05:黒い傘
その黒い傘は、自分で買ったものだと思っていた。
三日前。
駅前の店で買った。
値段は1980円。
買った日のことも覚えている。
雨が降っていて、店に入って、飲み物とおにぎりを買って、それから傘を一本選んだ。
黒い折り畳み傘。
家に帰ってから、一度開いてみた。
そんなところまで覚えている。
だから、翌朝、駅のベンチに傘を置き忘れたことにも気づいたときには、少し困った程度だった。
取りに戻ればいい。
そう思っていた。
ところが次の日、駅に行くと、傘はまだそこにあった。
ベンチの端に、きちんと畳まれて置いてある。
私はそれを手に取った。
そのとき、近くにいた女性が言った。
「それ、昨日からありましたよ」
「そうなんです。僕のです」
「そうですか」
女性は傘を見た。
「……その傘、持ち手のところ、へこんでません?」
私は見た。
持ち手の根元に、小さなへこみがあった。
「……ああ」
言われるまで気づかなかった。
「前からありました?」
「たぶん」
そう答えたけれど、自信はなかった。
女性は少し考えてから言った。
「前にも、同じような傘を見たことがあるんです」
「同じような?」
「駅で亡くなった人が持っていた傘に似ていて」
私は笑えなかった。
その日の夜、家で傘を開いた。
内側の骨を一本ずつ眺めていると、白い小さな傷があることに気づいた。
「……これも前からあったっけ」
気になって、スマホで検索した。
記事はすぐに見つかった。
名前と年齢。
事故の日時。
そして、持ち物の写真が載っていた。
黒い折り畳み傘。
写真を見た瞬間、私は息を止めた。
女性から聞いた通り、持ち手の根元に小さなへこみがあった。
そう思った瞬間、私は急いで画面を閉じた。
これは偶然だ。
そう思った。
でも、気になって仕方がなかった。
翌朝、傘を買った店に行った。
「三日前に、ここで黒い折り畳み傘を買ったんですけど」
店員は少し困った顔をした。
「うちでは傘は扱ってないんですが……」
「え?」
「傘…ですよね?」
「はい。黒い傘です」
店員は困惑した表情で私を見た。
「傘は、一度も置いたことないですね」
「……え?」
思わず声が出た。
「いや……でも、ここで買ったんです」
そこまで言って、私は急に不安になった。
本当に、ここで買ったんだろうか。
ポケットから財布を出して、レシートを探した。
「あった……」
自分に言い聞かせるように呟いて、レシートを開いた。
「それ……」
店員が言った。
「はい。三日前に買ったときの……」
レシートだった。
そこには、お茶、おにぎり……そして、雑誌。それだけだった。
傘はなかった。
「……おかしいな」
店員は何も言わなかった。
家に帰ってから写真を探した。
そういえば、あの日、買ったものを友達に見せようとして、写真を撮っていた。
写真はすぐに見つかった。
「もしかしたら」と期待をした。
しかし、写真には傘はなかった。
「でも……」
私は呟いた。
確かにその日のことは覚えている。
急に曇り初めて、傘が必要だと思ったこと。
傘を見かけて店に入ったこと。
飲み物などと一緒に支払いをしたこと…。
そして、店を出る頃には雨が降り始めて傘をさして駅まで行ったはずだ。
そこまで考えて、私はふと黙った。
……それは、本当の記憶なのか?
その日は、確かに曇り始めていた。
店に入って、買い物もした。
店を出る頃には、雨が降り始めていた。
……いや。
本当に、雨が降っていたのか?
雨の音を聞いた気がする。
道路も濡れていた気がする。
だが、それはあの日の記憶なのか。
今思えば、雨なんてそもそも降っていなかった気がする。
だとすれば、あの傘は何なんだ。
私は部屋に置いてある傘を見た。
黒い折り畳み傘。
ちゃんと、そこにあった。
私はしばらく傘の存在を忘れようと努力した。
気にしなければいい。
だが、そう思えば思うほど、あの傘は私が持っていてはいけないものなのではないかと不安がよぎる。
もしかしたら、不吉なことが起きるのではないか。
その夜、私は履歴からあの記事を開いた。
自分の傘と、記事に載せられていた写真の傘を見比べるために。
しかし、記事はなぜか削除されていた。
何度検索しても見つからない。
別の言葉で検索して、ようやく、それらしい記事を見つけた。
写真はなかった。
「〇月〇日、駅のホームから転落して亡くなった男性は、黒いコートに白いスニーカーを着用していた。肩から下げていた鞄が電車の車体に接触したことでバランスを崩し、ホームから転落したとみられている。事故当時、男性は黒い折り畳み傘を所持しており、持ち手の内側にはイニシャル『――』が記されていた」
私は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
なぜか、ふと、私はその男を知っている気がした。
駅のホーム。
男は黒い傘を持って電車を待ち、右足のつま先を三回だけ動かす。
そんな場面が、頭の中に浮かんだ。
会ったこともない、知らない男なのに。
私は、傘を開いてみた。
「S」
持ち手の内側に、小さな白い文字がある。 ネット記事を思い出す「持ち手の内側にはイニシャル『S』」と書かれていたと書いてあったはず。
だが、いや、「S]なら、私の名前は「悟」なので、自分の名前の頭文字でもある。
そう思うと、少し安心した。
職場に持っていくものにはイニシャルを書く癖がある。
きっといつもと同じように描いたのだろうと思ったからだ。
けれど、その文字を見ているうちに、妙な違和感がした。
これは自分が書いた文字なのか。
自分の文字と思えば、そうなのかもしれないが、そう思えば思うほど違和感は増してくる。 私は傘を畳んだ。
明日も雨らしい。
私には傘はこれしかないのだから、またこの傘を持っていく。
なぜか、そうしなければいけない気がした。
玄関に戻した傘を、私は一度だけ振り返った。
傘立てには、黒い傘が一本。
さっき戻したときには、乾いていたはずの傘が濡れていた。
その横に、白いスニーカーが揃えて置かれている。
こちらも、まだ少し濡れていた。
私はしばらく、それを見ていた。
……こんな靴、持っていただろうか。
そう思ったところで、背中が冷たくなった。
この家には私しかいないのに




