餓えしものどもに捧ぐる賛歌(I)
本作中の登場人物について、オリジナルではない既存の登場人物については、内面・外面とも著者の独自の解釈が多分に含まれています。また、作品内世界設定についても同様です。
本作には、「ログ・ホライズン」本編のネタバレに関する内容が断片的に含まれています。ご了承ください。
序.
「デミクァス、お前は強いな。」
森の衣を纏った女は、武勲を讃える戦乙女の様に、或いは哀歌を謡う歌姫の様に、気高さと嘆きを綯い交ぜにした表情を浮かべてデミクァスを見下ろした。
「お前は強いな――――だが哀れだ。哀れなお前は、いったい何処へゆかねばならぬ?」
歌う様な女の声は――――己自身のためではなく、他者を見舞う理不尽をこそ嘆き、憐れむ者の抱く憤りに満ちていたが、デミクァスは、それらすべての一切合財を顧みず、女の嘆きを、憐れみを、憤りをも見ぬ振りをする。彼は寧ろ意気揚々と、嗤って地獄に向かう兵士の覚悟に満ちた不敵な笑みを口端に乗せて、静かに女に囁き返した。
「――――何処なりとも、戦の巷へ。いずれ俺を待つ、次の戦いのために。そのまた次の戦いのために。戦って、戦って、戦い抜いたその先で、もし天上の何ものかが、それをなした者だけに賜うなにかがあるならば、それがなにかを確かめるために。」
1.
ススキノに比べれば、随分と気候が穏やかなのは、こちらの世界も元の世界と変わらない。
切りつける刃物のような寒風とも、氷粒交じりの散弾みたいな雪とも無縁なアキバの空気は、二つの街の気候の違いについて、頭の中では充分に心得ていた筈のデミクァスを軽く驚かせた。
〈大災害〉以降、単にグラフィック上の演出でしかなかった「気候の変化」は、生身で感じられる現実のものとなった。
生身で感じられるということは、「目で見る」だけのグラフィックの変化とは異なり、五感の作用すべてに気候の変化が感じ取れるということだ。
勿論、中級以上の〈冒険者〉であれば、装備の冷気耐性のお蔭で、たとえ真冬のススキノの屋外であろうと、「冷房が効き過ぎだな」程度の寒さしか感じることはない。
”四季”の変化は、F.O.Eが特に開発リソースを割いたヤマトサーバーの売りの一つだったが、自然の気候の変化に伴う暑さ寒さ程度では、充分に装備を整えた〈冒険者〉には、痛痒すら及ぼすことはない。
しかし、目に白く染まる世界を映し、鼻に垂れ込める雪雲の匂いを嗅ぎ、手のひらに舞い降り溶ける雪片の冷たさを感じれば、それが耐えられるか耐えられないかにかかわらず、人はそこに冬を感じる様であった。
たとえそれが、普段はグラフィックの変化など気にも留めない、デミクァスの様な武骨な人間であってもだ。
スミダ川に面したドックに停泊した大型の縦帆船から吐き出される人の群れは、〈冒険者〉であると〈大地人〉であるとにかかわらず、皆一様に分厚い外套やマントに身を包み、連れのいる者は肩を寄せ合い、いない者は背中を丸めて、冷たい川風から身を守りながらアキバの街へのゲートをくぐってゆく。
大型輸送帆船〈マリア・テレジア〉は、外洋航海実験船として建造された最新鋭の四本マストのスクーナー船だ。昨年以来、月に一度、アキバからヒロサキ経由でススキノまでの間の航路を、主に〈冒険者〉の旅客や交易品を積んで片道約一週間の時間をかけて往復している。凪に遭っても新発明の〈風の精霊〉を封じた〈結晶機関〉が自前で風を生み出して、航行に必要な推進力を確保する仕組みだ。
〈大地人〉は、交易商人や軍事行動中の騎士団などの一部の例外を除けば、そもそも故郷を離れて長旅をする習慣自体が無いので客となることは稀だが、それでも交易商人や行商人の中には、理解不能の新技術に頼ると云うリスクに見合ったメリットがあるとして、利用する者もないではない。
何しろ陸路と海路とでは掛かる時間も安全性もまるで違うのだ。同じアキバ>ススキノ間を陸路でゆけば、〈冒険者〉が呼び出す駿馬と云えども、二週間から三週間を見込まねばならない。荷馬を引きつつのんびり向かう〈大地人〉の隊商ならば、一月見ても楽観的に過ぎると云うべきであろう。ましてやその途中、〈緑小鬼〉やワイヴァーンが跋扈する〈オウウ山地〉を越え、更にはダンジョンと化した青函連絡通路を潜り抜けねばならぬことを考えれば、周りを屈強の〈冒険者〉に囲まれて旅が出来ると云う安心感を計算に入れなくとも、安全性と云う点については比較にもならない。
デミクァスは、寒さに縮こまる人波を眺めながら、肩をいからせ、不機嫌そうな、しかし寒さなど微塵も感じていないような顔をして、傲然とゲートをくぐった。
事実デミクァスは、氷混じりの雪風が容赦なく噛みついてくる船上でさえ、ほとんどの旅人が身に着けている防寒用の外套などとは無縁の旅生活を送って来たし、防具に覆われていない、筋肉の束が節くれだった古木の根っこみたいにうねる上腕は、今も雪に焼けた赤銅色の肌を露出させている。
実際、ススキノの街に比べれば、アキバの寒さなど何程のことか、と思う。
寒いなどというセリフは、例えば野生の狐が川を渡ろうとして半分河水に浸かったまま凍り付いているのを見たことがある奴だけが、ようやく口にすることを許されるセリフなのだ。
他人よりも頭一つ高い場所にある彼の長髪をしきりに嬲る川風に、眉すら顰めることもなく。不機嫌そうな表情も崩さぬまま、石畳にひとつ唾を吐き捨てると、彼はゲートの奥――――臨時検問所、と立札の立てられた、まるで野戦司令部みたいな巨大な天幕に向かって歩を進めた。
* * *
「皆様、臨時検問にご協力くださいっ!」
「今回アキバにいらっしゃった目的は? ああ要するに、『何しに来たか』ってこと。簡単で構いません。」
「出発地のタウンをここに書いて。ヒロサキ? あっちの〈緑小鬼〉どもの様子はどうだい?」
「ゴチャゴチャうるせえ、嫌なら帰れ!」
天幕内は、揃いのマントを身に着けた黒い軍装の一団と、先ほどスクーナーから降り立った旅人たちとの喧騒で満ち、むせ返る様な熱気が溢れていた。
声を嗄らして臨時検問への協力を叫んでいる、まだ中学生くらいと思しき〈神祇官〉の少年。
物々しい雰囲気に眉を顰める〈大地人〉の行商人に、所定の用紙への記載要領を卒なく説明する、三つ揃いを身に着けた物腰柔らかな〈吟遊詩人〉の青年。
クエスト帰りの〈冒険者〉の一団に、笑顔で労いの言葉を掛ける、世慣れた様子の〈盗剣士〉。
枯れ木みたいに痩せ細っている癖に、ごつい鎧を身に着けた大男の〈武士〉を圧倒する勢いで怒鳴りつけている初老の〈妖術師〉。
黒い軍装の一団は、板金鎧を身に着けた〈守護戦士〉風の者もいれば、革鎧を身に着けたはしこそうな〈暗殺者〉、粋にローブを着崩した〈召喚術師〉もおり、口調も態度もてんでばらばら。統一感の無いカオスな雰囲気は、「検問」という言葉のイメージからは随分かけ離れていたが、それでも、どのメンバーの鎧も艶消しの黒一色に染められていることと、揃いのマントに見事な意匠で染め抜かれた〈黒い剣〉を象った紋章を見れば、ゲートをくぐってきた〈冒険者〉も〈大地人〉も、彼らが相対しているのがヤマトサーバーで一、二を争う戦闘集団の一員であることを察して、皆一様に不満や疑問を押し殺し、最終的にはその指示に従うのであった。
彼らが相対しているのが、〈黒剣〉のアイザック率いる〈黒剣騎士団〉であるからには。
その〈黒剣〉のアイザックはといえば、天幕の中央に無造作に積み上げられた木箱の端に腰を下ろし、部下とのやり取りを終えてアキバの街に入っていく訪問者たちを、その背中が街の人混みに紛れて見えなくなるまで、まるで親の仇か何かのように睨みつけている。
中には気味悪そうにアイザックのほうを覗う者もいたが、そんな視線を彼は気にも留めず、寧ろ威嚇するかのようにますます視線をきつくするので、大方の者は、慌てて視線を逸らすと、小走りにさえなりながら、アキバの人混みに逃げ込んでいく。
その様子にやれやれ、とため息を吐きながら、一人の〈盗剣士〉がアイザックに声をかけた。
「団長。そんなツラで睨まれた日にゃ、〈竜王ウルダール〉だって回れ右をしたくなりますぜ。」
「うっせぇぞ、テオドール。持ち場はどうした。」
普段の豪放磊落さはどこへやら、まるで〈腹黒眼鏡〉が乗り移ったみたいな三白眼のまま、アイザックは振り向きもせずにそう怒鳴る。
テオドールと呼ばれた〈盗剣士〉は、もう一度わざとらしいため息を吐き、「おっかねえ」と聞こえよがしに呟くと、それでも然程めげた様子も見せず、派手な羽根飾りのついた鍔広の帽子をくるくると器用に指先で回しながら、彼の団長に向かって殊更陽気に懸案事項を報告にかかった。
「さて団長、そろそろ暇潰しが要る頃合いかと思ってね。面白え客が来ましたぜ。」
「客だと?」
「そうです。客です。俺の判断にゃあ余るもんで、団長がご自分で検分してくださいよ。」
赤い巻毛と飄々とした人好きのする微笑が印象に残る〈盗剣士〉の、どこか面白がるような無責任な口調に、今度はアイザックが特大の溜息を吐く。こっちの苦労も知らねえで、とますます眉間の皺が増える。
「厄介ごと押し付けんのも大概にしろよな。どんな客だ?」
「お尋ね者、ってワケでもねえか。兎に角、アキバに入れていいのか俺じゃ判断できませんよ。」
「てめえは『判断できねえ』んじゃなくて『責任取りたくねえ』だけだろうが・・・・・・今はどうしてる?」
「責任取るのが好きなら自分でギルド立ち上げてますよ。4番倉庫で待たせてあります・・・・・・俺も行かなきゃダメですか?」
「他人事みてえに言ってんじゃねえ!」
・・・・・・誰のせいで見も知らねえ他人にメンチ切ってると思ってやがる。
八つ当たりとは分かってはいるが、いざ寝不足と疲労に押し潰されそうになってみれば、そんなことは些細な問題だ。
「誰か付いてるか?」
「ああ。面倒だったんで、フアン=ブランコに任せてきました。」
「・・・・・・面倒が増えてなきゃいいがな。行くぞ。」
心の中で振り上げた拳を、振り下ろす場所も見つからぬまま振り上げっぱなしにしつつ、勢いよく立ち上がったアイザックは、荷物検査などに使っている廃倉庫に向かって大股に歩き始めた。不機嫌極まりない団長の、きっかり三歩後ろに従いながら、テオドールはやれやれ、と三度溜息を吐くと、愛用の羽根飾りのついた鍔広の帽子を斜に被りなおした。
勧められた折り畳み椅子に腰も下ろさず、腰のベルトに備付けた〈魔法の鞄〉も降ろさぬまま、とうに窓ガラスの落ちた廃倉庫の窓を背にして―――つまり、何があっても逃げ出せる態勢で、デミクァスは腕組みをして倉庫の入り口を睨み付けていた。
もとより、アキバの街に素直に入れるとは思っていなかった。
〈大災害〉直後からこっち。
ススキノの街は、一時期街から〈冒険者〉たちが逃げ出し、廃街の様になったことがあった。
その頃、デミクァスはギルド〈ブリガンティア〉を率いて、暴力で街を支配していたのだ。
そして、そんな街から〈ブリガンティア〉の支配を快く思わない〈冒険者〉達が逃げ出す支援をしていたのが、アキバの街を統率する〈円卓会議〉だと知ったのは、ほとんどの〈冒険者〉が逃げ出した後のことだった。
ススキノから、冒険者たちが脱出する切欠となったのは、あの〈腹黒眼鏡〉とその仲間たちだ。〈大災害〉直後、たまたまススキノを訪れていた、アキバのギルド〈三日月同盟〉の〈森呪遣い〉セララに執着したデミクァスは、セララを救い出すためにススキノを訪れた〈腹黒眼鏡〉とその仲間たちに一杯食わされ、手ひどくメンツを潰された上にセララを奪い返された。結果、〈ブリガンティア〉の横暴は、想定よりも遥かに早くアキバやミナミに知れ渡った。加えてそれ以降、〈ブリガンティア〉のススキノの街への影響力は減少し、そのせいで〈円卓会議〉が〈冒険者〉たちを手引きして街から脱出させるのを、妨害することが出来なくなったのだ。
そしてその〈腹黒眼鏡〉が、実のところ〈円卓会議〉の発起人にして、〈円卓〉を総べる11ギルドのひとつ〈記録の地平線〉のギルドマスターであったことを知ったのは、あれが二度目にススキノを訪れた時である。
要するに、デミクァスと彼のギルドは、頭から尻まで徹頭徹尾、〈腹黒眼鏡〉の差配にしてやられたと云う訳だ。
まあ〈記録の地平線〉のシロエのことはこの際置いても、肝心なのは、〈ブリガンティア〉とデミクァスの悪行が、アキバの街では広く知られているという事実である。
そもそも、〈大災害〉以前から、アキバやミナミにいられなくなった評判の悪いプレイヤーの立ち上げたギルドとして、〈ブリガンティア〉の悪評は遍く知られていた。ましてや〈大災害〉後のススキノの惨状を知る者からすれば、その悪評は高まりこそすれ収まることなど有り得ない。
なれば、特に〈三日月同盟〉のセララを初めとする被害者たちや彼らに近しい友人知人にとって、〈ブリガンティア〉とそのギルドマスター、デミクァスの名を忘れることなど不可能であると云う事は、如何にデミクァスとて容易に想像がつく。
故に、この名とギルドタグを付けている限り、自分がアキバの街で歓迎を受けられる筈が無い。
デミクァスにしても、昨年の暮れまでは、まさか自分がアキバの街を訪れることになるとは夢にも思っていなかったが、年が明けて、不測の事態によりアキバの街を訪問するにあたり、都合よくそうした事実を忘れられるほどには、事態を楽観視はしていなかったのである。
恐らく通常は、交易商人たちが持ち込む積み荷の検査などに使われているであろう、がらんと広い倉庫の入り口は、特に逮捕監禁の意図もない様子で開け放たれていたが、その代わりだと云わんばかりに、一人のエルフの〈施療神官〉が、入り口の前に仁王立ちに立ちはだかっている。名前はフアン=ブランコ。レベルは94で、デミクァスと同等だ。
黒く塗装した甲冑を身に着けた、デミクァスとそう歳の変わらなそうな若いエルフは、鞘ごとの長剣を杖代わりに地面に突き立てて、護衛と云うよりは寧ろ見張りのような険しい視線を、真っ直ぐにデミクァスに向けている。流石にここまで露骨に険悪な敵意を向けられるのは、デミクァスとしても久しぶりだ。
「・・・・・・おい、いい加減、いつまでここにいりゃあイイんだよ?」
そう声を掛けてみても、
「・・・・・・黙れ。問答無用で斬り捨てられないだけ、有難いと思え。」
と取り付く島もない。
しかし、デミクァスも自分が気の長いほうではないという自覚がある。こうも明確かつ率直な悪意を向けられ続けると、腹の虫の居所が悪くなる。云いたいことがあるならはっきり云え、多勢で押し包むつもりなら無駄にこちらを待たせるな、と云いたくもなる。そしてひとたびそう考え始めると、止め処無く苛立ちが募ってゆく。
「クソッたれが。大手の看板背負ってりゃテメエが偉くなったとカン違いするアホは、何処にでも居るもんだな。」
聞こえよがしなデミクァスの呟きに、〈施療神官〉のほうも青筋を立てた。どうやら気の短さはお互い様らしい。長剣の柄に手が掛かったと思った次の瞬間には、既に鯉口が切られている。その時にはデミクァスのほうも、僅かに膝を撓め、前後左右どの方向にでも跳躍できるように準備を整え終えている。
「・・・・・・狂犬が噛みつくのは当然だな。きつい躾が必要か。」
「クソ〈施療神官〉が。挽肉にして欲しいなら最初っからそう云えよ。」
さして広くない倉庫内に、息が詰まる様な殺気が渦巻く――――相手はアキバのみならずヤマトサーバー全体を見渡しても一、二を争う戦闘系ギルド、〈黒剣騎士団〉の第一線を張る〈施療神官〉だ。それも後衛で支援を専門とする専業回復職と云うよりは、明らかに前衛で戦士職や近接戦闘職と肩を並べてガチの白兵戦をやるような〈アーマークレリック〉である。レベルはデミクァスと同等だが、恐らく身に着けている装備は最低でも秘宝級か大規模戦闘ランクの製作級、半分以上は幻想級の筈だ。何も考えずにブン殴り合えば、たとえこちらが戦士職で相手が回復職というクラスの差があっても、押し負ける可能性は皆無ではない。
だが、対プレイヤー戦闘における勝敗の要因として考えた場合、レベルや装備は大きな要因ではあるにしても、覆すことのできない圧倒的な要因ではない。対モンスター戦闘とPvPでは求められる戦略戦術が、そして何より戦闘の基本思想がまるで違う。
PvEは要するに、「時間毎に決まった行動をとる」「一定の行動に対しては、決まった反応を返す」というAIのパターンを解析し、それに対して最適解を返すという一種の作業だ。例えばどんなに相手が強力なレイドボスで、何度も全滅を繰り返したとしても、一度完全に攻略してしまえば、それ以降は全滅どころか死者すら出すことなく打倒可能になるという、レイドギルドであれば”よくある光景”は、前述のPvEの特徴を最も端的に顕わした事実であろう。
対してPvPは、突き詰めて云えば即興と対処がその本質だ。レベルと装備に余程の差が無い限り、何も考えず攻撃するに任せ、ダメージが高くて使いやすい特技を繰り返し使用するだけで勝てることは少ない。
たとえ人間が相手だと云っても、〈冒険者〉である以上はメイン職やサブ職によって出来ることは限られるし、当然PvPにおいても、クラス毎に強力で効果的だとされる一定の戦術は存在するものの、相手が次の瞬間、その戦術をかなぐり捨てて、それまでとはまるで違う行動をとってこないという保証はどこにもない。定められた行動、決まった反応を取り続けるAIと違い、相手は自分と同様、生きて常に最適な行動を模索し続ける人間なのだ。次に何をしてくるかを完全に予測しきることはできない以上、相手を倒すという目的に対して効果的であるという前提さえ満たせば、あとは如何に相手の予想しない行動、予想しない反応を選択して、相手の対処能力を飽和させるかが勝利のカギとなる。
当然レベルや装備が向上すれば、攻撃力や耐久力は上昇するし、自分が取れる行動の選択肢も増えるわけで、その点では議論の余地なく”有利”ではあるが、結局どんなに数値的な上限を底上げしても、プレイヤーの対応力がそれを生かしきれなければ、上昇した数値は単に敗北までの時間を長引かせるだけの延命処置に過ぎなくなってしまう。
レベルが低くても”何をやってくるかまるで分らない”相手のほうが、レベルも装備もいいのに”ワンパターンな行動しかしてこない”相手よりも強い、と云う事はままあるのだ。
デミクァスは、PvPってのは要するに、”場数を踏んで慣れること”だと思っている。
PvPという戦闘環境は、同じ人間が相手と云う時点で、AIが動かす自動人形であるところのモンスターとの戦いとは異なった特殊な環境である。
対戦格闘ゲームとRPGが違うのとまったく同じ意味で、PvPとPvEは違うのだ。RPGしかやったことのないプレイヤーが対戦格闘ゲームに勝とうと思えば、まずは場数を踏んで慣れるしかない。
PvPという特殊な戦闘環境に慣れ、相手が何をしてこようと動じずに、即座にそれに対応できるようになれば、七割方は互角の勝負が出来る。残りの三割がレベルや装備という訳だ。
(尤もそのためには、自分が持つ基礎能力、自分が使う特技の長所短所を研究し、研鑽するとともに、相手の基礎能力、相手が使う特技の長所短所を研究し、解析しなければならない。生憎とデミクァスは、自分自身の能力や特技を研究し、研鑽し、その限界を極めると云うことにかけては類稀な才能を持っていたが、自分以外のクラスのそれらを研究し、解析すると云う分野においては、ありきたりな落第生でしかなかった。これらは車輪の両輪で、片輪が脱落した状態では走り続けるにも限界があるのだと云う事を、よりにもよってあの〈腹黒眼鏡〉に気付かされたと云う事実は、デミクァスが決して忘れないと誓った人生最大の屈辱のひとつだ。)
そういう意味では、何度も彼に床を舐めさせた〈シルバーソード〉の連中は、ただの大規模戦闘マニアの集まりではなく、PvPでも場数を踏んだ本物の戦闘集団だったのだ。
〈エルダー・テイル〉がゲームだったころ、一般的なプレイヤーがPvPを経験する機会と云うのは決して多くはなかった。
運営が行った数々のハラスメント対策によって、PKというのはかなり限られた一部のプレイヤーによる道楽的な趣味になっていたし、そもそもプレイヤー同士の戦いをしなければ暇を持て余すほどには、〈エルダー・テイル〉の世界は狭くも浅くもなかったからだ。ほとんどのプレイヤーは、運営側が用意する謎と驚異に満ちたセルデシアの世界を冒険することに満足していて、一緒に冒険している、能力も専門分野も違う仲間との強さの優劣については興味を抱いていなかったのだ。
一方のデミクァスは、〈大災害〉以前から少なくない時間をPvPに費やしてきた。PvP大会で上位に食い込んだことも一度ならず、悪名だけでなく、そっちの道でも意外と顔は知られている。もともと、自分と誰かとの”強さ較べ”に興味があるほうだったのだ。
だからデミクァスは、少なくともPvEしか経験したことのない一般のプレイヤーに較べれば、ずっと”場数を踏んで慣れている”と云う事になる。
(なら、テメエはどうだ――――育ちの良さそうな〈施療神官〉さんよ?)
「・・・・・・何やってんだ、お前ら。フアン=ブランコ、勝手なことをしてんじゃねえよ。」
「・・・・・・団長っ。」
殺気の渦が今にも弾けようとしたその時、ドスの利いた静止の声が、〈施療神官〉の動きをぴたりと停止させた。同時にデミクァスの瞳が、驚きに見開かれる。
まさかこんな大物が、直接こんな場所に出張ってくるとは、流石に思いもよらなかったためだ。
なんとなれば、フアン=ブランコの長剣の柄を押し戻し、その背後から顔を覗かせたのは、誰あろう〈黒剣〉のアイザックその人だったのだ。
* * *
「部下が先走っちまってな。詫びを入れとく、〈ブリガンティア〉のデミクァス。」
云いつつ、僅かにだが――――確かに自分に向かって頭を下げたヤマトサーバー有数の戦闘ギルドのギルドマスターに、デミクァスは少なからず驚かされた。
同じギルドマスターとはいえ、喩えてみれば、相手は王国騎士団の団長で、自分は山賊の頭領に過ぎない筈だ。立場も実力も自分とは比較にならぬはずの相手が、こんなつまらない事でこうも簡単に自分に向かって頭を下げるなどと、今まで想像したこともなかったのだ。もし立場を変えたとき、自分はここまで率直に相手に謝罪し、頭を下げることが出来たかどうか。そのことを考えたとき、デミクァスの心にまず浮かんだのは、以前にも味わったことのある圧倒的な敗北感だ。
(・・・・・・お前が来てくれて助かった。ありがとう。)
〈奈落の参道〉の冒険を終えてススキノに戻り、タウンゲートの前で別れ際、〈ミスリル・アイズ〉のウィリアム・マサチューセッツ――――いつもは狷介不羈を地で行くような〈シルバーソード〉のギルドマスターが、何時にも増して怒った様に、眉間に皺を寄せたまま、それでもいつもよりほんの少しだけ、柔らかいトーンで呟いた礼の言葉が脳裏に甦る。
”すぐに相手に頭を下げる奴は弱い奴だ。頭を下げれば味方が増えると思ってやがる。”
以前、大学の部活で一緒にやっていた誰かが、小馬鹿にするような口調で云っていたのを聞いたことがある。
その時のデミクァスは、ああそんなものか、となんとなく納得した。強い奴はプライドがある奴で、プライドがある奴は他人に頭なんか下げないと思っていたのだ。
だが、レイドの戦術構築を散々引っ掻き回した挙げ句、レイド部隊を壊滅の瀬戸際に追いやったデミクァスに、ほんの僅かではあるけれど、見間違え様も無くしっかりと頭を下げたウィリアムは、とてもじゃないがプライドの無い奴には見えなかったし、勿論デミクァスが何度喧嘩を売っても勝てない強い奴だった。
彼は、デミクァスを味方につけたくて礼を云って見せた訳ではないのだろう。
ただ本当に、”ありがとう”という気持ちを素直に伝えたくて、自然と口を突いて出た言葉が、その気持ちのままの、”ありがとう”と云う言葉だったのだと、今のデミクァスにはよくわかる。何故なら、ウィリアムとは、一緒にあの濃密な時間を生きてきたし、一緒にあのぎりぎりの場所で死んできたからだ。ウィリアムだけではない。フェデリコとも。ルギウスとも。あのクソ忌々しいシロエとも。直継やてとらともだ。
だからわかる。そんな気がする。理屈じゃあない。
それがわかるから、きっとこのアイザックと云う男も、小さな面子に拘らず、自分が頭を下げるべき場面で、当然に頭を下げたのだろうと見当がつく。
そして何より、今の自分にはまだ、この男たちに勝つどころか、追い付くことすらできないという事実もまた、嫌と云うほどよくわかる。自分がそんな器でないことを――――自分がどんなに小さい人間なのかと云う事を、歯軋りしたくなるほど思い知らされる。
戦う力とは別の意味で、人間として、今の俺ではこいつらには勝てない。そう思い知らされるのは、屈辱ではないが忌々しい経験ではあった。
「・・・・・・いや、構わねえ。俺も挑発したのは事実だ。」
緊張を解いて戦闘モードを解除したデミクァスを、〈黒剣〉のアイザックは、なかば面白そうな、なかば感心した様な表情を浮かべたまま、値踏みする様に一瞥した。
「・・・・・・へえ? 聞いてたのとはだいぶ違うカンジだな。もっとこう、蹴りのひとつでも飛んでくるかと思ってたぜ。」
「なんとでも云いな。で、俺はなんでこんなところで足止めされてんだ?」
実際のところは問わずとも理解している。自分をアキバの街に入れていいものかどうか、危険が無いかどうかを検分しているのだ。
(と、なると、噂は本当だったみてえだな。)
通常ならば、どんな危険人物が街に入ろうと、街中で例えばPKや強盗などを行うことは不可能である。最高レベルの〈冒険者〉数人がかりでも太刀打ちできない戦闘力を誇る衛士が、行為者を速やかに捕捉・排除にかかるからだ。衛士が身に着けた魔法甲冑は、着用者に戦闘力とともにアキバ街区内に限り無制限の瞬間転移能力を与える。不逞の輩は戦う事も逃げることもできず、捕縛され投獄されるか殺されて大神殿送りになるかの不本意な二択を強いられるわけだ。
従って、〈天秤祭〉のような特別な状況でもない限り、〈冒険者〉がわざわざ街の入り口で検問を張って、不審者の街への侵入を防ぐ必要はまず無いと云っていい。
そう、”通常ならば”。
その噂が、まるで慎重に調整されたような速度でススキノの〈冒険者〉たちの間に広まり始めたのは、昨年の暮れ近くからだった。
『アキバの街の衛士システムが停止しているらしい。』
『街中のPK行為に、衛士が反応しなくなっているらしい。』
出所不明の噂は、当初は〈エルダー・テイル〉のゲーム的な常識に外れたその内容から爆発的に広がりこそしなかったが、タイミングを見計らったかのように噂を裏付ける様な別の”噂”がセットで語られる様になってからは、それを知る者の間ではほぼ公認の事実として認知されるようになっていった。
曰く、
『衛士システムが停止したため、正体不明の〈殺人鬼〉が現れて〈冒険者〉を殺して回っている。』
『〈殺人鬼〉を討伐するために、街中で大規模戦闘クラスの戦闘行為が行われた。』
端的に結論から云えば、実際はこれらの噂は因果関係が真逆であったのだが――――即ち、『衛士システムが停止したために〈殺人鬼〉が現れた』のではなく、『〈殺人鬼〉を討伐するために衛士システムが停止された』のだが、デミクァスを初めとした一般の〈冒険者〉が事実を知らされることは無論なく、噂は奇妙な指向性を持って、『衛士システムが停止したアキバの街で、〈殺人鬼〉が跋扈し、治安が混乱している。』と云う方向に収束しつつあった。
年が明けて早々には、この噂に呼応するように、〈円卓会議〉設立と同時にアキバを追われた幾つかの”性質の良くない”ギルドや団体が、隠密裏にアキバの街に舞い戻りつつあるという情報も飛び交っていた。事実として、〈円卓会議〉は円満に街の運営を行い、治安悪化の事実はほぼ皆無といってよい状態であったにも拘らず、アキバの外部からは、恰もアキバの治安が急速に悪化しつつあるような印象を抱かれているという、誰かが意図したかのような奇妙な捻じれが起こりつつあったのである。
(で、俺は衛士不在に乗じて街に潜り込もうとする”性質の悪いならず者”ってこった。)
デミクァスはそう分析しながら、〈黒剣〉の出方を待っていた。正直、アイザックから頭ごなしに訳も聞かず『街には入れない、とっとと出て行け。』と云われたら、素直に帰還呪文を使うつもりだった。アキバの街は広く、ここいらのタウンゲートの周りならまだ、大神殿を中心に広がっている固有化結界によるホーム固定の影響は出ない筈だ。帰還呪文一発で、ススキノの街に帰れるだろう。
だが、一見大雑把で深くものを考えなさそうな〈黒剣騎士団〉のギルドマスターは、意外に思慮深い表情を見せながら、落ち着いた様子でデミクァスに質問を投げかけた。
「身構える必要はねえ。何の用事でアキバに来たのか、いつまで滞在する予定なのか、そいつが訊きてえだけだ。」
思いの外穏便な提案に、寧ろデミクァスのほうが意表を突かれた。咄嗟にうまい言葉が思いつかず、毒気を抜かれたような表情を浮かべてアイザックを凝視する。
「・・・・・・云いたくねえってならそれでもいい。厄介ごとさえ起こさないでくれりゃあな。すまんが、その場合はウチのメンバーにフレンド登録させてもらう。所在だけは明確にしといて欲しいんでよ。」
「あ・・・・・・いや、云いたくねえってことはねえが。」
自分でも間の抜けた声を出しているな、と微妙に苛立ちを感じつつ、デミクァスは、腰の〈魔法の鞄〉をまさぐると、A4版程度の大きさの紙を一枚取り出した。
「検分してくれ。本物の筈だ。」
人差し指と中指で挟んだその紙を、アイザックの顔の辺り目掛けて鋭く弾く。
「貴様っ!」
お世辞にも上品とは言えないやり様に、瞬間的に怒りを沸騰させてデミクァスに向かって突っかけようとしたエルフの騎士を目で制し、アイザックは一言、三歩後ろに控えていた〈盗剣士〉に向かって
「テオドール!」
と声を掛けた。
デミクァスが弾いた書類は、まるで鉄板でも入っているかの様に、手裏剣の如く鋭く回転しながら一直線にアイザックの顔面目掛けて飛んでゆく。あわや眉間に命中かと思われた寸前、瞬きすらせずデミクァスを見つめるアイザックの面前約50センチの位置で、紙は突然空気の抵抗と己が質量を思い出したかのようにばさっ、と音を立てて急制動し、ひらり、ひらりと地面に向かって舞い落ちる。その紙を、地面に落ちる前に素早く拾い上げて手中に収めたのは、何時の間にか進み出ていた派手な帽子の〈盗剣士〉だった。
「読んでみろ。」
アイザックの命令に書類に目を通した〈盗剣士〉テオドールの顔が、真面目くさった神妙な表情から一転し、じわじわと面白そうに歪んでゆく。
「いやはやこいつは、成る程成る程。」
薄く生やした顎髭を撫でながら、如何にも愉しそうに咽喉の奥でくつくつと笑う〈盗剣士〉に、ちらりとアイザックが不審そうな表情を浮かべる。
「報告はどうした、テオドール。」
「ああ、こりゃ失敬。団長、こいつはウチで出した招待状ですぜ。」
「・・・・・・ああん?」
垂れ目がちの瞳に愛嬌たっぷりの笑みを浮かべて〈盗剣士〉が、芝居がかった身振りで場にいる皆に向かって示して見せた書類には、”『黒剣杯』参加承諾証”のタイトルと、〈黒剣騎士団〉団長、〈黒剣〉のアイザックの署名と花押が、見間違えようのない確かさで記されていた。
「・・・・・・あー、間違いなく俺のサインだな。思い出した。」
「そうですよ。団長、申請書の中に面白え名前を見つけたとか云って、大した審査もしねえで承諾証にサインしてたじゃねえですか。」
ぼりぼりと頭を掻きながら間抜けな表情で呟くアイザックに、流石に〈盗剣士〉も呆れ顔だ。
〈黒剣杯〉は、アキバの街で〈大災害〉後初めての〈雪季祭〉の最終日に、〈円卓会議〉主催で行われる予定の、これまた〈大災害〉後初の大規模PvP大会だ。
会場はアキバ近郊、旧世界で云えばJR中央線水道橋駅近くにあるPvP専用ゾーン〈スイドウバシ・アリーナ〉。
〈銀河帝国軍〉や〈オラトリオ・タングラム〉など、アキバを拠点とする幾つかのPvP専門ギルドが企画・立案し、〈円卓会議〉が出資・開催する、今回の〈雪季祭〉における〈冒険者〉側の目玉イベントだ。円卓会議側の発起人兼代表者は、戦闘系四ギルド代表者の公正なジャンケンの結果、〈黒剣騎士団〉団長のアイザックと云うことになっており、大会名もそこから取られている。当初はワンデイ・トーナメントと云う形で企画されていたが、お祭り企画であることや、死亡のリスクなども検討された結果、二人組での参加を原則とした1チームワンマッチ形式で開催されることに決まっていた。
「しかしあれだな。ススキノ在住で、云い方は悪いがアキバではお尋ね者に近い扱いのあんたが、なんでまた参加しようと思ったんだ?」
当然と云えば当然のアイザックの疑問に、デミクァスは眉間の皺を深くする。
「・・・・・・申請したのは俺じゃねえよ。」
デミクァスの下に、最初に〈黒剣杯〉の参加の打診が届いたのは、〈奈落の参道〉の大規模戦闘から帰って二週間後のことだった。
確かその日は、〈シルバーソード〉の連中に連れられて、大規模戦闘絡みのクエストの手伝いに出掛けていた筈だ。
デミクァスは、舌打ちをしたい気分に駆られながらその日のことを思い出していた。
* * *
〈奈落の参道〉の冒険の後、〈シルバーソード〉の連中のデミクァスに対する態度は、かなり軟化した。同じようにデミクァスのほうでも、彼らに対して無暗に噛みつくことはしなくなった。
中でも〈盗剣士〉のフェデリコは、どういうわけか妙にデミクァスが気に入ったようだった。
美形揃いの〈冒険者〉の中では珍しい、強面ではあるけれど愛嬌のある髭面の〈盗剣士〉は、ある日突然〈ブリガンティア〉のギルドハウスを訪ねてきて、手土産のウィスキーを差し出すと、困惑顔のデミクァスのマグに頼みもしないのに注いできて、自分は手酌で二時間ばかり酒を飲んで帰っていった。
それ以来、フェデリコは、三日に一度は〈醸造師〉が麦から醸したきつい蒸留酒や、ヤマトではあまり一般的でない米から醸した純米酒、フェデリコ自身が焼いたローストビーフや素人料理人のルギウスが試作したエッゾ鱒の香草焼きなんかを手土産に〈ブリガンティア〉のギルドハウスを訪ねてきては、デミクァスの向かいに陣取って、ちびちび酒を飲んで数時間を過ごすようになった。
フェデリコとは特に何を話すでもなく、会話自体あまりなかったが、デミクァスは不思議と悪い気分ではなかったし、時々こちらから注いでやれば、フェデリコのほうも嬉しそうな顔で杯を干し、それで満足しているようだった。
二人だけでギルドハウスで飲んでいると、”あいつ”が時々、
『男ってのは、しょうがないわね。』
とでも云いたげな、呆れた様で、それでいて満更でもない様な妙な表情で二人に酌をしてくれるときがあって、それがくすぐったくて居心地悪かったので、ある日自分から〈シルバーソード〉のギルドハウスを、手土産持参で訪ったことがある。今までも、何度か足を運んだことがある場所ではあったが、改めてこういう目的で訪問するのは新鮮で、デミクァスは随分とばつの悪さを感じながら、その気持ちが何のことはない、ただの”照れ”だと云う事には気付かずに、ギルドハウスの扉をくぐった。
フェデリコは最初、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしたが、次いでひとしきり訳知り顔で頷くと、あとは結局、いつもの様に二人して同じテーブルで口数少なく酒を飲んだ。
そのうち、ディンクロンだの順三だのといった〈シルバーソード〉の戦士や近接職の連中が、呼びもしないのに集まってきて周りのテーブルで飲み始め、ああだこうだと騒いでいるうちにちょっとした戦闘談義になった。デミクァスにとっては、これもなかなか居心地の悪い状況であったが、それでも決して悪い気はしなかった(口ではなんだかんだと悪態を吐いてはいたが)。
ギルドマスターのウィリアムは、二階の自分の部屋から降りてきて、一階の酒場でデミクァスが自分の仲間と飲んでいるのを見つけると、片眉を跳ね上げ僅かに驚いた様な表情を浮かべたが、口では何も云わず、そのままいつもの様に自分の椅子に座り、みんなの会話を聞きながら、静かに酒を飲んでいた。
デミクァスの存在を歓迎もせず、さりとて異質なものと排除もせずに、黙って静かに、さも当然の様に受け容れていた。
それからのデミクァスは、目に見えて〈シルバーソード〉の連中と狩りやレイドに出掛ける頻度が増えたが、デミクァス本人は、そうと意識してはいなかった。
その日、ススキノのドワーフの依頼で、氷壁の城塞から間断なく押し寄せてくる霜巨人の軍勢をドワーフ軍と協力して退けるリング・イベントを攻略し、デミクァスも名前付きジャイアントのドロップから秘宝級を手に入れて、ちょっとした凱旋気分でギルドハウスに戻ってきたところで、”あいつ”が一通の手紙を差し出してきた。
(手紙よ。・・・・・・珍しいわね。)
(・・・・・・あァ?)
白くて華奢な手からひったくるようにして奪い取る。
メール機能は〈冒険者〉の魔法や技術とは全く異なる体系を持つ、この世界独特の魔法技術の産物だ。魔法的に転送される封筒や小包は、各プレイヤータウンのそこかしこに設置されているメールボックスを開くことにより、世界のどこでも受け取ることが出来る。ギルドハウスにもメールボックスを設置する有料の機能があり、〈ブリガンティア〉のギルドハウスにも当然のように設置されていた。だが、デミクァスの記憶にある限り、このメールボックスに、友人というヤツから彼宛の郵便物が届いたことは今まで一度もない。
だからデミクァスは、飾り気のない封筒の隅に下手糞な丸文字で書かれた差出人の名前を一瞥すると、目を丸くする”あいつ”の前で、中身も改めずに封筒ごとクズ籠に放り込んだ。
それ以来、きっかり朝昼晩の3回、一日に3通づつ同じ封筒がメールボックスに届いて彼を苛立たせた。相変わらず差出人の名前は同じで、めげることなく正確に日に3通のペースで送られてくる封筒にデミクァスが根負けしたのは、22通目が届いてからだ。
開いた手紙には、これも下手糞な丸文字で、新年の〈雪季祭〉の最終日、アキバの街で行われるPvP大会に参加してほしい旨が書き綴ってあった。デミクァスは一読してから手紙をクズ籠に放り込むと、ペンを取って便箋に一言
”ふざけるな。”
とだけ書き殴り、そいつをメールボックスに叩き込んだ。
次の日から、送られてくる封筒の数は倍になった。
送られてきた手紙の数が54通を数え、メールボックスの容量を切実に圧迫するに至って、遂にデミクァスは音を上げて、再度返事を書くことにした。
「変わってるわね、〈冒険者〉の手紙の作法って。」などとズレまくった感心をするのを後目に使い慣れないペンを取り、散々文面を悩んだ挙げ句便箋に
”兎に角、次の定期連絡船でアキバに行く。話はそれからだ。”
と言葉少なく書き上げたのは、明け方近くになってからだ。
ずきずき痛むこめかみをさすりながら、精根尽き果てた状態で封筒をメールボックスに投げ込んだと思ったら、それに対する返事は、なんとその日の朝のうちに返ってきた。
中に入っていたのは、
”ありがとうデミデミ愛してるっ!!”
とピンク色のインクででかでかと書かれた便箋が一枚と、
「・・・・・・あの野郎、断らせる気なんざ端っから無かったんじゃねえか。」
一番最初にメールボックスに届いた手紙と同じ日付で〈黒剣〉のアイザックの署名がされた、デミクァス宛の”〈黒剣杯〉参加承諾証”だったと云う訳だ。
「・・・・・・んで、誰なのよ。その、下手な宗教勧誘顔負けの執念深さであんたを出場させようとした野郎ってのは。」
思い出すだけで心底疲れてしまい、胡坐をかいてぽつりぽつりと事情を説明するデミクァスの顔を、ヤンキー座りして覗き込みながらそう問うアイザックの視線には、『ご愁傷様』とでも云いたげな、明らかな憐れみの色が浮かんでいて、デミクァスの意気を思い切り萎えさせた。事情説明は必要だとはいえ、なんで俺が、アキバくんだりまで来て見も知らぬ他人に憐れまれなきゃならんのだ。
「・・・・・・アンタらんとこのシロエが、ススキノから拾ってった奴だ、クソッたれ。」
力の無いデミクァスの悪態に、首を捻って考え込む様子を見せた〈黒剣騎士団〉のギルドマスターは、しかしすぐに得心が行ったと云う表情ではた、と手を打ち、
「ああ、あの”自称”アイドルか。」
と同情に満ちた口調で呟いた。
「そりゃまたなんとも、えれえ奴に見込まれたもんだな、おい。」
「どーもっ! その”えれえ奴”ですっ!」
「うお!?」
「テメエっ!!」
ヤンキー座りの肩越しに、突然脳天気な声が掛けられて、思わずのけぞるアイザック。その声を聴いた途端、デミクァスの眉間に稲妻みたいな形の青筋が走る。
アイザック評する”えれえ奴”――――自称銀河系アイドルのドヤ顔男の娘、〈記録の地平線〉の〈施療神官〉てとらは、さらさらキューティクルのロングヘアを揺らし、アイザックとデミクァスに向かってとびきりの笑顔を振り撒きながら、茶目っ気たっぷりに敬礼してみせた。
てとらという人間は、見た目はほぼ完璧に女の子(しかも美少女)で、また性質の悪いことに本人が必要十分以上にそのことを自覚しており、他者とのコミュニケーションを図るうえでそれを最大限に活用してくるあたり、決して見た目通りの天然で頭の軽い人間ではないと云うのがアイザックの評価である。
だいたい男性ゲーマーという種類の生き物は、女性に対する免疫が無いどころか女性と付き合ったこともないような連中が半数以上を占めるわけで、そんな連中のコミュニティに(外見は)笑顔がチャーミングな美少女が、(一見)誰にも分け隔てなく、しかも身体接触過剰気味に接してくるとなれば、冗談抜きで彼らの人生に、根底から揺らぐような衝撃を与えるに決まっている。自慢ではないが、彼の〈黒剣騎士団〉は、妻子持ちのテオドールみたいな一部の例外を除けば、九割方はそういう種類の人間なのだ。
事実、てとらがアキバにやってきた当初、骨抜きにされてしまったメンバーが続出し、ギルドマスターのシロエに非公式に抗議したこともあるくらいだ(その後、てとらの本当の性別が判明して騒ぎは一旦収まったが。・・・・・・まあそれが、別の種類の騒ぎに発展したと云う事は、説明すると長いのでここでは省く)。そう云う訳で、アイザックはどちらかと云うとてとらが苦手だ。手を焼いたと云うのもあるし、頭では分かっていてもきつく当たることが出来ないと云うこともある(ヤマト最強の武闘派集団のリーダーが、華奢な女の子を頭ごなしに怒鳴りつける図と云うのは、見てくれだけ云えば非常に精神衛生上よろしくない)。ましてや、てとらのほうでは見たところこちらに対して一切の害意が無く、むしろ「みんな愛してるよっ!」などと平気で嘯くのだから尚の事だ。
アイザックにそう評されている当のてとらは、お馴染みの白いブラウスに、ピンク地にシルバーのカモメがワンポイントで入ったネクタイを締めた、いつも通りの軽装だ。丈の短いホットパンツをズボン釣りで吊っており、すらりとして形のいい白い脚は膝丈のニーソックスに包まれている。いつもにこにこと笑顔を絶やさないのは、てとらのことを快く思わない者でも認めざるを得ない彼の長所だ。
「よう、てとらちゃん。今日も可愛いね。」
「ありがとう! テオドールさんこそ、今日もキマってますね!」
笑顔のてとらに、こちらも相好を崩して軽口を叩き合うテオドール。
「テオドールお前・・・・・・可愛ければ何でもいいのか?」
フアン=ブランコがじと目で苦言を呈するも、
「そうだよ。なんか悪いか?」
「そうですよ。可愛いは正義。」
まるで取り合わない二人に、アイザックが盛大に溜息を吐く。
「テオドールこの野郎バカ野郎、そいつが来たんならそう報告しろよバカ野郎。」
「いいじゃないですか知らん顔じゃあるまいし。」
「うるせぇ! ・・・・・・んで、てとら。お前が要するにその」
アイザックは、云いつつデミクァスのほうを目で示す。
「はいはいはいっ! ボクがデミデ・・・・・・デミクァスさんの保護者兼身元引受人です!」
薄い胸を精一杯張ってそう宣言するてとらに、アイザックはすっと目を細め、一転底冷えのする視線を投げかけた。まるでスイッチを入れ替えたかのように、気のいい兄貴の表情から、ヤマトサーバー最大の人口を誇るプレイヤータウンの治安を預かる警備責任者の表情に切り変わる。アキバの街の現状を考えれば、たとえ友人知人が相手だとしても、なあなあに問題を済ませる気はない。
「つまりは、その男の身元は〈記録の地平線〉が保証するってことでいいんだな?・・・・・・その男が滞在中、どんな問題を起こしたとしても、尻は腹黒が責任持って拭くと、そういう事でイイんだな?」
特に大声を出している訳でもなければ、気負ってドスを利かせている訳でもないアイザックの声には、しかし或る意味聞く者の心胆を寒からしめるような、隠し刃の如き鋼の冷たさが秘められていて、デミクァスは背中に我知らず汗を滲ませた。その鋼に気付いているのかいないのか――――てとらの笑顔は、ここに来た当初と何も変わらない。明るくて、脳天気で、裏表が無くて、そして何より、デミクァスを信じ切った無防備な笑顔だ。
「はい。デミクァスさんの身元は、ボクら〈記録の地平線〉が保証します。デミクァスさんがアキバで問題を起こすことはありませんよ。」
てとらに信頼されるような何かをした覚えは欠片も無いのに、こう明け透けに信頼を表明されると、デミクァスとしては困惑してしまう。こいつはいったい、俺のどこを見てそんなに俺を信用するのか。俺自身でも気づかない、俺自身には想像もできないような俺の中の何かが、こいつにだけは見えているのか。それとも俺のことなんざ、端からまるっきり信用していなくて、俺が何をしようと事が大きくなる前に叩き潰すだけの自信があるってことか。
堂々巡りに考えていると、自分自身の立ち位置が分からなくなってくる。足元の床が崩れてそこにぽっかり虚無が口を開けているような、云い知れない不安に襲われる。
アイザックは、暫してとらの笑顔を凝っと見つめていた。厳しい視線がてとらの頭から爪先まで、針の先ほどの違和感も見落とすまいと上下したが、てとらの笑顔が小揺るぎもしないことが分かると、〈黒剣騎士団〉の団長は、深く深く、何度目かの溜め息を吐いてがりがりと乱暴に頭を掻いた。
「あー止め止め。性に合わねえやこういうのは。面倒くせえからてとら、おめえを信用するさ。それでいいだろ、テオドール。フアン=ブランコ。」
「俺はどうとでも。団長がそう思うんならその様に、団長の仰せのままに。」とは、赤毛の〈盗剣士〉。
「面倒くさいと云うのが引っ掛かりますが、団長がそう仰るなら、信用はしませんが納得はします。」とは、エルフの〈施療神官〉。
二者二様の部下の返答に、満足そうな表情を浮かべてデミクァスを見やる。
「つーこった。手間ァ取らせて悪かったな、〈ブリガンティア〉のデミクァス。存分にアキバを、〈雪季祭〉を楽しんでってくれ。」
再びスイッチが切り替わり、アイザックの口許に男臭い太い笑みが戻って来た。勢いよく立ち上がってばさりとマントを翻し、がちゃり、と腰に佩いたトレードマークの〈苦鳴を紡ぐもの〉の位置を直す。釣られて立ち上がったデミクァスの分厚い胸板にどん、と右の拳を当てると、脅しなのかエールなのかよく判らない口調で
「期待してるぜ、兄弟。」
とやっぱり脅しなんだかエールなんだかよく判らない台詞を残して倉庫を出て行った。
あんまり切り替えが思い切りよすぎて付いていけないデミクァスは、自分のほうが拳ひとつ分は上背があるにもかかわらず、自分を置いてどんどん先へと歩いてゆく年齢の離れた兄を追う様な気分で二、三歩足を踏み出した。思わず伸ばしかけた右の手のひらと、黒い鎧を身に着けた広い背中との間を遮るように、するりと赤毛の〈盗剣士〉とエルフの騎士が割り込んで、示し合せた様にデミクァスに向かって揃って一瞥を投げかける。飄々として笑みを含んだ視線と、氷の短刀みたいな苛烈な視線に押し戻されまいとする様に、デミクァスは伸ばそうとした右手を親の仇みたいに握り締め、槌鉾の槌頭みたいなごつくて巨大な拳骨を形作って、そいつを胸元に引き寄せた。
「ああ、忘れるとこだった。」臨時検問所の天幕に向かって歩を進めるアイザックの声は、祭を待ち望む少年みたいにひどく楽しそうで、弟の手を引く兄の様にひどく優しげだ。「そいつらも〈黒剣杯〉にエントリーしてんだよ。戦り合うことんなったらまあ、ひとつお手柔らかに頼むわ。」
「・・・・・・俺はまだ、出場るとは決めてねえ。」
訳も無く湧きあがった苛立ちに食い縛った歯の間から、軋るように搾り出したその声も、〈黒剣〉は涼風の様に笑って受け流す。
「そうだったな。おう、てとら。」
「あいっ!」
「後は頼んだぜ。・・・・・・腹黒によろしくな。」
「アイアイ・サー! 了解しましたです!」
お日様みたいな満面の笑顔で最敬礼するてとらを振り向きもせず、挨拶代わりに鷹揚に右手だけ挙げてみせて、〈黒剣騎士団〉のギルドマスター、〈黒剣〉のアイザックは、彼の戦場に戻って行った。彼の二人の部下が足早にその後を追う。
「旦那にゃあ是が非でも出場て欲しいねえ――――きっと俺たち、相性抜群だぜ。」
立ち去り際に残された、睦言の様な〈盗剣士〉の囁きが、ささくれ立ったデミクァスの神経を更に逆撫でしていって、彼は苛立ちを抑えきれない様子で倉庫の床に唾を吐き捨てた。