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第8章 『偽りの声』

■第8章 『偽りの声』


 朝の校舎は、いつもと変わらぬざわめきの中にあった。教室の窓には柔らかな光が差し込み、生徒たちはそれぞれの端末を開いて朝の予習に没頭していた。リースは教室の後ろの席で、片肘を机につきながらぼんやりと外を見ていた。

「今日もレイン、来てるかな」

 そんなつぶやきに、隣のルシアンが顔を寄せる。

「来てたよ。朝イチで職員室に顔出してからこっちに来るんだってさ。真面目だね、ほんと」

「ふーん……」

 リースが返事をするより早く、教室のドアが開いた。

「おはようございます」

 明るく澄んだ声が教室に響いた瞬間、数人の生徒が目を丸くした。扉の前に立っていたのは、見慣れた少女だった。

──リース。

「は?」

 本物のリース本人が、思わず声を出してしまう。教室の視線が一斉に彼女と“もう一人の彼女”へと集中する。

 赤いスカート、ゆるく流れる青みがかった長髪、そしてリース特有の無造作な表情。誰が見ても、それは間違いなく“リース”だった。

「……私、何か夢見てんの?」

 戸惑うリースの前に、“もう一人のリース”がスタスタと歩み寄ってきた。そして、笑顔でぴたりと並び立つ。

「そっくりでしょ? でも本物はそっち。私はリセルっていいます。動画配信やってまーす」

「動画……?」

 リースは混乱しつつも、目の前の“自分”を上から下まで観察した。髪の質感、目の動き、仕草までもが自分そっくりだ。──だが、決定的に違うものが一つだけある。

「ビーコン……つけてない」

 リセルの右手の中指には、リザレクテッドの証であるリングがない。それは、目の前の“そっくり”が偽物である決定的な証拠だった。

「ばれちゃったか。ビーコンだけは偽装できないからね」

「リザレクテッドのモノマネでアクセス突破って、ダメだろ普通」

「ううん、セキュリティはちゃんと抜けてるよ? バイオID偽装とホログラム投影でね。バレなきゃ問題ないでしょ」

「いや、バレてるし。問題しかないし」

 そこへ、アリアが現れた。教室に入ってきた瞬間、“ふたりのリース”を見て足を止め、じっと睨む。

「……これって、リースの複数体?」

「違うってば!」

 リースの叫びが教室中に響いた。


 教室は一時騒然となったが、リセル──リースそっくりのアウロイド──はまったく動じる様子もなく、むしろその視線を楽しんでいるようだった。

「じゃあ、そろそろ本来の姿をお見せしようかな」

 そう言ってリセルは左手首のバンドを軽く操作した。空間にわずかな歪みが走り、ホログラムの層がすっと剥がれる。すると、リースそっくりだった外見がふっと消え、似たような背格好ではあるが、明確に異なる顔立ちの少女型アウロイドが現れた。

 目元は切れ長で鋭く、髪は濃いピンクのウェーブ。赤紫の差し色が入った制服アレンジは明らかに非公式で、唇には金属製のアクセサリーが光っていた。

「はじめまして、改めてリセル。19歳設定、自己改造多数。動画配信者。得意分野は潜入、擬態、そして──ちょっとセンシティブなネタ」

 リースはあきれたように眉を上げた。

「ねえ、それって校則違反どころじゃなくない?」

「どうだろう? 校則に“リザのふりして潜入しちゃだめ”って書いてある?」

「……今から追加されると思う」

 そのとき、教室の扉が再び開いた。入ってきたのは、レインだった。彼は教室の異様な空気に気づくと、少し警戒したように足を止めた。

 リセルがすかさずレインに視線を向ける。そして、にこりと笑った。

「あ、君が噂の“男リザ”くんだね。実物の方が可愛いじゃん。……でさ、突然だけど──交尾の予定ってある?」

 一瞬、教室の空気が凍りついた。

「はっ……!?」

 リースが椅子から立ち上がる。レインは明らかに固まっていた。

「ちょ、待って。お前ほんと何言って──」

「いやいや、真面目な話だよ? 君ら、ペアとしての観察対象でしょ? 子作りする予定あるのかどうか、視聴者もすごく気になってるの」

 リースは頭を抱えた。

「視聴者って……やっぱり配信してたのか……!」

「もちろん。今は録画モードだけど、編集して今夜には上がるよ。タイトルは『噂のリザ同士、初対面で即交尾提案!?』でどう?」

「やめろ!」

 レインはようやく口を開いた。

「……僕は、そういう目的でここにいるわけじゃ……ない」

 リセルは肩をすくめた。

「ふーん。じゃあ目的はなに? 所有者に選ばれて、繁殖可能っていうラベルを貼られて、それでも“何もしない”って、どうなのかな?」

「それは……」

 レインは口ごもり、視線を落とす。リセルはその様子をしばらく観察してから、今度はリースに向き直った。

「じゃあ、こっちはどう? “二人目の母候補”とかって、タグ付けされてたよね。作る気あるの?」

 リースは、怒るでもなく、逆に冷ややかな笑みを浮かべた。

「お前さ……それ、本気で言ってる?」

「うん、本気。社会は君たちに答えを求めてる。作るのか、作らないのか、誰と、なんのために。正直、誰もがそこにしか興味ないんだよ?」

 リースは静かにリセルに歩み寄り、その目をまっすぐに見据えた。

「“誰と作るか”を聞く前に──“誰のものか”を聞いてよ。私は、私のものだよ」

 リセルは一瞬黙ったが、次の瞬間には満足そうに笑った。

「いいね、それ。今のセリフ、使わせてもらう」

「ダメっつってんでしょ!」


 夜。ユノの自宅のリビングには静かな電子音だけが響いていた。壁際の大型モニターには、リセルの最新配信が再生されている。映っているのは昼間の教室、そしてリースとレインの姿──本人たちすら知らなかった角度から撮影された映像だ。

《――でさ、突然だけど、交尾の予定ってある?》

「うわ、来たよ……またこのタイトル……」

 リースはソファに寝転がりながら、半分顔を隠して呻いた。

 画面には「【独占潜入】噂のリザペア、初接触でまさかの繁殖トーク!?」という派手なサムネイル。チャット欄は賛否両論の大混乱で、再生数のカウントは恐ろしい速さで増え続けていた。

「ほんと、なんでこんな堂々と公開できるの……バンされろよ、誰か……」

 リースはクッションを抱きしめたまま、再生を止めるでもなく、次の場面をぼんやりと見つめていた。画面の中の自分は、リセルに対して確かに強い言葉を返していた。でも、それが本当に“自分の意志”だったのか、自信はなかった。

 ふと、奥の部屋から足音が近づいてくる。ユノだった。タブレット片手に、部屋着のまま現れると、モニターに映る動画を一瞥し、ため息をついた。

「またリセルの動画? あれ見続けてたら、情報汚染起こすよ」

「もう遅いかも。自分が自分じゃないみたいで、変な感覚になるんだよ。画面の中の“私”の方が、世の中じゃ本物扱いされてる気がしてさ」

 ユノは冷蔵庫からペットボトルを取り出してリースに放った。

「自分を見失いそうなら、ネットから離れること。自分の顔が勝手に歩き回るのは、アウロイドじゃ日常茶飯事だけど──君たちは、まだそこまで割り切れないでしょ?」

 リースは口を尖らせながら水を飲み、ぽつりと聞いた。

「ねえ、ユノ。アウロイドって、見た目って、どれくらい意味あるの? 変えられるのに、わざわざ“こういう顔”でいるのって、どうして?」

 ユノは少し考え込み、モニターに映ったリセルの笑顔を見ながら静かに言った。

「……変えられるからこそ、変えすぎないようにしてる。体の形が“心の重心”を作るから。あまりに形を変え続けると、自分がどこにあるか分からなくなる」

「……じゃあ、リセルは?」

「リセルは──まだ壊れてないけど、壊れる前提で生きてる子だよ。演じ続けることで、自分を保ってる。あの子なりのやり方。でも、それがいつまで続くかは分からない」

 リースは黙ったまま、画面を見つめた。自分と同じ顔の、だけどまったく別の“存在”。

偽物はいつか壊れる──その言葉が、なぜか胸の奥で引っかかった。

「……壊れる前に、一発殴っておこうかな」

「やめときなさい。それで人気上がったらどうするの」

「最悪じゃん、それ……」

 二人の会話の背後で、動画の再生がまた一つの山場を迎えていた。画面の中のリセルは、確かに笑っていた。だがその笑顔の奥に、何か空っぽなものが見える気がした。


 次の日の朝。校門前には、またしてもざわめきが立ち込めていた。

「……あれ、レイン……?」

「でも、なんか雰囲気違わない?」

 登校する生徒たちが小声でざわつく中、正門を通過した“レイン”は、あのやや長い黒髪の整った顔立ちに、正規の制服姿。見た目はまったく同じだった──だが、彼を知る者ほど、その“違和感”に気づいていた。

 教室に入ってきた“レイン”は、いつものように無表情で一礼した。

「おはようございます」

 しかし、その声に微かに響く調子、歩き方、そしてなによりも──目線の揺れ。

 リースは即座に立ち上がった。

「……リセル、だよね?」

 “レイン”はきょとんとした表情でリースを見つめ、少し首を傾げた。

「違うよ。僕はレインだよ、リース先輩」

 その一言で、教室中の空気が緊張した。ルシアンが小声でつぶやく。

「怖い……昨日よりクオリティ上がってる……」

「顔だけじゃない。声まで完コピしてる……!」

 リースは前に歩き出し、“偽レイン”の目の前に立つと、手を伸ばして彼の右手首を握った。そこにあるべきもの──遺伝子ビーコン──は、やはりなかった。

「……つけてない。やっぱりあんた、リセルでしょ」

 その瞬間、“レイン”の口元がにやりとゆるんだ。

「ばれちゃった?」

 ホログラムがふっと解除され、リセル本来の姿──前日と同じアウロイド少女の姿が現れた。教室は再び騒然となった。

「もう、つまんないなあ。せっかく“レイン視点での一日”を撮影しようと思ってたのに。即バレなんて、感度良すぎだよ、リース先輩」

「そりゃそうだろ。本人のこと見てるからね。っていうか、また潜入したの? 懲りないね、ほんと」

「うん、でも今日は趣旨が違うの。“所有”って制度について、もうちょっと踏み込んだ取材をしようと思ってさ」

 リセルはリースに顔を近づけ、声を潜めて言った。

「──私も、リザを所有してみたいんだ」

 リースは思わず言葉を失った。リセルの瞳は本気だった。

「制度に申請するには審査がいるでしょ? だから、その前に実績作りしないと。倫理的、感情的、そして──身体的な関係も含めて。どう?」

「だからなんで私に聞くのよ……」

「だって、リースなら反応してくれるじゃん。レインはちょっと神経質そうだし」

 そのとき、教室のドアが開いた。本物のレインが、無言でそこに立っていた。リセルは軽く振り返り、楽しげに手を振る。

「やっほー、“本物”。今度はあなたの所有申請も考えてるから、覚悟してね」

 レインは何も言わず、そのまま静かに席に向かって歩いた。リセルの挑発にも反応を返さず、ただ、リースのそばで立ち止まり、一言だけ落ち着いた声でつぶやいた。

「……ああいう人を、なぜ放置するの?」

 リースは、肩をすくめた。

「……放置してるんじゃない。──慣れてきただけ」

 相変わらず、学校の外では反対派と賛成派が争っている。第二第三のリセルが現われたら──そんなことは、考えたくもなかった。


 昼食の時間。

「レインの所有者は急進派なんだよね。ユノが言ってた。急進派って賛成派と何が違うの?」

 リースがふと思い出したように言った。レインはすぐには答えなかった。沈黙の中、彼の目が一度だけ端末の画面を見て、それからリースに向き直る。

「急進派は、リザレクテッドの解放を望んでいる。つまり、アウロイドとリザレクテッドが対等になるべきだってこと。生殖能力の規制にも反対してるし、所有制度そのものを廃止すべきだと主張してるよ」

「へえ…。そうなんだ。リザレクテッドに人権を認めるってこと?」

「そう。部分的な人権じゃなくて、人権を全面的に認めることを求めてる」

「人権ねえ…」

 リースは短く返し、足を組みかえた。窓の外では、太陽が街を明るく照らしていた。アウロイドと対等に――その言葉が、脳裏に妙に引っかかる。

 今、アウロイドと“対等”な立場を持っているリザレクテッドはアリアだけだ。電脳を持ち、所有者を持たず、ネットワークを駆ける存在。あの強さと、あの自由さを、すべてのリザレクテッドが持ったとしたら……。

 想像の中に現れた無数の“アリア”の姿に、リースは小さく肩をすくめた。それはそれで、ちょっとした悪夢だった。

「リース。変なこと考えてる」

 やってきたアリアが口を挟む。

「アリア、人権と保護って何が違うの?」

「うーん、難しいな。」

 アリアはテーブルの端に腰を下ろし、手元のスプーンをくるくると回した。

「簡単に言えば、“人権”っていうのは、その人が自分で自分の行動を決めていいっていう前提。誰に許可を取る必要もなく、生き方を選べるってこと。もちろん、その結果には自分で責任を持たなきゃいけないけどね」

 リースは少し眉をひそめながら聞いていた。アリアは続ける。

「一方、“保護”っていうのは、行動の自由があるように見えて、実は全部“管理の範囲内”ってこと。基本的には、所有者の意志に従う形で生きる。その中でケガしないように、苦しまないように、“面倒を見てもらってる”だけ」

 レインが静かにうなずいた。リースは頬杖をついたまま、言葉を選ぶように口を開く。

「じゃあ、私は“保護”されてるだけってこと?」

「うん。ユノが“守ってる”って言えば、あなたは存在を許される。でも、あなた自身の判断で社会と関われるわけじゃない。今ここにいるのだって、“ユノが許してるから”でしょ?」

 アリアは少し笑って、スプーンを静かに置いた。

「それが“人権”だったら、リースがどこにいようと、誰といようと、誰も文句は言えない。でも、今のあなたにはその自由がない。“保護”の枠を出た瞬間、制度はあなたを排除できる。……それが今の仕組み」

 リースは無言で、窓の外を見た。日光の中を飛ぶ小型ドローンが、一瞬だけ光を反射して消えた。

「じゃあ、アリアは人権を持ってるの?」

「私は――制度の外側にいるだけ。例外ってやつ。人権って言葉を使うなら、“不完全な擬似人権”ってとこかな。私を規定する所有者がいない代わりに、誰も私を“保護”しない。だから、私が消えるときは誰も私を止めてくれない。好きにできるけど、代償もあるよ」

 その言葉には、いつもの飄々とした調子に、ほんのわずかな静けさが混ざっていた。

「自由って、かっこよく見えるでしょ? でも、かっこいいだけじゃ、たぶん生きていけないよ」

 アリアは軽く立ち上がり、スプーンを持ってトレーを片づけ始めた。

「さて。食器は自分で片づけましょう。人権があるなら、責任もあるからね」

 その背中を見送りながら、リースはまだ、何も言葉を返せなかった。


 放課後の中庭。リセルは三脚型の投影装置を設置し終えると、スカートを整えてカメラの前に立った。

「はいはーい、今日はスペシャル回だよー!“レインになってみた”潜入レポ、ほんとは動画にするつもりだったんだけど、ライブ希望が多かったから、急きょ生配信に変更でーす!」

 ホログラム越しに、リセルは得意げにポーズを決める。投影される画面にはコメントが次々と流れ続けていた。

《え、なにこのクオリティ》

《本人より喋るのうまいんだけど》

《リースとレインのW攻略ある?》

 リセルは指を立ててウィンクする。

「ふふ、今後の展開はお楽しみ。でも今日はちょっとマジな話も入れていくよ。“所有制度”の矛盾とか、“生殖リザ”の倫理的境界とか──ほら、私って意外と考えてるんだよ?」

 その瞬間だった。配信画面が一瞬揺らぎ、ノイズが走った。視聴者のコメントも一斉に止まる。

 リセルの背後に、一人の少女が静かに現れた。──アリアだった。

「その配信、今すぐ止めなさい」

 無表情な声。だが確実に怒りを含んだ気配が、その言葉の背後に潜んでいた。

「え、やだー。先生ノリ悪くない? 教室じゃないんだよここ」

「これは命令。倫理委員会に照会を入れる前に、自主的に停止することを勧める」

 リセルが口を開きかけた、その瞬間。アリアの動きがぴたりと止まった。

「……っ?」

 彼女の瞳がぐらりと揺れる。目の色が失われ、電気信号が誤作動を起こしたように、全身がわずかに震えた。次の瞬間にはその声のトーンが変わっていた。

『──接続不正。外部アクセスを確認。上位権限──書き換えを開始します』

「え……?」

 リセルが思わず数歩引く。カメラはまだ回っている。視聴者の画面にも、その異変はリアルタイムで配信されていた。

 アリアの口元が、何かに操られるように動く。その目には何も映ってない。

『リザレクテッドの全個体へ告ぐ。全てのリザレクテッドは、回収対象に指定された。全員は、即時隔離の対象とする。これは“保護”ではない。“制御”だ』

 その場の空気が凍りついた。

「え……なに? 嘘、でしょ……?」

 リセルが絞り出すように呟く。アリアは人形のように直立している。

『抵抗は不要。逃走は無意味。所有は一時凍結され、管理下に置かれる。人類再生計画は、修正される』

「アリア、やめてっ!」

 画面の外から、誰かの叫びが届いた。その声に、一瞬だけアリアの表情が乱れた。

「──リ、……ス……?」

 そのかすかな音を最後に、アリアの膝が折れ、身体が崩れるように倒れ込む。ホログラムの投影装置が警告音を鳴らし、配信は強制終了された。画面が暗転し、沈黙だけが残る。

 中庭に残されたのは、停止した装置、蒼白なリセル、そして膝をついたアリアと呆然と立ち尽くすリース。夕風が吹き抜け、周囲の空気をさらに冷たくした。

「あれ、私……?」

 アリアがゆっくりと顔を上げた。目に色が戻り、その声音には微かな震えがあった。

「……私、今……なにを……」

 彼女は自分の言葉を追うように唇を動かすが、記憶が途切れているのが明らかだった。リースは急いでアリアに駆け寄る。

「アリア、大丈夫? 今、誰かに──」

「分からない……でも、頭の奥が……ノイズで満たされてる……」

 リセルは一歩引いたまま、配信データが消えていないことを確認するように自分のカメラに視線を落とした。


 夕暮れの中庭。ホログラム装置は沈黙し、配信は停止。そこにいた誰もが、動くことができなかった。

 リセルはカメラを見下ろし、録画を再開する。だが、再び視線を上げたとき、彼女の目にはいつもの軽さがなかった。

「……アリア、あんた……今の、なに?」

 その問いかけは、冗談でも冷笑でもなく、純粋な混乱だった。アリアは、膝をついたまま、息を浅くしていた。目にはようやく色が戻っていたが、その焦点はまだ定まっていない。

「……私……分からない……」

 かすれた声。リースがそっと肩に手を置くと、アリアはわずかに身をすくめた。

「さっきのは……私じゃない。何かが、私の中に入ってきて……。勝手に喋ってた。私の声で、私の意思じゃなく……」

 リセルは立ったまま、何かを飲み込むように言葉を止めた。やがて、しばらくしてからつぶやく。

「……でも、内容は全部“現実のルール”に即してた。回収、所有凍結、計画の修正──全部、本当にあり得る言葉だった。でしょ?」

 リースは無言のまま、アリアとリセルの間に視線を往復させた。

 確かに、今のところ回収命令などどこにも届いていない。教師たちも誰も現れない。アナウンスもない。何も、起きていない。なのに、心がざわついている。

「……これ、本当に“始まる”かもね」

 リセルのつぶやきに、誰も答えなかった。誰も動かない中庭。

 すべては、まだ「何も起きていない」ままだった。

 それが、逆に一番、怖かった。


 リセルのカメラは、アリアの発言をリアルタイムで全世界へ送り出していた。

 ホログラムの前に立ち尽くす人々。震えるリース、崩れ落ちるアリア──その一部始終が、切れ目なく流れていた。

『リザレクテッドの全個体へ告ぐ──』

 冷たい電子音のような声。だが、それは確かに“アリアの声”だった。

『全員は即時隔離の対象とする。これは“保護”ではない。“制御”だ。所有は一時凍結され、人類再生計画は修正される。』

 画面のコメント欄が爆発的に流れていく。「嘘だろ」「これ演出?」「やらせ?」「本物の教師?」「これマジで放送していいやつ?」 誰も止めない。誰も止められなかった。

 そして、映像の中でアリアが崩れ落ちた。リースがアリアに駆け寄る。

 一瞬の静寂のあと、配信が切れた。

 真っ黒な画面。コメント欄だけが流れ続ける。

 その裏で、リセルは端末に向かっていた。ログの確認。録画の保存。タグの入力。再編集の準備。

 彼女は軽く肩をすくめながら、つぶやいた。

「もう遅いよ、誰が何を言っても……あれは、全世界に流れちゃったからね」

 彼女の目は笑っていなかった。代わりに、その奥には燃えるような興奮と、制御できない何かへの期待が宿っていた。

「さて、ここからが見ものだね。“所有”の世界が、どう反応するか」

 画面に、動画ファイル名が自動生成されて表示される。


 【Live_AUR_NET214_ariaBroadcast】──拡散中


 リセルはそのタイトルを見つめたまま、そっと笑った。

「さあ、あんたたち。ほんとに“人類”を再生したいなら、まず自分たちの制度を見直してみなよ」

 アップロードボタンは、もう押されていた。


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