゃん太から自分に移ったことを感じ取って、体勢を立て直すと僅かに目を細めながら階下のデミクァスに対峙した。右手の中指でつい、と眼鏡の位置を直すと、見上げるてとらたちからは、窓から差し込む自然光が反射して、眼鏡の奥の表情が見えなくなる。


「・・・・・・よう、〈記録の地平線(ログ・ホライズン)〉のシロエ」

「お久しぶりです、〈ブリガンティア〉のデミクァス」

 

 デミクァスの腰のあたりにしがみついて、なんとか彼を押し留めようと絶望的な努力を続けていたてとらは、いつのまにかその努力が必要なくなっていることに気が付いて、悟られぬように注意しながらそっとデミクァスの顔を仰ぎ見た。

 シロエを見上げて睨み付けるデミクァスの表情には、未だにこの状況に対する苛立ちと、一抹の困惑が見え隠れしていたものの、今にも爆ぜそうな怒りはすっかり鳴りを潜めていた。以前ススキノで再会したときは、怒号とともに胸ぐらを掴み上げる様な相手だった筈なのに――――自分で自分自身の変化に気付いているのか、いないのか。不意にこちらを見下ろしてきたデミクァスが、煩わしそうに

「いつまでしがみついてんだテメエ。邪魔だ、退け」

と顎をしゃくってみせたので、彼は素直にデミクァスの腰から離れた。後ろ手に腕を組んで、デミクァスを見つめるその顔に、再びじわりじわりと満面の笑みが浮かんでくる。自分の周りをくるくると回りながら、うんうんと嬉しそうに頷くてとらを見て、デミクァスは心底気味悪そうに距離を取った。

「なにニヤついてんだテメエは。気持ち悪い奴だな」

「いいんですよ、嬉しいことがあったら笑うんです。ボクは今、すっごく機嫌がいいんですからねっ」

「あァ? ・・・・・・っとに、ワケがわからねえ」

 あなたがちゃんと来てくれて、ボクはとっても嬉しいんですよ、とまでは流石にデミクァスが臍を曲げるので口に出さず、てとらはふわふわと笑顔を漂わせたまま、〈三日月同盟〉のマリエールにプレゼントしてもらった、お気に入りのアームチェアーに腰掛けた。もとは直継にあげる筈のものだったという樫材の椅子は、てとらには少々大き過ぎて、床に足が着かないところも密かにてとらのお気に入りポイントだ。宙に浮いた両足を子供みたいにぶらぶらさせながら、デミクァスにも椅子を勧める。

「さあさ、デミデミ。取り敢えずことの始まりから説明しなきゃ、それにはちょっと時間もかかるし、咽喉の湿しも欲しいでしょう。座って、寛いで、お茶でも飲んで、それから一人紹介しましょう」

 芝居がかったてとらの台詞に合わせるように、まるで事前に打ち合わせしたみたいな完璧に自然なタイミングでにゃん太が横合いから手を伸ばし、デミクァスに向かって木製の椅子を引いて見せる。左手には既に十分温まったティーポット。ハーブ茶の香気がデミクァスの鼻孔をくすぐって、そこで初めてデミクァスは、船を下りてからこっち、自分が何も飲み食いしていなかったことに気が付いた。

 舌打ちをして椅子に腰かけると、目の前のテーブルの上には既にこちらもよく暖められたカップが五つ。にゃん太が執事よろしく流れるような手際の良さで、カップをかぐわしい香りのハーブ茶で満たしてゆく。

「こちらのスコーンも如何ですかにゃ。干したナツメヤシ(デーツ)やイチジクを入れて焼いてありますにゃ」

 洗練された手つきで給仕するにゃん太を、デミクァスは胡散臭そうな目つきで睨んでいる。無理もない、とティーカップに口を付けながらシロエは横目でデミクァスを観察した。突剣レイピアで敵の利き手の腱を狙っているときのにゃん太と、クロテッドクリームやジャムのポットを優雅に食卓に並べているときのにゃん太の間に紙一枚ほどの差異も無いという事実は、大抵は彼をよく知らぬ者を大いに困惑させる。

 社交界の優雅さと戦場の血腥さが、ただ一人の人物の裡に見事なまでに自然に融和した稀有な例が、今皆の目の前で甲斐甲斐しくアフタヌーン・ティーの準備を進める猫頭の紳士なのだ。デミクァスの様な人種には、その存在自体が理解し難かろう。

「・・・・・・俺ぁ茶の味なんざよく知らんが」

 案の定デミクァスは、恐る恐る口を付けたハーブティーの味に、ますます混乱を深くしたようだった。右手でカップを持ち上げた中途半端な姿勢のまま、曰く云い難い表情を浮かべて極めつけの困惑を表明する。

「旨いな、これは。なんつうか・・・・・・わけがわからん。どうしてこうなる」


「ところで、彼女はどこに行ったんです? シロエさんと一緒に上にいるものとばっかり思ってたんですけど」

 両手で包むように持ったティーカップから立ち上る、暖かい湯気をあごに受けながら、てとらはシロエにそう尋ねた。それに対するシロエの声は、どうにもこうにも歯切れが悪い。

「ああ・・・・・・それね。そのね、寝るって。起こさなくていいって。上の、直継のハンモックで。その、これから彼が来るって伝えたんだけど、ね」

「相変わらずだなあ彼女。でもまあそこがイイって云うか素っ気ないところがMっ気を誘うって云うかクールビューティー萌えって云うんですか? 云うんですか?」

「知らんがな。ヨダレを拭きなさいよヨダレを」

「はっ、つい。って云うか起こしてきてくださいよシロエさん、彼女がいなきゃ話が進まないでしょう。女性の寝起きをじっくり観察する機会なんてそうありませんよいやまじで」

「それこそ知らんがな。それは兎も角、女性の寝起きを観察するのは流石に失礼に当たるんじゃないかなあ。てとらが行ってきたらいいじゃない」

「ヤです。ボクが怒られたら罪悪感感じますよシロエさん」

「ちょっと待て、僕が怒られるのはいいんかい。罪悪感感じないんかい」

「すいませんほんとにまったく徹頭徹尾クソのカスほども感じません」

「アイドルがクソのカスとかどう見てもアウトでしょう。アイドル失格でしょう」

「そうですよ。デミデミったら口が悪いですよ?」

「云ってねえっ!」

 いい加減収拾がつかないうえにえらい無茶振りをされたデミクァスが思わず怒鳴り返す。俺、よく我慢したよな? そろそろこいつらにキレても許されるよな? などと煮詰まりつつあるデミクァスの耳朶を、今度は抑揚に乏しいハスキーな声が打った。

「その場にいない人間をネタにして、盛り上がると云うのは感心しないぞ」


 階段を誰かが下りてくる気配など、一切しなかった筈だ。

 デミクァスにはそれが断言できる。気配は一切しなかった。

 今、三階へと続く階段の下に蟠る深緑の影は、フロアの真ん中を貫く大樹の幹に手を当てて、神像を仰ぎ奉じる神官の如く厳かに古木を見上げていた。

「そうか――――これのお蔭で、このギルドハウス内は屋外ゾーン扱いになっているんだな。〈隠蔽術カモフラージュ〉が有効になっている」

 再び抑揚の無いハスキーボイスが耳に届いて、初めてこの緑色の影がそれを発したことが分かる。

 ネームタグの表記は『〈幽霊犬ゴーストドッグ〉/レベル93/〈暗殺者アサシン〉』。

 ネームタグ上にはサブクラスまでは表示されない。膨大な種類のサブクラスをすべて記憶している訳では勿論無い(シロエならどうかは知らないが)デミクァスだが、同業の戦士職タンク武器攻撃職メレーアタッカーがよく選択しているサブクラスくらいなら多少の知識はある。隠密ハイド系スキルの持ち主と云う事は、〈追跡者トラッカー〉か〈偵察兵スカウト〉、海外サーバのサブクラスまで視野に入れれば〈忍びの者ニンジャ・エージェント〉や〈野伏レンジャー〉といったところか。背中に長弓と、矢がたっぷり詰まったクィバーを背負っているところを見れば、〈野伏〉が妥当なところだろう。

 身に着けているのは暗い草色に染められた、どこか特殊部隊のボディ・アーマーにも似たシルエットの、身体の線にフィットするぴったりとした革鎧だ。優美な装飾の施された鞘に納められた双剣を、左右の腰に一振りづつ佩いている。鎧と同じく暗い草色に染められた外套クロークのフードを深々と引き下ろし、影の中に沈んだ顔の中で双眸だけが炯々と輝きを放っていた。

 ボディラインが分かり易い装備のおかげで辛うじて女性と判別できるが、シロエと同等の上背やハスキーな声からだけでは、性別を見分けることは難しかろう。

「起きてたんですかゴーストさん。せっかくこれからシロエさんが突撃目覚ましかますところだったのに」

「シロエ殿には起こさなくていいと云っておいた筈だ。しっかり返事はしておられたと思ったが」

 悪びれない態度のてとらの笑顔に、〈幽霊犬〉は無表情な視線をシロエに送る。居心地悪そうにてとらの脇を肘でつつきながら、シロエは慌てて弁解した。

「僕はしっかり聞いてましたよ、僕は。てとらが僕の話を聞いてくれなかっただけで」

「まあそんなところでしょう」

 あっさりシロエの弁解を認めると、〈幽霊犬〉は外套のフードを引き上げて素顔を晒した。浅黒い肌と、背中まであるシルバーブロンドが露わになる。

 エルフ族の中でも、樹上生活を部族習慣とし、自然を友とする野性的な風貌の〈ウッドエルフ〉族の外見設定モデリングであろう。右の眉の上から頬にかけて、白い染料で部族的トライバル戦化粧ウォーペイントが施されているのが一際目立つ特徴だ。〈冒険者〉の例に漏れずかなりの美形ではあるが、表情の乏しさと抑揚の無い事務的な口調が、彼女の女性的な魅力というものを根こそぎ喪失させている。

「それよりも、てとら。私の為に尽力してくれるのは感謝するが」

 無表情だった〈幽霊犬〉の視線に、僅かながらに感情の欠片らしきものが灯ったのは、一同を見回す視線がデミクァスの上で止まった時だった。そのわずか一片の感情が、デミクァスに敵意の類と感じ取れたのは、彼がそういった感情を向けられるのにいい加減慣れきっていたからに他ならない。

「成る程、お前が私と組ませようと思っているのはこの無法者か。また随分と、分の悪い賭けに張り込んだものじゃないか、なあ?」


 *     *     *

 

 〈幽霊犬〉は、腕を組み、顎を心もち上向きにして下目遣いでデミクァスを睨み付けながら、今度は明確に挑戦的な意志を視線に込めた。相変わらずにこにこと莫迦みたいな笑顔を浮かべて何を考えているのかわからないてとらに対して、視線だけは相変わらず油断なくデミクァスを捉えたまま、怒りさえ抱いているような強い口調で切り付ける。

「私が知らないとでも思っているのか? こいつは無法者のPK野郎だ。私とてススキノに知己くらいいる。こいつの噂を聞いたことが無いとでも?」

 エルフに喧嘩を売られるのが本日二度目なら、見も知らない人間に喧嘩を売られるのも本日二度目だ。

「・・・・・・おいクソてとら。今度こそ、どういう事か説明しやがれ。ニヤけ面だの茶だの、誤魔化しが効くと思うなよ」

「わかってますって。まずは紹介します」

 険悪な空気を分かっているのかいないのか、何が嬉しいのかニコニコと愛想の良いてとら。ほんとはこいつ、笑っている顔が素の顔で、機嫌が良さそうに見えるのは全部俺のカン違いなんじゃないか。思わずそんな妄想がデミクァスの脳裏に浮かぶ。

「こちらはギルド〈万色の幻像〉の〈暗殺者〉、〈幽霊犬〉さん。〈万色の幻像〉について聞いたことは?」

「ちったぁな」


 そのギルド名については、ヤマトサーバーの事情に殊更詳しいと云う訳でもないデミクァスも小耳に挟んだことがある。

 〈万色の幻像〉は、〈大災害〉前のミナミを拠点としていた、メンバー総数二十人に満たぬ零細ギルドだ。レギオンレイドはおろかフルレイドすら満足に組めない人数のこのギルドは、にも関わらずメンバーのほとんどが大規模戦闘を舞台に活動している珍しいギルドだった。

 〈万色の幻像〉は、ギルド単位では大規模戦闘に必要な人数を集めることが出来ない。彼らはそれぞれ、思い思いに大規模戦闘専門のギルドや、大規模戦闘のために集まった非ギルド団体に、謂わば傭兵として参加しているのである。彼らはそれぞれの団体に所属しながら、ギルドとしては零細ギルド〈万色の幻像〉に所属していた。

 中には同じ団体に継続して参加していて、下手な正規メンバーよりも古参となっている者もいたし、また別の者は、所属する団体を転々としながら、よろず大規模戦闘の欠員の穴埋めからグループ対象のクエストのヘルプまで、その場限りのヘルパーの様に活動している者もいた。所属するプレイヤーは多くが比較的時間の自由がきかない社会人で、元々は、特定のギルドや団体に所属することによる時間的拘束を受け容れることが難しい、いわゆる”週末プレイヤー”たちの互助会的な集まりから、今の形態に発展してきたのだという。

 当然大手ギルドに属する帰属意識の強いプレイヤーの中には彼らを快く思わない者もおり、そんなプレイヤーたちからは、侮蔑の意味を込めて、

「”日雇い”ギルド、そう呼ばれてるって聞くぜ」

 あからさまに嘲笑を込めたデミクァスの台詞が終わらぬうちに、瞬きの速さで長弓を構え、三本まとめて矢をつがえた〈幽霊犬〉が、デミクァスの眉間に照準を定めた。

「訂正するか?」

「血の気が多いな、〈尻穴野郎アス〉。俺が云い出した訳じゃねえぜ?」

 腕組みをし、脚も組んだまま椅子にふんぞり返ってデミクァスは、口端を歪めながら鋼の鏃越しに〈幽霊犬〉の強い視線を真っ向から睨み返す。〈尻穴野郎アス〉と云うのは、〈暗殺者アサシン〉の英語の頭文字から取った、要するに通常〈暗殺者〉を侮辱する目的で使われるネットスラングだ。まともな人間なら面と向かって口にしようとは思わない。案の定、女〈暗殺者〉はぴくりとも表情を変えぬまま、弓弦を更に大きく引き絞る。

「訂正箇所が増えるばかりだな。そのうちおっつかなくなって、眉間に鼻の穴が増えることになるぞ」

「まあまあ。ゴーストさんってば落ち着いて。デミデミに全部説明しないことにはボクの義務が果たせませんよ」

 危険を感じる神経をどこかに落としてきたかのように、なんの躊躇いも無く〈幽霊犬〉の射線上に割り込んできたてとらの笑顔に一瞥くれて、ひとつ溜め息を吐くと〈幽霊犬〉は無表情のまま弓を下ろした。それを見たてとらは、嬉しそうに頷いて、二人の間の床に直接ちょこんと腰を下ろす。

「〈万色の幻像〉は、ぶっちゃけ現在のところ開店休業に等しい状態です。理由は簡単、〈大災害〉発生当時、ログインしていたメンバーが、ゴーストさんただ一人だったから。ですよね、ゴーストさん」

「そうだ。他のメンバーは全員仕事でログインしていなかった」

「そうなんです。で、それはそれとして、デミデミにお願いなんだけど・・・・・・〈幽霊犬〉さんと一緒に〈黒剣杯〉に出場してください☆」

 腰をくねくねさせて媚態を振り撒きながら思いっきり甘えた声でそう云ってくるてとらに、デミクァスははぁー、と特大の溜息をひとつ吐いた。

「ください☆、じゃねえよこの野郎。分かってねえなら教えてやるが、なんの説明にもなってねえぞ、それ」

「えー」

 すんげえ不満そうに膨れるてとら。盗人猛々しいと云うかなんというか、却って清々しいまでに自分が不当な扱いを受けているオーラを発散する自称アイドルの後ろでは、猫頭の紳士が髭をしごきながら慎ましやかに苦笑している。シロエは流石にデミクァスが不憫になって、思わず助け舟を出した。

「〈幽霊犬〉さんはわけあって、大手のレイドギルドに所属したいと考えているんです。でも〈大災害〉後の各ギルドの、閉鎖性の高まりはご存知の通りでしょう」

 これはシロエの云う通りだった。〈大災害〉を境に、身内同士で寄り集まって、自分の属する集団以外のプレイヤーを信用しなくなった団体は数多い。もともとエリート主義で閉塞的だった〈黒剣騎士団〉や〈シルバーソード〉は兎も角、〈大災害〉以前は人材発掘を目的に”体験レイド”や”野良レイド”を比較的多く企画していた〈D.D.D〉や〈ホネスティ〉でさえ、〈大災害〉後の無暗矢鱈な拡張期を過ぎた後は、ザントリーフ戦役などの特殊な事情がある場合を除いては、自らが所属するギルドのギルドタグを付けた相手以外と組んでの遠征や冒険行を行わず、そういった無制限な人材の交流を控えているのが現状だ。

 ミナミより遥かに開明的と思われているアキバの街でさえ、大きな視点で観察すれば、〈円卓会議〉の庇護下にあるギルド同士が身内として固まって、それ以外の集団に対して警戒や牽制をしていると解釈することもできるのだ。そんな状況下で、得体の知れぬ単一ギルドに支配されている筈のミナミからやって来た、請われれば何処の団体にでも出入りするような得体の知れない人間を、簡単に受け容れてくれるギルドを探すというのは、控えめに云っても骨の折れる作業であろう。


「しかし、これまたわけあって、彼女はギルド移籍はする気が無い。要するに、〈大災害〉前と同じように、〈万色の幻像〉のギルドタグを付けたまま、大手ギルドのレイドに参加したい。そんな彼女が大手のレイドギルドに問題なく受け入れられるための手っ取り早い手段と云えば、アキバの街そのものに対して大きな貢献をして信用を得るか、野に放つには惜しい人材であると云う事を大手ギルドに認めさせるか、そのふたつくらいしかないでしょう。だから彼女は、今回の〈黒剣杯〉で、大手ギルドのギルドマスターたちに対して、自分自身のプレゼンをしたい訳です。謂わば”求職活動”と云う事ですね」

 うんうん、と頷くてとらを横目で”説明がアンタの義務とか云ってたじゃないかこの野郎”と云う想いを込めて睨み付けるシロエだが、てとらがまるで堪えた様子が無いので諦めて話を続ける。

「そこで彼女と組んで戦ってくれる人物が必要となるわけですが・・・・・・今云った通りの理由から、僕らを含めた〈円卓会議〉ゆかりのプレイヤーでは手助けしても彼女が正当に評価されるか怪しいものです。しかし部外のプレイヤーで、尚且つPvPの場数を踏んでる人物となると、これはもう限られてきますよね」

「そこで、以前から彼女と面識のあったこのボクが、一肌脱いで人選した結果、デミデミに白羽の矢を立てたんです。このボクが」

 満面のドヤ顔で胸を張るてとらの後頭部を拳骨で軽く小突いて黙らせておいてから、デミクァスは組んでいた脚を解くと、身を乗り出し、険悪な視線で一同を見回した。 

「通り一遍の事情は分かった。まだ幾つか疑問はあるが、そいつは順番に聞いてゆく。まずひとつ、その女の”ワケ”ってのはなんだ」

「お前に対して回答する必要を認めない」

 にべもなく回答を拒否する〈幽霊犬〉。デミクァスのこめかみに太い血管が浮き出てうねる。

「ふたつ。その女をこのクソギルドに入れてやらん理由はなんだ。まがりなりにも〈円卓〉の一員ならば、こないだみてえにレイドの機会だってあるだろう」

「お前に対して回答する必要を認めない」

 シロエが口を開くよりも早く、〈幽霊犬〉が抑揚の無い平板な声で鸚鵡返しに繰り返した。デミクァスの奥歯が、噛み締めた力の大きさを物語るようにぎり、と鳴る。

「みっつ。その女がクソくだらねえ”日雇い”ギルドのギルドタグに拘る理由はなんだ。そんなもん棄てっちまえば、〈大災害〉直後の大手の勧誘合戦に、簡単に乗れたんじゃねえのかよ?」

「お前に対して回答する必要を――――」女〈暗殺者〉の声が、一際高く、一際敵意を込めて響く。「認めない」

 その台詞が終わると同時、デミクァスは跳ね起きた。唇が捲れ上がり、獰猛な犬歯が剥き出しになる。ぎしり、ぎしりと歯を軋らせながら、それでも口端には狂暴な笑みを貼り付けて――――シロエの目には、怒りに燃えるその体躯が、普段の倍以上に膨れ上がったように見えた。

「黙って聞いてりゃクソアマが、流石に調子に乗り過ぎだぜ。その綺麗なツラァ、いっぺんグッチャグチャにしてやるよ」

 対する〈幽霊犬〉の態度は冷ややかだ。再び素早く弓に矢をつがえ、ぴたりとデミクァスの眉間に照準を合わせながらも、てとらに対して掛ける言葉は落ち着いていて、それ以上にひどく冷たい。

「見たか、てとら。お前がこの無法者に何を期待してこの街に呼んだのか知らないが、これがこいつの、こいつら(、、、、)の本質で、本性だ。性凶暴にして自らたのむところすこぶる厚く、己の分を顧みず、他人の風下に立つことを潔しとしない。こんな無法者と組んで戦ったところで得るものなど何もない。却って私自身を貶めるだけだ」

「クソ〈尻穴野郎アス〉が、手前が死なねえと思ってお気楽に嘗めた口をきく手合いに対して、俺がどうやって手前の立場を分からせるかを教えてやるよ。そうすりゃテメエも、死なねえ〈冒険者〉の身体に閉じ込められたまま俺の前に立った不運について、ちったぁ考えるようになるだろうよ」

 デミクァスがその言葉を吐いた途端、〈幽霊犬〉の身体から、デミクァスに対する緊張、備えが嘘のように消え去った。冷ややかな瞳に浮かんだ侮蔑の色が更に強くなり、遂には侮蔑を通り越して、憐れみさえ抱いているような見下した視線をデミクァスに投げかける。

「・・・・・・”死なない”? ”死なない”だと?」


 〈幽霊犬〉は、怒りの中に困惑の色を滲ませ始めたデミクァスから、すっかり興味を喪ったように視線を外した。つがえた鏃の照準すらデミクァスから外すと長弓を背中に担ぎ直し、矢を箙に仕舞って完全に戦闘態勢を解いてしまう。


「”死なない”か、よりにもよって”死なない”とはな! 結局お前にとって、この世界はどこまで行ってもゲームなんだな、無法者」

「・・・・・・ンだとぉ?」

 〈幽霊犬〉の反応が理解できず、凄んだ声にも何処となく力が無いことに、デミクァスは苛立った。いったい何を云っているんだ、この女は?


「お前にひとつだけ教えてやる。この世に死なない者などいない。”不死の英雄”なんてモノは物語の中にしかいないんだ。どんなに肉体が不滅であろうと、どんなに精神が永遠であろうと、人は死ぬ。人間はな、無法者、”必死さ”を失くしたときに死ぬんだ。”それ(、、)にならなければ、己になれない”――――そういうそれ(、、)を失くしたときに、そいつの魂は死んで二度と起き上がらなくなるんだ。あとに遺るのは、見た目がそいつと同じだけの、ただのぬけがらだ。本質が喪われ、ただ力を振るうだけの存在となった、彷徨える影に過ぎない。そんなものはただの嵐と、ただの焔と、ただの流水と変わらない。ただそこに在るだけの力、ただの現象だ。とても人間とは呼べん」


 無機質で抑揚の無い声が孕む、侮蔑と、憐憫とが、デミクァスの心を僅かずつ、浸し、沁み入り、理解を生んでゆく。理解はじわじわと怒りを分解し、分解された怒りは末端から変質し、還元され、困惑と、何よりも遣り場の無い苛立ちに変わってゆき、デミクァスの心の裡に澱のように積もり、淀み、凝り固まってゆく。


「成る程な・・・・・・ようやく分かった。お前は、お前たちは無法者なんかじゃない」


 そして今、漸くデミクァスにも完全に理解することができた――――彼女は彼を弾劾しているのだった。彼を糾弾しているのだった。


「お前たちはただの餓鬼だ。みんなが怒っているのに、空気を読まず悪ふざけを続けて、みんなが怒っているのに気付いたら、”こんなのただの悪ふざけじゃないか” ”たかが悪ふざけに、そんなに怒ることはないじゃないか”と逆切れをして駄々をこねる、どうしょうもない糞餓鬼だ」


 ――――そうだ。この女は、世界の意思を代弁して、彼を拒絶しているのだった。

 それは、いつか聞いたことのある、この世界がゲームではないことを告げる声だった。デミクァスたちにとってのゲームが終わったことを告げる声だった。彼のターンが終わり、未来永劫回ってこないことを告げる、無機質で平板なあの声だった。

「私はいつでも本気で、必死だ――――餓鬼のお守りをしてる暇なんか無い」


 女〈暗殺者〉は、フードを目深に引き下ろし、外套を翻すと、それきりデミクァスには一切興味を失くした様に――――それどころか、デミクァスなど最初からその場にいなかったかのように彼に背を向けて、困ったように中途半端な笑顔を浮かべたまま座り込んでいるてとらを見下ろした。その背中からは、既に怒りも、拒絶も、憐憫も、つい今しがたまでデミクァスに向けられていた筈の感情は、綺麗さっぱり消えていた。まるでそこには空気しかないかのように振る舞う背中は、デミクァスの存在を、認めてすらいなかった。

「・・・・・・くだらないことに時間を使ったな。てとら、私は寝る。起こさなくていいぞ」

 てとらばかりでなく、その場に居合わせた人間全員に聞かせる様にはっきりとそう宣言すると、一同が声を掛ける間もなく、〈幽霊犬〉はデミクァスを一瞥すらせずに、階段を上って三階に消えていった。


「・・・・・・~~~~~~ッッッ!!!」

 苛立ち以上、怒り未満の燻る感情が、波動となってデミクァスの両肩から放出される。デミクァスは、苛立ちに耐えかねた様に唾を吐き捨てると、凄まじい目付きでぎろりとてとらを睨んだ。既にてとらは、ネズミみたいにすばしっこくにゃん太の後ろに身を隠して、デミクァスと、〈幽霊犬〉が去っていった三階の入り口を交互に覗っているところだ。

「おい、クソてとらっ!!」

「あいっ!」

 最敬礼で応えるチビ〈施療神官〉に、デミクァスは威圧する様に顔を近付ける。

「俺ァ今夜は宿を取ってある。次の連絡船は月末だ――――だが、それまでこのクソッたれな街にいるつもりはねえ」

「あいっ」

「テメエの面子に免じて待ってやる。〈黒剣杯〉は明日だったな・・・・・・それまでに、あのクソ〈暗殺者アス〉の態度が改まらねえようなら、今回の話しはナシだ。わかったなっ!!」

「・・・・・・あ、はい」

 にゃん太の背中に隠れているてとらの鼻先数センチに顔を突き付けて、それだけ云い捨てると、デミクァスは、辺り構わず触れれば切れそうな鬼気迫るオーラを発散しながら階段を降り、装甲鉄靴サバトン・ブーツの靴音も高く、〈記録の地平線〉のギルドハウスから出て行った。

 その背中が、人波を割りながらアキバの雑踏の向こうに見えなくなるまで、珍しく物思わしげな表情を浮かべたてとらは、それを二階の窓から見送っていた。


「・・・・・・考えを、聞かせてよ」

「うい?」

 きっとまたはぐらかされるんだろうな、と考えながら、窓から街を見下ろすてとらの背中に声を掛けたシロエは、振り向いたてとらの顔に浮かんだ見慣れない表情に、一瞬どきりとさせられた。この自称アイドルの賑やかしな〈施療神官〉が笑顔を浮かべていないところなど、ついぞ見たことが無かったからだ。

 策士なんて呼ばれている自分だが、そんな言葉は、自分よりもてとらのほうがよっぽど似つかわしくて相応しい。

 でもそう他人から見られている人間こそ、他の誰よりも、自分の能力が及ばなかったとき、自分の想定の限界を超えたときに、及ばなかった自分を責め、軌道修正の可能性を探るため、そして出来ることなら今よりもよりましな(、、、、、)結果を導くために、思い悩み、苦しみ足掻くのだと云う事を、他ならぬシロエ自身が知っていた。

 だからてとらの考えが知りたかった。出来ることなら、手助けしてやりたかった。何故ならこの小さな新しい友人もまた、彼なりのやり方で、みんなの居場所を守るために努力してくれているということを、シロエは知っていたからだ。

「・・・・・・チャンス、必要なんです。誰にでも。デミデミにも。彼女にも」

「・・・・・・うん?」

「きっと、わかるんです。だって、わからなきゃ、結局そこまでってことなんですから」

「・・・・・・そうか」

 ほとんど独り言だったのだろう。てとらの云っていることは、シロエには半分も理解できなかったけれど、てとらがデミクァスや〈幽霊犬〉のために、自分の能力の及ぶ限り何かをしてやりたいから、きっとこの機会を用意したのだろうと云う事は、他人から云われるほど鋭くも察しが良くもないシロエにも、理解することが出来た。

 思えば、あの地獄のような〈奈落の参道(アビサルシャフト)〉でもそうだった。そんなことをしても何の得もないのに、何故かこの小さな身体の少年は、自分が関わった人間を手助けしたくて仕方がないのだ。

「・・・・・・てとら」

「あい?」

「君って、実際、すっげえお人好しなんじゃない?」

 それはまさしくてとらの本質なんじゃないか。ぼんやりとシロエはそう考える。答えは、再び浮かんだ百点満点の笑みの彼方に消えてゆく。

「そりゃそうですよ。ボク、アイドルですからねっ!」

 結局正解は何なのか、シロエにはまるで分らなかったけれど、それでも別に構わない、と不器用に微笑み返しながら彼は思った。

 うん、そうだ。自分もカズ彦も、人を見る目は確かに違いない。つまりてとらは、すっげえと形容して差し支えが無いくらいにいい奴だ。

「それにしても」

 当のてとらはすっかり元通り、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、もう一度アキバの雑踏に思いを馳せる。

「本当にデミデミ、丸くなったなあ。ちょっと驚いちゃいました」


 *     *     *


 ・・・・・・余計なお世話だクソてとら。んなこたあ俺自身が一番よく判ってる。


 聞こえる筈の無いてとらの呟きが耳に届いた様な気がして、口中の苦さを唾にして路上に吐き捨てる。

 デミクァスは、旧世界で云えば中央通りの裏側、もとは電器パーツを商う小さな露店が密集していた細い路地を人目につかぬように歩きながら、先ほどの〈記録の地平線〉ギルドハウスでの遣り取りを思い出していた。

 確かに俺は丸くなった。より正確に云えば、牙が抜け落ちた。そうとしか思えない。

 デミクァスが本当の意味で自分の牙が抜け落ちたと感じたのは、〈パルムの深き場所〉のさらに奥、〈奈落の参道〉での大規模戦闘レイドから戻ってからだ。

 あそこに行くまでの自分は、〈シルバーソード〉の連中に頭を押さえつけられていただけだ。爆発しなくなったのではない。爆発の機会をうかがっていただけだ。

 あそこに行く前の自分なら、あのクソ生意気な〈幽霊犬〉とかいう女〈暗殺者〉にああまで云わせることは無かった筈だ。きっとあの女が云うつもりのことを半分も口にしないうちに、その云い分が正しかろうが間違っていようが関係なしに、その鼻っ面に一本拳でも叩き込んで、自分に対する礼儀ってものを教え込んでやろうとしたに違いない。

 嵐を抑えつけることが人間には出来ないように、或いは火の点いた火薬を爆ぜさせないようにすることが火薬自身にも出来ないように、自分の中には、自分自身でも正体の分からない、何かどろどろした抑え難い熱を持った真黒なマグマの塊みたいなものがぐつぐつと煮立っていて、デミクァスはそいつが爆発し溢れ出すままに、濁流に押し流されるような感覚で捨て鉢に拳を振るっていた。

 しかし、あの冒険から帰ってから、自分の中にあれほど沸き立っていたその塊は、冷えて固まった火成岩の様に冷たく静かになり、次第に圧縮された高密度のしこり(、、、)となって、心の一番奥の底にくろぐろと横たわっている。もちろんしこりの中心部には、未だに冷えも固まりもしないどす黒い何かが熱を持ち燻っていることには間違いない。だが、そいつが持つ熱が、デミクァスの四肢を我を忘れて突き動かすほどの熱量にまで高まるのは、今では本当に稀になってしまった。

 これはいったい、俺が弱くなったと云う事なのか、それとも強くなったと云う事なのか。

 心の中のマグマが噴き出るままに、己の身など一切省みず拳を振るう捨て鉢さが、自分の強さのひとつだったことは確かだ。

 だが、今の自分にその強さがあるようには思えない。今、自分の中には、あの〈幽霊犬〉の云っていることが、確かに正鵠を射ていると妙に納得している自分がいる。そしてあの女が正しいと云う事を認めた以上、すべてをまとめて吹き飛ばすような怒りの奔流に身を任せることが出来ない自分がいる。

 善悪の道理を弁えた”いい子ちゃん”になったつもりはない。だが、自分の中からは、

”良いも悪いも関係ない、気に入らない奴は叩き潰す”

という、正邪の理に目を瞑り、清濁等しく打ち滅ぼすいわば”蛮勇”は、すっかり消えてしまっていた。


 ・・・・・・違う。そうじゃない。本当は、俺が弱くなったのは、あそこに行くよりずっと前だ。

 思えば、”あいつ”を攫ってきた時から、俺の中の蛮勇は、夢から醒めたように消えてしまったのかもしれない。

 すべてがゲームだと割り切れれば、こんなに迷うことは無かった筈だ。よくできたヴァーチャルリアリティだと思えれば、貴族の令嬢とはいえ〈大地人〉の小娘の言葉を、真に受けることは無かった筈だ。


(さっさとわたしを殺しなさいよ)


 そう啖呵を切る”あいつ”の瞳に、本物の意思が宿っていると納得してしまった。

 〈大地人〉がAIで動く人形ならば、”本気”も”必死”も、”意思”も”矜持”も、そんなものはすべてただのまやかしだ。よるが明ければかすみと消える、紛い物が織り成す一夜ひとよの夢だ。だがデミクァスは、理屈ではなく魂の奥底の部分で、”あいつ”の瞳に宿る意思が、本物であると納得してしまった。圧倒的な強者に対して「殺したければ殺せばいい」と口にする、弱者の覚悟と矜持を認めてしまった。

 そしてそれに相対する自分自身の心や躰、現実世界に残してきたそれより圧倒的に強靭な筈の〈冒険者〉の肉体と魂、そちらのほうこそ、借り物の紛い物ではないか――――そう思ってしまった。

 そんな自分のほうこそが、みっともなくて格好悪い、そう認めてしまったのだ。

 だから俺は弱くなった。自分こそが偽物の紛い物だと、気付いてしまったから弱くなった。

 でも、だからこそ、”本物”になりたいと切実に願った。俺を打ち倒したあいつらの様に、本物の強さを、意地を、矜持を手に入れたいと、そう思ったのだ。

 

(――――俺は”熾火エンバー”だ)


 デミクァスは思う。今の俺は、ただの焼け残りの塵灰に過ぎない。未だ熱を孕み、目を凝らせば赤く輝くうずみ火が見えるかも知れないが、すべては遠い昔日の焔の残り火でしかない。もはや全てを焼き焦がす火勢は無く、ただ風に吹かれて消え去るのを待つのみだ。

 みっともねえ、とデミクァスは独り言ちた。

 俺は何を期待してこの街に来た? この街に来れば、俺が求めるものが見つかるなどと期待していたのか。

 そもそも、”本物の強さ”とはなんなのだろうか。〈腹黒眼鏡シロエ〉や、〈黒剣アイザック〉や、〈ミスリル・アイズ(ウィリアム)〉や、その他の有象無象の一切合財を、戦い、凌駕し、打ち倒せば、それで俺は本物になれるのか。

 そいつは違うぞ、とデミクァスの中のしこり(、、、)が囁く。あいつらを、たとえ戦闘で負かしたとしても、それであいつらに、本当に勝ったことになりはしない。そもそも、自分よりも圧倒的な弱者な筈の”あの女”からして、デミクァスの戦う力になんぞ――――殺す力になんぞ――――奪う力になんぞ――――洟もひっかけはしなかったのだ。そんなことに、俺と云う人間の価値を一切認めもしなかったのだ。

 あいつらは、俺が今までそれが世界の全てだと思ってきたこと――――どっちが上でどっちが下かだとか、戦いに勝ったとか負けたとか、手に入れたとか奪ったとか、そんなことなど歯牙にもかけていないのだ。俺が嘗て価値を認め、俺が未だに知っている唯一の方法では、俺が本当に勝ちたい奴らに負けを認めさせることは不可能なのだ。

 そんな奴らに勝つためには、いったい何をすればいいのだろうか。いったい何を求めればいいのだろうか。

 ・・・・・・自分自身にすら、何を求めているのかが分かっていないのに、それを手に入れるために何が必要なのかなど、到底判るわけが無い。

 今まで生きてきた中で、それがすべてだと思ってきた、そのすべてを否定されたような気がした。

 ぎり、と軋る歯軋りの音すら、何処か頼りなく聞こえる。

 きっと今、鏡を覗き込めば、痩せ衰えて疵だらけの、溺れかけた野良犬の様な惨めで無様なツラが映る筈だ。


 こう、と吹き込んできた冷たい風が、雪の匂いを運んできたのにふと気づいて、デミクァスは力無く顔を上げて空を見上げた。


 そのとき。

 重くて低い、鉛の天蓋に覆われたような曇天を、ひとすじ黒く、燕のような影が横切った。

 ビルの谷間から見上げたそれが、昼の日中に自分だけが見ることのできた流れ星か何かの様に思われて、デミクァスは目で追うだけでは飽き足らず、燕が飛び去った方向に足を向ける。

 巨漢の〈武闘家〉は、流れ星の先を追えば、地面に落ちた星屑を拾い集めることが出来ると信じる子供の様に、思い詰めた表情を浮かべたまま、自分でもよく判らない衝動に衝き動かされ、一途に黒い燕を追った。


 *     *     *


 〈記録の地平線〉の〈暗殺者〉アカツキは、〈水楓の館〉から〈記録の地平線〉のギルドハウスに帰る道すがら、彼女の主君であるギルドマスターのシロエから念話を受けた。

 廃ビルの屋上から跳躍し、古代樹の枝に着地して、枝のしなりを利用して更に高く、更に遠く、更にはやく。

 一定のレベルを超えた〈冒険者〉の身体スペックは、現実世界で云えば最低でも大型の狩猟猫類に匹敵する。喩えるならば、戦士たちは獅子や虎だ。羚羊カモシカの後ろ蹴りにも耐える耐久力タフネスと、象の皮膚をも貫く爪や牙を併せ持つ。対してアカツキの様な〈暗殺者〉は、黒豹やアメリカ豹(ジャガー)と同様のニッチを占めると云えるだろう。樹上を跳躍し、木陰に潜み、不意を衝いて急所を食い千切る。

 苔むしたアスファルト舗装の街路を歩く者たちの頭上数十メートルに張り巡らされた、コンクリートと鉄筋と古代樹の枝葉が織り成す空中回廊は、まるで豹の神に選ばれたかの様な、アカツキたちほんの一握りの〈冒険者〉だけのために用意された空の道だ。初めて波打ち際を訪れた子供みたいに、最初はおっかなびっくり渡っていたこのかたちのない道も、今では片手間に主君シロエと気楽な念話をしながらほとんど半自動的にルートを選択し、着地と跳躍を繰り返せるようになっていた。もっとも念話の向こうのシロエの耳には、アカツキが跳躍して空に飛び出し錐揉みするたびに、ごうごうと渦巻く風の音が、うるさいくらいにひっきりなしに聞こえている筈ではあるが。


「わかった、主君。これから〈幽霊犬〉を迎えに行く。今日の夕飯は、彼女と外で食べると老師に云っておいて欲しい」

(頼むよ、アカツキ。ギルドハウスでみんなでわいわい食べるよりも、そっちのほうが彼女のお気に召しそうだし。明日のことはこっちに任せて、今日はアキバを案内してあげて)

「デミクァスは結局、引き受けてはくれなかったんだな。無理もないけど」

(はっきり断られたわけじゃないんだけど。・・・・・・まあ、控えめに云ってもこれから仲良く、ってのは無理だろうね)

「てとらの考えてることって、よくわからない・・・・・・む」

 アカツキは、彼女の腕より少し太いくらいの枝に着地する直前、その着地点を狙って放たれた一本の矢をくるりと身体を捻って躱しざま、左の脇の下を奔り抜けようとする矢を器用に空中でつかまえた。

 ほぼノータイムで矢の飛んできた方向を見定めると同時、〈索敵トラッキング〉を起動し終わっている。脳裏に展開する、周囲の敵性存在リストの最上位、つまりは自分から見て最も近くにいる敵性存在の名前を示す一覧に素早く目を通したアカツキは、見覚えはあるものの懐かしさよりは嫌悪感が遥かに勝る幾つかの名前に、うんざりしたように溜め息を吐いた。

 次いで〈移動阻害ルート〉呪文の輝く鎖が投射され、アカツキの下半身を一瞬空中に縫い止めるが、これは無効化レジストに成功する。鎖はすぐに砕け散り、光の粒子となって宙に溶けて消えた。

(・・・・・・アカツキ、何かあった? 今、どこにいる?)

「ああ、大丈夫だ主君」枝を蹴り、垂直に近い廃ビルの壁をほとんど駆け降りるようにして、アスファルトが風化した剥き出しの土の地面に着地する。にやにやと下品な笑みを浮かべて自分を囲む男達を、生ゴミでも見る様な軽蔑の視線で睨め付け、左手で彼女の心配性な主君と念話を続けながら、アカツキは腰の後ろに装着マウントした鞘から、愛用の小太刀を鞘走らせた。「すぐに片づける。報告は後でするから」

身長タッパは小せえ癖にでけえ口を叩くじゃねえか、糞餓鬼」

 鉈みたいな肉厚で大振りの肉切り包丁(クリーバー)が得物の〈暗殺者〉の男が、嘲笑混じりに声を掛けてくるのをすっぱり無視して、アカツキは自分を囲む男たちを、まるで二束三文のブリキ細工でも品定めする様な、つまらなそうな目つきで見回した。

 敵性存在リストに表示されている人数は4人。〈隠形術ステルス〉で隠れていればリストには表示されないが、そっちはそれこそアカツキの専門分野だ。男たちのレベルは80から85程度。同等のレベルを持つ相手ならば兎も角、レベルでも練度でも劣る相手の〈隠形術〉を見破れないほど、アカツキが己に課した修業は生易しくない。たとえ隠密系のスキルではなく魔法使用職キャスターが使用する〈透明化インビジビリティ〉の呪文で透明になっているとしても、息遣いや衣擦れの音、足音などを消すには、付け焼刃ではない本物の鍛錬が必要なのだ。

 つまりは今現在におけるアカツキの”敵”は、目の前にいる〈暗殺者〉、〈武闘家〉、〈森呪遣い(ドルイド)〉そして〈召喚術師サモナー〉だけということになる。

 全員、見覚えのある名前なのは先ほど確認したとおりだ。男たちのうち〈召喚術師〉を除いた三人は、およそ八か月前に彼女の主君シロエがある”リスト”に登録した名前だ。そして、最後の一人――――〈召喚術師〉のシュレイダは、彼女自身がこの男の目の前でシロエに依頼し、同じ”リスト”に登録してもらった名前だった。

 即ち、八か月前にシロエが所有していた、アキバの街のギルドホールの”進入禁止リスト”にだ。

「・・・・・・なんだ、お前たち、懲りずに舞い戻って来たんだな」

 要するに、今アカツキの眼前で臭い息を吐く荒んだ瞳の男たちは、彼女の主君シロエがアキバの街に〈円卓会議〉を立ち上げた際にシロエ自身によって潰された、初心者救済を装う悪徳ギルド〈ハーメルン〉のメンバーたちだったのである。


「〈移動阻害〉で捕まえられてりゃ、近接専門の〈暗殺者〉なんざ鴨撃ちの的だったんだがな」

「それじゃあ俺の出番がねえだろうが。俺だってちっとは楽しませろよ」

 〈召喚術師〉シュレイダの言葉に、スキンヘッドで頭の悪そうな巨漢の〈武闘家〉が不満そうな声を出した。

「なにシュレイダ、ただ射殺したんじゃ勿体ねえ。女なら女なりの楽しみ方があるだろうよ」

「そいつは趣味が悪いぜ。幾らなんでも餓鬼すぎらあ」

「そりゃそうだ。しかしこいつだってシロエのスケなんだろう? 〈記録の地平線〉のシロエってのはあれか、ロリコンなのか」

 男たちから一斉に、下品極まりない笑い声が上がる。最早こいつは誤解しようがない――――この無法の雰囲気を色濃く漂わせた男たちは、明らかにアカツキが何者なのか、知って攻撃を仕掛けてきたのだ。

 アカツキにとっては既にうんざりするほど慣れ切った経験だったが、どうやら彼らは、一見しただけの彼女の外見から、彼女の年齢ばかりか実力の程まで見切った心算つもりになっている様子であった。それでも対人戦闘は手馴れているものと見えて、下卑た笑みを交し合いながらも、じりじりと包囲網を狭めてくる。レベルが上の相手に対しても、怖気づいた様子はない。

 大方今まで何度も、レベルが上の相手を倒してきた経験があるのだろう。だが、アカツキの見るところ、それは彼らの強さの証明ではない。

 物語の主人公や英雄と、〈冒険者〉に決定的な違いがあるとすれば、それは〈冒険者〉の本質、彼らの精神が、あくまでも21世紀の現代社会に生活する一般人でしかないと云う事実である。

 現代の日本人プレイヤーの中で、実戦とは云わず、ちょっとした街中の喧嘩であっても、その経験がある者がどれだけいるだろうか? そして、そんな経験など生まれてこの方したことのない者、特に女性や子供のプレイヤーが、突然こんな凶相の男たちに囲まれて、無理やり戦闘を仕掛けられたら――――果たして彼もしくは彼女は、冷静に彼我の戦力差を分析し、自分の持てる能力を最大限に発揮して、己の身を守ることが出来るだろうか?

 世の中には、男と女、大人と子供、ヤクザとカタギ、そういった、能力とはまるで関係のない社会的な差異を利用して、相手を追い詰め嬲ることだけに異様に長けた人間も存在するのだ。

 つまりは・・・・・・とどのつまりは、この男たちの様な。

 だが、アカツキは、そういった人間たちに怯え、戦わずして敗北を受け容れ、その支配に甘んじる者ではなかった。

 少なくともこの異世界セルデシアで彼女は、怒りを以て彼らに相対し、力を以て彼らを打ち倒し、身命を賭して理不尽な暴力に挑戦する者だった。

 だから、アカツキの腕は萎えることなく自らの業を正確にその小太刀に伝えていたし、アカツキの脚は怯えなど欠片もなく静かに大地を踏みしめていたし、アカツキの双眸は恐怖に伏せられることなく怒りによって強烈な光を放っていた。

「まあいいさ。餓鬼なら餓鬼で需要はある。餅は餅屋、餓鬼はそういった趣味の連中に任せりゃいい」

 この面子の中ではリーダー格らしい〈暗殺者〉が、二本目の肉切り包丁を引き抜きながら酷薄な微笑を浮かべる。その台詞に応じるように、口元を布の覆面で覆い隠した〈召喚術師〉の肩の後ろから、小さな翼を生やした悪戯好きな小鬼が顔を出し、アカツキを指さしてほくそ笑んだ。デフォルメされた可愛い容姿の〈小妖魔インプ〉は、暴力の気配を放つ陰気な〈召喚術師〉にはとことん似合っていない。

(〈悪魔遣い(デモノロジスト)〉か)

 悪魔族の従者ミニオンは、四大の精霊エレメンタルに比べて純粋な攻撃力は劣る代わりに、様々な特殊能力で〈召喚術師〉とその仲間を支援する。確か〈小妖魔〉の呪い(カース)は、敵対する者に不運をもたらし、回避力や魔法への抵抗力を少量低下させる筈だ。それ単体で劇的な効果を及ぼす呪いではないが、パーティーに対する支援効果と考えた場合その価値は計り知れまい。

 〈小妖魔〉の呪いがアカツキを冒すのを確認して、〈召喚術師〉は〈暗殺者〉に合図を送る。

「精々抵抗しな、おチビちゃん。衛士が来ねえことは分かってるんだからな」

 〈暗殺者〉のニヤけ面に吐き気を覚えつつ、アカツキはさりげなく左半身に構えて僅かに膝を撓めると、静かに、密やかに全身の発条バネを極限まで収縮し、彼女が只今この場で果たすべき義務を果たすべく、速やかに準備を整えた。

 第一目標は〈召喚術師〉のシュレイダだ。最強最速の〈致命の一撃(アサシネイト)〉をいの一番に叩き込む。出合い頭の最大反撃、それが敵の意表を突くのに最も効果的だ。相手は紙装甲の魔法使い、一撃で仕留められればよし、〈武闘家〉の〈カバーリング〉が入るなら、対応の暇を与えずに刃を返してそのまま〈武闘家〉を始末エリミネイトする。相手には回復役ヒーラーがいる。ダメージを分散させて相手の数を減らすのに手間取れば、泥沼の消耗戦に突入することになり苦戦は必至である。一人に対して単位時間あたりのダメージ出力(DPS)を集中し、まだ相手がこちらを舐めている戦闘開始直後に回復役の対処能力を飽和させる。

 アカツキをよく知る者が、彼女の長所として挙げるのが、果断さとおそろしいまでの割り切りの良さだ。敵味方の判別が恐ろしく速く、一旦敵と認めた者には極端な手段の使用を一切躊躇しない。味方にすればこの上なく頼もしいが、敵に回せば恐ろしいとはよく云われる。だから今回も、敵と割り切った相手に対する情け容赦は一切しないつもりで〈ガスト・ステップ〉を起動――――目標敵〈召喚術師〉後方、一気に包囲を突破して、背後から小太刀を延髄に突き立てようと――――左足を踏み出しかけたアカツキは、突然視界から消失した〈召喚術師〉に思わず目を丸くした。丸太でセメント袋をぶん殴った様な衝撃音が遅れてやってくる。

 突如現れた長髪の巨漢が、〈召喚術師〉シュレイダを手も使わずに右足のみで、元いた場所から5メートルも離れた廃ビルの鉄筋コンクリートの外壁に縫い止めているのにアカツキが気付いたのは、〈ハーメルン〉の連中が驚愕に目を見開いて、一斉にそいつに向かって振り向いてからだった。


 *     *     *


「お・・・・・・ごがっ・・・・・・」

 口角から泡を飛び散らせながら、虫ピンで留められた油蝉か何かの様に緩慢にもがく〈召喚術師〉を、デミクァスは猛獣よろしく犬歯を剥き出しにした狂暴な笑みを浮かべながら見上げていた。

 この時、デミクァスの脳裏からは、直前まで自分があの黒い燕を追っていたことなど綺麗さっぱり消し飛んでいる。

 辺り構わず振り撒かれる、己らを遥かに上回る暴虐の気配に、右手の得物を取り落しかけたまま暫しデミクァスを呆然と見つめていた〈暗殺者〉は、力無く助けを求めるシュレイダの声に漸く我に返った。

 ・・・・・・これは何だ。これは何だ。これは何だ。

 ほんの数秒前までは、強襲し、蹂躙し、殲滅するのは彼らのほうであるはずだった。なのに今、彼らは強襲され、蹂躙され、殲滅されようとしている。こんな理不尽があるか。こんな狂気があるか。一体何が起きているのか。説明の義務は誰にある?

 彼は、怒りと困惑と狂躁の境界線上を危うい足取りで行きつ戻りつ、闖入者の鼻先に震える肉切り包丁を突き付けた。

「い、一体・・・・・・一体なんなんだ、てめえはっ!」

「ギャアギャア喚くな。ウルセエんだよ、ゴミカス」

 上ずり音程の狂った誰何の声に、ぎしり、と空気が凝固する音を立てて振り向いた長髪の〈武闘家〉の、両の瞳に燃え盛るのは地獄の炎、食い縛ったその歯は地獄の釜の蓋だ。そいつが開くとともに、地獄の獄吏が歓喜しながら罪人を捕え、罪状を読み上げ、拷問にかける喚き声(スクリーム)が漏れ出して、生者の心胆を寒からしめる。〈暗殺者〉は、不意にそんな妄想に襲われて、我知らず二歩、三歩と後退あとずさった。

「・・・・・・テメエら如き弱っちいゴミカスどもが、俺の眼前で衆をたのんで徒党を成し、俺の眼前でテメエが強えとカン違いしながら調子に乗って外道を働く――――俺が、この俺が、そんな思い上がったクソカスどもを、一度でも見逃してやったことがあると思うかよッ!」

 呆気に取られる〈暗殺者〉を無視し、デミクァスは再度〈召喚術師〉を見上げてにたりと嗤った。一瞬消えてみえる程の速度で右足を引くと同時、中段に構えた右拳が中高一本拳を形作る。

「おおおおおおおっ! 〈七星点穴オリオンディレイ・ブロウ〉!!」

 咆哮一閃、未だ空中にある〈召喚術師〉の左右の鎖骨、肝臓、脾臓の四か所を、次々と一本拳が突き抉る。再び浮いたその身体の中心、水月の急所を左右の拳が三連撃、ほぼ同時に貫き穿った。鉄筋コンクリートの壁に再び縫い止められた〈召喚術師〉は、時間が止まったかの様なその束の間、飛び出さんばかりに目を見開いて己の腹部に突き刺さる拳を凝視していたが、その拳が引き抜かれた瞬間、共鳴ダメージを直接内臓に受けて盛大に吐血し、爆ぜて砕けたコンクリートの破片を背中に受けつつ顔面から地面に倒れ込む。

「・・・・・・おい!」

 アカツキが思わず声を上げたのは、倒れゆくシュレイダの後頭部を、もの凄い速度で何かが追いかけてゆくのを見咎めたからだが、アカツキの声でそれが止まる筈も無く――――シュレイダの額が地面に触れるか否かのその刹那、彼の延髄に稲妻の如く突き刺さったのは、鉈の重さで振り下ろされたデミクァスの踵だった。

 ボギン、という太い生木の枝が折れる様な音に、思わず顔を顰める。

 地面に突っ伏しぴくりとも動かぬまま、渦巻く光の粒子に巻かれて消えた〈召喚術師〉の身体の跡には、丁度首があった辺りに出来た、直径1メートルほどの放射状に広がったアスファルトの罅以外には、何も残ってはいなかった。


 デミクァスとて、燕を追っていて見つけたこの光景の意味を正確に把握していたわけでは無論ない。

 燕が舞い降りた辺りの路地を何とはなしに覗いてみたら、ガラの悪いチンピラのような男たちが――――つまりは以前のデミクァスにそっくりの雰囲気を持つ男たちが、子供の様な一人の女を囲んでいたのを目にしただけだ。

 これが、チンピラ同士の喧嘩であれば、たとえそれが殺し合いであっても、あるいは私刑リンチの様なものであっても、デミクァスは気にも留めずに自分の用事に戻ったに違いない。暴力を以て己の生計たつきとする者同士が暴力を以て喰らい合うのは、無惨ではあるがことわりうちであるからだ。デミクァスにとってそれは自然なことであって、殊更話題にするほどの事も無い。

 だが、その暴力を、本来それが向けられるべきでない者に向けるその姿が、以前の己の姿と重なったとき――――デミクァスには、それが何か恐ろしいほどに浅ましく、醜く、弱い何かに見えたのだ。

 嵐が来れば跡形も無く吹き散らされるのも知らず、槍を突き上げ雀を追って威勢を振り撒く藁の兵隊の如く、己を知らず、世界を知らず、ただ己より弱い者に群がって食い散らかそうとするその姿、嘗ての自分と同じ姿を今この場で見せつけられた時、彼にはそれが、世界が自分を指差し糾弾し拒絶している、その証しの様に思われたのだ。

(こいつらは俺だ)

 そう思った。

 本当はそんな筈はないと、頭のどこかで分かっている癖に、この世界がゲームだと自分自身に云い聞かせ、ゲームならば何をしてもいいと理屈をこねて外道を働く。誰かに”こいつは現実だ、現実ならば守らねばならぬルールがある”と諭されれば、”たかがゲームに何をマジになってるんだ”と小馬鹿にしたように嘲笑う。

 ・・・・・・そいつはまるで俺と同じじゃないか。あいつらに叩きのめされるまで、このクソッたれな状況が全部現実(リアル)であることを認めなかった、頭の悪い俺と同じじゃないか。そんなリアルに耐え切れず、ゲームであることに救いを求めた、みっともなくて弱い俺と同じじゃないか。

 ならば、と彼は、唐突に噴き上がった圧倒的な怒りとともに思い定める。ならば今度は、俺がこいつらを叩き潰す。


「オォッォッラァッッッ!!」

 小規模な嵐の様に周囲の全てを撥ね飛ばしながら、デミクァスは今度は自分より更に20センチは上背のあるスキンヘッドの〈武闘家〉に目標を定め、止まることなくその懐に飛び込んで、ハンマーみたいな両の拳を叩きつけた。

 元々〈武闘家モンク〉は、十二職の中で一、二を争う生存性サバイバビリティを誇るクラスだ。戦士職タンクの中でも回避力が傑出した〈武闘家〉は、ほとんど攻撃を受けないし、受けても〈呼吸法ブレス・コントロール〉や〈レジリエンス〉などの回復特技で少々の傷なら自前で治癒が可能である。

 だが、回避や受け流し、ブロックなどの防御に関わるスキル値は、〈エルダー・テイル〉の仕様上、格下や同格の相手には数値通りの効果を発揮するが、逆に格上の相手に対してはペナルティが生じ、充分に効果を発揮することが出来ない。回避することが出来なければ、〈武闘家〉の防具は革鎧がせいぜいだ。金属鎧を着込んだ他の戦士とは、防御力において比較対象にもならない。

 ましてや同じ〈武闘家〉同士の戦いならば、その差は更に顕著に、目に見える形で顕われる。体格で自分を上回る相手の懐で繰り出すデミクァスの拳や蹴りは面白いように当たり、一撃毎に深刻なダメージを刻み込むが、相手の拳も、蹴りも、デミクァスには掠ることすら稀である。

「かっ、回復くれっ!」

 風車の様に当たらぬ拳を振り回しながら、必死になって叫ぶスキンヘッドの巨漢に、〈森呪遣い〉の〈ハートビート・ヒーリング〉が飛ぶ。更に即時回復呪文ダイレクトヒールを重ねられて安心したのか、今度は一転、勝ち誇った笑みを浮かべて大振りに両の拳を振りかざした禿頭の巨人は、頭蓋も砕けよとばかりに大金槌スレッジハンマーのような〈デュアルフィスト〉をデミクァスの頭目掛けて振り下ろした。

 次の瞬間、振り下ろす腕の更に下に潜り込んで躱しざま、デミクァスが放った〈無影脚シャドウレス・キック〉が巨人の顎を正確に捉えた。相手の吐息が肌で感じられそうな至近距離から蹴り上げられた左の膝が、相手の顎をほぼ真上に垂直にかち上げる。血と唾液と砕けた歯の混合物を撒き散らしながら、デミクァスの膝は一撃で巨人の意識を頭蓋の外に弾き飛ばした。

 〈ハーメルン〉の〈武闘家〉は、まるで糸が切れた操り人形の様にすとん、と腰から崩れ落ちる。そのままゆっくりスローモーションのように仰向けに倒れ伏す巨人の背後に、脂汗を浮かべた〈森呪遣い〉の真っ青な顔が見えた。つい今しがた安全圏までHPを回復させた筈の仲間の生命を、カウンターの膝蹴り一発で刈り取られたことが信じられないのだ。

「バカがっ!」

 敵対した以上、必ずとどめまでキッチリ刺す。恐らくもう戦闘不能になっているであろうスキンヘッドの顔面を、〈震脚サンダーストンプ〉で踏み抜くと、鼻骨の潰れる生々しい音とともに、再度血と唾液と前歯の欠片が周囲に飛び散った。

 巨人の死体を踏み越え、ゆったりした歩調で今度は〈森呪遣い〉に迫る。双眸は血走り大きく見開かれ、瞳孔は縮小し、口元には酷薄な微笑を張り付けたまま。地獄の悪鬼もかくやという表情で〈森呪遣い〉の前に立ったデミクァスは、殊更ゆっくりと〈森呪遣い〉の喉首に手を伸ばし、鷲掴みにする。

「ヒ・・・・・・ヒッ、ヒッ・・・・・・ゆる、許して」

「許してくれだぁ? ・・・・・・バカ云っちゃいけねえ。テメエを裁くつもりはねえよ」

 涙と鼻水をみっともなく垂れ流して許しを請う男の耳元に顔を近付け、デミクァスはほとんど幼子をあやす様に優しく囁いた。

「安心しな。俺はテメエらを裁きに来たんじゃねえ。・・・・・・ウザってえ小虫は叩いて潰す、そんだけだ」

 恐怖に目をいっぱいに見開いた〈森呪遣い〉の顔面に、思い切り固めた拳を打ち込む――――その寸前で、黒い燕が鳴らす銀の鈴の凛、とした音色が、デミクァスの凶行を制止した。

「止めろ、デミクァス。お前のそれは、やり過ぎだ」


「・・・・・・あァ? ンだ、クソチビ」

 我を忘れて熱くなっていた脳髄に、直接冷や水をぶっ掛けられて、完全に戦意を喪失した〈森呪遣い〉の男を空中に釣り上げたまま、デミクァスは声の主に向かって苛烈な視線を放った。声の主は、デミクァスの目線のかなり下から、思い切り見上げるようにしてこちらをっと見つめている、先ほどこの男たちに囲まれていた子供みたいな女だった。

「余計な首を突っ込むんじゃねえよ、クソチビ。なにもテメエを助けたって訳じゃねえんだぞ?」

 実際それは本当だった。デミクァスには、〈ハーメルン〉のチンピラどもに対する怒りはあれど、彼らが虐げようとしていた弱者に対する同情や憐れみなどは、欠片も持ち合わせてはいなかったのだ。彼は正義の味方ではなかったし、本質的に彼の行動決定における優先順位は、未だに”気に入らない奴はブチ倒す”と云うレベルから、それほど進化してはいなかったのである。

 だが、髪の毛ひと筋ほども物怖じした様子も無く彼を見上げる黒衣の娘は、彼のそんな精神的優先度など、端から気に掛けてはいない様子であった。デミクァスをして、今の今まで持っていることにすら気付かせなかった右手の小太刀を一振りすると鞘に納め、デミクァスが思わずたじろぐほどに強い視線を上目遣いに向けてくる。

「別に。助けはいらなかった」

 あまりにも素っ気ない云い様に、デミクァスも毒気を抜かれて鼻白む。今更ながらに気付いてみれば、もう一人いたはずの〈暗殺者〉の男は、娘の背後で俯せになって倒れ伏し、今や毫とも動かない。首の辺りを中心に、じわりじわりと血溜まりが広がりつつあるところを見ると、最早息をしていないのは明白であった。延髄の辺りに唯一点、小太刀で一突きされた刺傷が見えるほかは、身体の何処にも外傷らしい外傷は見当たらない――――即ち、奴らがデミクァスに気を取られているその一瞬を衝いて、ただの一撃で男の息の根を止めたと云う事になる。

 改めてキャラ情報を確認して、デミクァスは苛立たしげに舌打ちをした。

 〈記録の地平線〉の〈暗殺者〉、アカツキ。ゆったりした忍び装束が、漆の様に艶のあるストレートの黒髪によく馴染んでいる。装飾品などはただのひとつも身に着けておらず、飾り気は皆無に等しいが、名匠の手になる日本人形の美しさを持った、不思議とデミクァスの視線を捉えて離さない、磁力の様な魅力を持つ娘だった。

 確認するまでも無く、あのいけ好かないシロエ(クソメガネ)の仲間だろう。自分が腹黒と猫親父に倒された直後、ロンダーグ達を片付けた〈暗殺者〉とは、成る程この娘であるに違いない。ならば、彼女の後ろで倒れている男を一撃で片付けた技がなんなのかは容易に見当がつく。

 ”一撃必殺”をまさに体現した〈暗殺者〉の最強の切り札、〈致命の一撃(アサシネイト)〉。

 デミクァスは、ひりつく様な羨望が胸の裡をよぎるのを自覚した。無意識に噛み締めていた奥歯がぎり、と鳴る。探し続けていた宝石の欠片が、目の前でほんの僅かに輝いた、そんな錯覚に襲われた。

「そいつはもう、それ以上は必要ない。離してやるといい」

「クソメガネのそのまた手下が、俺に指図するんじゃねえよ。だがまあ、確かにこいつにゃ興醒めだな」

 未だ片手で釣り上げたままの〈森呪遣い〉に一瞥くれて、デミクァスはにたりと笑うと、男をまるでゴミ袋か何かの様に、路地の入口に向かって放り投げた。

「行け」

「はっ、はっ、はひっ」

 砕けた腰に震える膝を引き摺って、這う這うの体で逃げ出す男を、デミクァスはニヤニヤ笑いながら見つめている。しかし彼はアカツキが、逃げる男ではなく彼のほうの表情を、僅かな表情筋の動きさえ逐一見逃すまいと只管ひたすら凝視していることには気付いていなかった。

 男が路地の入口に辿り着き、大通りのほうに逃げ出そうと走り始めたその瞬間、デミクァスの姿がふっと消えた。

〈ファントム・ステップ〉。

 転瞬の間に男の背後に到達し、後頭部を鷲掴みにして苔むしたアスファルトの地面に組み伏せる。

「云っただろ・・・・・・テメエらクソ虫を、俺が見逃すと思ったか?」

 口端には狂ったように引き歪んだ恐るべき微笑。耳の後ろまで引いた右拳を貫手に変えて、絶望に真っ青になった男の延髄に向け狙いを定める。

「死ね、カスが」

 絶好調時には鉄の胸甲にさえ孔を穿つデミクァスの貫手が男の頭蓋に突き立つ寸前、指先と頭皮の間に皮一枚の隙間を残して急停止した。そのままの姿勢で視線だけを動かしたデミクァスは、咽喉元に感じた鋼の気配の正体が、デミクァスも気付かぬうちに、彼と同等かそれ以上の速度で彼の傍らに移動したアカツキの、右手に握られた小太刀の刃であるのを認めて舌打ちをする。恐らく彼の〈ワイバーン・レガース〉と同様に、大規模戦闘産のアイテムに更に高位素材で改修を施したと思われるその小太刀は、デミクァスの顎のすぐ下で、ぢきっ、と鋼を食むような音を立てた。

「・・・・・・指図するなと云ったぜ。死ぬか、テメエも」

「――――デミクァス、お前は」

 再び邪魔をされた苛立ちのままに、傍らに立つ少女の顎に向かって拳を振るおうとしたデミクァスは、自分の咽喉に刃を押し当てたまま呟くアカツキの声に、予期せず彼を憐れむ響きが籠っていることに気が付いて、思わずはっと息を呑んだ。

「お前は・・・・・・お前がやってることは、ただの八つ当たりだ」

 アカツキの言葉は、正確にデミクァスの一番痛いところを突いた。

 その通りだ。そんなこと、自分が一番よく判っている。現に奴らに云ったではないか。自分が奴らを弾劾する権利、自分が奴らを裁く正当性など、彼岸と此岸のすべてをひっくり返しても見つかる筈が無い。そんなものはもともと、天地(あまね)く存在していないのだ。何故なら、何故なら俺は、


「そうか――――お前は、自分自身が赦せないんだな。だから、似た者同士のこいつらに八つ当たりするんだ。償いの仕方が分からないから、こいつらを叩きのめせば何かが見つかると思っているんだ」


 アカツキは、自ら望まぬ凶歌まがうたを歌う歌い手の様に静かにそう呟くと、デミクァスの咽喉元から刃を引いて鞘に納めた。

 力の緩んだデミクァスの腕の下から、〈森呪遣い〉の男が抜けだして、狂ったように泣き叫びながら、大通りのほうに逃げて行く。もはやそれを目で追いもせず、デミクァスはのろのろと立ち上がった。

 勝手なことを云うな、と喚き散らせればどんなにか楽だったろう。お前に俺の何が分かる、と怒鳴りつけられればどんなにか楽だったろう。

 だが、それはできない。それだけはできない。

 ・・・・・・デミクァスは思う。人は、どんなに都合が悪くても、己に関する真実を眼前に突き付けられたときには、黙ってそれを肯定し、受け容れることしか出来ない。

 どんなにか本当の自分が醜く、弱く、浅ましいのだと云う事を、憐れみとともに突き付けられたら――――人は否定も、反論も、弁解さえもすることが出来ず、ただ項垂うなだれて打ちのめされることしか許されないのだ。

 唯一ツ、この世のすべての、それがすべてだ。だからそれについて、デミクァスは沈黙を選んだ。

 悪い夢から醒めた様に、デミクァスを衝き動かしていた熱狂は、今やすっかり消え失せていた――――昔日の焔は遠くなり、灰と塵芥と僅かな残り火が、ただ風に巻かれて吹き散らされるのみだった。


「・・・・・・それでも助けられた。ありがとう」


 だからそのとき、燕の少女からたった一言掛けられた、短いけれど誠実な感謝の言葉は、波間に浮かぶ藁の一切れほどであっても、確かに彼に救いをもたらした。


 けれども彼は、その一言で救われるわけにはいかなかった。

 その一言で、己が赦されてていい筈が無いことを、彼は知っていたからだ。

 その救いが、彼が求めるものと同じものなのか、それともまるで正反対のものなのか、膝を抱えて泣き出したくなるくらいに、まったく見当もつかなかったからだ。


 だから彼は、なにも返さず、なにも返せず、ただ路上にひとつ唾を吐き捨てると、ゆっくりとアカツキに背を向けた。


 *     *     *


 大通りに向かって歩み去るデミクァスの背中を見送るアカツキの瞳には、微かに痛ましげな光が揺れていた。

 デミクァスは変わった。その精神の根幹に在る捨て鉢なまでの狂暴さは、未だに彼を支配していたが、アカツキの一言で潮が退くように去ったそれは、己が何者であるかを求めて苦悩する、迷い子の苦鳴を思わせて、アカツキの心に確かに楔を打ち込んだ。


 彼女は思ったとおり、見たとおりのことを口にした。

 それがデミクァスに如何程の衝撃を与えたのかが分からぬほど、無責任にはなれない。

 あんなこと、云わなければ良かったのか。でも、ああ云わなければデミクァスは止められなかった。それでも思う――――小さな自分の不甲斐なさを。傷つけなければ誰かを止められぬ自分の不器用さを。


 デミクァスは変わった。

 より正確に云えば、彼は今まさに変化の途上にあるように見える。丁度一か月ほど前の、アカツキ自身の様に。

 己自身を顧みてみれば、答えを求めて得られたことのなんと幸運なことか。

 ほとんどの人間は、一生をかけても答えを得るための手がかりの、そのまた手がかりにすらに辿り着けぬまま朽ちてゆく。

 彼女自身にもうっすらとしかわからないが、恐らくデミクァスは今、道を求めて見いだせず、答えを求めて得られずに、苦しみながら彷徨っている。

 デミクァスが懐に抱いている問いとその答えが如何なるものなのか、アカツキにはまったく見当もつかないが、そもそも余人に容易に理解出来るようならば、道として求める価値などありはすまい。だから結局、人は自分一人で答えを求めて足掻かねばならぬ。

 だがそんな時、自分には仲間がいた。笑顔をくれる友達がいた。心を繋いだ主君がいた。

 デミクァスには誰がいるのだろうか。故郷ホームタウンを遠く離れたこの異郷アキバに、彼の導師メンターとなれる者はいるのだろうか。

 仲間でも、友人でも、恋人でも。

(例えばそう――――相棒でも、だ)


 吹き込んできた木枯らしが、寒くもないのにアカツキの身体をぶるっとひとつ震わせた。

 こんな日は、温かい食べ物が恋しくなる。おでん、鍋焼きうどん、シチューなんかでもいい。なにか温かいものが無性に食べたかった。

(そうだ、今夜はラーメンがいいな。〈幽霊犬〉だって喜ぶだろう)

 そう決心してアカツキは、ひとつふたつと壁を蹴り、廃ビルの屋上に駆け上がると、古代樹の枝に飛び移り、枝から枝へ、そして更に虚空に飛び出して風に乗る。

 黒い燕は冬の空、左手を耳に当てて彼女の主君に念話を送りながら、彼女の大事なギルドハウスへとまっしぐらに飛び去った。


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