太陽を知らぬ少年
汗が頬をつたう。じりじりと焼けつく陽射しに、肌が火照る。
それでも、僕の足は止まらない。
ふと視界の端に、街の入り口に立つ看板が映った。
「ようこそ 南陽町へ」。
その歓迎の言葉が、どこか嘘くさく思えた。眩しすぎる光が、目の前を真っ白に染め上げる。まるで、この街が僕の侵入を拒むように、太陽が容赦なく照りつけてくる。
それでも、僕は歩みを止めない。
自分を変えるためにここまで来た。こんな場所で、負けてたまるか。まだ、ようやくスタートラインに立ったばかりなんだ。
──そのとき。
意志に反して、身体がふらつく。視界が揺れて、地面が急速に近づいた。
誰かの手が、僕を支える。
「ちょっと君、しっかりしなさい!」
遠くで、声が響く。白い光がまだ邪魔をして、相手の顔は見えない。
けれど、その手の温もりだけが、確かにここにあった。
そして──僕の意識は、そこで途切れた。
ピピピ……高く鋭い電子音が耳を刺した。
「うわ、38.6度......やばいじゃん。どうしよう......」
焦った声が聞こえる。そばに誰かがいる気配と、タオルを絞る音が、なぜか心地よく感じられた。熱を帯びてい額に冷たさが加わる。その冷たさが、ゆっくりと僕の額にしみこんでいくようだった。
ぼんやりと、目を開く。視線が重なった。
「目、覚めた? よかった……。急に倒れたから、本当にびっくりしたよ。
でも……起きてくれて、本当によかった……」
カーテンが風に揺れ、差し込んでいた光がやわらいだ。眩しさが引いて、やっと彼女の顔がはっきりと見えた。
この部屋には、僕を拒むようなものは何ひとつなかった。ただ、静かで、あたたかくて──安らげる場所だった。
差し伸べられた手に、自然と体が強ばる。だが、それはただの、やさしいぬくもりだった。
こんなに、やさしい手を僕は知らない。いつも僕に向かってくる手は、怖い物ばかりだった。
瞼が重くなる。まだ、この感覚に浸っていたいのに、意識が遠のいていく。
この春の日だまりのようなぬくもりが、どうか消えてしまわないように──と願った。
部屋がやさしい月明かりに照らされている。
額にのせられたタオルは、すっかり冷たさを失っていた。熱も、もう引いたように感じる。
ベッドの片隅に誰かの気配を感じる。うつ伏せで、こちらに頭を傾けるように眠る──彼女の姿だった。
彼女の姿を見つけて、顔がほころぶのを感じる。自然と手が彼女の方へ動いていく。
「綾香、ご飯できたわよ。お粥、一応用意したけど.....どうする?」
扉の向こうから、柔らかな女性の声が聞こえてきた。
返事がないことを気にしたのか、控えめなノックの音のあと、ドアがゆっくりと開いた。差し込む廊下の光の中、彼女によく似た瞳の女性が立っていた。
目が合った瞬間、女性は目を大きくし、慌てて、駆け寄ってくる。
「目が覚めたのね!良かった......本当に、大丈夫?」
額に手を当て次々と心配そうに問いかけてくる。その慌ただしさが伝わったのか、傍で眠っていた彼女が身を起こした。
「……もう、お母さん、うるさいってば。病み上がりなんだから、もっと静かにして」
「......あら~、ごめんなさいね~」
母親と娘の会話は、どこか拍子抜けするほど穏やかで、心の奥にまで沁みこんでいった。
彩花の母が「リビングで一緒に食べましょう」と誘っていたが、彩花はきっぱりと断った。
「この子、まだしんどいんだから」と言い残し、母と共に部屋を出ていく姿が見えた。
しばらくして、ドアが再び開く。
そこには、お盆を持った彩花が立っていた。差し出されたお粥を受け取り、ふと横を見ると、彼女は床に座り、カレーを食べている。
まさか、一緒に食べるなんて──。
目を見開いた僕の耳に、スプーンが食器に当たる音が二つ、やさしく響いた。
その音が、心の奥にすっと染み込んでくる。
――誰かと食べるご飯って、こんなにもおいしいのか。
「ねぇ、君、名前はなんて言うの?」
彼女の気配がゆっくり動き、僕の方へ向いた。
まだうまく働かない喉が緊張する。でも、それでも自然と声が出る。
「僕のことは秋って、呼んでください」
「ふーん。秋ね。私は彩花。
堅苦しいのはなしなし。タメ語でいいから。
……で、なんであんな状態で出歩いてたの?」
言葉が詰まり、うまく出てこない。
ごまかすように髪を指に巻きつける。雲が月を隠し、部屋に少しずつ暗さが滲んでいく。
「秋って、学生でしょ?」
いたずらっぽく笑ってから、
「ダメだぞ〜、校則違反は」
おちゃらけた声が、淀んだ空気を吹き飛ばすように響いた。
指に巻いた髪に目を向ける。
その色は、彩花の真っ黒な髪とは対照的な、真っ白だった。
「でも、似合ってるよ。
その白い肌とマッチしてて、いい感じ。……意外と美容には気を遣うタイプ?」
彩花の声に、どんどん部屋の空気が染まっていく。
少しずつ、無色だった世界に彩りが戻っていくのを感じた。
不思議だ。いつのまにか、綾香に心を奪われていく。心に綾香の光がゆっくりと入ってくる。まるで僕を照らし出していくように……
視線を逸らす。
(お願いだから……本当の僕を見つけないで)
「良く分かったね。白、大好きなんだ」
そう言いながらも、手は勝手にシャツの袖へと伸びていた。
白い肌を隠すように、ぎゅっと強く、その布を引き寄せた。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中をやわらかく照らしていた。 窓の外が気になって、カーテンを開けようかと思ったが――やめた。
昨日、隣で敷布団を敷き眠っていた綾香の姿を探すように、視線をゆっくりと部屋の中に巡らせる。 視線の先には、掛け布団の形が崩れたままの、空っぽの敷布団だけが残っていた。
綾香はどこに行ったんだろう――。 まだ頭がぼんやりしている中、考え込んでいると、
ドタドタドタッ――。
一階から勢いよく階段を駆け上がる音が聞こえてきた。 すぐにバンッとドアが開かれる。
ドアの前には、セーラー服姿の綾香が立っていた。 長い黒髪は後ろで一つに結ばれ、手には朝食らしきパンが握られている。
「秋、起きてる? 私、今から学校なの! もう遅刻しちゃうから、行くね!」
彼女は早口でそう言うと、僕の返事も待たずに踵を返して廊下の方へ消えていった。 呆気に取られたままの僕の耳に、再び階段を駆け上がる足音が近づいてくる。
「……今度は、何?」
そう思っていると、綾香が再び姿を現した。
「ごめん、忘れてた。――行ってきます!」
今度は元気よく、しっかり僕の目を見て言う。 あの笑顔だけが、やけにくっきりと記憶に残った。
どうも、あの言葉が僕の中で反復します。気づけば、顔が緩んでいた。
昔から、憧れていた。
窓の外から親と子が楽しそうに会話する姿をよく見ていた。子が親に手を振りながら「行ってきます!」の言葉に呼応する様に親は「行ってらっしゃい」と送り出していく。
ーー僕の憧れが今、目の前にある。
「……行ってらっしゃい」
俯きながら、震える喉を動かす。
小さく、弱々しい声が、静かになったへやにこだます。
それだけで、朝の光が、少しやさしく感じられた。
心が少し、ほどける気がした。