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清流の蛇姫  作者: 海山 紺
第一章
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第3話 水と風の乱舞

 ――速い……!


 まるで瞬間移動したかのように一瞬で間合いを詰められる。桜夜が目を瞠るのも束の間、鋭利な黒刃が自身の喉元に肉薄した。


 久しく感じていなかった死という恐怖。思わず身の毛がよだった。

 何とか伊織の逆袈裟斬りを寸前でかわし、すぐさま体勢を整える。嫌な冷や汗が背筋を静かに伝った。


「へえ、流石の反射神経やな。ボクの一太刀かわすのは熟練の剣士でもできんで」


 余裕綽々とした笑みをたたえたまま、伊織は間断おかずに猛攻をしかけてくる。

 ぎん、と重い剣戟が闇夜の深山に幾度も冴え渡った。

 二刀がぎりぎりと十字になってせめぎ合う。伊織の部下たちも、その激しい攻防に息を呑んでいた。


「観念する気になった?」

「そんなわけ、ないだろうっ……!」


 正確な太刀筋と速度、それから少しでも気を抜けば押しつぶされてしまいそうな刀の重さに、桜夜は苦心する。

 辛くも伊織の刀を押し返し、反撃と言わんばかりに大きく一歩踏み込んだ瞬間――


「姉ちゃん!」


 家屋から(いとけな)さの残る少年の声がした。

 その場にいた全員が彼のほうへ視線を向ける。戸口の前には、困惑と焦りを隠せない蓮夜の姿が。騒ぎを聞いて心配し、様子を見に出てきてしまったのだろう。


「逃げて蓮夜!」


 桜夜が叫ぶと同時に、伊織が後方の部下たちを一瞥する。彼らは頷いて、すぐに蓮夜の捕捉に向かった。

 桜夜は舌打ちし、親兵たちを追おうとする。だが――


「〈銀旋風(ぎんせんぷう)〉」


 伊織が大きく〈黒翼〉を振り薙いだ。創出された白銀の旋風が桜夜の足を阻む。


「〈懸河(けんが)〉!」


 神技には神技を。桜夜は水の神力をまとった〈水牙〉をもって、神速で斬り込む。瞬きする間に強靭な風は細やかに斬り刻まれ、飛沫とともに散開した。


「ボクを無視せんといてほしいな」


 渾身の神技を相殺されたことに臆する素振りを見せず、伊織は愛刀の峰を肩に当てたまま口角を持ち上げる。


「……殺されたくなければそこをどけ」

「おお、こわ。でも、そうは言うけど桜夜ちゃん」



 人、殺せんやろ?



 濃紫の双眸が怪しく光り、濃藍の明眸が大きく揺らぐ。


「桜夜ちゃんには殺気がない」


 目に見えて動揺する桜夜に、伊織は目を眇めて続けた。


「キミの目にはまだ光がある。理性を保った人としての光が」


 桜夜は奥歯を嚙み締め、柄を握りしめる手を震わせた。


「まあ、その光が蛇女になった時、保ってられるんかは知らんけど」


 伊織は整った唇を弧に吊り上げて笑う。


 押しこめていたはずの記憶が鮮明に浮かび上がった。

 初めて蛇女になった時。それは自分が初めて人を殺した瞬間でもあった。蛇女になれば理性を失い、ただただ狂乱する異形となって虐殺する。


 体力が底をついて意識を失い、人間に戻って瞼を持ち上げた時には、屍山血河(しざんけつが)の惨状が広がっていた。


 憎悪と瞋恚(しんい)を宿した瞳でこちらを睨み据える亡者たち。少なくとも、当時の桜夜には亡者の怨恨を一身に浴びせられているように感じ、悍ましさが全身にまとわりついていた。同時に彼らが恐怖に顔を歪ませて声をあげる暇もなく絶命する瞬間が蘇ってきて、嘔吐してしまっていた。それ以来、数多の命を無作為に奪ってしまったという罪責が振るう刃を鈍らせてしまい、どうしても人である時は殺めることができなくなってしまった。


 だが、それでも人命を刈り取ろうと必死にもがくのは――

 


(雑草)すら殺せない(間引けない)御庭番は要らない』



 すべては、行く当てのなかった一族を庇護してくれた花川家――その主に報いるため。

 人でありながら圧倒的な心身の強さを誇る花川嵐慶という男のしがらみから、まだ抜け出せないでいるからだ。そして――



『所詮、お前は化け物にでもならなければ人一人殺せない腰抜けだ』

『実に惨めで哀れだな』



 己を弱者として嘲笑し、侮蔑したかつての同僚たちを見返すためでもある。

 桜夜は伊織の頸動脈めがけて〈水牙〉を差し向けた。今の自分に持ち得る気力をすべて乗せて、苛烈な一刀を見舞おうとする。だが――


「ほらな。やっぱり殺せん」

「っ……!」


〈水牙〉は自身の意に反して寸止めに留まってしまっていた。


「副長」


 呼ばれて、伊織は部下たちに片目だけ視線を寄越した。彼に続いて桜夜も目を向けると、蓮夜は親兵たちに拘束されていた。


「姉ちゃんっ!」

「蓮夜!」

「じゃあ、そういうことで」


 突如、首元に刹那の衝撃が走った。


 ――しまった……!


 自身の呻き声が鼓膜を掠めたと同時に、視界が瞬く間に暗転していく。


「ごめんやけど、ちょっとの間おねんねしといてな」


 意識がなくなるその時まで、自身に囁く伊織の声音と――


「姉ちゃん! 姉ちゃ……! ねえ……――」


 何度も必死に呼ぶ弟の叫びが木霊する。


 ――蓮、夜……。


 そこで桜夜の記憶はぷつりと途絶えた。

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